Воющий Xати ―月を追う者―

星野響

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疑心暗鬼

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 ずり落ちてきたスポーツバッグを肩に据え直しながら、アミルが立つ年季の入った装飾扉を玄関に持つ建物を眺める。
土色のレンガが三層重ねになったそれは、ここらの界隈でも一際高い場所に格子付きの窓を有していた。
俺の目当ては、説明するまでもなくあの場所である。

「さんかいを、かしてくれるらしいな」

「ええ、今日一日なら、ご自由にお使いくださって結構です」

 では、こちらへ。
と、すっかりアラビア語に切り替えたアミルは曖昧さが抜けきらない笑みで俺に自宅の敷居をまたがせた。

「へえ、なかなかに広いんだなあ」

 周囲を見回して、任務とは全く関係ないことに対する素直な感動が思わず口をついて出ていた。

「なんですって?」

 聞き返されてはじめて、自分がロシア語を使用したことに気づく。
しまった!
あれだけ念を押されたにもかかわらず、一瞬気を抜いてしまった。
今の一言でアミルが俺の国籍に気づいてしまったら。
こういった緩慢な心の片鱗がすべての計画を狂わすことは本土での訓練しか経験したことのない自分でも十分承知の上ではなかったのか。

 しかし男に俺が洩らした言語の正体を詮索する様子は見られず、純粋にその内容を知りたそうにしているように見えた。

 それなら、と俺はロシア語のくだりを完全にスルーすると決め込んだ。

「ああ、なんというか、おおきいなあと」

「この家が、ですか? 中東の家はみんなこんな感じですよ。玄関は簡単に済ませておいて、内装はゆったりととるんです」

 男はさも当然のように言ってのけたが、ヨーロッパ出身の異邦人には、あんなこぢんまりとしていてお世辞にも整っているとは言えない入り口の裏に、ここまでエキゾチックでノスタルジーを誘う空間が広々と佇んでいるなんて予想もできない。
落ち着いたオレンジの壁紙や花柄の可愛らしいソファ、温かみのある間接照明が、味気ない土のレンガの外壁からは想像もつかない重厚で落ち着いた雰囲気を演出している。
俺は自分の失態から気持ちを切り替えることも兼ねて、異国情緒に溢れた大空間に浸った。

「――人さん、軍人さん? おーい、聞こえていらっしゃいますか」

 夢から現《うつつ》に引き戻される思いで俺の眼前で手のひらを振る男の方に目を向ける。

「ああ、きこえてる……それで、なんだった?」

「聞いてないじゃないですか!……全く、面白い方ですね」

 そこで初めて男は心の底から笑みをこぼした。
そして、よそよそしかった態度は目に見えて和らいでいく。

「……あの、喉は渇いていませんかね。ここは乾燥した気候ですから。うちにはお茶もトルココーヒーもありますし、時間が許すようでしたら、地酒なんていかがでしょうか。シリアを訪ねた西洋の方は皆これを賞味なさると伺ったので。私達イスラム教徒は酒を飲めませんが、軍人さんがいらっしゃると知り……」

 ただ地元民を利用しに来ただけの素性もわからない異国の軍人に対して、これほど温かいもてなしを施すとは、男の真意を測りかねた俺はほとほと返答に困った。
仮にも現在俺は職務中である。
いくらウォッカ好きのロシア人であっても酒なんて以ての外だし、無線で許可を取るにも今度もうまく聞き逃してくれる保証はない。
こちらの国籍をバラすリスクは極限まで減らしたい。

 それに、俺の思考は最悪の状況にまで及ぶ。
もし、この男の目的が我々の作戦を妨害して他国のシリアへの介入を阻止することなのだとしたら、男の裏で何者かが糸を引いているのだとしたら、俺を任務中に酔い潰すのが狙いか。
それとも、毒をもって事前に排除しておくことが狙いか。

「そうだな……そういうことなら、もらわないほうが、めいわくだろうから、びんごともちかえろうかな」

「ああー、なるほど。かしこまりました」

 空中を指差して納得した顔の男は台所へ引っ込み、冷蔵庫の密閉空間を開く音を立ててから戻ってくる。
その手には、色付きガラスに水滴を這わせた、いかにも酒好きロシア人が好みそうな見た目をした酒瓶が収まっていた。

 ずっしりと重いそれを、俺はスポーツバッグが干渉しない右手の方で受け取った。

「どうも、おきづかいありがとう。かえってから、ちゅうとんちのみんなとのむよ」

「いいですね。フルーティな蒸留酒がお好きでしたら、きっと気に入りますよ。……では、そろそろ三階の方へご案内いたしましょうか」

「おねがいするよ」

 随分あっさりと引き下がったものだ。
俺を酩酊へ誘うことや命を奪うことが目的なら、否が応でもこの瓶入り蒸留酒を飲ませようと四苦八苦するはずなのに。
石造りの階段を軽快に登る男のワイシャツ姿の背中を眺めながら、この親切すぎる男が異国の政府の代理人たる我々に対して、姑息な妨害工作や、ましてやその殺害を企てるなどありえないと思い直した。

 だが、いやまだまだお前は甘ったるい、と自らを叱咤する声もする。
表面上の親切な顔など、いくらでも偽って貼り付けることはできる。
俺が手に持っているその瓶に入った液体には、やはり毒が含有していて、毒薬を巣まで持ち帰らせて異邦人を根絶やしにしようという殺虫剤のそれと似通った算段に違いないのだ。

 疑心暗鬼の迷宮に分け入ってしまった俺は、曲がりくねる階段を先行する男の後ろ姿に手がかりを求めるも、当然そこにはケバケバしくないありきたりなチェック模様しかない。

 折れ返し階段を踊り場二つと階をひとつ素通りして三十段ほど登ったところで、一階よりも随分とシンプルな土気色の壁面を曝け出しにした空間にたどり着いた。

「さあ、着きましたよ。普段あまり使っていない階なので、本当に何もありませんが」
 やはり、男の口調には一片の毒素も含まれていないように思われる。
ここは、本部が協力者として太鼓判を押した彼を信じるほかないのであろうか。

 どうぞと開かれた扉をくぐると、そこは光源すらないまさに「何もない」を体現したような一室だった。壁にかけられた姿見と隅に追いやられた簡素なデスク以外に調度品のたぐいは見られない。
だが中央には赤地に繊細な刺繍が施された絨毯が堂々と敷かれていた。
そして俺の真正面には、この場所にとって唯一の明り取りである格子付きのすりガラス――地上から確認できた住宅街でも有数の高みにある例の窓――が壁の中に大きくスペースを取っていた。

「あけても、いいか」

「どうぞどうぞ。この街を一望できますよ」

 三階という高所に位置する窓に鍵をかけるという概念がそもそもないのか、すりガラスと木でできた表面のどこにも留め具は見当たらない。
ひと押しすると、わずかに蝶番が軋む手応えとともに観音開きになった。

「近くには美しいモスクもあるし、何より太陽と町並みが美しい。私の父も母も、ここからの景色が大好きだったんですよ」

 正方形の中央から徐々にあらわになっていくシリア地方都市の風景は、なるほど男が自慢したくなるのも頷ける程に見応えがあった。
大小の家々がせめぎ合う独特な景観と、陽光を全面に受けて丸天井を輝かせるモスクの姿は、アミル宅のリビングルームに負けず劣らず、自分が砂漠の支配する土地にやってきたのだと実感させるものがあった。

「まったくだ。殺人の現場にするには勿体ないほどにな」

 俺が発した一メートル四方にも届かないほどまで抑えられたロシア語に、アミルは怪訝そうな目を向けてくる。

「いらないカーペットか、なにかはないか。しかいをさえぎるものがほしい」

「わ、わかりました」

 いそいそと退出していくアミルを見送ってから、俺は部屋に一つしかない出入り口を一旦閉めきる。
邪魔な酒瓶とスポーツバッグは窓横に降ろし、殺風景な室内を見回した。

 俺はてっきり、アミルがこの絨毯を引っぺがして手渡してくれるのかと思っていた。
彼の話だと、この部屋は日常生活ではほとんど使わないものと考えてよいだろうから、ここに敷かれているものは「いらないカーペット」と形容していいはずだ。
なのにアミルは、目の前に横たわる真紅の敷物を無視してわざわざ階下まで足を伸ばしていった。つまり、このカーペットが得体のしれない軍人に使わすにはあまりに高価ものということか。
はたまた、そうでないとするなら、剥がしてはいけない理由でもあるのか。

 柔らかく滑らかな手触りの織物の端をめくり、念には念を入れてワイヤートラップが仕掛けられていないことを確認してから、ゆっくりとめくりあげていく。

見た目から想像するよりもずっと軽い繊維の塊が取り払われた、そこにあったのは――

「ビンゴ」

 カーペットが隠していた場所の中心から少しずれたところの床板に、丁度指一本が通る穴が開いていた。
シロアリや小動物に食い荒らされた跡にしては、表面がヤスリがけされたように滑らかで、形が整い過ぎている。
明らかに人の手が加えられてできたものだ。

 そして、紛争地帯においてこうした思わぬ場所に隠されているものは、当然――

 慎重に人差し指を通し、斜め上へ力を加える。
がこん、と一度動き出した床板の一部は頻繁に開閉されていることを暗示するかのようにすんなりと持ち上がる。
徐々に内側の暗がりが陽光にさらけ出されるとき、隠されていたものが顕《あらわ》になっていく。

 俺が床下の長方形の空間から取り上げたのは奇しくも、祖国がまだ共産主義の紅を国旗に掲げていた頃にその地で設計され、今なお世界中の正規軍のみならず民間人にまで普及している《AK47》アサルトライフルだった。

「ふん、よく手入れされてやがる」

 これは問い詰める必要がありそうだ。
俺は窓のすぐそばの壁に持たれかかり、AKをじっくりと眺め回す。
肩から提げるためのスリングがついている以外、これといった改造はなされていないように見えたが、強いて言うなら限られた収納スペースにも収まるようストックが折りたたみ式の金属製のものに取り替えられていた。
細部まで磨きこまれ、汚れひとつ見当たらないボディが意味するところは、この銃がいまだ使う機会の訪れない護身用武器ということか。もしくは命を預ける相棒として手厚い手入れを受けているということか。

 その時、ドアを挟んだ廊下から堅実な公務員が似合う柔らかな声が聞こえてくる。

「すみませんね、いま両手が塞がっておりまして、ドアを開けていただけるとありがたいのですが」

「わかった。いまいく」

 わざわざ焦らす意味もない。
俺は右手にAKを握りしめたまま扉に近づき、ドアノブを回した。

「お待たせいたしました。カーペットではありませんが、こういった生地なら、代替できません、か……ね……」

 俺の手の中にあるものに目を留めたアミルの表情が、台詞を言いきらないうちの数秒間で急激に入れ替わっていく。
戸惑い、驚き、焦り、そして慌てて床板を見やり、口の開け閉めを繰り返し、俺の表情を上目遣いに認めた途端、恐怖に顔を強張らした。

 俺はAKを掴んだ手をアミルに突きつける。スリングの留め具や内部機構の金属部分が、沈黙の中で明白で硬質な金属音を立てた。

「これは、どういうことだ」

 アミルの腕から色とりどりのシルクの生地が落下する。

「こいつで、おれをころせといわれたか」

「――違う、違うんだ!」

 アミルの目が懇願の色に染まり、狂ったように首が横に振られる。

「そいつはただ、ただ万一のために保管しているだけの護身用で……私はそんな命令は断じて受けてない! 正真正銘の、善良な市民だ!」

「しんようならないな」

 俺は最大級の凄みを含んだ声とともにジーンズのポケットから《グロック17》を抜き、アミルの眉間に銃口を向ける。彼の口からしゃくりあげるような音吐が漏れる。

「おれには、いまここで、おまえをころせるだけのけんげんがあたえられている」

「そんな! 無実だ!」

「だまれ!」

 アミルの肩が目に見えて縮こまる。

「おれの、いうとおりにしろ」

 彼の首から上が、身体の震えをそのまま大きくしたかのように小刻みに縦に動く。

「ひざまずけ。てをあげろ」

 アミルの膝が片方ずつ折られ、両手がゆるゆると宙にもたげられる。

「じっとしていろ」

 俺は武器を隠していそうな場所すべてをくまなく手で探ったが、ナイフ一本はおろか、剃刀すら見つからなかった。

「言ったでしょう! 私は、無実なんです!」

 切実に訴えかける声を無視し、俺は《グロック17》を構え続ける。

「そのばにふせろ」

 アミルは依然として何か言いたげな素振りで俺を見上げる。

「ふせろといっている!」

 口答えを聞いている時間などこちらにはない。
俺はその頭を左手で抑え込み、力任せに床板に押しつけた。

「な、何をする!」

「俺に銃を撃たせるな!!」

 声の限り叫んだロシア語が、日干しレンガに囲われた空虚な空間に反響した。
アミルの双眸が、気圧されたように俺を凝視する。

「おれに、じゅうを、うたせるんじゃない……いいか、いまから、おまえをこうそくする。せんじょうの、ルールだ。おまえを、かんぜんにしんようできないいじょう、こうするしかない。わかってくれ」

 言い終わると、俺はアミルの両腕を後ろ手に揃え、肩甲骨と脇の間に彼のAKの銃身を挟み込んだ。そして、額と鼻の間、目が収まった凹みにスリングを引っ掛け、絞りを目一杯引いた。これで、アミルは肩から先の自由と視界を奪われることになる。
その場にあるものを用いた即席の拘束術はスペツナズの十八番おはこと言っても過言ではない。

 俺は哀れみに似た何かを含んだ目を抵抗の身じろぎひとつしなくなったアミルに向けた。

「そこで大人しく寝っ転がって、テロリストを殺す弾丸の音だけでも聞いてろ」
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