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第百八十九話

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 三日前に起こった怪事件は、偶然ダンジョンから逃げ出したモンスターが暴れたが、支部長代理である私の手によって対処されたことになった。
 しかし崩壊がどこかで起こったわけでもなく、ただ一匹だけダンジョンからモンスターが逃げ出すというのは滅多にない事件であり、原因の究明のために今なお街には数人の学者や護衛の探索者が出歩いている。

 大きく穴の開き、その場しのぎのビニールシートで覆われた屋根。
 壊れた協会の修理も流石に数日で終わらせることは出来ない。一か月か二か月か、正確な日程は兎も角、暫くの間はこのまま過ごすしかないだろう。

 お前が殺した。


「空いてませんね……」


「うーん……まあ謝ればいいでしょう! 『覇天七星宝剣』……おじゃましまーす」

 琉希が扉に手を掛けた瞬間、ガチャリという解錠音と共に、扉から感じていた抵抗感が消え失せる。

 彼女のユニークスキルは、ありとあらゆるものを七つまで専用武器として登録、自由自在に操ることが出来るというもの。
 しかし『一つの物』というのは非常に曖昧だ。
 例えば家の中にある一冊の本をひとつの物としよう。当然その本の内部に挟まれたページたちも本の一部であり、琉希がその気になれば操り、一枚一枚捲ることが出来る。
 しかし家そのものも視点を変えれば『一つの物』として定義することが出来るし、その場合、家の中にある本も、本の中にあるページ同様家の一部として定義可能であり、やはり一つの物として操ることが出来た。

 即ち、『一つの物』とは琉希の認識に――とはいえ限界や条件もあるようで、意思が有り抵抗する生物、重さやサイズはスキルのレベルに比例する――すべて依存するということが分かっている。

 夏休みの間、穂谷のチームへ一時的に加入しみっちりとレベル上げ、またその後もほどほどに戦いを続け、いつの間にか琉希はどれほどの大きさを『一つの物』として認識できるのか、自分でも分からないほどに成長していた。
 ただ一つ言えることは、少なくともこのアパート一つを支配下に置くことは容易いということだけ。

 筋肉が拾ってきた猫を、どこまでも自由な猫として振舞ってきた彼女を、私がこの手で殺した。 

 寝ても覚めても思い出す。
 今までさんざんモンスターを倒して来たというのに、たった一匹の猫を手に掛けただけで、あの感触、衝撃が手にこびりついているような気すらする。
 探索者が嬉々として自分のためにモンスターを殺す、粗暴で野蛮な仕事だという人々に私の姿を見せたら、きっと何をいまさらと嘲笑するだろう。

「――、おい、結城!」
「ひっ……」

 突然の声に耳元を塞ぐ。

「違うっ、私はっ……」

 屋根に空いた穴のせいか肌寒い部屋。しかしやけに滲んだ汗が、丸めた背中を伝っていく。

 お前が殺した。

 仕方がなかった。
 人を襲い、物を壊す。
 たとえ普段の性格とはかけ離れたものでも、私に知る由もないナニカがあったとしても、街の人を守るのが私の仕事だから!
 だから、だから、だから全部仕方がなかった!
 こんなことになるなんて分からなかった! こんな、こんな……っ!

「何言ってんだよ……お前最近大丈夫か? 体調悪いなら帰れって」
「う……に……?」

 前髪の隙間から覗いたのは、額にしわを寄せた彼。

「はぁっ……んくっ、だっ、大丈夫! 大丈夫だから! ちょっとお腹空いたなぁって!」
「お前、それは……」
「ご飯買ってくる! ウニは私の分も書類整理しといて!」

 窓際、日向に残された小さなクッション。
 あの猫が時々日向ぼっこをしていたそこへ寝っ転がる存在はいない。今も、そしてこれからこの協会へ訪れることもない。

 お前わたしが殺した。

 もし、私があの猫を殺したと知ったら、皆なんて言うのだろう。
 仕方なかったと慰める? 悲しい事故と泣く?
 でも、もし心の奥底で私を軽蔑していたら、あいつがやったんだと憎しみの目で睨みつけられてしまったら、それも恐ろしくて誰にも言えずにいた。

 結局ここでも自己保身。
 いっつもそう、何かをしても、なにかがあっても、全部怖くて仕方がなくて、逃げ出して。

 今日も私は後ろを見るのが恐ろしくて、振り返ることもせずに協会から離れた。



『体調悪いから帰る』
『元気になるまで無理に来る必要ないぞ、もともとお前は事務仕事する必要ないんだからな。お大事に』

 SNSの淡々としたやり取り。

 あの抉れた地面を、壊れた屋根を見る度にフラッシュバックする夜の出来事。
 一体彼女が何故あんなことをしたのか、私に分かることはほとんどないまま、ただただ鬱屈として悍ましい感覚だけが何度も蘇る。
 結局協会には戻ることが出来ず、そのまま帰路についてしまった。

 何かを食べないといけない。
 でも何かを意気揚々と噛む気すら起きない、当然コンビニで手が伸びるのはゼリー飲料ばかり。

 今倒れる訳には行かない。
 私が倒れたら、ダンジョンが近くで崩壊した時に対処できる人間が限られている。
 筋肉がいない今、私が代理として戦わないといけないのに、もっと力をつけないといけないのに。

 でも……本当に私みたいな存在が戦う意味なんてあるのだろうか。

 皆を守りたい、なんて言葉はいくらでもいえる。
 でも私はずっとずっと死ぬのが怖くて、今でも死にかける度に嫌な気持ちになって、誰かのために全てを捨てるなんて決断は出来なかった。
 誰も必死に守れなくて、強いから大丈夫だとどこか依存していた相手を失って。

 そしてついに、私は見知った存在すら……手に掛けて……っ

「うっ……」

 つん、と酸っぱい臭いがせり上がってくる。

「げぇっ…………けほっ……っ、はぁっ、はぁっ……うぅ、ごめんなさい……ごめんなさい……」

 だが電柱に縋りつき、痙攣する胃の中身をひっくり返しても、出てくるものは何一つない。
 当然だ、何もまともに食べていないのだから。
 痛みの一つでもあれば傷付く自分に酔うことも出来たかもしれない。だが無駄に頑丈になってしまったこの体を胃酸が焼くこともなく、ただ無駄に垂れ流された唾液が口角を伝うだけであった。

 一度心から力が抜けてしまった時、二度目に立つことがなんと難しいことだろう。

 いつもの帰り道、何度も通ってきた路上。
 当然のこととして繰り返して来た、『歩く』という行為が、たまらなく辛くて、たまらなく苦しくて、震える膝を虚脱感に苛まれる腕で壁を伝ってやっと出来た。

 今自分がどんな顔をして、どんな声を上げて、どんな体勢なのかもあやふや。
 もはや思考と肉体が完全に乖離してしまっている。今起こっていることが全てどこか遠くで起こっていて、実は私は全て夢で見ているだけで……もしそうならどれだけよかったのだろう。

 でも、恐ろしいほど長い道のりを歩いて、やっと見えてきた家、私の家、私たちだけの家。
 ここだけは怖くない。
 ここだけはだいじょうぶ、ママはいつもやさしい、わたしはだからだいじょうぶ。

「まま……」

 そう思っていたのに。
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