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前編
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※女体化主人公かつ乙女ゲーム転生です。それぞれが地雷という方、組み合わせでダメという方はごめんなさい、自衛してください。
※精神的BLですが身体的には男女CPのままです。
「体が……熱いのです」
んぅ……と重く息を吐きながら、男の腕に寄りかかった。
いつもより薄手のワンピースが男の逞しい腕の感覚をより直に伝えてくる。何とも言えない気持ちだ。
相手は武門の名家コーベット家の長子、クロード・コーベット。家柄は申し分ないし、なにより硬派なコイツは女付き合いがほとんどない。つまり抵抗力ゼロってことだ。オチるだろう? 今度こそ。
体が熱くったって当然だ。こんなこと素面でできるか!
でもやるっきゃない。気合を入れると、俺は男の腕が胸に挟まるようもたれかかった。
「どうした? アネット」
青く澄んだ冷たい瞳に見下ろされると、冷やりとしたものが背筋をこわばらせた。
反射的に男の腕をぐいっと捕まえながら、負けじと目を合わせて返す。
「薬品の調合を間違えてしまって」
「何を調合したんだ」
はくはく、と唇ばかり動かすもの、なかなか言葉が続けられない。
黒曜石のように光る男の目の中に、何があるのかはまだうかがい知れない。
恨みがましく、いや、なるべく羞恥心を表に出すようにして、ようやく言葉を継いだ。
「間違って、媚薬を」
ええい、と勢いに任せて男の胸に飛び込み、かっちり腕を回してホールドした。顔なんて見せなきゃいい。
密着するとよく筋肉のついた硬い体がめり込んできて、どくどくと血管の脈打つのさえ感じられるようで。
コイツの背中、広すぎんだろ……!
「しじゅめて、欲しくて」
ああ、舌回らなかった! いいさ、このくらいのほうがコイツには効くだろ。
上目遣いで見上げ、眉尻を下げてつらそうな表情を作った。
ん……、と男の太い首に吐息をかけてみる。
ほら、こらえきれなくなった男は――
「はあぁっ!?」
どん、と突き飛ばされた。
足が宙に浮く。
ふわりとした浮遊感は一瞬で、尻を打ち付ける痛みに悶えた。
目をしかめる俺を、男は冷たく見下げながら言い放つ。
「お前が娼婦の真似事みたいなことしてるって噂、本当だったんだな。――失せろ」
思わず、キッと睨め付けてしまう。
言いたいことは色々あるが、今ここで言えるようにまとめられねえ。
そうこうしているうちにヤツは去った。
絶好のタイミングを逃した。なのに、なんでか俺の心はほっとしている。
視線が外れればもう何も見なかったかのように出て行くヤツを見送ると、へたりと体の力が抜けた。
尻が痛くて動けねえ。
* * *
ようやく尻の痛みが引くと、イヤな汗の滲む体を起こして部屋を出た。
「アネットお嬢様」
どことなく艶のある、よく耳に馴染んだ声が耳に入る。
何のこともないただの挨拶。なのに、そのいつも通りってことが心地いい。
コイツなら、いつだって味方してくれるっていう気がする。――まだ、何も話してないのにだ。
さっきまで体に絡みついてた嫌な感じが解けていく――
振り向くと、いつものように穏やかな笑顔を湛えた俺の執事ユベールがそこにはいた。
「ごきげんよう、ユベール」
「どうなさいました?」
どきりとした。コイツにだけは知られたくない。そう思う一方で――
ばくばくと心臓の音がうるさい。
「ちょっと転んでしまっただけ」
いつの間にか、手を伸ばせば触れるほどまで近づいているのにも気づかなかった。
ふと、ユベールに腕をつかまれる。なんでだ?! 意図が分からず。一回り背の高いユベールを見上げた。
「お袖が破れていらっしゃいます。少々お時間を頂いても宜しいですか?」
うろたえてて気付かなかったが、ユベールに掴まれたラッパ袖には確かに小さな裂け目ができていた。
顔を寄せてよく見ないと気づかないくらいだったのに、よく気づくな。
「え、ええ……。ごめんなさい。お願い、するわ」
用意の良いユベールは、裁縫道具を取り出すと破れたところをちくちく縫っていく。
こそばゆくて、どうしてもキョロキョロしてしまうのを抑えきれずに終わるのを待ってた。
「はい、終わりました」
ようやく腕を解放されると、ぶらぶら振って凝りをほぐした。緊張でまだ腕が痛い。
ユベールが仕事の早いヤツで本当に助かった。
「ご学友がお見えになったようですね。では私はこれで」
もちろん、学校の中じゃユベールも学友だ。
「ありがとう、助かったわ」
軽く会釈をしてユベールを見送った。
選べるものなら、ユベールと生きていきたい、と思う。
が、ユベールだって仕事だから俺のお守りに付き合ってられるはずだ。
お互いの身分差に逆らってまでユベールが俺を選んでくれる可能性は、ちょっと考えられない。
負け続ける戦いは慣れてきたが、もしユベールに連れてって欲しいと言って断られたら――
まだ、ユベールに縫われた箇所が少し熱い。
* * *
「あ、アネットちゃん。どこ行ってたのー?」
毛先のはねた爽やかなピンクの髪の少女が、間延びした声でたずねてきた。
心配してくれてるのは、友人のレティシアだった。
どうやらずいぶんぼうっとしてしまっていた気がする。
レティシアの声で、ピンボケしていた視界がはっきりしてくる。
「ええ、ちょっと調子を崩してしまって。でももう大丈夫だわ」
「本当に本当のだいじょうぶ?? なんだかすごく具合悪そうな顔してたよ?」
軽い頭痛が残っているような気がするのは事実だ。
「ありがとう。もう大丈夫」
「まあアネットお姉さま、大丈夫ですか? アナイスはもう心配で心配で心臓が破れそうでした!」
いるのは分かってたが、ゾッとして、いやゾッとする間もなく抱きしめられた。
壁に下がったって無駄だ、息が苦しくなるくらいに体を締められる。
とにかく刺激したくねえって思ってるコイツ、アナイスは別に俺の妹じゃない。
いや、今は俺の妹じゃないっていうか。
「平気よアナイス。離してちょうだい」
「離しません離しません! アナイスはお姉さまとあの世へまでだってついていきます」
「行かないと、次の講義が……」
「もう試験は終わりましたし、あとは結果を待つだけでしょう?」
ぐるじぃ……! 背骨が折れるんじゃないかっていうほどキツく絞められた。
ぐう、死ぬ、殺される! 病気とかじゃなくて、他ならぬアナイスに!
「あ、わたし忘れものしちゃった。取ってくるからちょっと待っててねー」
――え?
ちょっまっ!
レティシアに置いて行かれた俺はおののきながら意識を手放しかけていた。
が、ここにきてようやくアナイスに解放された。
ぐったりと壁にもたれかかりながら、何とか平然を装う。
「ようやく邪魔者がいなくなりました。今日はアネットお姉さまにお伝えしたいことがあります」
邪魔者って、もしかして、もしかしなくてもレティシアのことだ。
そんなふうに平気で言えるコイツにも、もう慣れ切ってしまってた。
「ええ、何かしら」
実のとこ興味はあまりないんだが、満足するまで話してもらって早いとこ帰って欲しい。
丸顔で目のぱっちりしたアナイスは愛らしいはずだが、その瞳の奥には狂気しか見えない。
両の頬に自分の手のひらを添えながら、嬉しそうに報告してくる。
いつものように聞き流そうとしたが――無理だった。
「聞いてくださいお姉さま。わたくしついに家を追い出されることになりました。全然勉強しないからって」
俺は思わず目を見開いた。
衝撃的な告白だが、アナイスの目に悲壮感なんて微塵もねえ。
ヤバい薬でもヤッってんのかってくらい、うっとりした調子で続けてくる。
「それで、お父さまは聖女府へ行けっておっしゃいますの。――お姉さまと同じ、ヤンクロット聖女府に。アネットお姉さまも、喜んでくださいますよね?」
頭がくらくらとしてくる。
コイツは――前はこんな、自分を投げ捨てるようなことするようなヤツじゃなかったはずだ。
「そう……」
一瞬、アナイスの表情が寂しげに曇った。
でも本当に一瞬だ。今度は目を輝かせながら、ニコニコと続けて来やがる。
「お姉さまも、喜んでくださいますよね? だってお姉さまのお家は――」
聞いていられなくなって、気が付くと手が出ていた。
頬を張る渇いた音が小さく響いた。
手のひらまで火傷したみたいに熱くなる。
「いい加減にしろよ杏奈。お前は、こんなズルするようなヤツじゃなかっただろ?」
杏奈って言っちまった。アナイスは赤くなった頬に手を当て驚愕の表情で見上げながら、
「だって、お姉さまと結ばれるためなんですよ? 他の人に好意を向けられるのは、お姉さま以上に好意を向けられるのは――嫌なのだもの」
なんて言う。
事実この学校に入ってからのアナイスの成績はぶっちぎりの最下位で、裏口入学って噂が出るくらいまでだ。
見たくれだけは愛らしいが、あまりに頭が悪いから、まともな学生からはてんで相手にされてない。
別に、アナイスの取った手が、まともに神サマを信仰している人たちに失礼とかそんなことを思ってるわけじゃない。
いや、少しは思ってるかもしれないが。
俺だって大して変わらないし、この世界で放蕩の末に聖女府に送られる奴なんてごまんと居る。
とにかく前世の杏奈との違いが激しすぎて、俺はコイツを許すことができなかった。
これでもたった一人の妹なんだ。これ以上、余計な感情をぶつけたくない。
なだめる言葉も見つからず、呆然と見上げるアナイスを置き去りにして俺は立ち去った。
どうせもう少ししたらレティシアが来る。アイツは優しいから、今の俺よりアナイスを案じてくれるだろ?
* * *
なんでわざわざ人生を棒に振るようなマネをアナイス、いや杏奈と言うべきかがするかってと、それがこのゲームのエンディング分岐条件だからだ。
妹だった杏奈が熱心にプレゼンしてたからちょっとは分かるんだが、今のこの世界はある乙女ゲームの中だ。
俺が成り代わったアネット・ゴスランっていうキャラは代々聖女を出している家系で、今の代は俺がその聖女府に行くことになってる。
アネットは原作でもヒロインであるアナイスの親友だ。
なんだが、アナイスに恋仲ができると、自分と違い自由に恋愛できる彼女への嫉妬に狂いどのルートでも豹変する。
そのアネットとアナイスの友情が壊れずに済むエンドがいくつかあって、その一つに学力パラメータが最低ランクのときの聖女府エンドがある。
もしかしてもしかしなくても、アナイスはそれを狙ってるんだろう。
俺が悪役令嬢ポジションに転生したのは事故みたいなもんで、もともと杏奈は従兄のリュシアンに転生にさせたかったらしい。
が、どんな形であれお兄ちゃんと結ばれるならそれでいいと、人目を忍ばず手段を選ばずアプローチを仕掛けてくる。
可愛い元・妹なのに違いはない。それだって、妹は妹だ。それに、今は女同士っていうのもあるし――
とにかく、俺にはアナイスの気持ちを受け入れる気にはなれなかった。
オンのときは勉強がデキて後輩からも人望の篤かったはずの杏奈も、今じゃあの体たらくだ。
俺が手の届かないところまで離れてしまえば諦めて正気に戻るだろうと思い、適当な男見つけて卒業するまでのあいだだけでも付き合っておこうかと思ったんだが――
これがさっぱり当たらない。男心って難しい。この世界の。
ええ!? なんで? だって、転生とはいえ自分で言うのもなんだが、長身モデル体型で出てるとこは出て引っ込むところは引っ込んでる、掘りの深いツリ目美女なんだぜ? チンコついてんのかよ。
まあ俺が悪い。異世界人で元・男となると人付き合いには億劫になるし、それがまた世間知らずに拍車をかける。
きっと、世間ズレしたつまらない女って思われてるんだろう。家柄も家柄だしな。
最初のうちは借り物をしてみたり食事に誘ってみたりとお淑やかなアプローチを試みてたさ。
何人かオトすのに失敗するうち、いつの間にか男漁りが趣味のあばずれとか娼婦の真似事みたいなことしてるとかあることないこと言いふらされるようになった。
なんなら本当にそうしてやろうか?と今日は強硬手段に訴えてしまったが、結果はああだ。
が、俺が何言われたって、アナイスが陰でバカだの頭おかしいだのって言われてるのに比べたら全然、堪えられる。
* * *
「さむっ」
ひょうと強い風が窓から吹き込んできた。
部屋の端まで歩くと、窓を閉めカーテンを下ろす。
ネグリジェだけじゃ夜風には弱くて、カーディガンを羽織って机の前の椅子に腰かける。
使徒の手紙を読み直していたんだが、邪念ばかりで全然集中できてない。
これでは神の道に入れませんわなんてさすがに思わないが、少しばかり自分に呆れる。
なんか座ってるのもダルくなってきて、本をぱたんと閉じるとベッドに大の字になった。
「アネットお嬢様」
執事のユベールの声がした。
「入って」
なんだろう、と思いながら
学校の中じゃないから、正真正銘の執事スタイルだ。
ゴスラン家の使用人としての統一感を保った燕尾服姿のユベールが、ティーセットを持って入ってくる。
寝ころんだまま様子をうかがってくると、ユベールは少しだけ眉を揺らして。
「失礼ながらお嬢様。おみ足が大きく見えていらっしゃいます」
はっとして起き上がり、ネグリジェのすそを下に下ろした。
足上げたり下ろしたりしてたせいで太もも付近までまくれあがってたまま、ユベールを迎えてしまっていた。
恥かしくて顔が茹りそうだ……!
こういうの俺まだ気が付かないこと少なくないから、忌憚なく指摘してくれるユベールには助かる。
恥かしいけど!
この年じゃ見てみないフリされることのほうが多い。
それに家にいるときまで女の侍従といると疲れるから、人払いしちゃってるし。
気の置けないのは、ユベールだけだ。
「ごめんなさい」
紅茶の甘い香りが、ふんわりと部屋に広がっていく。
膝を丸く抱えながら、ユベールがお茶の用意をしているのを見ていた。
こぽこぽ、こぽこぽと耳心地の良い音がする。
音も香りも心地よいものでいっぱいで――
今日はもうあまりヤなこと考えないで休めそうだ、って思う。
「下の部屋で掃除をしていたら、お嬢様の部屋の窓が閉まる音が聞こえまして。暖かいものが良いかなと思いお持ちしましたが、如何ですか?」
無意識のうちに、ぼうっとユベールの優しい笑顔に意識を吸われていた。
バカみたいに気が利くやつだな。でもないと、お嬢様おつきの執事なんて務まらないかもしれないが。
ユベールがこちらに差し出してくれたティーカップを受け取る。
暖かい紅茶の熱に間接的に指を温められて、ようやく指先が冷えてたのに気づいた。
紅茶を少し口に含むと、ほんのり甘みのある香りが口の中に溶けていく。
「ありがとう。少し寒かったから、助かるわ」
「アネットお嬢様にお口に合って良かったです」
ユベールのすることに、見当違いだなんて感じたことは本当にない。
俺以上に、アネットのことよく分かってるなって思う。
俺、でいいんだろうか――なんて思う。
自分で考えておきながらなんだが、訳わかんないな。
下がっていいわよと言おうと思って、言い留まる。
「片付けるのは明日の朝でいいから、それより残っていた仕事は大丈夫?」
大丈夫、と言って欲しいが、忙しいならユベールの時間を奪うのは気が引けた。
ただ、今日は一人じゃない時間ももうちょっと欲しい、気がする。
「この時間にあまり音を立てるような仕事もできませんから大丈夫です。それより、打ったところは大丈夫ですか?」
「ええ」
そう言うとユベールに、昼の事件で袖の破れてたところの近くをつかまれた。
慈しむようにゆっくりと撫でられる。
くすぐったくって、ぞわりとする。胸が苦しくって、早く終わって欲しいような、だがずっとこうしていたような、ああもう訳わかんね!
「大丈夫、だから」
「失礼しました。お変わりないようで安心しました」
ようやく腕を解放されたが、余韻がまだ胸に響いてる。
ユベールがさすってくれたっとこ、もう片方の手を当てると、そこからもユベールの体温が伝ってくるような気がした。
ユベールのにこやかな笑顔は、いつ見ても安心する。んだが、今日はちょっと、目が合いすぎているような――
「さて、アネットお嬢様、今日はお伝えしなければならないことがございます」
あ、話したいことあったのか。なるほど。
「ええ、話してちょうだい」
紅茶を味わいながら、ユベールの話を聞き。
「実は私、もう少ししたらお嬢様の執事の任を離れないといけないことになりまして」
その言葉がなかなか頭に入らなくて、理解できた瞬間にずきんずきんと痛みが広がる。
危うく、ティーカップを落とすところだった。
もしティーカップを落としてネグリジェとシーツが汚れたらきっとユベールはそっちの片づけを優先するはずで、そのあと「さっきの話? なんでしたっけ」なんてなかったことにならないか、なんておかしなことを考えてしまう。
「実は本家のほうで相次いで不幸がありまして、傍系の私が跡を継ぐことになったのです」
細い指先にティーカップは重すぎて、やっとのところでサイドテーブルに置く。
ユベールがさすってくれたとこ掴みながら、何か吐きそうになるのを懸命にこらえた。
嘘、だろ――!?
別にアナイスのことはそんな恨んじゃいない、だけどこんなおかしな状況になって、お嬢様生活なんて慣れないものに耐えてこられたのはユベールがいてくれたからだ。
ユベールがいてくれなかったら、この先俺はどうすりゃいいんだ?!
「それで、ユベールが故郷に帰るのはいつになるのかしら」
その言葉だけ喉から絞り出すのがやっとだった。
「引継ぎがありますので、一か月くらいは先になりますね。私の家のほうにも伝えてあります」
「そう。寂しくなるわね」
寂しいなんて言葉だけで吐ききれるものじゃない。
クソデカ感情が腹の中ぐるぐるして、今にももどしてしまいそうなくらいだ。
「アネットお嬢様を寂しくなんて、させませんよ」
え――!?
聞き返すより先に、唇を塞がれていた。
何がどうなってんのか分からず、瞬きを繰り返した。
俺、ユベールにキスされてる……?
もしかしたら「簡単に唇を許してはいけませんよ」なんて説教食らうだけかもしれない。
ちょっとくらいは抵抗しないといけなかったかもしれないのに。
ただ唇の端をふんわりくっつけただけのもどかしい感覚にいつまでもまどろんでたくなって、目を閉じユベールのするがままに任せた。
「あ……」
唇が離れると、もう終わりかよって気持ちが顔に出るのをたぶん止められてない。
だがすぐ腰が宙に浮いて、身をすくめるとユベールに抱きかかえられてて。
「アネットお嬢様を置いてはいけませんから。一生、お仕えさせてください」
耳元に響く、甘く艶やかな声。
その声を聞くとふるふると体の中に何かが波打って、何も考えらんなくなる――
「お願い」
やっとのこと、それだけ応えた。
するとユベールは俺を抱いたまま連れ去って――
* * *
そのまま領地まで攫われて、なんてことはなく、行き先は親父の執務室だった。
お嬢様をくださいってヤツだ。ピリピリした空気が流れてたが、傍系でも俺の執事が務まるだけあって本家に戻ればユベールは家格的にもまったく問題なし。
それに俺がユベールから一ミリとも離れず「ユベール以外考えられない」って言ったから、なんとか親父の許しは得られた。
ユベールが結構先走ったのは、他の男に絶対俺を渡したくなかったかららしい。
もちろんユベールのことだから、俺の噂は知ってたろう。
俺がそれとなく探ってみても、ユベールは何も知りませんって感じで答えるけど!
聖女府には、代わりに最近旦那と死別した姉貴が行くことになった。
子どももいないし、死ぬまで旦那のことだけ想っていたいって姉貴は、喜んで引き受けてくれて。
姉貴の嫁ぎ先に出向くと、無茶ぶりする俺に姉貴はただ一言。「アネットは幸せになってね」って。
俺、涙が止まらなくって、崩れた顔ベールで隠しながらユベールに支えてもらってようやく帰った。
※精神的BLですが身体的には男女CPのままです。
「体が……熱いのです」
んぅ……と重く息を吐きながら、男の腕に寄りかかった。
いつもより薄手のワンピースが男の逞しい腕の感覚をより直に伝えてくる。何とも言えない気持ちだ。
相手は武門の名家コーベット家の長子、クロード・コーベット。家柄は申し分ないし、なにより硬派なコイツは女付き合いがほとんどない。つまり抵抗力ゼロってことだ。オチるだろう? 今度こそ。
体が熱くったって当然だ。こんなこと素面でできるか!
でもやるっきゃない。気合を入れると、俺は男の腕が胸に挟まるようもたれかかった。
「どうした? アネット」
青く澄んだ冷たい瞳に見下ろされると、冷やりとしたものが背筋をこわばらせた。
反射的に男の腕をぐいっと捕まえながら、負けじと目を合わせて返す。
「薬品の調合を間違えてしまって」
「何を調合したんだ」
はくはく、と唇ばかり動かすもの、なかなか言葉が続けられない。
黒曜石のように光る男の目の中に、何があるのかはまだうかがい知れない。
恨みがましく、いや、なるべく羞恥心を表に出すようにして、ようやく言葉を継いだ。
「間違って、媚薬を」
ええい、と勢いに任せて男の胸に飛び込み、かっちり腕を回してホールドした。顔なんて見せなきゃいい。
密着するとよく筋肉のついた硬い体がめり込んできて、どくどくと血管の脈打つのさえ感じられるようで。
コイツの背中、広すぎんだろ……!
「しじゅめて、欲しくて」
ああ、舌回らなかった! いいさ、このくらいのほうがコイツには効くだろ。
上目遣いで見上げ、眉尻を下げてつらそうな表情を作った。
ん……、と男の太い首に吐息をかけてみる。
ほら、こらえきれなくなった男は――
「はあぁっ!?」
どん、と突き飛ばされた。
足が宙に浮く。
ふわりとした浮遊感は一瞬で、尻を打ち付ける痛みに悶えた。
目をしかめる俺を、男は冷たく見下げながら言い放つ。
「お前が娼婦の真似事みたいなことしてるって噂、本当だったんだな。――失せろ」
思わず、キッと睨め付けてしまう。
言いたいことは色々あるが、今ここで言えるようにまとめられねえ。
そうこうしているうちにヤツは去った。
絶好のタイミングを逃した。なのに、なんでか俺の心はほっとしている。
視線が外れればもう何も見なかったかのように出て行くヤツを見送ると、へたりと体の力が抜けた。
尻が痛くて動けねえ。
* * *
ようやく尻の痛みが引くと、イヤな汗の滲む体を起こして部屋を出た。
「アネットお嬢様」
どことなく艶のある、よく耳に馴染んだ声が耳に入る。
何のこともないただの挨拶。なのに、そのいつも通りってことが心地いい。
コイツなら、いつだって味方してくれるっていう気がする。――まだ、何も話してないのにだ。
さっきまで体に絡みついてた嫌な感じが解けていく――
振り向くと、いつものように穏やかな笑顔を湛えた俺の執事ユベールがそこにはいた。
「ごきげんよう、ユベール」
「どうなさいました?」
どきりとした。コイツにだけは知られたくない。そう思う一方で――
ばくばくと心臓の音がうるさい。
「ちょっと転んでしまっただけ」
いつの間にか、手を伸ばせば触れるほどまで近づいているのにも気づかなかった。
ふと、ユベールに腕をつかまれる。なんでだ?! 意図が分からず。一回り背の高いユベールを見上げた。
「お袖が破れていらっしゃいます。少々お時間を頂いても宜しいですか?」
うろたえてて気付かなかったが、ユベールに掴まれたラッパ袖には確かに小さな裂け目ができていた。
顔を寄せてよく見ないと気づかないくらいだったのに、よく気づくな。
「え、ええ……。ごめんなさい。お願い、するわ」
用意の良いユベールは、裁縫道具を取り出すと破れたところをちくちく縫っていく。
こそばゆくて、どうしてもキョロキョロしてしまうのを抑えきれずに終わるのを待ってた。
「はい、終わりました」
ようやく腕を解放されると、ぶらぶら振って凝りをほぐした。緊張でまだ腕が痛い。
ユベールが仕事の早いヤツで本当に助かった。
「ご学友がお見えになったようですね。では私はこれで」
もちろん、学校の中じゃユベールも学友だ。
「ありがとう、助かったわ」
軽く会釈をしてユベールを見送った。
選べるものなら、ユベールと生きていきたい、と思う。
が、ユベールだって仕事だから俺のお守りに付き合ってられるはずだ。
お互いの身分差に逆らってまでユベールが俺を選んでくれる可能性は、ちょっと考えられない。
負け続ける戦いは慣れてきたが、もしユベールに連れてって欲しいと言って断られたら――
まだ、ユベールに縫われた箇所が少し熱い。
* * *
「あ、アネットちゃん。どこ行ってたのー?」
毛先のはねた爽やかなピンクの髪の少女が、間延びした声でたずねてきた。
心配してくれてるのは、友人のレティシアだった。
どうやらずいぶんぼうっとしてしまっていた気がする。
レティシアの声で、ピンボケしていた視界がはっきりしてくる。
「ええ、ちょっと調子を崩してしまって。でももう大丈夫だわ」
「本当に本当のだいじょうぶ?? なんだかすごく具合悪そうな顔してたよ?」
軽い頭痛が残っているような気がするのは事実だ。
「ありがとう。もう大丈夫」
「まあアネットお姉さま、大丈夫ですか? アナイスはもう心配で心配で心臓が破れそうでした!」
いるのは分かってたが、ゾッとして、いやゾッとする間もなく抱きしめられた。
壁に下がったって無駄だ、息が苦しくなるくらいに体を締められる。
とにかく刺激したくねえって思ってるコイツ、アナイスは別に俺の妹じゃない。
いや、今は俺の妹じゃないっていうか。
「平気よアナイス。離してちょうだい」
「離しません離しません! アナイスはお姉さまとあの世へまでだってついていきます」
「行かないと、次の講義が……」
「もう試験は終わりましたし、あとは結果を待つだけでしょう?」
ぐるじぃ……! 背骨が折れるんじゃないかっていうほどキツく絞められた。
ぐう、死ぬ、殺される! 病気とかじゃなくて、他ならぬアナイスに!
「あ、わたし忘れものしちゃった。取ってくるからちょっと待っててねー」
――え?
ちょっまっ!
レティシアに置いて行かれた俺はおののきながら意識を手放しかけていた。
が、ここにきてようやくアナイスに解放された。
ぐったりと壁にもたれかかりながら、何とか平然を装う。
「ようやく邪魔者がいなくなりました。今日はアネットお姉さまにお伝えしたいことがあります」
邪魔者って、もしかして、もしかしなくてもレティシアのことだ。
そんなふうに平気で言えるコイツにも、もう慣れ切ってしまってた。
「ええ、何かしら」
実のとこ興味はあまりないんだが、満足するまで話してもらって早いとこ帰って欲しい。
丸顔で目のぱっちりしたアナイスは愛らしいはずだが、その瞳の奥には狂気しか見えない。
両の頬に自分の手のひらを添えながら、嬉しそうに報告してくる。
いつものように聞き流そうとしたが――無理だった。
「聞いてくださいお姉さま。わたくしついに家を追い出されることになりました。全然勉強しないからって」
俺は思わず目を見開いた。
衝撃的な告白だが、アナイスの目に悲壮感なんて微塵もねえ。
ヤバい薬でもヤッってんのかってくらい、うっとりした調子で続けてくる。
「それで、お父さまは聖女府へ行けっておっしゃいますの。――お姉さまと同じ、ヤンクロット聖女府に。アネットお姉さまも、喜んでくださいますよね?」
頭がくらくらとしてくる。
コイツは――前はこんな、自分を投げ捨てるようなことするようなヤツじゃなかったはずだ。
「そう……」
一瞬、アナイスの表情が寂しげに曇った。
でも本当に一瞬だ。今度は目を輝かせながら、ニコニコと続けて来やがる。
「お姉さまも、喜んでくださいますよね? だってお姉さまのお家は――」
聞いていられなくなって、気が付くと手が出ていた。
頬を張る渇いた音が小さく響いた。
手のひらまで火傷したみたいに熱くなる。
「いい加減にしろよ杏奈。お前は、こんなズルするようなヤツじゃなかっただろ?」
杏奈って言っちまった。アナイスは赤くなった頬に手を当て驚愕の表情で見上げながら、
「だって、お姉さまと結ばれるためなんですよ? 他の人に好意を向けられるのは、お姉さま以上に好意を向けられるのは――嫌なのだもの」
なんて言う。
事実この学校に入ってからのアナイスの成績はぶっちぎりの最下位で、裏口入学って噂が出るくらいまでだ。
見たくれだけは愛らしいが、あまりに頭が悪いから、まともな学生からはてんで相手にされてない。
別に、アナイスの取った手が、まともに神サマを信仰している人たちに失礼とかそんなことを思ってるわけじゃない。
いや、少しは思ってるかもしれないが。
俺だって大して変わらないし、この世界で放蕩の末に聖女府に送られる奴なんてごまんと居る。
とにかく前世の杏奈との違いが激しすぎて、俺はコイツを許すことができなかった。
これでもたった一人の妹なんだ。これ以上、余計な感情をぶつけたくない。
なだめる言葉も見つからず、呆然と見上げるアナイスを置き去りにして俺は立ち去った。
どうせもう少ししたらレティシアが来る。アイツは優しいから、今の俺よりアナイスを案じてくれるだろ?
* * *
なんでわざわざ人生を棒に振るようなマネをアナイス、いや杏奈と言うべきかがするかってと、それがこのゲームのエンディング分岐条件だからだ。
妹だった杏奈が熱心にプレゼンしてたからちょっとは分かるんだが、今のこの世界はある乙女ゲームの中だ。
俺が成り代わったアネット・ゴスランっていうキャラは代々聖女を出している家系で、今の代は俺がその聖女府に行くことになってる。
アネットは原作でもヒロインであるアナイスの親友だ。
なんだが、アナイスに恋仲ができると、自分と違い自由に恋愛できる彼女への嫉妬に狂いどのルートでも豹変する。
そのアネットとアナイスの友情が壊れずに済むエンドがいくつかあって、その一つに学力パラメータが最低ランクのときの聖女府エンドがある。
もしかしてもしかしなくても、アナイスはそれを狙ってるんだろう。
俺が悪役令嬢ポジションに転生したのは事故みたいなもんで、もともと杏奈は従兄のリュシアンに転生にさせたかったらしい。
が、どんな形であれお兄ちゃんと結ばれるならそれでいいと、人目を忍ばず手段を選ばずアプローチを仕掛けてくる。
可愛い元・妹なのに違いはない。それだって、妹は妹だ。それに、今は女同士っていうのもあるし――
とにかく、俺にはアナイスの気持ちを受け入れる気にはなれなかった。
オンのときは勉強がデキて後輩からも人望の篤かったはずの杏奈も、今じゃあの体たらくだ。
俺が手の届かないところまで離れてしまえば諦めて正気に戻るだろうと思い、適当な男見つけて卒業するまでのあいだだけでも付き合っておこうかと思ったんだが――
これがさっぱり当たらない。男心って難しい。この世界の。
ええ!? なんで? だって、転生とはいえ自分で言うのもなんだが、長身モデル体型で出てるとこは出て引っ込むところは引っ込んでる、掘りの深いツリ目美女なんだぜ? チンコついてんのかよ。
まあ俺が悪い。異世界人で元・男となると人付き合いには億劫になるし、それがまた世間知らずに拍車をかける。
きっと、世間ズレしたつまらない女って思われてるんだろう。家柄も家柄だしな。
最初のうちは借り物をしてみたり食事に誘ってみたりとお淑やかなアプローチを試みてたさ。
何人かオトすのに失敗するうち、いつの間にか男漁りが趣味のあばずれとか娼婦の真似事みたいなことしてるとかあることないこと言いふらされるようになった。
なんなら本当にそうしてやろうか?と今日は強硬手段に訴えてしまったが、結果はああだ。
が、俺が何言われたって、アナイスが陰でバカだの頭おかしいだのって言われてるのに比べたら全然、堪えられる。
* * *
「さむっ」
ひょうと強い風が窓から吹き込んできた。
部屋の端まで歩くと、窓を閉めカーテンを下ろす。
ネグリジェだけじゃ夜風には弱くて、カーディガンを羽織って机の前の椅子に腰かける。
使徒の手紙を読み直していたんだが、邪念ばかりで全然集中できてない。
これでは神の道に入れませんわなんてさすがに思わないが、少しばかり自分に呆れる。
なんか座ってるのもダルくなってきて、本をぱたんと閉じるとベッドに大の字になった。
「アネットお嬢様」
執事のユベールの声がした。
「入って」
なんだろう、と思いながら
学校の中じゃないから、正真正銘の執事スタイルだ。
ゴスラン家の使用人としての統一感を保った燕尾服姿のユベールが、ティーセットを持って入ってくる。
寝ころんだまま様子をうかがってくると、ユベールは少しだけ眉を揺らして。
「失礼ながらお嬢様。おみ足が大きく見えていらっしゃいます」
はっとして起き上がり、ネグリジェのすそを下に下ろした。
足上げたり下ろしたりしてたせいで太もも付近までまくれあがってたまま、ユベールを迎えてしまっていた。
恥かしくて顔が茹りそうだ……!
こういうの俺まだ気が付かないこと少なくないから、忌憚なく指摘してくれるユベールには助かる。
恥かしいけど!
この年じゃ見てみないフリされることのほうが多い。
それに家にいるときまで女の侍従といると疲れるから、人払いしちゃってるし。
気の置けないのは、ユベールだけだ。
「ごめんなさい」
紅茶の甘い香りが、ふんわりと部屋に広がっていく。
膝を丸く抱えながら、ユベールがお茶の用意をしているのを見ていた。
こぽこぽ、こぽこぽと耳心地の良い音がする。
音も香りも心地よいものでいっぱいで――
今日はもうあまりヤなこと考えないで休めそうだ、って思う。
「下の部屋で掃除をしていたら、お嬢様の部屋の窓が閉まる音が聞こえまして。暖かいものが良いかなと思いお持ちしましたが、如何ですか?」
無意識のうちに、ぼうっとユベールの優しい笑顔に意識を吸われていた。
バカみたいに気が利くやつだな。でもないと、お嬢様おつきの執事なんて務まらないかもしれないが。
ユベールがこちらに差し出してくれたティーカップを受け取る。
暖かい紅茶の熱に間接的に指を温められて、ようやく指先が冷えてたのに気づいた。
紅茶を少し口に含むと、ほんのり甘みのある香りが口の中に溶けていく。
「ありがとう。少し寒かったから、助かるわ」
「アネットお嬢様にお口に合って良かったです」
ユベールのすることに、見当違いだなんて感じたことは本当にない。
俺以上に、アネットのことよく分かってるなって思う。
俺、でいいんだろうか――なんて思う。
自分で考えておきながらなんだが、訳わかんないな。
下がっていいわよと言おうと思って、言い留まる。
「片付けるのは明日の朝でいいから、それより残っていた仕事は大丈夫?」
大丈夫、と言って欲しいが、忙しいならユベールの時間を奪うのは気が引けた。
ただ、今日は一人じゃない時間ももうちょっと欲しい、気がする。
「この時間にあまり音を立てるような仕事もできませんから大丈夫です。それより、打ったところは大丈夫ですか?」
「ええ」
そう言うとユベールに、昼の事件で袖の破れてたところの近くをつかまれた。
慈しむようにゆっくりと撫でられる。
くすぐったくって、ぞわりとする。胸が苦しくって、早く終わって欲しいような、だがずっとこうしていたような、ああもう訳わかんね!
「大丈夫、だから」
「失礼しました。お変わりないようで安心しました」
ようやく腕を解放されたが、余韻がまだ胸に響いてる。
ユベールがさすってくれたっとこ、もう片方の手を当てると、そこからもユベールの体温が伝ってくるような気がした。
ユベールのにこやかな笑顔は、いつ見ても安心する。んだが、今日はちょっと、目が合いすぎているような――
「さて、アネットお嬢様、今日はお伝えしなければならないことがございます」
あ、話したいことあったのか。なるほど。
「ええ、話してちょうだい」
紅茶を味わいながら、ユベールの話を聞き。
「実は私、もう少ししたらお嬢様の執事の任を離れないといけないことになりまして」
その言葉がなかなか頭に入らなくて、理解できた瞬間にずきんずきんと痛みが広がる。
危うく、ティーカップを落とすところだった。
もしティーカップを落としてネグリジェとシーツが汚れたらきっとユベールはそっちの片づけを優先するはずで、そのあと「さっきの話? なんでしたっけ」なんてなかったことにならないか、なんておかしなことを考えてしまう。
「実は本家のほうで相次いで不幸がありまして、傍系の私が跡を継ぐことになったのです」
細い指先にティーカップは重すぎて、やっとのところでサイドテーブルに置く。
ユベールがさすってくれたとこ掴みながら、何か吐きそうになるのを懸命にこらえた。
嘘、だろ――!?
別にアナイスのことはそんな恨んじゃいない、だけどこんなおかしな状況になって、お嬢様生活なんて慣れないものに耐えてこられたのはユベールがいてくれたからだ。
ユベールがいてくれなかったら、この先俺はどうすりゃいいんだ?!
「それで、ユベールが故郷に帰るのはいつになるのかしら」
その言葉だけ喉から絞り出すのがやっとだった。
「引継ぎがありますので、一か月くらいは先になりますね。私の家のほうにも伝えてあります」
「そう。寂しくなるわね」
寂しいなんて言葉だけで吐ききれるものじゃない。
クソデカ感情が腹の中ぐるぐるして、今にももどしてしまいそうなくらいだ。
「アネットお嬢様を寂しくなんて、させませんよ」
え――!?
聞き返すより先に、唇を塞がれていた。
何がどうなってんのか分からず、瞬きを繰り返した。
俺、ユベールにキスされてる……?
もしかしたら「簡単に唇を許してはいけませんよ」なんて説教食らうだけかもしれない。
ちょっとくらいは抵抗しないといけなかったかもしれないのに。
ただ唇の端をふんわりくっつけただけのもどかしい感覚にいつまでもまどろんでたくなって、目を閉じユベールのするがままに任せた。
「あ……」
唇が離れると、もう終わりかよって気持ちが顔に出るのをたぶん止められてない。
だがすぐ腰が宙に浮いて、身をすくめるとユベールに抱きかかえられてて。
「アネットお嬢様を置いてはいけませんから。一生、お仕えさせてください」
耳元に響く、甘く艶やかな声。
その声を聞くとふるふると体の中に何かが波打って、何も考えらんなくなる――
「お願い」
やっとのこと、それだけ応えた。
するとユベールは俺を抱いたまま連れ去って――
* * *
そのまま領地まで攫われて、なんてことはなく、行き先は親父の執務室だった。
お嬢様をくださいってヤツだ。ピリピリした空気が流れてたが、傍系でも俺の執事が務まるだけあって本家に戻ればユベールは家格的にもまったく問題なし。
それに俺がユベールから一ミリとも離れず「ユベール以外考えられない」って言ったから、なんとか親父の許しは得られた。
ユベールが結構先走ったのは、他の男に絶対俺を渡したくなかったかららしい。
もちろんユベールのことだから、俺の噂は知ってたろう。
俺がそれとなく探ってみても、ユベールは何も知りませんって感じで答えるけど!
聖女府には、代わりに最近旦那と死別した姉貴が行くことになった。
子どももいないし、死ぬまで旦那のことだけ想っていたいって姉貴は、喜んで引き受けてくれて。
姉貴の嫁ぎ先に出向くと、無茶ぶりする俺に姉貴はただ一言。「アネットは幸せになってね」って。
俺、涙が止まらなくって、崩れた顔ベールで隠しながらユベールに支えてもらってようやく帰った。
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