サンタの教えてくれたこと

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第二章 実験動物の条件

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~第二章 実験動物の条件~

「私はあんたのそういうトコがツボなんだけどね」
 下宿に戻ってぼやくと押入り女房、こと遥(はるか)がクスッと笑った。
 彼女は六回生で、市役所の獣医師としての就職も決まっている。後は卒論発表をして国家試験を受けるだけ……獣医学科の過程はほぼほぼ修了しているのだ。
「どうだかな……動物の死に心を痛めている人を見ると、何だか不安になるんだけどな。僕って、こんなのでいいのかって」
 またもぼやくと、彼女は屈んで僕と目線を合わせ、軽くデコピンをした。
「だーかーら。あんたが実習で使った動物のために涙を流すようになったら、キモいっつーの。あんたは冷酷でドライ……そんな所に私はゾクっときてるんだから」
 彼女はそう言って、もう何缶目だろう……スーパーの袋からビールを出してプルタブを開けた。
「ちょっと、遥……飲みすぎじゃない?」
 僕はいつになく悪酔いして絡んでくる彼女が少し心配になった。
「いいじゃん、ちょっとくらい。卒業が近付いてくるとね、ストレスが溜まるのよ」
 そう言って、人の部屋の真ん中に陣取って、缶ビールをすすった。下着姿であぐらをかいていて……目の遣り場に困った僕はベッドに仰向けになった。

 彼女とは学科の縦割りの飲み会で知り合った……というより、憑かれた。見た目はそれなりに美人なのに、悪酔いが酷くて、介抱すると絡んでくるようになって……気がついたら、お酒を買って僕の家に居つくようになっていたのだ。

 遥は元々は小動物臨床……つまり、動物病院での勤務を希望していて、ゆくゆくは僕と一緒に動物病院を開業しよう、なんていう夢みたいなことを話していた。しかし、就活の段階になって研修を重ねるうちに動物病院を取り巻くペット業界の実態を知り……自分には向いていない職種だと分かった彼女は、あえなく公務員志向に切り替えた。そしてその頃から、彼女の飲むビールの本数は倍増したのだ。

「でも……あの実習ってさぁ。今考えると、私でも病んだなぁ。寝れなくなったし」
 壁にもたれた遥は床にビールを置いて、呟いた。
「何かさぁ、犬って憎いんだ。私もあんたと同じくらいにドライだった筈なのに……あんなに弱って酷い目に遭ってたあいつ、私の顔見たら弱々しく、本当に弱々しくだけど、尻尾なんて振りやがってさ。そりゃあ、そんなことされたら堪んないよ」
 そんなことをボソッと呟いた遥の頬には、キラリと光る雫が落ちて。
 ベッドに横たわりながらそれを確認した僕は……彼女が動物病院への勤務を諦めたのは、就活での挫折だけが原因ではなかったのかも知れない。そんなことを考えてしまった。

「ちょっと……そんな格好でそんな所にいたら、風邪引くよ」
 彼女はそのまま……下着姿であぐらをかいて、壁にもたれたまま寝息を立て始めて。何とまぁ、こいつ、完全に女を捨ててる……と思って苦笑いしてしまった。
 僕はやれやれと、ベッドから重い体を起こして布団を敷き、彼女を寝かした。
 その寝顔をふと見ると、寝息の漏れる年上の彼女の赤い唇には不思議な艶やかさがあって……僕は思わず前言を撤回し、その唇に自分の唇をそっと重ねた。

 翌日。
「おーい、そっち行ったぞぉ!」
「おぅ!」
 僕がそいつの一瞬の隙をついて虫捕り網を振り下ろすと、そいつは網の中でピョコピョコと跳ねて……どうにか、捕まえることができた。

「今日は割と、大量じゃね?」
 三介はケースの中に入った五匹のカエル達を満足げに見つめた。
「……って言っても、全部合わせて二千円くらいにしかなんないけどね」
 渚が呆れた風に呟くと、三介が口を尖らせた。
「あ、お前。二千円をバカにすんなよ。俺の三日分の食費なんだからな」
 三介の発言のうち、『俺の』っていうところがポイントだ。こんな口答えをしながらも彼は、彼女の渚にはその何倍もするような豪華な食事を貢いでいて、自分はスーパーの安売りのお惣菜を適当に買って済ませているのだ。

 そんなことを考えてカエル達に目をやった僕は、フゥっと溜息が出た。そして、つい、センチな感情が口から漏れた。
「このカエル達もまさか、心臓を吊される実験に使われるなんて思ってもいなかっただろうな」
「えっ?」
 三介は怪訝な表情を僕に向けた。
「だって確か、二回生の生理学実習って、そういうんじゃなかったっけ」
 そう……その実習はカエルから心臓を取り出して、その心拍動を定量的に記録観察するものだった。心臓はカエルから取り出した後も永久に続くかと思うほど拍動を続けていて。しかし、カエルの『本体』……いや『抜け殻』と表現する方が正しいのかも知れないが……それはれっきとした『死体』で微動だにせずで、僕達は実に奇妙な感覚に陥ったのだった。 

「そうか……確かにそうだったよな。そう考えると、逃がしてやりたくなってきちまうな」
 三介はケースの中でピョコピョコと元気良く跳ね回るカエル達を憂いを帯びた目で見つめた。僕はそんな単純な彼に、思わず吹き出した。
「でも……こいつらを逃がしたら、また別のカエルが心臓を吊されることになるぞ」
「まぁ、確かに。だったら……やっぱりどうしようが逃れられない運命なんだよな」
 そう……このカエル達は捕まった時点で、『心臓を吊される』という運命から逃れることはできないし、今の二回生達も、こいつ達の心臓を吊るすという運命から逃れることはできない。
 実習犬達はさらに……生まれた時点で『体を切り刻まれた挙句、殺される』という運命から逃れることができないし、僕達もやはり、この学科に入った時点で実習犬に地獄を与えるという運命から逃れることができないのだ。

「まぁ……この学科に入ってしまった以上、仕方ないよ。僕達が入っていなかったら他の人が入学できていたけれど……結局、同じようなことを考えていただろうよ」
 僕が言うと三介も渚も苦笑いした。
 僕は他の生徒よりも割り切れている……つもりでも、ふとした拍子についうっかり、センチな感情が口から出る。それはもしかしたら、心の奥底では動物の『死』に対して割り切れていない……のかも知れない。

 ついに、木曜日……実習犬が割り当てられる日になった。それぞれのグループごとに一頭、見た目には判別のつかないビーグルが、まるで檻のように殺風景なケージに入れられて運ばれてきた。
 実験に供する動物の条件の一つとして、個体差が少ないことが挙げられる。一見すると、ビーグル達はその条件を満たしているかに見えた。すなわち、どのビーグルも模様、大きさ、体格の点ではほとんど相違なかった。

 だが……各々の性格は異なっていた。見たところ、三介のグループに割り当てられたビーグルは人間に対し従順なようで、ケージから出ても大人しかったし、渚のグループに割り当てられたビーグルはひどく臆病で……何もしないうちから、尻尾を丸めてケージの隅っこで震えて中々出てこようとしない様子だった。

 そして、僕達のグループに割り当てられたビーグルは……ケージを開けた途端に尻尾を激しく振りながら、抱っこをせがんできたのだ。

「キャハッ、こいつ、すごい!」
 僕のグループの奈留がはしゃぐそのビーグルを抱っこすると、そいつははち切れんばかりに尻尾を振った。
「おいおい、奈留ちゃん。情が移っちまったら、実習なんてできなくなっちまうぞ」
 健斗はそんなことを言いながらもビーグルの頭を撫でて。ビーグルは赤い舌をペロペロと出して、その手を舐めていた。

「一番……キツい犬がきたかも」
 口に出さないまでも、僕はそう思った。
 何故なら、僕のグループにきたビーグルはこんなにも天真爛漫で……僕達のことを微塵も疑ったりしていなかった。まともな人間なら、このビーグルを実習犬として切り刻むことに抵抗を感じないわけがなかった。

 実習犬は見た目や体格……解剖学的構造はどのグループに当てられた犬もほとんど変わらないのに、性格はこんなにも違うのだ。そのことが、より一層にこの実習を耐え難いものにするような気がした。

「次週の木曜日では、最初の外科手術を行います。腸管の切開と縫合術です」
 教授が実習の説明を始めた途端に、教室内は異様な緊張に包まれた。
 説明が始まるまでは現実味がなかった……というよりは、意図的に目を背けていた『実習犬を切り刻む』という行為。それが突如、具体的になって僕達に提示されたのだ。
 分かっていた……僕達が行うのは、単に実習犬を切り刻むことではない。将来、獣医師としてより多くの動物を救うために、外科的な手技を身につけることだ。
 だがしかし、実際に自分達のグループに割り当てられた犬を前にすると誰もが……ドライだと思っていた僕も、この犬が純粋に人間を信頼する、その気持ちをこれから裏切ることにやり切れなさを感じてしまうのだった。

 最初の……腸管の切開、縫合術で安楽殺できたらどれだけ精神的に楽だろう。
 だが、僕達はこの実習の期間。自分達が切り刻んだこのビーグルに餌や水をやり、薬を飲ませて生かしておかなければならない、ということだった。

 その日の講義が終わって、ビーグル達をグループ毎に決められた犬舎に連れて行く……その間も僕の気持ちは浮かなかったし、きっと皆もそうだっただろう。

 僕達のビーグルが犬舎の中で尻尾を振りながら僕達を見送るのを見て、心は棘が刺さるような痛みを感じた。

「そりゃあ、あんた。外れね」
 僕の部屋で遥が苦笑いした。
「だって、私のグループもそうだった。物凄く天真爛漫で、人懐こい犬で……」
「やっぱ、それって……キツいよな」
「えぇ。だって……私達がどんなに酷いことをしても、全然恨んでいないのよ。ちょっとくらい恨んでくれて……噛みつこうとでもしてくれたら、どんなに楽だったことか」
 遥は溜息を吐いた。
「でも、犬にとっては自分の苦しみの原因が僕達だなんて、分からないんだろ?」
 僕の言葉に遥は目を瞑り、首を横に振った。
「いいえ。あいつはきっと分かってたわ。痛みが、苦しみが……私達の所為だって。でも、それなのに……私達を許したばかりでなく、はりきれんばかりの愛をふりまいていたのよ」
「まさか。犬に分かるはずがないよ。それに、僕達人間にそんな苦痛を与えられたと分かったら、絶対に人間不審に陥いるはずだよ」
 すると、遥は力ない笑いを浮かべた。
「私も最初はそう思ってた。でも……あの実習を始めると、実習犬のそういう想いも分かってきてしまうのよ」
 遥はやや下に視線を移した。
「僕にも……分かってしまうのかな。あまりそういう感情とかって……人間のものさえも分からないけど」
 呟く僕に、遥はふっと笑った。
「さぁね。あんたなら……もしかしたら、分からずに済むかもね」
 そう言って、彼女はビールをぐびっと飲んだ。

 分からずに済むのなら、それが一番よいのかも知れない。きっと、苦しまずに済むから……ただ機械的にこなせばよいだけだから。だけれども、そんなのは……自らが苦しまずにあのビーグルを殺すのは、卑怯だ。そんな気がしてならなかった。
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