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第三章 最初の手術
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~第三章 最初の手術~
獣医外科学実習での最初の手術の日になった。その日は朝の授業から、教室は異様な空気に包まれていた。
手術の前から、グループに割り当てられた実習犬の世話は始まっていた。エサや水をやったり、農学部の構内を散歩させたり……僕も当番になった日もあった。
そして、そいつはいつも、犬舎の檻に近付いた途端にはち切れんばかりに尻尾を振り、赤い舌でペロペロと舐めてくるのであった。
僕のグループではそいつに名前をつけていなかったが、三介のグループでは実習犬に『セプ』という名前をつけて可愛がっていた。それは、時期がセプテンバー、つまり九月の末ということに由来するということだった。
「セプはすごくいい子でな。あいつのために、なけなしの金を使っておやつを買ってやってるんだ」
何だかんだで情に熱い三介は、何度もそう言って悲しそうな笑顔を浮かべていた。そんな三介をよく理解している渚も、その時期ばかりは三介に飯や物をねだったりしなかった。
僕達はみんな、心の何処かでその日……実習犬の手術実習をする日がくるのを恐れていたのだ。
「まずは犬の前肢に留置針を設置します」
教授の指示通りに僕達は動いた。
その日の手術で助手の役割を担う僕が尻尾を振る犬を動かないように保定して前肢の血管が浮き上がるように駆血し、術者の役割を担う奈留がその血管に留置針を刺した。設置した留置針から血が滴れば、成功だ。しかし、奈留は……勿論、僕達もだが留置針の設置など初めてのことで、何度も刺すのに失敗した。
人懐こいピーグル犬だったが、針が刺さる度に『キィッ!』と悲痛な声を出して、保定している僕もツラくなった。
「よし……」
留置針が血管に刺され、血がポトポトと滴るとすぐにその蓋が閉められた。
尻尾を丸めていたビーグルは、また振り出したが……得体の知れない不安からか、その勢いはやや衰えていた。
手術するに当たり、その留置針を通して麻酔薬を注入して眠らせなければならない。またビーグルを保定すると、『クゥー』と鳴いて萎縮して、小刻みに震え出して。僕はまたも、つらくなった。
「鎮静剤、注入します」
その日の手術での麻酔係、沙知がゆっくりと薬を入れると、小刻みに震えていたビーグルの体はグッタリと力が抜けた。
そして迅速に吸入麻酔で麻酔導入を行なって手術台に寝かせた。
手術台に寝かされたビーグルは、まるでぬいぐるみのようで、さっきまで人懐こく尻尾を振っていたそいつとは思えなくて。緑色の布で切開部分の腹以外を……頭も肢も尻尾も隠されていた。それがせめてもの救いだった。
「鉗子を持って!」
「はい!」
助手の僕は奈留の言葉に従って皮膚を固定した鉗子を持った。
術者の彼女がメスを持ち、隠されていない腹を切開した。その手はやや震えていたが、一度メスが入ると何かがふっ切れたのか、流れるように手術が進み出した。
奈留の言うように手術の補助をしていて……ふと彼女を見ると、無感情に手を動かしているようだった。それは、僕が知っている、うるさい女子リーダーの彼女とは全く別人で……その時の状況の異様さを物語っているかのようだった。
着々と手術は進んでゆき、奈留は腹腔の腸管を一部取り出してメスで切開し、縫合糸で縫合した。ただそれだけのことでも、手術初心者の僕達にとっては大変なことで。助手として指示された通りに動けなかったり、術者の邪魔をしてしまったような場面もあったが、術者にかかるプレッシャーはきっとそんなものではなかっただろう。
奈留がラストの皮膚縫合の一針を終えた途端に、僕達はふぅっと溜息を吐いたが、中でも奈留は一番疲弊した様子だった。
手術後は吸入麻酔を外して、犬が傷口を舐めないように首周りにエリザベスカラーを付け、腹の傷口に抗生物質を塗布した絆創膏を貼り、ビーグルが麻酔から醒めるのを待った。
不安だった。このまま、このビーグルが麻酔から醒めなかったらどうしようって。
しかし……醒めずにこのまま息を引き取った方がきっと、このビーグルにとっては幸せなことだし、僕達も、これ以上の残酷なことをせずに済む。そんなことを考えて犬の死を望む、矛盾した感情もあった。それは、きっとこの場にいる皆……実習を終えた皆が、心の何処かで抱えている葛藤だろうと思われた。
「キャイン、キャイン!」
皆のいる手術室に、ビーグル犬達の苦しげな叫び声が響き渡った。
どのグループもほぼ同時に手術を終えたので、麻酔から醒めるのも同じくらいの時間で……次々と、麻酔から醒めた途端の痛みに悲鳴を上げ、暫くして、その悲鳴もおさまっていった。
僕達のグループのビーグル犬も悲鳴を上げ始めて……それは、今までの人懐こく尻尾を振っていたそいつからは想像もつかない姿で、何とも言えない気持ちになった。
次の手術の実習までの、ビーグルへのエサやりや抗生物質の投与の当番の確認なんかをして、その日は終わった。
獣医外科学実習での最初の手術の日になった。その日は朝の授業から、教室は異様な空気に包まれていた。
手術の前から、グループに割り当てられた実習犬の世話は始まっていた。エサや水をやったり、農学部の構内を散歩させたり……僕も当番になった日もあった。
そして、そいつはいつも、犬舎の檻に近付いた途端にはち切れんばかりに尻尾を振り、赤い舌でペロペロと舐めてくるのであった。
僕のグループではそいつに名前をつけていなかったが、三介のグループでは実習犬に『セプ』という名前をつけて可愛がっていた。それは、時期がセプテンバー、つまり九月の末ということに由来するということだった。
「セプはすごくいい子でな。あいつのために、なけなしの金を使っておやつを買ってやってるんだ」
何だかんだで情に熱い三介は、何度もそう言って悲しそうな笑顔を浮かべていた。そんな三介をよく理解している渚も、その時期ばかりは三介に飯や物をねだったりしなかった。
僕達はみんな、心の何処かでその日……実習犬の手術実習をする日がくるのを恐れていたのだ。
「まずは犬の前肢に留置針を設置します」
教授の指示通りに僕達は動いた。
その日の手術で助手の役割を担う僕が尻尾を振る犬を動かないように保定して前肢の血管が浮き上がるように駆血し、術者の役割を担う奈留がその血管に留置針を刺した。設置した留置針から血が滴れば、成功だ。しかし、奈留は……勿論、僕達もだが留置針の設置など初めてのことで、何度も刺すのに失敗した。
人懐こいピーグル犬だったが、針が刺さる度に『キィッ!』と悲痛な声を出して、保定している僕もツラくなった。
「よし……」
留置針が血管に刺され、血がポトポトと滴るとすぐにその蓋が閉められた。
尻尾を丸めていたビーグルは、また振り出したが……得体の知れない不安からか、その勢いはやや衰えていた。
手術するに当たり、その留置針を通して麻酔薬を注入して眠らせなければならない。またビーグルを保定すると、『クゥー』と鳴いて萎縮して、小刻みに震え出して。僕はまたも、つらくなった。
「鎮静剤、注入します」
その日の手術での麻酔係、沙知がゆっくりと薬を入れると、小刻みに震えていたビーグルの体はグッタリと力が抜けた。
そして迅速に吸入麻酔で麻酔導入を行なって手術台に寝かせた。
手術台に寝かされたビーグルは、まるでぬいぐるみのようで、さっきまで人懐こく尻尾を振っていたそいつとは思えなくて。緑色の布で切開部分の腹以外を……頭も肢も尻尾も隠されていた。それがせめてもの救いだった。
「鉗子を持って!」
「はい!」
助手の僕は奈留の言葉に従って皮膚を固定した鉗子を持った。
術者の彼女がメスを持ち、隠されていない腹を切開した。その手はやや震えていたが、一度メスが入ると何かがふっ切れたのか、流れるように手術が進み出した。
奈留の言うように手術の補助をしていて……ふと彼女を見ると、無感情に手を動かしているようだった。それは、僕が知っている、うるさい女子リーダーの彼女とは全く別人で……その時の状況の異様さを物語っているかのようだった。
着々と手術は進んでゆき、奈留は腹腔の腸管を一部取り出してメスで切開し、縫合糸で縫合した。ただそれだけのことでも、手術初心者の僕達にとっては大変なことで。助手として指示された通りに動けなかったり、術者の邪魔をしてしまったような場面もあったが、術者にかかるプレッシャーはきっとそんなものではなかっただろう。
奈留がラストの皮膚縫合の一針を終えた途端に、僕達はふぅっと溜息を吐いたが、中でも奈留は一番疲弊した様子だった。
手術後は吸入麻酔を外して、犬が傷口を舐めないように首周りにエリザベスカラーを付け、腹の傷口に抗生物質を塗布した絆創膏を貼り、ビーグルが麻酔から醒めるのを待った。
不安だった。このまま、このビーグルが麻酔から醒めなかったらどうしようって。
しかし……醒めずにこのまま息を引き取った方がきっと、このビーグルにとっては幸せなことだし、僕達も、これ以上の残酷なことをせずに済む。そんなことを考えて犬の死を望む、矛盾した感情もあった。それは、きっとこの場にいる皆……実習を終えた皆が、心の何処かで抱えている葛藤だろうと思われた。
「キャイン、キャイン!」
皆のいる手術室に、ビーグル犬達の苦しげな叫び声が響き渡った。
どのグループもほぼ同時に手術を終えたので、麻酔から醒めるのも同じくらいの時間で……次々と、麻酔から醒めた途端の痛みに悲鳴を上げ、暫くして、その悲鳴もおさまっていった。
僕達のグループのビーグル犬も悲鳴を上げ始めて……それは、今までの人懐こく尻尾を振っていたそいつからは想像もつかない姿で、何とも言えない気持ちになった。
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