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第五章 オリオンの過去
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*
「ねぇ、オリオン。今日は何を狩りに行く?」
狩猟の女神であるアルテミスと、狩りの達人であるオリオンは、かつて、あの洞窟で一緒に暮らしていた。
「熊だな。三日月模様のあいつ、昨日は取り逃がしたからな」
「あら、私がいればそんなヘマはしなかったのに。置いて行ってしまうからでしょう」
「たわけ。お前は支度に時間がかかりすぎるのだ」
オリオンはいつものようにムスッと、無愛想に言い放つ。
「仕方ないじゃない。私だって、これでも女神なんだから」
「狩猟にそんなに派手な衣装は要らん。鹿の皮で充分だ」
オリオンはアルテミスの着ている翡翠色のシルクの服を見て、顔をしかめた。
「はい、はい。今日はもう、支度は済んだから。行くわよ!」
「ったく……ほら、出るぞ」
弓矢を背負うアルテミスに、オリオンはぶっきら棒に言い放つ。
しかし、恋人であるアルテミスには分かる。彼の表情はまんざらでもなかった。そう……オリオンのその様子は、恋人である彼女に完全に心を許してこその振る舞いだったのだ。
そんな彼と一緒に暮らすことは、アルテミスにとっては楽しくて仕方がなかった。ずっと、彼とこんな風に過ごしていける……彼女はそう、信じていた。
* *
「ほら、ね。私がいれば、一発で仕留められるでしょ」
大きな熊を背負うオリオンに、アルテミスは得意げに話しかける。
「ふん。今日は俺一人でも、充分に仕留められたわ」
「あら、大人気ないわね。あなたの狩りには、繊細さがないのよ」
そんなことを話しながら洞窟へ帰る道中……二人は思わず、立ち止まった。
肌にビシビシと感じる、ただならぬ気配。アルテミスはそのオーラに覚えがあった。
「アポロン兄さん……」
そう。まるで二人の行く手を遮るかのように、アルテミスの兄、アポロン神が睨みをきかせていたのだ。
「アルテミス。お前、まだそんな野蛮な男と行動を共にしていたのか」
その鋭く刺すような声が響いた。
「あら、兄さんには関係ないじゃない。この人……オリオンは、私の恋人よ。いずれは結婚するの」
「馬鹿をぬかせ。我々は誉れ高き、ゼウスの子。このような粗暴な者との交際は、断じて許さぬ」
アポロンは眉間に皺を寄せ、青白く、刺すような眼光をオリオンに向けた。
そう……アルテミスがオリオンと共に暮らしていることは、アポロン神に快く思われていなかった。オリオンの性格を乱暴だと思い込んで嫌い、また、純潔を司る守護神・アルテミスに恋愛は許されないとして二人の仲を認めなかったのだ。
しかし、アルテミスはそれに屈しなかった。
「お兄さんが何と言おうと、私、オリオンが好きなの。これからもずっと、オリオンと一緒に生きていくの。お願いだから、邪魔しないでよ」
アルテミスはきっぱりとそう言い、オリオンの手を引き足早に去った。
さしものオリオンでも大きな熊を背負っていたため、速くは走れなかったけれど……アポロンは追って来る気配はなかった。
「アルテミス。大丈夫なのか? お前の兄だろ?」
オリオンは柄にもなく心配した様子を見せていたけれど。
「大丈夫よ。女神とは言っても……私、自分の好きなように生きるの」
アルテミスは意志が固く、オリンポス十二神の兄が相手でも決して折れなかった。
それから、暫くは何事もない平穏な日々が続いた。いや、オリオンと過ごす日々は平穏と言えるものではないけれど……そんな、アルテミスにとって楽しくって仕方がない毎日を邪魔する者はいなかった。
しかし、アポロンは水面下で画策していた。
キオス島の王、オイノピオンにオリオンの冤罪を吹き込んだのだ。
そう……オリオンは以前、キオス島に立ち寄ったことがあった。その際に、酒に酔った勢いでオイノピオンの娘であるメロペーを暴行したという話をでっち上げたのだ。
オリオンがキオス島に立ち寄ったのはアルテミスと出会う前のことであり、その話は無実無根のことだったのだが……オイノピオンはアポロンの言うことを信じ、憤慨した。
そして、オイノピオンは酒の神であるディオニュソスに頼み、恐ろしい計画を立てたのだ。
その日も、オリオンとアルテミスは共に狩りに出ていた。その二人のコンビネーションによる狩りは素晴らしく、瞬く間に大きな猪を狩り獲った。
「アルテミス。この獲物を洞窟に持ち帰っていろ。俺はもう少し、獲物を追う」
女神に力仕事を言いつけるとは……と思うかも知れないが、アルテミスはただの女神ではない。狩猟の女神である彼女は大変な怪力の持ち主だった。
だから……
「はい、はい」
アルテミスは苦笑いして、その大きな猪を洞窟まで運んだ。
何しろ、オリオンは狩りに熱中してしまうと、横から口を挟ませない。そんな、生粋の狩人だったのだ。
アルテミスが洞窟に戻っている間のこと。
オリオンは猪をもう一頭、射止めていた。
「よぅし、今日は久しぶりに、腹いっぱいあいつに食わしてやれるぞ」
そう……オリオンは巨漢であるとともに大食家で、そんな彼に遠慮してアルテミスは自分の食い扶持を減らしていた。彼女のそんな気遣いに、オリオンも気付いていたのだった。
だから、彼女が遠慮なくお腹いっぱい食べれるほどに獲物を狩りたい……オリオンがこれほどまでに狩りに熱中する理由には、そんな想いも含まれていたのだった。
上機嫌でその猪を担ぎ、帰ろうとしていた時だった。
「おーい、そこの狩人さん。酒を一杯、飲んで行かんかね?」
オリオンは、大きな酒樽が置かれた小屋の、白髪の老人に呼び止められた。
普段なら少しは怪しむところであるが、その日は大物を二頭も射止めたことで、オリオンの気分は高揚していた。それに丁度、喉も渇いており、体が酒を欲していた頃合いだったのだ。
「一人で飲む酒は、寂しいでのぅ。お前さんのような、逞しい狩人さんが一緒に飲んでくれたら、嬉しいでなぁ」
その白髪の老人は、オリオンにとっても悪い人には見えず……老人の言葉に甘え、その小屋に厄介になったのだった。
小屋で酒を飲むオリオンは、初対面のその老人と珍しく話が弾んだ。普段は初対面の人間とは言葉を交わすことなど殆どないのに、その老人には洗いざらい色々なことを話せて、酒も進んだ。
それは、オリオンの機嫌が良く、酒も入り饒舌になっていたこともあるが……
実はその老人の、人心を掌握する能力によるものだったのだ。
オリオンは気付かなかった。
その老人こそ、ディオニュシオス。瞳を邪悪に黒光りさせた、アポロンの刺客だということに。
酒に泥酔したオリオンが寝ついた途端に、ディオニュシオスはその本性を現した。彼は、あろうことか……オリオンの両眼を抉り取り、盲目にしてしまったのである。
* *
(ここは……どこだ? 俺は、どうしてしまったのだ?)
目が覚めた時には真っ暗だった。
何も見えない、誰も見えない……オリオンは光を失っていたのだ。
(何だ……どうしたんだ、一体?)
何が起こったのか、自分が何をされてこうなったのか、分からない。彼はただ、混乱のあまり茫然としていたのだった。
* *
「オリオン……どうしたんだろう?」
洞窟では、いつまで経っても帰って来ないオリオンの安否をアルテミスが心配していた。
空ではもう太陽が沈みかけ、オレンジ色の夕陽が射していた。
あの猛々しいオリオンに限って、何かあったとは考えにくい。
だけれども、アルテミスは先日の自分の兄……アポロンの、オリオンを睨んだ際の刺すような眼光を思い出した。
思い出しただけで身震いがする。憎悪さえも含んでいるかのような、あの眼光……。
途端に不安で仕方がなくなって。アルテミスは思わず洞窟を出て、森の中をオリオンを探し始めた。
「オリオン! オリオーン!」
アルテミスは探した。森の中を必死になって歩き回った。
オリオンに限って、何事もあるわけがないと信じていた。だけれども……嫌な胸騒ぎが治らなかった。
どのくらい探しただろう。夕陽も沈み、空が紺色に染まりかけていた頃だった。
「オリオン……?」
茂みの奥に茫然と立ち尽くす彼の姿に、アルテミスは目を疑った。それは彼の目の窪み。
いつでもその瞳に闘志の炎をメラメラと燃やしていたオリオンの目は二つともえぐられて無くなっていたのだ。
「どうしたの? どうしたのよ、オリオン!?」
アルテミスは思わずオリオンを抱きしめた。しかし、光を失ったオリオンはそれを危機と感じて振り払う。
「オリオン。私よ……アルテミスよ。オリオン……」
アルテミスはその両の瞳から、溢れんばかりの涙を流し続けたのだった。
光を失ったオリオンと共に、アルテミスは洞窟へと戻った。
しかし、オリオンはまるで廃人と化していて……そんな彼に光を取り戻させるため、アルテミスはアポロン神のもとを訪れた。
「お兄様、お願いします。オリオンの目に光を戻して下さい」
アルテミスは懇願した。その碧く美しい瞳からは涙が両頬を伝って落ちた。
アポロンはオリオンを許さないつもりでいたのだが……アルテミスのその姿に決心は揺らいだ。
だから、彼女に交換条件を出した。
「アルテミス。お前がオリオンの元を去り、金輪際、奴と関わらないと言うのなら、私が太陽の力をもって目を癒そう」
「えっ……」
それはアルテミスにとっては大変につらい選択だった。オリオンと別れてもう関わることができないなんて、身が引き裂かれるほどにつらい。しかし、このままではもうオリオンの目に光が戻ることはない……。
「分かりました、お兄様。私……オリオンの元を去ります。だから、彼の目に光を戻してあげて下さい」
アルテミスは断腸の想いで決断した。
かくして、オリオンの目に光は戻った。
しかし、アルテミスは彼の元を離れて。オリオンは、以前にも増して猛獣のように気性が激しくなった。
それは、自らに近づく者に気を許してはいけない……そう、思い知ったから。そして、彼の近くで支えて、その気持ちを宥めるアルテミスという存在も失ったから。
だから……彼が見ず知らずの少女を近くに置いて一緒に暮らすだなんて、考えられないことだったのだ。
*
「そんなことが……」
オリオンのその、あまりに壮絶な過去に言葉を失った。いや……その神話は幼い頃、父親から聞いていたんだけれど、所々、微妙な箇所が違っていて。
アルテミスの口から聞くと、彼の過去がより強く実感を持って私の胸に染みてきた。
だから、私はとても胸が苦しくなって……目からは涙が溢れ出した。
「やだ、あなた。何を、泣いているの?」
「だって……アルテミスとオリオンの間に、そんな悲しいことがあっただなんて……」
運命に引き裂かれた二人。愛し合っていたのに、悲しすぎる。
だけれども、私はそれよりも……オリオンの過去を聞いて、アルテミスとの絆の深さを知って。それが何とも言えないほどに切なくって、息苦しくて堪らなかったのだ。
すると、そんな私をアルテミスはそっと抱き寄せた。
「大丈夫よ。だって……オリオンにはあなたがいるんだもの」
そう囁いて、にっこりと微笑んだ。
「でも、あたしなんて……」
「私には分かる。ずっと、オリオンと一緒だった私には。あなたと一緒だと、オリオン……とっても幸せそうなのよ」
アルテミスのその言葉に、私の心は落ち着いた。
何故だか分からない……私はオリオンに恋心なんて抱いていないはずなのに。寧ろ、初めて会ってから今まで、悪いイメージしか持っていなかったはずなのに。
オリオンが私と一緒にいると幸せそうだと聞いて……心がとても癒されたのだ。
*
アルテミスの温もりの中で流すだけの涙を流して……気分の落ち着いた時には、空は夕焼けでオレンジ色に染まっていた。
「今日は……どうも、ありがとうございました。知りたかった、オリオンの過去を教えてくれて。それに、泣いてしまって。みっともない姿を見せてしまって、すみません」
「いいえ、いいのよ。そんなことより、あなた……」
アルテミスは、私の纏っている鹿の毛皮をじっと見て。思い立ったように、小屋の奥へと入って行った。
何だろう……そう思っていた私は、彼女の持って来たそれを見て、目を見張った。
「すごい。綺麗なドレス……」
シルク製だろうか。そのドレスは美しい青色で、元の世界でもこんなに綺麗なものは見たことがなくて。
そんなドレスがまさかこの世界で見れるとは思っていなくて、私は感動した。
「差し上げるわ」
「えっ、本当に?」
「ええ」
アルテミスは、長い睫毛の目をふわっと細めた。
「私の一番のお気に入りだったドレス。そう。あのオリオンが、すごく綺麗だと言ってくれた……」
彼女のその笑顔は何処か切なそうで。だけれども、オリオンの元で私がそれを着ることをとても喜んでいる。そんな表情をしていた。
だから……
「ありがとうございます」
私は遠慮なく、それを受け取って。アルテミスはそんな私に、切なくもとても幸せそうな笑顔を見せてくれたのだった。
森を掻き分けて洞窟の近くにまで戻った時には、もうすっかり薄暗くなっていた。アルテミスに教えられた通りに森の中を進んだら、迷うことはなくて……でも何やら、洞窟の周辺を彼が慌てた様子で歩き回っていた。
「オリオン……」
「セナ!」
彼はその目で私を認めた途端、こちらへ駆け寄ってきた。
「何処へ行ってたんだ! 探してたんだぞ……」
そこまで言って……オリオンは私の格好に気付いた。
そう。私が着ていたのは彼の好きなアルテミスの衣装で。彼の頬はほのかに赤く染まったように見えた。
そんな彼が可愛くて。私は思わず、彼の胸に飛び込んだ。
「セ……セナ?」
「オリオン! 心配してくれたのね。嬉しい!」
「何を……急にいなくなったから驚いただけだ」
赤くなってそんな言い訳をする彼はさらに可愛くて。私はぎゅっと彼を抱きしめた。
そう……アルテミスとの悲しい過去があったけれども、彼は今は私のことを見てくれている。それはアルテミスも言ってくれていたし、私自身も実は感じていたんだ。
恋なんてしたことのない私なんだけど、そのことがとても嬉しくて……温かい想いが私の胸に流れ込んできて。私は何だか、とても幸せな気持ちになったのだった。
「ねぇ、オリオン。今日は何を狩りに行く?」
狩猟の女神であるアルテミスと、狩りの達人であるオリオンは、かつて、あの洞窟で一緒に暮らしていた。
「熊だな。三日月模様のあいつ、昨日は取り逃がしたからな」
「あら、私がいればそんなヘマはしなかったのに。置いて行ってしまうからでしょう」
「たわけ。お前は支度に時間がかかりすぎるのだ」
オリオンはいつものようにムスッと、無愛想に言い放つ。
「仕方ないじゃない。私だって、これでも女神なんだから」
「狩猟にそんなに派手な衣装は要らん。鹿の皮で充分だ」
オリオンはアルテミスの着ている翡翠色のシルクの服を見て、顔をしかめた。
「はい、はい。今日はもう、支度は済んだから。行くわよ!」
「ったく……ほら、出るぞ」
弓矢を背負うアルテミスに、オリオンはぶっきら棒に言い放つ。
しかし、恋人であるアルテミスには分かる。彼の表情はまんざらでもなかった。そう……オリオンのその様子は、恋人である彼女に完全に心を許してこその振る舞いだったのだ。
そんな彼と一緒に暮らすことは、アルテミスにとっては楽しくて仕方がなかった。ずっと、彼とこんな風に過ごしていける……彼女はそう、信じていた。
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「ほら、ね。私がいれば、一発で仕留められるでしょ」
大きな熊を背負うオリオンに、アルテミスは得意げに話しかける。
「ふん。今日は俺一人でも、充分に仕留められたわ」
「あら、大人気ないわね。あなたの狩りには、繊細さがないのよ」
そんなことを話しながら洞窟へ帰る道中……二人は思わず、立ち止まった。
肌にビシビシと感じる、ただならぬ気配。アルテミスはそのオーラに覚えがあった。
「アポロン兄さん……」
そう。まるで二人の行く手を遮るかのように、アルテミスの兄、アポロン神が睨みをきかせていたのだ。
「アルテミス。お前、まだそんな野蛮な男と行動を共にしていたのか」
その鋭く刺すような声が響いた。
「あら、兄さんには関係ないじゃない。この人……オリオンは、私の恋人よ。いずれは結婚するの」
「馬鹿をぬかせ。我々は誉れ高き、ゼウスの子。このような粗暴な者との交際は、断じて許さぬ」
アポロンは眉間に皺を寄せ、青白く、刺すような眼光をオリオンに向けた。
そう……アルテミスがオリオンと共に暮らしていることは、アポロン神に快く思われていなかった。オリオンの性格を乱暴だと思い込んで嫌い、また、純潔を司る守護神・アルテミスに恋愛は許されないとして二人の仲を認めなかったのだ。
しかし、アルテミスはそれに屈しなかった。
「お兄さんが何と言おうと、私、オリオンが好きなの。これからもずっと、オリオンと一緒に生きていくの。お願いだから、邪魔しないでよ」
アルテミスはきっぱりとそう言い、オリオンの手を引き足早に去った。
さしものオリオンでも大きな熊を背負っていたため、速くは走れなかったけれど……アポロンは追って来る気配はなかった。
「アルテミス。大丈夫なのか? お前の兄だろ?」
オリオンは柄にもなく心配した様子を見せていたけれど。
「大丈夫よ。女神とは言っても……私、自分の好きなように生きるの」
アルテミスは意志が固く、オリンポス十二神の兄が相手でも決して折れなかった。
それから、暫くは何事もない平穏な日々が続いた。いや、オリオンと過ごす日々は平穏と言えるものではないけれど……そんな、アルテミスにとって楽しくって仕方がない毎日を邪魔する者はいなかった。
しかし、アポロンは水面下で画策していた。
キオス島の王、オイノピオンにオリオンの冤罪を吹き込んだのだ。
そう……オリオンは以前、キオス島に立ち寄ったことがあった。その際に、酒に酔った勢いでオイノピオンの娘であるメロペーを暴行したという話をでっち上げたのだ。
オリオンがキオス島に立ち寄ったのはアルテミスと出会う前のことであり、その話は無実無根のことだったのだが……オイノピオンはアポロンの言うことを信じ、憤慨した。
そして、オイノピオンは酒の神であるディオニュソスに頼み、恐ろしい計画を立てたのだ。
その日も、オリオンとアルテミスは共に狩りに出ていた。その二人のコンビネーションによる狩りは素晴らしく、瞬く間に大きな猪を狩り獲った。
「アルテミス。この獲物を洞窟に持ち帰っていろ。俺はもう少し、獲物を追う」
女神に力仕事を言いつけるとは……と思うかも知れないが、アルテミスはただの女神ではない。狩猟の女神である彼女は大変な怪力の持ち主だった。
だから……
「はい、はい」
アルテミスは苦笑いして、その大きな猪を洞窟まで運んだ。
何しろ、オリオンは狩りに熱中してしまうと、横から口を挟ませない。そんな、生粋の狩人だったのだ。
アルテミスが洞窟に戻っている間のこと。
オリオンは猪をもう一頭、射止めていた。
「よぅし、今日は久しぶりに、腹いっぱいあいつに食わしてやれるぞ」
そう……オリオンは巨漢であるとともに大食家で、そんな彼に遠慮してアルテミスは自分の食い扶持を減らしていた。彼女のそんな気遣いに、オリオンも気付いていたのだった。
だから、彼女が遠慮なくお腹いっぱい食べれるほどに獲物を狩りたい……オリオンがこれほどまでに狩りに熱中する理由には、そんな想いも含まれていたのだった。
上機嫌でその猪を担ぎ、帰ろうとしていた時だった。
「おーい、そこの狩人さん。酒を一杯、飲んで行かんかね?」
オリオンは、大きな酒樽が置かれた小屋の、白髪の老人に呼び止められた。
普段なら少しは怪しむところであるが、その日は大物を二頭も射止めたことで、オリオンの気分は高揚していた。それに丁度、喉も渇いており、体が酒を欲していた頃合いだったのだ。
「一人で飲む酒は、寂しいでのぅ。お前さんのような、逞しい狩人さんが一緒に飲んでくれたら、嬉しいでなぁ」
その白髪の老人は、オリオンにとっても悪い人には見えず……老人の言葉に甘え、その小屋に厄介になったのだった。
小屋で酒を飲むオリオンは、初対面のその老人と珍しく話が弾んだ。普段は初対面の人間とは言葉を交わすことなど殆どないのに、その老人には洗いざらい色々なことを話せて、酒も進んだ。
それは、オリオンの機嫌が良く、酒も入り饒舌になっていたこともあるが……
実はその老人の、人心を掌握する能力によるものだったのだ。
オリオンは気付かなかった。
その老人こそ、ディオニュシオス。瞳を邪悪に黒光りさせた、アポロンの刺客だということに。
酒に泥酔したオリオンが寝ついた途端に、ディオニュシオスはその本性を現した。彼は、あろうことか……オリオンの両眼を抉り取り、盲目にしてしまったのである。
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(ここは……どこだ? 俺は、どうしてしまったのだ?)
目が覚めた時には真っ暗だった。
何も見えない、誰も見えない……オリオンは光を失っていたのだ。
(何だ……どうしたんだ、一体?)
何が起こったのか、自分が何をされてこうなったのか、分からない。彼はただ、混乱のあまり茫然としていたのだった。
* *
「オリオン……どうしたんだろう?」
洞窟では、いつまで経っても帰って来ないオリオンの安否をアルテミスが心配していた。
空ではもう太陽が沈みかけ、オレンジ色の夕陽が射していた。
あの猛々しいオリオンに限って、何かあったとは考えにくい。
だけれども、アルテミスは先日の自分の兄……アポロンの、オリオンを睨んだ際の刺すような眼光を思い出した。
思い出しただけで身震いがする。憎悪さえも含んでいるかのような、あの眼光……。
途端に不安で仕方がなくなって。アルテミスは思わず洞窟を出て、森の中をオリオンを探し始めた。
「オリオン! オリオーン!」
アルテミスは探した。森の中を必死になって歩き回った。
オリオンに限って、何事もあるわけがないと信じていた。だけれども……嫌な胸騒ぎが治らなかった。
どのくらい探しただろう。夕陽も沈み、空が紺色に染まりかけていた頃だった。
「オリオン……?」
茂みの奥に茫然と立ち尽くす彼の姿に、アルテミスは目を疑った。それは彼の目の窪み。
いつでもその瞳に闘志の炎をメラメラと燃やしていたオリオンの目は二つともえぐられて無くなっていたのだ。
「どうしたの? どうしたのよ、オリオン!?」
アルテミスは思わずオリオンを抱きしめた。しかし、光を失ったオリオンはそれを危機と感じて振り払う。
「オリオン。私よ……アルテミスよ。オリオン……」
アルテミスはその両の瞳から、溢れんばかりの涙を流し続けたのだった。
光を失ったオリオンと共に、アルテミスは洞窟へと戻った。
しかし、オリオンはまるで廃人と化していて……そんな彼に光を取り戻させるため、アルテミスはアポロン神のもとを訪れた。
「お兄様、お願いします。オリオンの目に光を戻して下さい」
アルテミスは懇願した。その碧く美しい瞳からは涙が両頬を伝って落ちた。
アポロンはオリオンを許さないつもりでいたのだが……アルテミスのその姿に決心は揺らいだ。
だから、彼女に交換条件を出した。
「アルテミス。お前がオリオンの元を去り、金輪際、奴と関わらないと言うのなら、私が太陽の力をもって目を癒そう」
「えっ……」
それはアルテミスにとっては大変につらい選択だった。オリオンと別れてもう関わることができないなんて、身が引き裂かれるほどにつらい。しかし、このままではもうオリオンの目に光が戻ることはない……。
「分かりました、お兄様。私……オリオンの元を去ります。だから、彼の目に光を戻してあげて下さい」
アルテミスは断腸の想いで決断した。
かくして、オリオンの目に光は戻った。
しかし、アルテミスは彼の元を離れて。オリオンは、以前にも増して猛獣のように気性が激しくなった。
それは、自らに近づく者に気を許してはいけない……そう、思い知ったから。そして、彼の近くで支えて、その気持ちを宥めるアルテミスという存在も失ったから。
だから……彼が見ず知らずの少女を近くに置いて一緒に暮らすだなんて、考えられないことだったのだ。
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「そんなことが……」
オリオンのその、あまりに壮絶な過去に言葉を失った。いや……その神話は幼い頃、父親から聞いていたんだけれど、所々、微妙な箇所が違っていて。
アルテミスの口から聞くと、彼の過去がより強く実感を持って私の胸に染みてきた。
だから、私はとても胸が苦しくなって……目からは涙が溢れ出した。
「やだ、あなた。何を、泣いているの?」
「だって……アルテミスとオリオンの間に、そんな悲しいことがあっただなんて……」
運命に引き裂かれた二人。愛し合っていたのに、悲しすぎる。
だけれども、私はそれよりも……オリオンの過去を聞いて、アルテミスとの絆の深さを知って。それが何とも言えないほどに切なくって、息苦しくて堪らなかったのだ。
すると、そんな私をアルテミスはそっと抱き寄せた。
「大丈夫よ。だって……オリオンにはあなたがいるんだもの」
そう囁いて、にっこりと微笑んだ。
「でも、あたしなんて……」
「私には分かる。ずっと、オリオンと一緒だった私には。あなたと一緒だと、オリオン……とっても幸せそうなのよ」
アルテミスのその言葉に、私の心は落ち着いた。
何故だか分からない……私はオリオンに恋心なんて抱いていないはずなのに。寧ろ、初めて会ってから今まで、悪いイメージしか持っていなかったはずなのに。
オリオンが私と一緒にいると幸せそうだと聞いて……心がとても癒されたのだ。
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アルテミスの温もりの中で流すだけの涙を流して……気分の落ち着いた時には、空は夕焼けでオレンジ色に染まっていた。
「今日は……どうも、ありがとうございました。知りたかった、オリオンの過去を教えてくれて。それに、泣いてしまって。みっともない姿を見せてしまって、すみません」
「いいえ、いいのよ。そんなことより、あなた……」
アルテミスは、私の纏っている鹿の毛皮をじっと見て。思い立ったように、小屋の奥へと入って行った。
何だろう……そう思っていた私は、彼女の持って来たそれを見て、目を見張った。
「すごい。綺麗なドレス……」
シルク製だろうか。そのドレスは美しい青色で、元の世界でもこんなに綺麗なものは見たことがなくて。
そんなドレスがまさかこの世界で見れるとは思っていなくて、私は感動した。
「差し上げるわ」
「えっ、本当に?」
「ええ」
アルテミスは、長い睫毛の目をふわっと細めた。
「私の一番のお気に入りだったドレス。そう。あのオリオンが、すごく綺麗だと言ってくれた……」
彼女のその笑顔は何処か切なそうで。だけれども、オリオンの元で私がそれを着ることをとても喜んでいる。そんな表情をしていた。
だから……
「ありがとうございます」
私は遠慮なく、それを受け取って。アルテミスはそんな私に、切なくもとても幸せそうな笑顔を見せてくれたのだった。
森を掻き分けて洞窟の近くにまで戻った時には、もうすっかり薄暗くなっていた。アルテミスに教えられた通りに森の中を進んだら、迷うことはなくて……でも何やら、洞窟の周辺を彼が慌てた様子で歩き回っていた。
「オリオン……」
「セナ!」
彼はその目で私を認めた途端、こちらへ駆け寄ってきた。
「何処へ行ってたんだ! 探してたんだぞ……」
そこまで言って……オリオンは私の格好に気付いた。
そう。私が着ていたのは彼の好きなアルテミスの衣装で。彼の頬はほのかに赤く染まったように見えた。
そんな彼が可愛くて。私は思わず、彼の胸に飛び込んだ。
「セ……セナ?」
「オリオン! 心配してくれたのね。嬉しい!」
「何を……急にいなくなったから驚いただけだ」
赤くなってそんな言い訳をする彼はさらに可愛くて。私はぎゅっと彼を抱きしめた。
そう……アルテミスとの悲しい過去があったけれども、彼は今は私のことを見てくれている。それはアルテミスも言ってくれていたし、私自身も実は感じていたんだ。
恋なんてしたことのない私なんだけど、そのことがとても嬉しくて……温かい想いが私の胸に流れ込んできて。私は何だか、とても幸せな気持ちになったのだった。
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