木の上のティアラ

いっき

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「西山動物園に来るのも久しぶりだなぁ」
久しぶりに鯖江市の実家に帰って来た僕は自然にここ、西山動物園へ足が向いた。
日本一小さいとも言われるこの動物園は、僕が生まれた昭和六十年に開園した。入場料も無料なので、僕は小学校の頃から休みの日には両親とともにここへ遊びに来ていたのだ。
「レッサーパンダの看板……昔っから何も変わらない。相変わらず、可愛らしいな」
 僕は懐かしいそれをしみじみと見て微笑んだ。子供の頃はこの看板を見るといつも、西山動物園のシンボルであるレッサーパンダに会えることにワクワクと心躍らせたものだ。
 緑広がる西山公園、美しく咲き乱れるツツジのピンクのグラデーション……子供の頃から見てきた鯖江の風景に触れると、僕はほっと安心する。なぜなら、この土地は僕が一番「家族」を感じることができる場所だから。
 僕は実家のある鯖江を離れ、関西の大学へ通った。そして、その都会で知り合った女性と結婚した。
 しかし、結婚生活はうまくいかなかった。看護師として働く前妻は帰宅が遅く、休みの日も合わなかったのですれ違いの日々が続いた。それを見かねた前妻の母親が一緒に住むことになったのだが、僕とは折り合いが合わずで……そんな調子だったので段々と夫婦の仲も冷めてゆき、この春に離婚したのだ。
 離婚してしばらくは特に何も変わらない日々が続いたが、一人の生活に慣れるにつれて、心にぽっかりと大きな穴が開いたような、言い様のない虚無感に襲われるようになった。それを埋めるために……少しでも心を紛らわすために。僕は昨日から、鯖江の実家に帰省していたのだった。
「あの時は……楽しかったな」
 僕は未練がましくも、前妻と一緒にこの動物園を訪れた時のことを思い出していた。前妻は可愛い動物には目がなくて、やはりレッサーパンダにもベタ惚れで。きっと、自分達の子供とも一緒にここを訪れることができるだろう……そう思っていた。
 そんなことを考えていると、この土地を訪れた目的に反して、胸の中に虚しさが込み上げてきた。
 そんな時だった。
「お兄さん。そんな所で何をぼぉっとしてるの?」
 不意に声を掛けられた。
 はっとした僕は、辺りを見回した。でも、僕の周りは緑色の木やピンクのツツジ……そんな豊かな自然の風景が広がっているだけで。どこにも、誰も見当たらなかった。
「ちょっと、お兄さん。どこを探してるのよ。そんな所には誰もいないって!」
 少し笑いを含んだその声は上……僕の上から聞こえてきた。
「まさか……」
 そう思ったけれど、僕は上を見上げてみた。
「やっと、見つけてくれたね!」
 木の上の彼女を見つけた僕は目を疑った。
 僕と同じくらい……いや、やや若い?
 二十歳代くらいの可愛らしい女性が木の上から僕を見下ろして、悪戯な笑みを浮かべていたのだ。
「いや、ちょっと……危ないって。降りて来なよ!」
 僕は焦って声をかけた。しかし……
「だぁいじょうぶだって! 木の上って、気持ちいいよ!」
 木の上で柔らかい陽射しに照らされた彼女は、そよそよと風に吹かれて気持ちよさげに目を瞑った。
 そんな彼女の姿は何ともいえない魅力があって。僕は子供の頃に忘れてしまったワクワクやドキドキ……上手く言葉にできないけれど、そんなものを思い出した。
「あなたも、登っておいでよ。嫌なことなんて、全部忘れられるんだから」
「え、でも……」
 そう言いながらも僕は、彼女のいる場所まで登ってみたい……そこから見える景色は、さぞかし美しいんだろうな。そんなことを考えてしまった。
「ほら、早く!」
「うん……」
 僕は恐る恐るその木に登った。高くて怖いと思っていたけれど、登ることは案外、たやすくて。
「ほら!」
 差し出された彼女の手に掴まって、ついに木のてっぺんまでたどり着いた。
「わぁ、綺麗。気持ちいい」
 木のてっぺんから見る僕の生まれ故郷、鯖江の町はとても美しかった。綺麗な街並みに緑色の自然、ピンク色のツツジ……彼女の言うとおり、本当に嫌なこと全てを忘れることのできる場所だった。
「ねぇ、名前は?」
 僕はその、どこか不思議な……だけれども魅力あふれる女性に聞いてみた。
「私? 私はティアラ」
「ティアラ……すごい名前だな」
「そう? 普通だと思うけど」
 僕は彼女の顔をまじまじと見た。
 タヌキ顔のつぶらな瞳に逆三角形の目鼻立ち。何だかこの顔、どこかで見たような気がする。
「何? じろじろ見て」
 ティアラは眉をひそめてこちらを見た。
「いや……どこに住んでいるの?」
 言ってから、「これじゃあまるで、ナンパをしてるみたいだな」と思って苦笑いした。まぁ、今は独り身なので、それも一向に構わないことだけれど。
「私は西山動物園」
「えっ、動物園?」
「そう。今、家出中なんだ」
「家出って。ティアラは何歳なの?」
 僕はどう見ても二十歳代にしか見えない彼女に尋ねた。
「私は三歳よ」
「ははっ。何だかよく分からない冗談だけど、笑ってあげるよ」
 変わった娘だなぁ……そう思った。
 だけれども、話していると何だかとても懐かしくて。まるで初恋のようなときめきが僕の中に湧き上がってきた。
「そういえばさっき。どうしてぼぉっと、あんなに悲しそうな顔をしていたの?」
 お話が弾んできて、彼女は僕に尋ねた。すると僕の心にぽっかりと開いた穴が、湧き上がっていたときめきを吸い込み始めた。
「僕は……一人なんだ。支えになっていた人と別れてしまったから」
 口に出して言ってしまうと、何だか無性に辛くて苦しくなって。僕の目からは大粒の雨がボロボロと零れ落ちた。こんなみっともない姿、とても人に見せられるものじゃないけれど。ティアラの前では不思議なことに、僕は僕でいることができた。
 するとティアラは僕の頭をそっと撫でてくれて。そよ風が吹く木の上で僕は、彼女の心の温もりを感じることができたんだ。
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