悪役会計様に転生した俺は、生徒会長に媚び売って生き残る

桜城 寧

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第2部

5 義兄弟

静寂の中で、重なり合う鼓動の速さが、薄暗闇の中で波紋のように伝わり、沈黙をいっそう重く塗りつぶしていく。

わずかに身じろぎすれば、触れ合う肌の熱に思考が焼き切られそうだった。

「多分勘違いしてるだろうから言いますけど、僕は兄上のこと、兄として見たことなんて一度もないですよ」

静かな口調とは裏腹に、その言葉は心に深く突き刺さった。

義理だとしても今まで兄弟だと思って接してきた俺を、ずっと馬鹿にして見ていたのか。
一瞬で胸の奥が冷え、唖然として言葉が出なくなる。

「あー、言い方が悪かったですね。兄上を悲しませたいわけじゃないんです。僕が言いたいのは、そういうことじゃない」

「……じゃあ、どういうことなの?」

「こういうこと」

そう言った瞬間、音を発した唇ごと塞がれた。
問いを奪うような口づけ。

「僕からは言わないから、自分で考えてみて?」

意味が分からない。頭が混乱する。
兄弟ではない、なにか。

そのことを考えていたとき、急に足元からドロリとした重い影が這い上がってきた。
蛇のように足首に絡みつき、手首をロッカーの壁へ縫い留める。

「な、なんだこれ、待って……これ、動けな――」

もしかして、イオの能力か。ゲームでは見なかった力だ。

能力は誰でも持っているわけではないから、イオが使えるとは思わなかった。

影で拘束されながらも抵抗しようとする俺の足の間に、イオは迷わず自分の膝を割り込ませる。

「離して」と震える声で言う俺を、彼は耳元で低く熱を帯びた声で囁いた。

「カイが外で振りまいてる愛想、全部僕が塗りつぶしてやりたい。……弟だと思って油断してた分、覚悟してね」

ぞくりと背筋が震える。

「だからさ、君の全部を教えて。そして、僕を知って」

その言葉は、かつて言われた言葉と重なって聞こえて、記憶の奥底に眠っていた景色を思い出した。

---

侯爵家に拾われた俺と、正統な後継者であるイオ。

初めて与えられた自室は広すぎて、静かすぎて、落ち着かなかった。
柔らかな寝台に横になりながらも、天井を見つめたまま眠れない夜が続いた。
ここは俺の居場所じゃない、と身体が覚えているみたいだった。

そんな俺に、イオは言った。

「カイル。僕たち、せっかく兄弟になったんだ。お互いのことを教え合わない?」

まっすぐな瞳だった。
貴族らしい気品をまといながらも、どこか不安を隠しているような、寂しさを滲ませた目。

イオは貴族としての礼儀や学問を教えてくれた。
紅茶のカップの持ち方、舞踏会での足運び。
歴史や政治の話をする横顔は誇らしげで、俺は知らない世界に触れるたび胸がざわめいた。

一方で、俺が教えられるのはスラム街での知恵だけだった。

相手の視線の揺れで嘘を読むこと。
刃物を隠している人間の歩き方。
媚びる相手と、逃げる相手の選び方。

「くだらないだろ。貴族様には必要ない」

自嘲気味にそう言うと、イオはすぐに首を振った。

「くだらなくなんかない」

その声は強かった。

「君は、それで生きてきたんだろう?」

胸の奥が、ぎゅっと掴まれたみたいに痛んだ。

スラムで生き延びるために、盗みも、騙しもした。
それは隠すべき過去で、消すべき汚れだと思っていた。

でもイオは、目を輝かせながら続きを促した。

「もっと聞かせてよ。君の見ている世界を、僕は知らない」

嘲りも軽蔑もない。
ただ、知りたいという純粋な欲求。

もしイオが平民を蔑む貴族だったら、俺は何も話さなかっただろう。でも彼は違った。

否定されない。
過去を切り捨てられない。

それだけで、こんなにも心がほどけるなんて知らなかった。

イオは光の中で育った人間で、
俺は影で生き延びた屑だ。

本来なら、交わるはずのない世界。

それでも隣に立つことを許されている今の方が居心地が良くて。

「兄上」

そう呼ばれるたび、胸の奥が甘く軋む。

迷いを含んだ、それでいて決意を宿した瞳。

そして、そっと俺の名を呼ぶ。

「カイル。僕のことを教えるから、君のことも全部を教えて。」


---

あの頃の「教えて」は、兄弟として距離を縮めるための言葉だった。
けれど今は違う。

――今の自分を見ろ、と言っている。

「安心して?触ってるのは僕の手じゃなくて、影だから」

「能力なのは分かった、けど、関係ない。やめて、こんなところで……」

「え?ここじゃなければいいの?」

くす、と余裕を含んだ笑い。
いつものイオじゃない。
能力が彼の奥底をこじ開け、本音をむき出しにしているみたいだった。

「こうすれば、少しは僕を意識してくれる?」

影が指先で触れるかのように、首筋から鎖骨へ、ゆっくりと、確かめるように滑り落ちる。
ぞわ、と鳥肌が立って、思考が乱れる。

拘束されている両手首がきしむ。
振り払おうとしても、影が絡みつき、さらに強く締め上げる。

「……やめろ……」

声が掠れる。
恐怖なのか、別の何かなのか、自分でも分からない震えが喉を塞ぐ。

「やめない。僕を1人の人間として見るまでね」

耳朶に触れそうな距離で囁かれ、鼓動が跳ね上がる。
近すぎる体温。けれど直接身体に触れているのは影だけだという事実が、余計に現実味を奪う。

服の隙間から忍び込む冷たい感触。
腹部を、脇腹を、這うように撫で上げられ、思考が白く飛ぶ。

「……何、これ……っ」

狭いロッカーに暗い視界の中で。
影が蠢くように肌に直接触れるたびに、感覚だけが鋭くなって、思わずびくり、と肩が跳ねる。
自分のものじゃないみたいに身体が反応する。

「カイ、震えてる」

愉しむような声。

「やめてくれ……変な感じ、するから……」

必死に言葉を絞り出す。
でも影は止まらない。

「そう?ねぇ、僕には素の顔を見せて?」

額が触れそうな距離。
闇の中で、イオの瞳だけが微かに光っている気がした。

家族という殻を壊そうとするように、彼は距離を詰める。

「もう『弟』だってこと、忘れさせてあげる」

その言葉が落ちた瞬間――心臓が、嫌な音を立てた。

「……っ」
視界が滲む。

自分でも気づかないうちに、涙がこぼれていた。
ぽたり、とイオの肩に落ちる。

「……え?」
彼の声が揺らぐ。

次の瞬間、影が霧のように散った。
手首を縛っていた圧が消え、膝から崩れ落ちる。

暗闇の中でも分かる。
自分の顔が、恐怖で歪んでいる。
情けなく、震えている。

「あ……ちがっ、兄上、ごめんなさい……どうかしてた……」

さっきまでの余裕は跡形もない。
慌てて腕が伸び、抱き寄せられる。

温かい。ちゃんと、人の体温だった。

「……ただ、こっち向いてほしくて……」

掠れた声。
その必死さが、胸を締めつける。

「……イオの、ばか……」

弱く胸を叩く。拳に力は入らない。

震える指が、涙を拭おうと頬に触れかける。
反射的に、その手を払ってしまった。
ぱし、と乾いた音。

「……兄上……ごめんなさい、僕……」

謝罪の言葉。
けれど、イオが一歩引こうとしたその瞬間――

彼は、低く言った。

「でも、これだけは覚えておいてください」

再び詰められる距離。
逃げ場を塞ぐ影はもうないのに、足が動かない。

「僕は、兄上が思っているような可愛い弟じゃない。一人の男です。忘れないでください。」

息がかかるほど近く。

「……次は、泣いても止めません」

ロッカーの扉が、ぎい、と軋んで開く。
外の冷たい空気が流れ込み、汗ばんだ肌を撫でた。

去っていく背中。
残された狭い空間で、俺は動けない。

手首にはまだ締めつけられていた感覚が残り、首筋には触れられた軌跡が熱を帯びている。

心臓の音だけが、やけに大きく、
やけに生々しく、耳の奥で鳴り続けていた。



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