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第五章
十六話
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ふと顔を上げると、カーテンの隙間から差し込む光はもう傾きかけていた。時計を確認すると、すでに14時を回っている。急ごう、と瞬を促す。
サリーの憎しみばかりだった手記は、
「今日、瞬は初めて私のことをママと呼んだ」
という一言を境に少しずつ愛情が滲んでいく。今日はつかまり立ちをした。今日は3歩だけだけれど歩いた。
まるでどこの家庭でもつけているような、育児日記に変わっていく。
読んでいるこちらが気恥ずかしくなるほどの愛情に包まれた暖かな文章に、瞬の目が涙で霞む。
そしてサリーは瞬が変身してしまうことを恐れ始める。ペンタゴンに瞬を連れて行ったことを激しく後悔し、幼い瞬を連れて逃げるように日本に渡った。当時の瞬はまだ2歳。言葉を急速に覚え始めた瞬に、サリーは丁寧にコマンドを教えて行った。Subとしての本能が及ばない部分にも影響を与えるように、実に丁寧に躾けていく。
「変身しないで──お願い。ママが守れる瞬でいて」
サリーが瞬に毎日投与していたのは、コルチゾールの抑制剤だったのだ。どうにかして変身を妨げるように──ペンタゴンに連れて行かれることのないように。
元よりサリーの言葉など真に受けてはいない米軍がわざわざ日本まで瞬を連れに来ることなどないのは少し考えればわかることなのに、それでもサリーは強迫観念にとらわれたかのように瞬を洗脳していく。
満月に怯えさせることでストレス値を管理していたのも安曇の予想通りだった。万が一変身してしまったとしても、満月の時には身を隠せと教えていればうまく逃げおおせるかもしれない。サリーはそう考えたのだ。全ては瞬を守るため、ただそれだけのためだった。
そして、瞬が10歳を迎えたあの日……サリーの努力も虚しく変身してしまった瞬の姿に、手記はこう綴ってしばらく白紙になった。
「どうにかして守りたかったの。でも無理だった、私がこんなことを始めてしまわなければ、この子はこんな目に遭わなかったのに。全部私のせい、もうダメなの」
書きながら涙を落としたと思われる紙の凹凸に指を滑らせて、瞬が小さく呟いた。
「何もダメじゃなかったのに。母さんがいてくれたら俺はそれでよかったのに……」
数年間白紙が続いた手記は、5年前から唐突に再開していた。
その中では、置き去りにした本物の瞬の代わりにいつまでも歳を取らない7歳の少年が出てくる。
彼女は全ての記憶に蓋をして、今もまだ夢の世界で瞬を育てていた。
夢の中の瞬は変身することもなく、サリーをママと呼んで慕っている。
サリーもまた全身全霊でその幻の瞬を愛している。
最後の手記をパタンと閉じ、忍は瞬を見やる。
瞬の頬を透明な光が滑り落ちた。ちらりとそのまま繋がっているアトリエを振り返る。布団の上で寝息を立てている、少女のような女性に歩み寄り、そっと膝をついた。
Sub spaceからそのまま眠りについた女性に、真実を知らせる必要性がわからなかった。
少なくとも彼女は今も瞬を愛し、夢の中で贖罪を続けている。父親への妄執と瞬への深い愛情という二つの顔を持った女性は、瞬を選んだのだ。
そっとその髪を一房掬い取り、口付ける。
「さよなら。俺の最初の飼い主……」
忍と共にアトリエを後にする瞬に、先ほどの隣人が「起きるまで待ってご飯でも食べて行ったらいいのに」というのを丁重に断る。
石垣の間を縫うように走る車の中で、瞬は忍に一言、
「ありがとう。来てよかった」
と呟いた。
サリーの憎しみばかりだった手記は、
「今日、瞬は初めて私のことをママと呼んだ」
という一言を境に少しずつ愛情が滲んでいく。今日はつかまり立ちをした。今日は3歩だけだけれど歩いた。
まるでどこの家庭でもつけているような、育児日記に変わっていく。
読んでいるこちらが気恥ずかしくなるほどの愛情に包まれた暖かな文章に、瞬の目が涙で霞む。
そしてサリーは瞬が変身してしまうことを恐れ始める。ペンタゴンに瞬を連れて行ったことを激しく後悔し、幼い瞬を連れて逃げるように日本に渡った。当時の瞬はまだ2歳。言葉を急速に覚え始めた瞬に、サリーは丁寧にコマンドを教えて行った。Subとしての本能が及ばない部分にも影響を与えるように、実に丁寧に躾けていく。
「変身しないで──お願い。ママが守れる瞬でいて」
サリーが瞬に毎日投与していたのは、コルチゾールの抑制剤だったのだ。どうにかして変身を妨げるように──ペンタゴンに連れて行かれることのないように。
元よりサリーの言葉など真に受けてはいない米軍がわざわざ日本まで瞬を連れに来ることなどないのは少し考えればわかることなのに、それでもサリーは強迫観念にとらわれたかのように瞬を洗脳していく。
満月に怯えさせることでストレス値を管理していたのも安曇の予想通りだった。万が一変身してしまったとしても、満月の時には身を隠せと教えていればうまく逃げおおせるかもしれない。サリーはそう考えたのだ。全ては瞬を守るため、ただそれだけのためだった。
そして、瞬が10歳を迎えたあの日……サリーの努力も虚しく変身してしまった瞬の姿に、手記はこう綴ってしばらく白紙になった。
「どうにかして守りたかったの。でも無理だった、私がこんなことを始めてしまわなければ、この子はこんな目に遭わなかったのに。全部私のせい、もうダメなの」
書きながら涙を落としたと思われる紙の凹凸に指を滑らせて、瞬が小さく呟いた。
「何もダメじゃなかったのに。母さんがいてくれたら俺はそれでよかったのに……」
数年間白紙が続いた手記は、5年前から唐突に再開していた。
その中では、置き去りにした本物の瞬の代わりにいつまでも歳を取らない7歳の少年が出てくる。
彼女は全ての記憶に蓋をして、今もまだ夢の世界で瞬を育てていた。
夢の中の瞬は変身することもなく、サリーをママと呼んで慕っている。
サリーもまた全身全霊でその幻の瞬を愛している。
最後の手記をパタンと閉じ、忍は瞬を見やる。
瞬の頬を透明な光が滑り落ちた。ちらりとそのまま繋がっているアトリエを振り返る。布団の上で寝息を立てている、少女のような女性に歩み寄り、そっと膝をついた。
Sub spaceからそのまま眠りについた女性に、真実を知らせる必要性がわからなかった。
少なくとも彼女は今も瞬を愛し、夢の中で贖罪を続けている。父親への妄執と瞬への深い愛情という二つの顔を持った女性は、瞬を選んだのだ。
そっとその髪を一房掬い取り、口付ける。
「さよなら。俺の最初の飼い主……」
忍と共にアトリエを後にする瞬に、先ほどの隣人が「起きるまで待ってご飯でも食べて行ったらいいのに」というのを丁重に断る。
石垣の間を縫うように走る車の中で、瞬は忍に一言、
「ありがとう。来てよかった」
と呟いた。
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