聖灰と守護者は眠る

おシオ

文字の大きさ
上 下
3 / 5

2.明かりを灯すように

しおりを挟む

 大陸を縦断する山脈の途切れる箇所、南のフィニオル平野は人も魔物も住みやすく移動しやすい要衝として、得てして激戦の地となる因縁の場所であった。
 それから数百年、あるいは数千年経ち、人々が結界の魔術を開発し実用化してからは、この地を収めていた当時の諸侯により平野が奪還されて以来、人間の勝利と繁栄の証として巨大な白の尖塔を中心とした都市が形成され、人々の行き交う交易の要所として拡大の一途を辿っていた。これが、南随一と名高い都、サンザロッサである。都市の始まり自体の歴史は浅く、比較的新しいそれなので、街並みも近代的な石と混泥壁の固めものが多く、地方の伝統ある風景とは一線を画した無機質な塩の結晶の群れのようであった。
 街の拡大を妨げるものとして各都市にみられるような市街地に密接した防衛用途の塀は存在せず、市街地の端から更に馬の速足で十分ほどの位置にいよいよ高い防壁が築かれている。この範囲を結界範囲及び都市中心部と定義し、その外側は魔物も跋扈する山間部と整備され警備兵の立つ道が伸びている。ここまで大きいと国の直轄地として商業特区、経済特区に指定され、免税を目的としたここに本部を置く商会も多い。それは、法人の全国冒険者協会も同様であった。
 この日、ビジネス街の郊外にある石造りの協会中央西支部は、静かなざわめきで満ちていた。行政の建物はヴァイタルマーク周りの大公園に沿うように乱立しているが、その分魔術的干渉が多く場を乱しかねないという理由で協会支部はそこにはない。冒険者(戦士職、魔術師職、神官職の三大資格職のいずれかを有する、あるいは志す、あるいは何かしらで一枚噛んでいる者を総じた名称)のための商店や宿屋や酒場が集まる西区の中心にあった方が、遥かに便利で地価も安く、都市計画にも沿っていて都合が良かった。
 その何の変哲もない二階建ての施設、奥の会議室には十数人の人々が集まっていた。
 男は溜息をついて、壁掛けの絡繰り時計から目を離す。一瞥してみても、歳や髪の色、いで立ちや醸し出す雰囲気など、あらゆるものが異なっていたが、彼らは一様にむすりとした顔つきで机に向かっている。外見から発される威圧感もさることながら、やっと中堅に浸かった彼にとっては、貫禄ある佇まいが板についた先達らにはどうしても一歩引いてしまう。それもその筈で、彼らは一人残らず資格職の最高位、称号持ちとして現役なのである。実力と経験に裏打ちされた自信は、彼らを一回りも二回りも大きく見せている。
 男は臙脂色の髪をガジガジと掻いてから、徐に立ち上がった。視線が集まる。
「――えー、現時点で予定の五分遅れです。それじゃいる人だけで始めたいんですが、いいですか!」
 喧騒は一瞬鎮まり、それから数人が口々に話しかける。
「おいおい待てよヒース、第十八迷宮の合同探索隊は帰還したんだろう? この場には来ないのか?」
「しかしそれも数時間前のことよ。流石にそこまで酷使するのも気の毒じゃろうて」
「待つなら待ってもいいが、そんなに重要な議題かね?」
「いや定例会なんだし、終わりの時間は守ってほしいんだけど」
 好き勝手言いやがって、と内心男は青筋を立てたい気持ちだったが、白い歯でニッと笑って見せた。
「まあまあ、お忙しい面々であることは承知の上! 定例会の議事録は各団の代理に持ち帰ってもらうとして、まずは予定通り話を進めましょうや! ね、はい、そうしましょ!」
 すると不満そうにではあるがざわざわした室内は波が引くように静かになった。この男の屈託のない逞しい笑顔というのは、有無を言わさない爽やかさがあった。
「えー、中央南支部管轄の十七団と二十一分隊の代表者の皆さま、本日はお忙しい中お集まりいただきまして恐悦至極に存じます。不肖ながら持ち回りにて、団のヘイスイェルデンがすすめさせてもらいます。それに、ベルガウレヒト……サン」
 ちょっと言いづらそうに、ヘイスイェルデンは後ろの黒板脇に控えていた黒髪の女性を手で示すと、彼女は黙って一礼した。闊達な雰囲気のヘイスイェルデンに比べると、前髪を正面で分けて後ろで結わえた彼女は大人しい印象を受ける。
 ようやっと、会議は動き出す。少し空気を張り詰めて。
「まずは北の緩衝地帯に動きがあった件です。ベルグさん、お願いしやす」
「はい。『奉る 広がりたる面 白鷗の瞬き 陽炎に踊れ 水溶する花弁 緑の額縁に蟻』――”視覚支援”、”指定プログラム展開”」
 詩歌を口ずさむような彼女の詠唱に、ヘイスイェルデンはほうと顔を緩ませる。
 すると、黒板の前に半透明で淡く発光する図と文字が表示された。彼女の手元には鍵盤のようなインターフェイスが展開しており、それを指で操作するたびに会議室前面のヴィジョンは様相を変え、参加者の前の机上に浮かび上がる。
「先日の雷燕の速報の通り……浮雲の轍団トッズロント・ギルドのジョルチョス氏とラブッキア氏が戦死しました。瘴気の森が拡がっているとの依頼を受け、食い止めるために近い母体樹の切断を試みていたところでした」
 大きなため息と、低い唸り声で室内は満たされる。
 画面には、正確な地図に、戦死が確認された地点のマーキングが点滅していた。日時、状況全てが記録されており、それを読むのにしばしの沈黙が降りる。
 無念そうに眉をしかめた金髪の老人が、腕を組んで前の画面から目を離す。
「ベテランと期待の新人を同時に失うとはな……あいつらでもやられる濃度だったって事か? それとも、母体樹の近侍コロニーが強かったのか?」
「解毒の疲労と夜襲という状況が悪かったのだと生存者から報告を受けています。当時、近隣の村を荒らす獣系の魔物が報告に上がっており、それがコロニーに合流した可能性があるとのこと」
「種類も違うのにか? 考えにくいが……まさかそれらを束ねる賢い指揮役がいたとかじゃないだろうな?」
「いや待て、二年前のワスク狂乱も一匹の突然変異種が中心になった狂気の伝播が原因だったな。北はあれから神経質になるくらい魔物研究に力を入れてるが、賢い指揮役の存在は以前認められていないはずだ。別種合流があったとて、まだ偶然の方が現実的だね」
 眼帯をした男の、ベルガウレヒトの言葉を一蹴するような発言に、む、とヘイスイェルデンが反駁する。
「何かと決めてかかるのはどうですかね。どちらにせよ、緩衝地帯から突出した母体樹は切除に成功してますし、引き続き浄化方術の得意な神官職を定期的に派遣する必要があると思います」
「それは、依頼のアフターケアでかね? それとも新しい依頼が上がる? まさか無償という訳ではあるまいね」
 じろりとした視線がヘイスイェルデンに集まる。
 一転、そう言った手続きや法令や折衝に疎い彼は目に見えて焦る。
「えー……当初の依頼が当該国発信だったので、状況説明と申請を行えば予算を貰える筈……だよな、ベルグさん?」
「はい」
「あのさあ、筈、じゃ困るぜ。こっちも慈善事業じゃないわけさ、団員たちは命張って依頼こなしてんだよ。人材も不足してるうちは、パスしたいもんだがなあ」
 大声で不満をあらわにしたのは、右奥の席で机に肘をついた中年の髭男であった。それを諫めるように、向かいに座った如何にも魔術師という風体の老人がぴしゃりと言い放つ。
「そりゃ何処も同じじゃい。左様な無責任な態度では、いざという時困るのはお前のとこの団じゃぞ」
「はあ? 管理責任は国にあるんだから、軍が動くべきじゃないのかよボン爺さん」
 両者は一歩も引かず、睨み合った。
 実力主義のこの界隈では、団の代表者ともなると年齢に関係なくよく言えば堂々とした、悪く言えば横柄な態度を取る者も少なからずいる。勿論まともな感覚では、殉職者の多い冒険者にとって、老人というだけで運と実力と賢さを兼ね備えており尊敬に値すると知ってはいるのだが。
 会場はまたしても喧騒に包まれる。それぞれに加勢するもの、呆れるもの、面白がるものと十人十色であるが、困っているのは進行役のヘイスイェルデン只一人である。
 爽やかスマイルも、こういう場面では何の役にも立たない。
「み、皆さん落ち着いて! まだ色々議題はあるんで、ここでそんなに盛り上がんないでほしいっていうか……」
 すると、黙って成り行きを見ていたベルガウレヒトが急に前に進み出て、大きく咳払いをした。
「とりあえず、協会で受けた案件は、協会で完結しましょう。軍のキャパシティを鑑みて、より悪化した状態で後で丸投げされるよりも、両名の犠牲によって今、どうにか拡大を食い止められたことが重要ではないでしょうか。これを適切に保守していくことが、行く行くは国と協会にとってはメリットが大きいと考えられます。非協力的な態度を取ることは報酬の減額も危惧されますし」
 凛とした声は、見た目よりずっと強く、大きく、頼もしい響きを以て参加者たちの耳にしっかりと届いた。横でヘイスイェルデンは何も言えずに立っている。
「……むむう」
「まあ、普通に考えてそうなるわなー」
「異議なしじゃ。いっそそっちでローテを組んでくれんかね」
 彼女に同意を示す空気になると、頷いて室内をぐるりと見渡した。
「では、瘴気拡大防止に必要な方術を会得した神官職のピックアップと、国への予算追加申請は協会中央南支部にお願いします」
 書記席で小さくなっていた協会の事務方が、弱弱しく返事をした。国や個人から依頼を集めて集積するのが、各地の団をまとめる組織、協会である。逆に言えば、協会それ自体の役割はそこに尽き、実際的な現場での仕事を熟す能力は、各団にあるということで、力関係は明白であった。そうでなければ、定例会議の進行役も協会側が仕切って行うべきなのだが、如何せん一般人に等しい事務方に力ある発言はできない。
「それから、浮雲の轍団は遺族手当の申請を忘れずに」
「はい。……この度は各団よりお悔やみをいただきありがとうございました」
 代表の若い女性は立ち上がり、ぺこりと頭を下げると、神妙な顔で黙りこくった面々も小さく頭を下げるのであった。遺族のような立場の彼女を前に、騒ぎ立ててしまったことをいまさら恥じているのかもしれない。
 一旦落ち着いた場で、こっそりとヘイスイェルデンはベルガウレヒトに耳打ちした。
「あの……あざす、ベルグさん」
「先は長いよ。がんばって、ヒースくん」
 あきれ顔で釘を刺したベルガウレヒトに、ヘイスイェルデンは分かりやすくきゅんとときめきながらも、彼女よりずっと頼りない自分の情けなさに、がっくりと肩を落とすのであった。
 そう、先は長い。会議は踊るものだと古い格言が残っているように。
 結局、会議は日が落ちるまで続いた。
  

 **
  
  
「ぼく、は、はし、を、わたる。とりが、そら、を、とぶ。みち、に、はな、が、さく」
 元気で伸び伸びとした声が響く。
 小鳥のさえずりが歌う森は明るく、木漏れ日は苔の絨毯に無造作な模様を作っている。黒衣の男の前を小走りで歩き回る小さな影は、時折しゃがみ込んでは虫を凝視し、時折男の横に並んでは嬉しそうに見上げて同じ道のりを歩く。
「いいですね。適切な接続語を使うだけで、会話の完成度はぐっと上がります」
 シーグルは頷きながら見下ろすと、ハイノはくるりとその場で楽しげにステップを踏む。無邪気なその様子に危なっかしさを感じつつ、シーグルは穏やかにそれを見守る。
「えへ。じょうずに、なってきた?」
「気が早いですよ」
 ばっさりと切り捨てられて、ハイノはがーんとショックを受けるが、すぐに気を取り直して後に続くシーグルの言葉に耳を傾ける。
「語学は一日にして成らず。言ったでしょう? 一つ一つの正しさや単語の意味にこだわりすぎず、とにかく会話を多くこなすことで話の意図を読み取る勘を得る。つまりは、沢山聞いて、沢山喋ることが一つ目の課題です。明らかにおかしければ都度訂正はしますが……まだまだ先は長いですよ」
「はい! たくさん、はなしが、するです」
「『話をします』」
「はなしをします!」
 律儀な訂正を律儀に復唱する。
 統一語には、敬語の概念が存在する。何処の誰に対しても無礼のない形式の話法なので、これから言葉を覚えるハイノにとっては、多少複雑であろうが習得してしまえば便利なはずだとシーグルは考えた。
 実際、ハイノは素直で物覚えがよかった。すぐに実践をし分からないところはすぐに分からないと言える点で、指導経験のないシーグルにもやりやすい生徒なのはありがたかった。
(しかし、ハイノが人間としてでも、魔物としてでも……どちらででも生きていける選択肢を作るために必要な知識と技術は、相当多い)
 知っている単語で文を作って喋っているハイノを視界に入れながら、シーグルは頭を悩ませていた。
 人として生きるためには、最低限言葉と生活様式、文化、人間関係構築の仕方を教えなければ、周りになじんで溶け込んでいくことは難しいだろう。ハイノの角や尾を除いた見た目と性格はきっと人に好かれる性質のものだが、それゆえに注目を浴びる危険性もある。
 一方、魔物として生きるためには、最低限弱肉強食を生き残る強さと、自然界の知識が必要であろう。魔物の本能としての魔術は使えなさそうであることや、耐性の低さ、膂力については殆ど一般人の子ども並みであることは薄々わかってきていたので、これもかなりの難題になりそうであった。
 この子は、中途半端に両方の性質を持っている。そして、中途半端にどちらの能力も持っていない。山積する課題と道のりに、はあとため息をつきたくなった。
(優先順位としては、言葉も含めて人としての生活を難なく送れるようにすること。次に、戦いに利用できそうな能力や伸びそうな技能を見つけること……だろうか?)
 魔力量が多いなら、魔術や方術を教えればいい。そうでないなら、戦士職の階位を参考に、戦闘技能を体に叩き込む。自分はそれらを同時並行して学んでいったが、それは会得までの最短ルートかもしれないが最善ルートではきっとない。毎日魔力が尽きるまで練習し、体力が尽きるまで修行し、気力が尽きるまで知識を詰め込み、それでも死なずに何とかここに立っているのは偶然に過ぎないだろう。いわば、死に損なう運だけは人一倍あっただけなのだ。
 久々にあの暗く辛く冷たい年月を思い出して、シーグルは辟易する。目の前に広がる景色は、あまりにそれとは異なる。光さす森の苔むした庭、舞う蝶に小鳥の歌、ふいに手袋越しに感じる小さな手の柔らかさと、向けられる無垢な笑顔。
(まぶしいな)
 迷いは多い。しかし、この子にあの苦難を味わわせたくない。このあたたかな手を傷だらけにしたくない。もう二度と、この笑顔を涙に濡らしたくはない。そう思う自分の心には背いてはいけないのだろうと分かっていた。
(不器用だった私とは違う道を、この子のための道を示してやれたらいい。……できるかどうかは、手探りだが……)
 見通せない未来を憂うことなど、未来のことが知りたくてたまらなかった未熟な時分以来だろうか。こそばゆい気持ちになる。
「せんせー、みず、がありました!」
 木の根によるダイナミックな隆起を上がりきると、それを下った先でハイノがぴょんぴょんと跳ねていた。その側には滾々と水が湧く自然な池溜まりが楕円形に広がり、大人の腕一抱え分ほどになっていた。そこから小川が始まり、山の傾斜に従って浅い窪みを作りながら下る流れが生まれている。明るい森に相応しい、魔の汚れなき清流である。それを思うと、あのグヴォルヴたちが何処からやって来たのかはなはだ疑問ではあるが、生態調査をしているほど有閑でもない。目当てのものが見つかったので、ひとまずシーグルはほっと息をついて休憩にしましょうと少年に声をかけた。
 朝から二刻ほど歩いていた。
  

 ぷわ、と水を飲んだ少年は、犬のように口の周りについた水滴を頭を振って飛ばす。
 無造作なその仕草に内心和みながら、浄化方術で木の椀に掬った水を浄水し、シーグルは喉を潤す。だが思っていたよりも道なき山路の移動でも体力の消耗は少なく、口にした水でその軽微な疲れすら帳消しになるような心地良さが男にはあった。
 少年はそばにあった手頃な岩に腰掛けて、脚をぶらぶらさせながらその一部始終を見ていた。頃合いを見計らって、ハイノは声をかける。
「ねえせんせ、これから、どこにいくですか?」
「そうですね……私の家に向かうことにします」
「せんせいの、いえ?」
「ええ。私の所有する小屋が幾つかありますので、中でも一番人目のない山奥のそこに向かおうと思います。少々不便ではありますが、落ち着いて学ぶには環境も大切でしょう」
「ふべん……よくないこと。それは、ぼくのため?」
 屈託のない目と言葉。男は気恥ずかしさに口を濁す。
「まあ、そうとも言います……か」
「えへへ!」
 聞いた方も照れ臭そうに笑うので、このどっちも恥ずかしいだけの時間は何だったのかとシーグルは内心で突っ込みを入れる。
「あるいて、おうちはちかい、のですか?」
「いえ、実を言うと数週間の距離があるので、秘匿ポータルを経由して行程を短縮します。魔物に遭うリスクを出来るだけ減らしたいので」
「ぽーた……たん……しゅく?」
 平易な言葉を使わなければいけないのだった、とシーグルは思い出した。どうも堅苦しい話し方をすると上司にも言われるので、意識して直さなければならない。シーグルは落ちていた指示棒に丁度いい木の枝を拾い上げてハイノの前にやってくる。
「移動系の魔術は数多くありますが、空間をつなげて一瞬で別の場所に行くというものがあるのです。速く移動する方法と、こうやって――」
 視界に見えている岩と、それから少し離れた岩を指す。棒でその間を地面伝いに動かしてやって、これが普通の徒歩移動だと示す。その次に、一瞬ハイノの視界を手で遮って、その間に素早く岩から岩へ枝先を移動させ、覆いを取った。
「瞬時に目的地に出現する方法があります。ハイノが起きている時に実行するのは初めてでしたか」
 少年は目を大きくして師に尊敬の眼差しを向ける。
「すごーい! ……あれ、でも……あさから、ずっと、あるいていました……?」
 首を傾げる。そこに気付いてしまったか、とシーグルは咳払いした。
「それは……こうした水場が近い方が、現在地の座標が特定しやすいからです。座標が分からなければ“接続”が不安定になります。なのでここからは歩く必要はありません」
 実は道に迷っていたのだが、わざわざそうと伝える必要もあるまい、とハイノが分からないのをいいことに少しだけはぐらかした。
 なにせ、ハイノの住んでいた家のあった場所は地図にも載っていない森の真ん中であり、辿り着くのも大変だったが帰るのもまた大変な山奥だったのだ。はぐらかしたとはいえ、少年を意味もなく不安にさせないことも師の役目だ。ということにしておく。本当はちょっとした見栄である。
 水に手を浸して”広域感知”の方術を使うことで、流れる小川全体を媒介に地形を把握する手助けになる。水と地形は、地脈の地図にも等しい情報量を持っているもので、そこから導き出す座標は、高等な術を使用する上で軽視できない要素になる。
 ちなみに、シーグル一人だけなら適当に”跳躍”――比較的距離の短い”接続”――を繰り返して知ったところに出るか、”空歩”系で飛んでいくのだが、今回は人にも魔物にも遭遇しないよう万全を期する必要があったので、地味で確実な手段を選んだのであった。
 それが終わると、手についた水を払って、ポケットに入れていた手袋を取り出す。興味津々なハイノの視線を感じていたが、まだ魔術関係のことを教えるには早いと思って黙っておいた。
「あの……せんせいは、いえがたくさん、もつの、は、どうしてですか?」
 意外な質問に、シーグルは立ち上がってハイノを見た。
 ハイノはどんな生活をしてきたのだろう、やはり、人間二人に会うまでは定住しなかったのだろうか、とふと思った。思考が逸れすぎる前に、質問に頭を切り替える。
「それは、ひとえに便利だからです。個人の部屋といったプライベート領域には固定したポータル……座標の目印を置けるので、“跳躍”が簡単です。そのため、通勤が楽な職場近くの部屋を借りつつも、別の野外に拠点を作ることで、人の目を気にせず術を開発したり薬を煎じたりしやすいのです。ゆえに大抵、その場所は他人には秘密にしておくものです」
 一生懸命眼を瞬かせながら、ハイノは教えたように大きく話の意味を聞き取ろうとしているのがシーグルには分かった。話の要点が分かると、会話が成立し、楽しみを感じる。その楽しみが、語学を学ぶ原動力になる。話したい、聞きたいと思えばこそ成長は加速度的に早くなるものだ。
「たくさんのいえ、べんり。でもひみつは、どうしてですか? あぶないですか?」
「ええ。といっても、敵に襲われるからといった意味の危険、ではありません。私は強いですから」
 ハイノは恐らく、そちらを想像しただろう。野生動物の中には、何か所も巣をつくって、襲われるリスクを分散させる習性を持つものもあると聞く。
「作業をするのに、秘密の場所がある方が都合がいいのです。薬を煎じたり、本を読んだり、術の開発や改良をするには静かで人気がないところでないといけませんから。なんというか……周りを気にしない、一人で過ごす場所は、色々と安心なのです」
 魔術師職の中には、秘密主義者で研究熱心で、神秘を求めて喧騒を離れる者が割と多いのだとは敢えて言わなかった。一度に色々なことを教えても困惑するだろうから、理解のために与える情報はコントロールしなくてはいけない。
 魔術の研究は未だ発展途上であり、学会では次々に新しい定義や原理が発表されては実用化が進み、一方では一子相伝の秘術や独自の新技術などを抱えている者もいる、実に奥が深くややこしい界隈なのである。当然シーグルもそのややこしさの中で現役の賢者をやっていくには個人の研究をしつつも世間の流行りなども知っておかなければ最先端から置いていかれてしまう。そういう意味でも、賢者は忙しいのである。
 すると、ハイノは不安そうに顔を曇らせる。
「せんせいの、ほっとするばしょ……ぼく、いっても、いいですか?」
 成程そうか、と思った。
 ハイノは、シーグルが『面倒ごとが少なくてよい』という意味で使った安心という言葉を、『ほっと安らぐ』と解釈したのだ。正確ではないが、間違いでもない。考えてみれば、シーグルが秘密の拠点を持つ理由としてそれもまた正しいような気がした。人の群れの中にいると、他人と混じり切れない自分という異質な存在を思い知る。他人に気を遣い、他人と距離を保ち、他人に何も求めない自分にとっては、確かに孤独は心が安らぐと感じることもあるのだ。
 心配そうにしているハイノに、男はふっと息をついて表情を和らげる。
(私のほっとする場所に自分が上がりこんで、その安らぎを奪ってしまうかもしれないと思ったのか。そういう発想は、私にはなかったな)
 歩み寄って、ぽんと柔らかい髪に触れ、角の間の頭を撫でる。
「もちろん。それが、ハイノにとっても、ほっとする場所になればいいと思います」
「……うん!」
 撫でる手もさながら、撫でられる方も気持ちいいようで、ハイノの不安は笑顔の向こうに消えたようであった。
 にこにこと嬉しそうなハイノを見ると、こちらまで微笑みたくなるのは何故だろう、と師は思った。だが現実は、不愛想な無表情が顔に張り付いたまま、何ごともなかったかのようにその瞬間は通り過ぎていく。普通なら、笑い合って、安心し合って、歩み寄って親しくなっていくものであろう。興味を持ち、共感し、理解することで人間関係は深まっていく。しかし男は思う、自分はそれらができない、欠陥のある人間なのだ、と。
(しかし、そうか。思いやってもらうと、こんなにも穏やかな気持ちになるのか)
 ひどく懐かしいような、目が覚めるような感覚であった。大人になってから、他人を気遣うことはあっても、思いやることも思いやってもらったこともなかった。そういう距離感で生きてきた。
 だからだろう。笑って泣いて、物怖じするどころかこちらを思いやれるハイノは、なんというか、すごいな、とシーグルは思った。
  

 指先にまで走る神経に意識を行き渡らせる。
 足元に魔素の動きが風に似た空気の揺れを生み、枯れ草が舞い始める。ハイノが息をのんで、少し離れたところから見守っている。時折明滅するのは、シーグルの前に差し出した手の付近を魔力の最小要素である魔素が高速で作用し始めた証左である。条件によってはその魔素は摩擦で発光することがあるので、魔術師や神官には見慣れた光だが一般人はまずこれに驚くという。
 詠唱の手順を踏むと毎回こうなるので、シーグルは無駄な派手さに些か辟易していた。
 人差し指の先で、静電気のように塵が小さな音を立てた。
「――『申す申す 横たわる間 暗がりに石 斜陽に頽れる 振り向きて土 揚々と呉れ出ず翼』……”接続”」
 ぎゅむ、と束ねた繊維が引き絞られるような音がした。途端に、空間に歪曲が生じ、光とその拡散する色を巻き込みながらドアほどの大きさにまで黒い穴が広がる。これで固定すれば、ゲート接続完了である。
 一連を横から見ていたハイノは、何が起こったのか分からないようで、ぽかんとしている。シーグルは手招きをして、横に立たせる。
「こっちで見てご覧」
「? わっ」
 ハイノはぎょっとして声を上げる。接続の出入口は疑似的な二次元鏡面なので、正面に立つ以外に視認することができない。見る角度を変えただけで大きな穴がそこに口を開けていることに、ハイノは目を白黒させて、シーグルのコートを少し掴んで一歩分後ろに隠れた。心臓がむずとして、シーグルはハイノの背中をぽんぽんと優しく叩く。不安げな目と目が合う。
「大丈夫ですよ。私が先に入ります」
「あっ、ま、まって、いっしょに……!」
 歩き出すと、慌てて掴まったままハイノも付いてくる。歩いて足から黒に突っ込むと、ハイノが目をつぶって息を止めたのが分かった。
 彼らのほかにこの様子を見ている者がいれば、二人が突如消え失せたようにしか見えないだろう。
 瞼の下で一瞬、光が途絶えたのをハイノは感じた。それが黒い穴を通り抜けた瞬間であった。次に光を感じた時には、さふ、と草を踏む音と甲高い鳥の声とが耳に飛び込んできた。
 また背中をぽんぽんと叩く大きな手。ハイノが目を開けて見上げると、シーグルが何もなかったかのようにじっと見下ろしていた。不安が揺れて消えていく。
「そんなに怖がらなくても、何ともなかったでしょう」
「……ふ、わあ……」
 少年は慌てて周りを見回した。
 木肌の色も模様も違う。葉の形も、茂り方も違う。空気は暖かく、土の匂いもどことなく違う。ハイノは知らないが、そこは南の小国リンゲルデの死火山に広がる樹海の真っただ中であった。先ほどまでいたブロブ周辺から殆どまっすぐ南下したことになる。
 ハイノは驚きと感動であわあわと手足を動かしてシーグルを尊敬の眼差しで見上げる。
「す……っごぉい……! せんせい、かっこいい……!」
「……それほどでもありませんが……」
 素直で意外な反応に、シーグルは面映ゆくなる。お世辞でだってかっこいいなど言われたことはない仏頂面なのだが。
 気を取り直して視線を巡らせると、辺りは開けた庭のようになっており、その一角に家がある。木造で、丸太を主に組んだログハウス形式の小屋は、しかし小屋というには立派なそれであった。当然シーグルが建てたのでもこの森の中に大工を呼んで建ててもらったのでもなく、別の場所にあったものを移動方陣を敷いて移設した。
 中央には大きく枝を広げたメラドの生樹があり、小規模結界のヴァイタルマーク兼ポータルになっている。その幹に手を当て、半透明の表示とインターフェイスでシーグルは諸機能が正常に動いていることを確認する。
 その間ハイノは周辺を歩き回って、興味深そうに草の匂いを嗅いだり、虫を追いかけたりしている。
「ハイノ。日の当たる明るい場所から出てはいけません。この中には魔物が寄り付かないようになっています」
「はいっ」
 そーっと森の方に行こうとしていた小さな背中が、びくっとしてまっすぐになった。弱い割に好奇心が強くて困る。
 慌ててこちらに戻ってきたハイノを連れて、シーグルはログハウスの入り口への階段を上がる。
 この結界は魔物だけでなく人も寄り付かないよう“視覚操作”も稼働していたが、念の為家の方も果たして無事かを確かめる必要があった。山賊でも住み着いていたら厄介だ。
 木のドアに手をかける前に、シーグルは壁に触れる。するとそこから神経を家に這わせるような淡い発光が走ったかと思うと、家中の情報が彼の頭に流れ込んできた。
 不思議そうにハイノは、急に片目を閉じて動きを止めた師を見上げる。その目蓋の下に、窓を含めた鍵の状態や場の変化などの視覚情報も集積していると知らずに。
 一通り走査し終わると、シーグルは片目を開ける。
「?」
「フム……数か月放置していたので、周辺や家の中の掃除が必要です。私は窓を開けてきますから、ハイノはそこの桶に井戸の水を汲んでください。手押しポンプに補助効果を付与してあるので、子どもの力でも十分……」
「いど? ぽんぷ?」
「……いえ。全部教えますから、一緒においで」
「はーい!」
  

 生活様式を覚えさせるために掃除をはじめとした家事にも魔術が使えないのは面倒ではあるが、ハイノが嫌がらずむしろ嬉しそうにしているので、まあいいか、とシーグルは思った。
 能率を考えさえしなければ、こつこつと作業をすること自体は彼も嫌いではない。
 埃っぽい室内の窓を開け放ち、換気をしている間に井戸で水を組み上げる方法を先に教えることにした。ハイノにとって手漕ぎポンプが高い位置にあったので、適当な木箱を台にしてやる。鉄製のハンドルはやや子どもの手には重そうであったが、荷の水筒から呼び水を入れてそれを懸命に押しているうちに排出口から汚れた水がごぼごぼと出てくるのをハイノはびっくりして眺めていた。さらにそれを続けると透き通った冷たい水に変わり、そこに桶を差し出して水を貯める。ハンドルを離しても余分に出てくる水で手を洗い、ハイノはきゃっきゃとはしゃいだ。かわもないのにみずがでた、いどってすごい、と笑うので、確かにそうですね、とシーグルも真面目に頷いた。
 それから家に戻り、布団類を家の前の手すりに干し、裏の物置に入れておいた箒で室内を掃く。ハイノがあまりに咳込むので、口元に埃避けの布を巻いてやると嬉しそうに、いっしょしよ、とシーグルも半ば無理矢理巻かれた。
 掃き掃除の後は汲んだ水で家具や設備を拭く。飽きもせずハイノは真面目に掃除をしたので、水替えで外に出た際に結界外で生っていた蔓性ニゴの実を採っていっておやつに差し入れた。種が細かく果肉がやや固めの早熟なそれであったが、綺麗にしたばかりのテーブルで二人で齧るとそれなりに美味しいものだなと男には思えた。ハイノはいたく気に入ったようで、その後の掃除もご機嫌に取り組んでいたのが微笑ましい。
 シーグルは壁や床に地鼠の糞や齧った痕を見つけたので、何処かに防鼠対策の綻びがあったのか、と反省し、後日徹底的に駆除することを決めた。
(――、掃除と料理を手作業ですべてやることなど、何年ぶりだろう。一日がかりだった)
 空になった鍋を水場で浸したまま、ソファに沈んでぼんやりとシーグルは思った。
 梁に吊るした拡散硝子のランプの火は、蝋椰子油を少しずつ食いながら夕暮れほどの光量で夜の闇を切り開いている。
 シーグルはぐるりと視界を巡らせる。上着が掛かっているハンガー、火を落とした煤の付いた竈、たっぷり井戸水の湛えられた大甕、カーテンにしては薄い布が窓辺に揺れる。
 掃除のお陰で室内は住めるまでに綺麗になったし、寝食をするには十分上等な様相になった。適当に保存食の打豆を煮たスープも、棚にあった悪くなっていなさそうな調味料をやはり適当に入れただけだが、労働後の食事はその適当さを上回る満足を与えてくれた。
 傍らで横になりすーすーと寝息を立てているハイノは、ソファの大部分を占領している。
(すっかり疲れてしまったようだな。子どもながらしっかり働いたし、覚えることも多かっただろうから当然か。この体力の差を、覚えておいた方がいいかもしれない)
 賢者の称号持ちゆえ、普通の人より体力がある自分が大人代表とするのは些か基準として公正ではないが、子ども代表として適正かも分からないハイノと比べる以上、総体的に考えるしかあるまい、とシーグルは内心苦笑する。正直、自分は殆ど疲れを感じていないのだが。食器の跡片付けと洗濯を教えるのは明日にしよう、と決め、ハイノをベッドのある寝室に連れていくことにした。
 小屋は平屋建てで、キッチンとダイニング、リビングは玄関から入ってすぐの区画にあり、廊下を介して洗面所とトイレ・風呂は一まとめにあり、あとは寝室が一つという間取りである。ちなみに上水は井戸の水を汲んで使うが、下水は色々面倒なので、都市部にあるシーグルの部屋の下水処理経路と繋げてあるので、山奥でも不自由はない。
 シーグルは起こさないようにそっと寄りかからせてから抱き上げたが、その配慮も意味がないほど眠りが深いようであった。空けた片手の指で、ランプに”追尾”の指示を出すと、ふわりと雫の下半分のような形をしたそれが梁を離れ、目線より上あたりをついてくるようになった。魔術はやはり便利だ、とシーグルはしみじみする。
(しかし……助けた際にも担いだが、軽すぎる。それに細すぎる。ハイノがいくつか知らないが、まだ成長期の筈だ。もっと食べさせ、体力筋力魔力ともに増やす訓練もした方がいい。……まあ、骨格からして私ほどにはならないだろうが)
 自分にハイノほどの背丈と体格であった頃の記憶がないので何とも言えないが。担ぐたびにおっかなびっくりするような華奢さでは困る。明日からやるべきことが増えた。
 軋む廊下の先に、ベッドとクローゼットだけが置いてある寝室が見えてくる。と、ふとシーグルは気付いた。
(……そういえば、ベッドは一つしかないな……?)
 どうして思いつかなかったのだろう。客人は想定していない隠れ家である。当然と言えば当然だが、食器を除く全てが一人分しかない。その最たる弊害は、寝床ではないのか。
(ひとまず今夜は自分がソファで寝るか)
 背丈と体格があるとしても、子ども一人増えたところで寝相はいいので特に狭くもないしベッドは壊れない。師が弟子の為に我慢をするのも常識的に考えればおかしい。それでも、何故か一緒に寝たり自分ひとりがベッドを使うことが躊躇われたのは、ハイノの端正な顔や軽さと何か関係があるのだろうか。
 薄いシーツとブランケットの上にハイノを降ろし、靴をぽいぽいと脱がせ、シーグルは思わずはーっと大きなため息をついた。何をやっているんだ自分は、という困惑のそれに、さっさと戻って街で買っておいた今月の学会論文でも読もう、という気の取り直しである。
 踵を返す。
 と、何かに服が引かれたのを感じる。何かに引っかかったろうか、とシーグルは振り返る。
「……」
 ハイノの手が、裾を掴んでいる。起きていたのかとじっと様子を伺うも、変わらず寝息を立てているし、先程抱き上げた時には何ごともなかった。ベッドに降ろした際に、ハイノは咄嗟に寝ぼけて服の端を掴んだというのがこの状況を説明するに適切な原因発生のタイミングだろう。
「……」
 柔らかく握られた手。強く引けば、裾は簡単に取れる。
「…………はあ」
 もう一度溜息をついて、シーグルは指先を居間の方へ向けて軽く動かした。カチンカチンと窓に鍵が閉まる音がし、警備用に敷いてあるセキュリティ系の魔術は、夜間の待機モードに切り替わる。開発中の魔術の情報を盗もうとするなどの犯罪者もいる中で、独自のセキュリティシステムを敷く魔術師は少なくない。賢者ともなれば、さらに用心深くなって当然のことである。それから、追尾してきていたランプに向けて指をくるりと回し、燃焼部分に流入する酸素の取り入れ口を絞り、光量を落とす。部屋が二段階ほど薄暗くなる。
 シーグルはのそりと縁に座り、ブーツを脱いで枕を背にベッドで脚を伸ばす。やはり解放感はあるもので、うーんと伸びをする。
 ぎしりとベッドがしなったせいか、ハイノが身じろぎをして、彼の腕に掴まって密着する。
「……ん……せんせ……」
「はいはい、ここにいますよ」
 寝言に対して半ば開き直ってそう返し、小さな角と角の間を撫ぜてやると、ハイノはそのまま気持ちよさそうに睡眠を続行した。子どもの高い体温は、夜になってひんやりとするこの時期には心地良い。
 無詠唱で空間を別の隠れ家の倉庫と”接続”し、仕舞っておいた論文雑誌を自由な方の腕で取り出した。
(まあ、ここでも論文は読める)
 しかしその目論見は外れ、文字列を追い始めてから半刻もしないうちに瞼は重くなってきた。他人の体温と寝息、程よい労働と薄暗い環境と柔らかい布団、これらのもたらした抗えない眠気は、敵対的方術由来ではないことを分析方術で確認してから、用心深い彼はやっと意識を手放した。
 シーグルはその夜、珍しく夢も見ないほど深く深く眠った。
  
  
 **

  
「ーーせんせ、せーんせ。おはようございまーす、あさですよう」
  
 囁くようなハイノの声で目を覚ますのは何回目だろう、とシーグルは思った。
  
 大抵は先にベッドから降りてくるのは男の方だったが、時々朝日がカーテンの隙間から差し込んでも瞼が上がらないこともあった。そういう時は、目をこすりながらハイノは寝ているときに入り込んだ師の腕の内側から這い出る。そして、満足げににっこりすると、起こさないようそっとドアを開けて洗面所へ向かった。
 シーグルに教わった、朝起きてまずすることその一。顔を洗う。これで一度に目が覚めるし、就寝中の目やになどの汚れを落とせるし、寝癖も直せる、何よりきもちがいい。といい事ずくめなので、ハイノはすっかりこの人間的な習慣が気に入っていた。一人で暮らしていた頃は、いつも水場が近くにあるとは限らないので、手で顔をこするのが関の山だった。新しいタオルで水滴を拭い、それから、キッチンへ向かう。
 器具の収納場所は既に教えてもらっていたので、ダイニングの椅子を持ってきて木製のボウルと調理用のフォークを棚から取り出す。テーブルの籠に入れてある昨日シーグルが何処からか持ってきた岩啼鳥の卵をボウルに割り入れ、瓶の水を長い箸で混ぜ合わせる。その手際は既に慣れたもので、殻は玄関にあるコンポスト用の桶に投げ入れる。
「!」
 ご機嫌に小さく跳ねると、次に倉庫にあったという少し古い小麦粉と膨らし粉をボウルに少しずつ混ぜながら加えていく。思った通りの粘り気になるまで、粉と水を調節して、ボウルいっぱいに液ができあがる。
 数字を勉強中のハイノに、時計はまだ読めない。だが、針の様子からなんとなくそろそろ『あさごはん』の時間だと予想がついた。簡易竈に部屋の隅に置いてある薪を三本ほど持ってきて中に積み、水場で手を洗い流し、下の棚にフックで掛けられた布で拭く。
 ふふーっ、と満足げに鼻から息を吐いて、足取り軽くハイノは寝室へと戻っていった。
  
「ンム……ああ、おはようございます……」
 寝ぼけ眼のシーグルを覗き込んで、ハイノはえへへと笑う。いつも黒髪を上げて額が見えている彼が、朝は下ろしてぼさぼさになっているのが好きなようで、ハイノは小さな手でその頭を撫でる。
 一日のうちで一番ぼんやりしている師は、その手を払うことなく大きな欠伸をした。
「あさごはん、じゅんびかんりょう! ひをつかってもいいですか?」
「もうですか? そう急がずとも……」
 そう言うと、シーグルは手のひらをすっと差し出して、宙に浮く爪一つ分ほどの小さな火球を生み出した。一瞬火はこぶし大にまで大きくなったが、直ぐに周りを包む空気の組成を調節し、おさまる。
「おっと、はいどうぞ。火種を移す時は素早く、着火床を狙うんですよ」
「りょうかいです!」
 コインを渡す動作のように、指で周りの空気層を掴んだ師の手から、両手でそっとハイノは火種を受け取る。そのままととっとキッチンへ向かう背を見送って、シーグルはゆっくりと洗面所へ向かった。
 シーグルが顔を洗って居間に戻ってくると、そこには既に小気味よいじゅうじゅうという音が響いていた。火にかけた片鍋に食用蝋椰子油を引いて、ハイノがボウルの生地を流し入れた直後のようであった。
「これまた随分沢山作りましたね」
「えへへ、ちょっとおおすぎたかも。でもせんせい、いっぱいたべるでしょ? それに、おおめにやいておけば、おひるのぶんになるです」
「確かに。では、逆に食べ尽くさないようにしなくては」
「ふふっ! せんせーのくいしんぼ!」
 薄い生地はすぐにふつふつと端から気泡を弾けさせ、火が通りつつあった。ヒラ返しという器具でハイノがその生地を裏返すと、厚さ二倍程に膨らんだ。念の為と後ろに立ってシーグルは見守っているが、生地を返す手付きも危なげなく、焼色も申し分ない。大皿を持って、完成品を待ち構える役に徹してそのパンケーキ量産体制は数分ほど続いた。ぐぐう、と男の腹が鳴ったのを、少年は振り返っていたずらっぽく笑った。シーグルは小さく咳払いをして視線を泳がせる。
 出来上がったパンケーキはちょっとした高山帽のように積み上がった。ふっくらとしたパン生地は、素朴ながらあたたかで飽きのこない、万人に愛されるそれ。香ばしい香りも焦げる寸前のカリッとした歯ごたえの端っこから漂っている。
 シーグルがテーブルをセットしている間に、ハイノはさらに卵を三つほど割り入れて、目玉焼きを作る。岩塩を振って、二個分を師の皿に、一個分を自分の皿にヒラ返しで盛り付けた。これで卵は使い切ってしまったが、また今朝も産みたてが巣にあるだろう。毎日、そうして補充している。
 食べられはするがいつのものか分からず早めに使い切りたい大紫蜂の蜜の瓶を食卓に置いて、二人分の皿と食器を並べ、速やかかつ充実したいつもの朝食はここに完成した。
 向かい合わせに二人は席につき、食欲を唆る皿を前にきちんと目を合わせた。
「それでは、いただきます」
「いただきまーす!」
 勢いよくパンケーキに齧り付いたハイノは、あっという間に口の周りに蜂蜜を付けて、もたもたと一枚を懸命に食べる。
 一方でシーグルは行儀よくナイフとフォークで切り分けて口に運ぶ。その一口分の量とスピードは尋常ではなく、ハイノの数倍ではきかない。次々にパンケーキの山が消えていくのを手を止めて眺めているハイノを見かねて、ちり紙で口を拭ってやる。
「手が止まっていますよ、もう満腹ですか? あと汚さないよう食べる練習もしてください」
「んむぐ……はぁい。……あの、おいしいですか?」
「はい。顔には出ていないでしょうが、申し分のない朝食だと思っています」
「やった!」
 嬉しそうに破顔すると、ハイノは食事を再開する。
 しげしげとシーグルは少年の様子を伺う。蜂蜜の甘さにも食器の使い方にも漸く慣れてきたその順応性は申し分ない。だが、未だにシーグルの反応に一喜一憂するところは変わらない。褒めれば喜ぶのも、叱れば落ち込むのも分かる。しかし、表情が変わらないので言動においてだろうが、シーグルが美味しいと言ったりしまったと言ったりする度にこうして喜んだり心配そうにしたりするのが彼にはよく理解できなかった。
 これまで自分の反応をここまで気にされたことがないせいか、時折ハイノの感情表現に当惑していた。
(別に困ってはいないのだが、不思議だ。ハイノは、他人の態度に自分の感情を左右されて、疲れたり嫌になったりしないのだろうか)
 目玉焼きのクリーム色の黄身が、とろりと口の端から溢れるのを慌てて舐めるハイノは師の視線に気付きもしない。
 それはそうと、今日の予定を決めなければいけない。咀嚼の速度を緩めて、シーグルは思案を始めた。
「そういえば。せんせいは、ごはんのまえにいろいろしないですね」
 もぐもぐしながら、ハイノが言う。一拍遅れてシーグルは我に返る。
「ほう? それは、ハイノの知る人間は何か仕草をしていたということですか? どうやっていましたか」
 すると、ハイノは唸って思い出しながら右手を心臓の位置に当て、左手を額の真ん中を摘むように触る。シーグルはすぐに得心した。
「えと……こんなことして、なんかいってた。ぼくも、するといいって」
「精心奉上と恵みへの謝詞ですね。信心深い方々だったのか、神官職だったのか……簡単に言えば、それらは神に感謝する時の定型仕草です」
「かみ……って?」
 きょとんとした顔に、これは、とシーグルは気付いた。
 ハイノがいくら人に近い知能と情緒と姿をしていたとしても、人の社会と関わらずに生きてきたら『神』というものを知りようがない、という事実に今やっと気付いたからである。
 どう説明するべきか少し逡巡して、シーグルはフォークを置く。
「神というのは……人でも魔物でも精霊でもない、超越的な存在を指す概念です。人間を見守っている何か大きくて優れた存在を信じることで、人々は勇気づけられ、苦難を乗り越える力としたのです。神官職というのは、その信仰を柱とした方術使いのことを言います」
「はぇ……せんせいは、ほうじゅ……つ? それもつかえるんですか?」
「勿論。私は賢者と呼ばれますが、魔術と方術を能く修めた者をそう呼称するのです。ハイノにかけた傷を癒やす術も、この敷地内にある魔物を退ける方陣術もそうですよ」
「そうだったんだ……! せんせ、すごい!」
「いえ、それほどでもありません。魔術と方術は、一本の木から分かれた枝同士のようなもの。信仰心のない私でも修められる、似通った学問の一つでしかありません」
 言いながら、置いたフォークの柄から先端までを指でなぞって見せる。
 ハイノには、魔術と方術の違いもよく分からないのだろう。村の寺子屋では教えないが街の中等学校では教える内容なので、もしかしたら理解できるかもしれないと、試しに話をしてみることにした。
「魔術は、自然エネルギーの再現と、物理・魔素法則の応用の術。方術は、生命エネルギーの操作と、場の支配の術。と覚えるといいでしょう」
「は、はい」
「魔術という学問は、忌むべき魔物の技を研究し再現して攻撃利用するという経緯で発展したので、どうしても穢れと罪の意識が長らく人々にありました。一方で、不安で荒む人々の心の拠り所として幾つかの宗教が興り、人は魔物のような野蛮なものではないという願いや、神に守られているという自尊心が教えとして広まっていきました。この状況が揃った結果、信仰心と魔術の一分野であった『救いと加護を与える術』とが繋がり、新しく『方術』と名がついたのです。人を救う術と人を救う教えには親和性があり、双方に都合が良かったことで、いつしか方術使いが神官職として認定されるまでになりました」
「ふぉん……」
 ほうけた声がハイノから漏れる。魔術界と宗教界の思惑と実利についてはこれ以上触れるとさらに混乱させるな、と内心苦笑して、シーグルは肯いた。
 魔物と人、攻撃と防御、呪いと癒やし、そういう表裏一体の関係と同様、魔術と方術は対をなす技術であることは、何となく伝わっただろうか。
「まだこの辺りは難しかったですか。つまり、食事の前の謝詞は、神に恵みを与えてくださったことを感謝する祈りの仕草であって、したければすればいいし、したくなければしなくていい、ということです。まあ、作法として覚えておくに越したことはないですね」
 しばし、ハイノは考え込んでいた。話を解するためにも、それを飲み込むにもまだ時間が必要なことはシーグルにも分かっていたので、残りのパンケーキを食べて待つ。十枚ほど食べたが、これで腹が落ち着いた。
 やがて、ハイノは眉間にしわを寄せたまま、唇をちょっと尖らせる。
「んむぅ……したいか、したくないか、よくわかりません……でも、ぼくは、いままで『かみ』をしらなかったけど、ごはんはたべられてた……それって、ほんとは『かみ』のおかげだった……ですか? なら、したほうが、いいのかなあ? でもせんせいはしてないし……うーん」
 子どもの素直な目線というのは、時折思わぬ角度から疑問を投げかけてくる。人の子は学校や教堂から教わるがままに疑うこともなく覚えることでも、この子は自分の頭で考えてその疑問に至ったのだ。感心すると同時に、シーグルは少し嬉しくなった。
「そう、神を知らずとも、感謝をせずとも、食事はできる。魔術理論を知らなくても魔物は術を使える。それは、自然がただそうあるからです。一方で食事は神の恵みだと思えばそうですし、そうじゃないと思えばそれもまた正しい。考え方次第で世界はどうにでも見えるのです。私の場合、神という人の頭の中にしかいないものに因果関係のない感謝をするより、目の前の自分の糧になる肉や野菜そのものに感謝をした方が余程分かりやすい。そういう意味で『いただきます』と言っているだけなのです。カモフラージュとも言いますが」
 神妙な顔でハイノはそれを聞いていて、やがてゆっくりと頷いた。
「そっか……じゃあ、よくわからなくても、おこられないです?」
「はい。私も、誰も怒りはしません。私も神に怒られたことはありません」
「んふふ、そっかあ」
 ジョークがそうと伝わってシーグルはほっとする。真面目な顔のままで冗談を言うと、大抵の人は意味が分からず流すか愛想笑いをするかなのだが、ちゃんと笑ってもらえると嬉しいものだな、と思った。低確率で当たる実戦には不向きの魔術みたいなものか。
「ああ、それと。作ってくれたハイノにも、感謝を。ありがとうございます」
「えっ……」
 目を丸くして、ハイノはがたんと身動いだ。
 意外な反応に、おやとシーグルは様子を見る。その驚きの後、ハイノは戸惑うように遊色の踊る瞳をぱちぱちと瞬かせた。それから徐々に目を細めて口元を緩め、頬に手を当てて俯いた。
「ハイノ?」
 思わず声をかける。と、少年は顔を上げ、男に向かってにへっと笑んだ。
「なんだか……ありがとうって、いわれると……くすぐったくて……ほっぺがぽかぽかします……! ふわふわ、いいきもち……ふふっ」
 男はその幸福そうな笑みに、ぎくりとした。瑞々しい感情、感性のその眩しさに思わず目を逸らして伏せる。心臓が血管を引き締め上げているような痛みが走る。
(なんだ、これは……?)
 身体の不調というより、精神的な影響のようにシーグルは思われた。ご機嫌に食事を再開したハイノを見遣って、ぼんやりと己の空になった皿を見下ろす。
(自分がそうやって……ありがとう、と言われてそんな気持ちになったのは、いつが最後だろうな)
 毎日のように依頼をこなし、依頼人や人々に礼を言われ、そういう生活を何年もしていたはずなのに。いつから、何も感じなくなっていたのだろうか。思い出そうとしても、それは記憶のノイズの向こうにおぼろげに見える景色のように判然とせず、シーグルにはとても容易なことではなかった。
 その無益な行為を中断して、今日の予定の話という実際的で意味のある行動に切り替える方が、余程簡単で楽であった。
 これまでも、そうであったように。
  

 **
  

「ふふー、るーるるん!」
 穏やかな森に、軽やかな声が響く。
 亜熱帯のやわらかな羊歯がさふさふと踏まれるたびに浮き沈みする。ハイノはマントのフードを被って、首元を絞りそれがずり落ちないことを確認するかのようにくるくる回ったりジャンプをしたりしてシーグルの後を楽しそうについてくる。
 大人用のフード付きマントの裾を切り、無理矢理子供の背丈でも切れるように改造したそれは、ハイノの膝辺りまでの長さでひらひらと揺れている。
 黒尽くめのシーグルの前に飛び出すと、その裾を持って、体をちょっと傾けながら一礼する。おどけているようで、しかしどこか優雅にも見えるのは、ハイノが品のある顔つきをしているせいだろうか、とシーグルは思った。
「ね、へんじゃないです? ひととおなじ?」
「はいはい、か……似合っています。普通の人に見えますよ。もう何度目ですか?」
「さんどめ! るるーん」
 ハイノはまた嬉しそうに笑うとステップを踏むように土を踏む。
 頭の角はフードの下に隠し、尾はシーグルが三つ編みにしてやって腰にぐるりと巻き付けてあるので、そう言った服装の子どものようにしか見えなかった。いつもと違う恰好を嫌がる敏感な動物もいるが、野生児たるハイノには該当しないらしい。
「あの、ハイノ。楽しそうなところ申し訳ないのですが、今向かっているのは小さな山里ですので、そんなに面白いものはありませんよ。目的は食料や衣服などの買い足しと、ハイノが変装に慣れることであって、あまり浮かれませんよう」
「はい!」
 ハイノは時折人との遭遇はあったようだが、連れられて人の住む大きな集落に行ったことはないらしかった。そういえば、出会ったブロブの街は小~中規模のそれであったが、色々あってハイノにとっては通り過ぎるだけの場所になってしまったのだった。
 注意されて気を取り直したようだが、そわそわと浮足立った様子はまだ伺える。横を歩きながら、落ち着きなくあちこちに視線を巡らせている。
 ふと、少し離れた木の太い枝付近に、薄黄みがかった短い円柱型のものを見つけて、ハイノはあっと指さした。
「みて! あれ、なかがしろくて、どろどろ、たべれる」
 少し屈んでその指の先を目で追って、シーグルは眉を動かす。
「リクタガメの卵に似ていますが……あれを食べるのですか? ハイノの消化器官で平気だったら人も食べられそうですが……美味しいのですか?」
「んーん。なんか……んん、あじのことば、いいのみつかりません。でも、おなかいっぱいになります。すき……とかではない」
「フム……しかし栄養はあるでしょう。味も調理次第で何とかなるかもしれません」
「そうかなあ? そうかも?」
「ただ村へ行く前に潰すと汚れて困るので、帰りに見つけたら採って帰りましょうか」
 虫の類は生でなければ食べるのに抵抗はないシーグルは、やはり野生を生き抜くには子どもなりに知恵をつけるものなのだな、と感心する。人間における食事は、魔物よりずっと安定して質がいい農作物や家畜を利用したものが殆どなので、虫の卵など食べたことがあるものは滅多にいないだろう。山奥で隠遁する魔術師などが自給自足するにはもってこいであるが。それに、成分次第では新しい薬が作れるかもしれない。
 そんなことを話してまた歩き出すと、名残惜しそうに視線を卵に向けていたハイノが、木の根に躓いた。
「ひゃあうう」
「あっ」
 一瞬宙を舞い、地べたを擦る様につんのめる。見事なほど派手な転び方だったが、すぐにむっくりと起き上がったのでシーグルはほっとする。
「大丈夫ですか。見せてご覧なさい」
 体中についた土を払ってやっていると、膝から血がぷっくりと盛り上がっているのが見えた。剥き出しだったので擦りむいてしまったのだろう。見るからに痛そうだが、ハイノはけろりとして眉をしかめるシーグルに首を振る。
「げんき! なめればいいので!」
「こら、不衛生ですよ。土から傷口に悪い菌が入るかもしれません」
 ひとまずは、とポケットからハンカチを取り出して患部に当てる。
 小さな傷でいちいち癒術をかけるのは面倒臭い派のシーグルであったが、それは怪我をしたのが自分の場合である。何でもかんでも術だよりでは一流とは言えない、というのが彼の持論でもある。
 とはいえここには医療道具もないし、傷が残らないようにとハンカチで一度血を拭きとってから、術をかけることにした。のだが、奇妙なことに気付く。
(? もう血が止まっている)
 さきほどまであれほど出ていたのに、とシーグルは手元の赤く染まったハンカチをしげしげと眺めた。
 と、その時である。不意に、耳鳴りに似た、奇妙な音が耳朶を打った。
 聞き馴染みのないその反響に、シーグルは眉をひそめた。それが何か思い出そうとする。
「――わあっ!?」
「!」
 だがハイノの声に意識を引き戻され、周囲を囲む気配に先に対処することにした。
『ギギイ、ギキッ』『グゲゲッ』『ギキィ』
 紫豚の鳴き声を、よりだみ声にして汚く痰を絡ませたような声が、ざわざわと草むらの奥から響く。そう思った時には、膝ほどの小さな影がそこら中に蠢いていた。
「臆病な筈のギブルゥが、珍しい」
 シーグルが呟くと、ささくれだった苔色の肌が草の隙間から覗いた。ひっ、とハイノが小さく声を上げる。
 それは、猫背で鼻と耳が尖った醜い赤ん坊のような姿をしていた。赤ん坊とはいっても肌は苔色だし、やけに細く節くれだった後ろ脚で立ち、黒目しかない目は獣のそれと変わらない。出来の悪いマリオネットのように不格好にひょこひょこと歩く姿は、旅に慣れた冒険者でも、嫌悪感を持つ者が多い。グヴォルヴとは逆に、人型の癖に知能が著しく低く持久力がないのも特徴である。脅威があるとすれば、鋭い針のような牙と、人の背丈を軽々と飛び越える跳躍力、その数にものを言わせた狩りである。
 草陰に潜んで、人間二人、そのうち小さいのは転んで血を出したのを見て狩れると踏んだのだろうか。
 舐められたものだ、と少々不愉快な気分になって、シーグルは鋭く群れに向き直った。コートの裾が広がって揺れる。
「ハイノ、私の後ろに」
「ひゃい」
 上擦った声に、恐れが滲んでいる。シーグルは詠唱するまでもなく、視界に入ったすべてのギブルゥに手をかざして術式実行の照準を絞る。一歩こちらに踏み出したものからその術は発動した。
「”破裂”」
『ギャヒッ』『グプ』『ビィイッ』
 ボン、ボンという鈍い破裂音とともに汚い悲鳴が上がる。風呂で空気を包んだ布を湯の中で開放する時の音に似ている。たまに目玉や脳漿が飛び散って足元まで辿り着く。その度に背後のハイノがびくりと身を震わせるので、怖ければ目と耳を塞いでいなさい、と囁く。一人でも生きていけるよう指導すると言った割に過保護かもしれないが、折角明るさを取り戻したところでトラウマを増やすのは得策ではない。
 矢継ぎ早に突撃してくる十数体を破裂させる。
(しかしここらのギブルゥは、こんなに組成が脆かったか? 思ったより飛び散る。それとも、苛立って無駄に出力を上げてしまったのなら、私も腕が落ちたな)
 イメージと実際の効果との差異が大きければ大きいほど、術師にとっては未熟の証となる。これまでそこに寸分の狂いなく術を発動できていただけに、シーグルは些か戸惑った。
 数が半分以下にまで減ったところで、ギブルゥはわっと一気に逃げ惑った。こうなれば後追いはしない。
 と、唐突に辺りが陰った。
 羽音とともにごうと風が巻き起こる。赤い蜘蛛のような八つの目玉がバラバラな方向を見て回り、剣山のような細長く多い牙を剥いて甲高く鳴いた。薄い皮を張ったような翼は大人三人分ほどもある巨大なそれである。
(これは、大蜘蛛蝙蝠インケティス!? 夜行性のはずでは)
 その驚きで、一瞬動きが遅れた。
「せんせぇ!」
 ハイノの悲鳴が上がった。八本の毛の生えた脚のうち一対が、シーグルを挟むようにして鷲掴みにしたのだ。そのまま上空へ飛び去ろうとぐんと方向を変える。
 インケティスの知識がシーグルの脳に蘇る。習性として、獲物を多脚でとらえ、そのまま食らうのがスタンダードである。その際には、普段は埋没された針で神経系の毒液を注入し、生きたまま無力化させて食うのが流儀であった。保有する菌の多さも尋常ではなく、噛まれれば感染症で死に至る人間も少なくないという、一般人にとって夜の森を避ける大きな理由になっていた。万力のような力で締め付けられ、背丈ほどの高さにまで持ち上げられながらも、シーグルは冷静だった。
(毒も私は”常時異常無効化”で平気だが、ハイノはそうではない。感染症にでも掛かったら、魔物ゆえ医者に見せることは出来ない以上まずい。注意をこちらに引いたまま仕留め――)
  
「やめて!」
  
 悲鳴に近い声に、びりと空気が震えた。インケティスの目が全て、泣きそうな顔のハイノを映す。唇をわなわなと震わせ、しかし逃げることなく少年はそこで翼の起こす大風に耐えて立っていた。虹のように色を変えるその双眸は、まっすぐに魔物を睨みつけている。
 怖がりだと思っていたのだが、どういうことか。シーグルは呆気にとられてハイノを見る。
  
「せんせいをはなして……! っ――おまえなんか、きらい!」
  
 悲痛に叫んだ、次の瞬間。
 ボフッ、と上の方から音がして、シーグルは顔を上げる。インケティスの頭部があるそこが、奇妙に歪んでいた。
 ボ、ボ、と次々にそれは沸騰する水のように膨れては潰れ、盛り上がってはへこみ、無造作に粘土をこねるように形を変えていく。その度に黒い血が飛び散り、シーグルもそれを浴びる。肉は躍動し、人の鼓膜では聞き取れない周波数の悲鳴が周囲の葉を小刻みに揺らす。それはまるで、無数の細かな拍手のようであった。
 いつの間にかシーグルの体を掴む腕は力なく垂れ下がり、自由落下で彼は着地する。ハイノが駆け寄ってしがみついてくるのを屈んで抱き留める。だが、シーグルは視線を異様なインケティスの様子から離すことができなかった。既に絶命しているのは明らかではあったが、皮膚組織の隆起は収まることを知らず、遂には羽も折れ曲がり、殆ど球体の肉塊となってぼとんと落ちた。
 しん、と森は静まり返っていた。シーグルだけではなく、ありとあらゆる生物が、この異様な出来事を固唾を飲んで見つめているかのようであった。かすかに神経の電気信号で肉塊はぴくぴくと動いていたが、その反応もやがて消える。風が遠慮がちに吹き通り、時間が動き出した。
 シーグルは我に返り、冷や汗をかいていた自分に気付く。それから、少年の肩を掴んで自分から引き剥がした。矢も楯もたまらず問い詰める。
「何ですか今のは……!? ハイノ、あなたがやったのですか!? ――ハイノ?」
 途中で、はっと気付く。
 少年の体はぐにゃりと力無く傾き、仰け反るようにして頭は重力に負けている。
 意識が、ないのだ。
 慌てて抱き上げると、その異変は明らかだった。少年の頬は紅潮し、触れたところすべてが熱い。苦しそうだが呼吸はしている。四肢はぐったりとして動かず、まるで出来のいい人形のようであった。
(高熱……!)
 異常なことばかりが起きる。鈍い頭痛を感じながらも、シーグルは急いで空間を”接続”し家にとんぼ返りするのであった。
  
  

  
 桶の水に”冷却”をかけて半分ほど凍らせたところで、ナイフの柄でそれを砕き、小銭入れにしていた草牛の革袋に水と一緒に詰める。これを簡易的な氷嚢にして、ハイノの額に置いてやるとバランスは悪いながらも狙った機能を果たしたらしい。少しだけ眠っているハイノの表情が和らいだ気がした。
 ほーっと息を吐いて、シーグルはベッドの傍らの椅子に座る。疲れからではない、頭の混乱を整理するために一息つかなければならなかったのである。
 脱いだコートは玄関の床に置きっぱなしで、それにも自身にもインケティスの血が付いたままであることは気付いていたが、片っ端から常時かけている方術によって浄化されているので対処を急ぐことはなかった。
(しかし。どういうことだ……? あの異常な体組織の変化は、私のよく使う”圧縮”や“破裂”系とも違う。というより、結果を規定された術式の挙動ではなかったのがおかしい)
 魔術や方術は、人が根拠を積み上げて作り上げてきた性質上、『こうなれ』という明確な目的が存在する。”圧縮”にしろ”破裂”にしろ、その名の通り、対象物が圧縮されたり破裂すればその術式は正しく実行されたことが証明できる。
 しかし、あの奇異な現象はどこかおかしかった。術式に組み込まれるべき『こうなれ』という結果へ向かうための意思プロセスが見えなかった。まるで、その現象自体が最終的にどうなるか分からない、奇妙な実験を見ているような気さえした。失敗した術は結果に対して最短距離では進行しないため、時折紆余曲折を経て尻すぼみに終わることはある。そういう、不完全な力の経路が垣間見えた。
(あれは、デザインされた術ではない。なら、魔物の術……生来的に引き起こせる奇怪な技だとすれば、ハイノの、魔物としての力なのか?)
 それが一番あり得た。
 根拠としては、あの現象の引き金となったであろうものは、ハイノの感情の昂りであったように思われたからである。
(生体組織の異常活性、いや暴走のように見えたが、賢者のホルダーの私でも”生体復元”級の方術は難しい。そもそも、魔物において方術相当の技を使えるものは確認されて……私が知らないだけで、いるのだろうか? 自己改造の出来るタイプは、他者に対してもそれが可能なのか?)
 シーグルは腕を組んでうーんと唸る。
 宮廷顧問や研究院なら情報は多く集まるのだろうが、民間の協会に属す彼では、実力はまだしも知識においては環境が違いすぎる。
 魔物は、動物より遥かに攻撃性が高く、力こそすべてという本能の生物である。魔力があれば攻撃的な使い道を本能的に選ぶ。そんな生物が、方術という生命エネルギーの活性により癒しを他者に与え得るものだろうか。いや、今回のように攻撃に転用できるなら生得し得るか、などとシーグルは思案する。
 ん、とハイノが身じろいだ。そちらに目をやると、荒い息遣いで必死に生きている少年がいた。優しい心を持った彼なら、或いは、と思わざるを得なかった。
(しかし、一番分からないのは……あの時、一切、魔力を感知しなかったことだ)
 どんな魔術師も神官も魔物も、魔力なしには一般人や動物と同様のことしかできない。自然界における、絶対のルールがそれである。ハイノが魔物の力を持っていたとして。方術に酷似した攻撃手段を行使したとして。この一点においてすべての仮説がまた白紙に戻る。火のない所に煙は立たぬ、という諺以前の、酸素がないところに火は立たぬ、という話になってしまう。
 指の背でそっとハイノの頬に触れると、焼きたてのパンケーキのように柔らかくて熱い。シーグルは目を細めて、胸が詰まるような苦しさを溜息にして放つ。
(これに関してはより専門的に研究している者の見解が必要だな。しかし、機密情報を持つ専門家にはなかなか会えない上に、こちらの事情も事情だ。検証と仮説を重ねて私が時間をかけて解明する方が安全策か……)
 長い道のりになるかもしれない、とぼんやりと思っていると、またハイノが呻いて寝返りを打とうと大きく体の向きを変えた。
 しまった、と思った時には遅かった。額の上で居心地悪そうにしていたなんちゃって氷嚢が、バランスを崩してひっくり返ったのである。元小銭入れの革袋に、水を止めておけるだけの締め紐の機能はない。コインしかせき止められない口から、ばしゃっと水がハイノにかかる。
「あっ……」
 急いで布団を剥ぐと、幸い水は顔や気管を避けたが、鎖骨から上半身に掛けて大きく広がってしまっているのが見て取れた。氷は既に解けて無い。
「濡れた方が体が冷えていいか……などと言っている場合ではありませんね」
 高熱の原因が不明な以上何が正解かも分からないが、水浸しは多分まずい。
 子どもの看病の経験などなく、いや大人に対しても看病したことなどないシーグルは、一般的な知識の中から何とか最善を手探りで探すしかなかった。
(高熱で汗をかいているようだ。そこに水が掛かってしまった訳だが、布団は魔術で一気に乾かせばすぐにまた寝かせられるが……濡れた服を着たまま乾かすのは、流石に熱いというか、人体に良くない気がするな。やはり一度脱がして、汗も水も拭いてやるべきか)
 個人的に看病する間柄の人もいなければ、戦地では片っ端から癒方術をかけていくだけである。病気に関しては、方術は殆ど根本的な寛解への手立てにはならない。生命エネルギーの操作は、あくまでも肉体の持つポテンシャルをかさ増ししたり特定の箇所の働きを高めたりするのが癒方術である。シーグルが自身に何重にも常時かけているように、毒やウィルス、病原細菌に対する方術による結界的防御策はあれども、どれもが体内に入って増殖する前のそれであって、症状として現れてくると薬や医学的処置にステージが変わる。
(熱冷ましの薬は先月卸すために作ったものがあったが……ものすごく不味いからあまり飲ませたくはない。あと半日ほど様子を見て、熱が下がらなかったら使う最終手段にしよう)
 一部の薬は、魔物から採取される素材や、有資格者でなければ立ち入れない魔物の生息域にある植物などから作られるため、そういった薬を煎じたり生成するのも魔術師職や神官職の仕事の一つである。シーグルもまた、特殊な素材の取り扱い資格たる賢者のホルダーなので、依頼がある場合は薬局組合に卸すこともある。
 クローゼットから大きなタオルを取り出して、乾いているベッドの片側に敷いてハイノを移す。桶の水を今度は”加熱”をかけてぬるま湯ほどにし、洗面用の布を浸して絞る。
 ハイノには大人用の服の袖を折って着せているので、首元はかなり緩い。シャツの前を閉める紐をほどくと、細く白い首元が露になった。
 ぴたり。とシーグルは思わず動きを止める。
(……待て。……大丈夫……か?)
 何が大丈夫じゃないのか、と自問すれば、ハイノの性別を確信してないだろう、という自答が返ってきて、男は凄まじい衝撃を受けた。
(そ……そうか! ハイノが男か女かなど、すっかり頭になかった……!)
 賢者の名が廃るとはこのことだ、とシーグルは本気で落ち込んだ。
 どちらでも違和感がない、まるで人間に性差が生じる前の根源的可愛らしさがハイノにはあるので、性別を殆ど意識せずに暮らしてこれた。たとえば、着替えや体を清める際は相手の体をじろじろ見るのはマナー違反だという観点で別々にやらせていたし、まあ、時折背中や上半身くらいは見たが、すぐに目を逸らして深く考えないようにしていた。その時点でまさに見てみぬふりをしていた問題がこうして突き付けられたという訳である。
 絞った布を持ったまま、苦しそうに息をするハイノを少し離れたところから見つめた。
(い、いや、男であれ女であれ、子どもを看病するためだから仕方がないではないか! ……とはいえ。とはいえだ。赤の他人が裸にして拭いてやっても問題ないほどハイノは小さくない。人間の十代前半くらいに見える。魔物ゆえ、自意識こそ無邪気で幼いが、普通の子どもなら親と風呂に入るのも嫌がるし、男女で意識し合い始める頃ではないのか……!? 精神年齢より肉体年齢が問題だ)
 さーっと青くなる。風体による罵倒や心無い言葉には慣れている。職業柄、悲しみや怒りで心に余裕のない人々と接する機会は多い。それでも、他でもないハイノに悲鳴を上げられたり嫌われたりしたら相当傷付くだろう。想像しただけでつらい。
 ふと、気付く。
(私は今、ハイノに嫌われたくない、と思ったのか? なぜ?)
 師弟としての関係が拗れるから、あと信頼関係が失われると面倒だから、いや、そもそもそんなものは構築できているのか。ぐるぐると思考ばかりが歩き回って、これ以上は収拾がつかなくなると勘付いたシーグルは、小さく頭を振って、目の前の問題に話を戻す。
(そんなことよりもだ。万が一……いや、二分の一で女性である確率があるのだから、男の私が無礼を働くわけにはいかない。というか男であれ何であれ、本人の同意なしに不用意に体を見たり触ったりすることは許されないことだ。子どもとはいえ一個人、しかし子ども故に大人の世話が必要、しかし服を脱がせて体を拭くという行為は医療行為と言えるほど専門的ではない……というか、誰に言い訳をしているんだ私は。誰でもない、自分自身の良心と倫理と常識との折り合いでしかないのでは……いや待て、待てよ……? ハイノは魔物だから、人間のこうした通念上の倫理というのは意味がないのか……!?)
 再びの衝撃走る。
 そもそも、魔物の増え方は人間より遥かに多様であることは、世に広く知られている。例えば、動物の発展型の魔物の多くは有性生殖であり、雌雄が別れている。姿かたちも雌雄差があるものも珍しくない。一方で、雌のみで繁殖するものもいれば、自己複製する分裂型もある。性別が後天的に決まり体が変化するものもいるというし、無性も両性具有の種族もあれば、突然変異で生まれたがゆえ、そもそも増えないものすらいる。
 ハイノは人間ではないことは確かだ。しかし、どんな魔物かもまるで知らない以上、どんな知識も経験も、目の前の未知に対しては何の力も持たない。
(知らないからだ……私は、ハイノのことを何も。まだ……)
 まだ数日とはいえ、寝食を共にするほど近くにいたというのに。得体の知れない魔物であるということ忘れて、のうのうと暮らせるほど、自分は腑抜けて日和っていたということなのか。
 立ち尽くす男と静けさの中、それを破ったのは、少年の生理現象であった。
「――っくしゅ!」
「ああ! すみません!」
 こんなことを逡巡している場合ではなかった。
 シーグルは腹を決める。己の中にいる複数の真面目な自分が喧々諤々の議論を未だに交わしていたとしても、結論が出る前に弟子が本当の風邪を引いてしまう。はだけさせた服と肌の間に手を入れて、背中に回す。濡れた服を床に放り、すっかりぬるま湯のぬくもりを失ってしまった布で体を拭いてやると、眠ったままのハイノから気持ちよさそうにふうと吐息が漏れる。気を逸らすべきか作業に集中すべきかも分からないまま、彼はただただ申し訳ない思いであった。弟子は謎の高熱に苦しんでいるというのに、自分は言い訳や保身ばかり考えていた。感情や心の動きで精神に疲労を感じる。
「……、……?」
 不意に、手が止まる。
 常の淡々とした無表情に戻り、一旦少年を寝かせてその体の上に手をかざす。半透明の淡く発光する窓がいくつも開き、実行者の意のままに機能する。
 ――これが本当の万が一という事態であろうか、と彼は思った。
  

 **
  

「――」
 ぼんやりと橙色の明かりが天井の木目を照らしているのを、ハイノは見つめていた。
 それに気付いたシーグルは、脚を組んで椅子で冊子を読みふけっている最中であった。室内はひどく静かで、息遣いと布の擦れる音と、ページを捲る音しかなかった。カーテン越しの窓の外は暗く、鳥たちも寝静まった夜中であることを示している。
 無言のまま、二人ははたと目を合わせた。
 シーグルの目が、微かに揺れる。それを無かったことにするかのように、彼は立ちあがり、ハイノが横たわっているベッドの縁にそっと腰掛けた。木枠がきしと小さく鳴いた。
 ゆっくりとハイノは腕に力を入れて、上体を折るようにして起き上がる。
「無理をしないでください」
 言っても止めようとしないので、仕方なく薄い背に手を添えて介助する。ハイノの顔色はずっと良くなって、まだ熱はありそうだが目はしっかりと開いてじっと彼を見つめていた。
 ベッドの頭側の縁に置いておいた常温の水が入ったカップを差し出すと、両手で受け取ってこくりと一口飲んだ。喉が潤ったせいか、んん、とハイノは声を出そうと咳をした。
「――せんせ……けが、ない?」
 開口一番がそれか、とシーグルは意外そうに瞬きをする。しかしすぐに、肩の力を抜いて肯ずる。
「平気ですよ。頑丈ですので」
「……よかった……」
 ほ、と吐息交じりにハイノは心底安心したように呟いた。それから俯いて、背を丸める。カップの中の水に悲しげな双眼が映る。
「ごめんなさい。おでかけ、なくなっちゃった……」
「問題ありません。熱が下がって、元気になったら行きましょう」
 シーグルとしては励ますつもりでそう言ったのだが、ハイノは曖昧に小さくまた息をつく。
 少年が責任を感じているのであろう事実は如何ともしがたく、シーグルにはそっとしておく他いい方法が分からなかった。
 それ以上に、インケティスに起きた不可解な現象についてを問うてみたくて逸る気持ちを抑えきれずに口を開く。
「ハイノ。倒れる前に、何が起きたのか、覚えていますか?」
 すると、ハイノはちらりとシーグルを見てから、不安そうに視線を落とす。
「……せんせいが、あぶないって、ぼく……ぎゅうってくるしくなって……あたま、からだぜんぶ、あつくなって……」
「フム? つまり……怒った、ということですか?」
 きょとんとした顔で少年は男を見る。
「おこる? めが、ぐるぐる……のこと?」
「怒る、という行為が分からないのですか? そうですね……どう説明したらいいか」
 うまく伝えられる言葉を探していると、ふとシーグルはベッドについた手に何かが触れるのを感じた。ハイノの手が、こわごわと指二本分くらい重なっていた。
 おや、と男は思う。いつもなら、ハイノは何の躊躇もなく手に掴まってくるものだが。そちらの方がシーグルの人生において稀有なことであることを、すっかり忘れてしまっていた。
「どうしました」
 優しく訊いたつもりだったが、声音は淡々と響いた。ハイノはやはり不安そうにまた上目で彼を見る。
「あの……ほんとうに、けがない?」
「本当にありません。ハイノが心配しなくても、大抵のことは一人で何とかできます」
「そうかも、でも……しなないでも、せんせいがいたい、くるしい、の、いやだから……かくすは、やめてほしい……」
 思わぬ言葉であった。
 この世には、痛みや苦しみはありふれている。魔物による惨殺など日常茶飯事で、人同士の争いすら絶えたことがない世界である。怪我、病、迫害、不況、差別、搾取、暴力。ささやかな尊厳でさえ蹂躙されることなど当たり前だった。
 シーグルもそうだった。記憶も身内もなく、生きていく居場所を掴み取るために必死で努力をした。寝る間も惜しんで、己の欲や甘えも切り捨て、周りの人や景色を省みることもせず、目的地までの最短距離の断崖を命懸けで登ったような半生だった。資格職者になるには体力と知力と努力、才能も運も必要である。階位を上げていくたびに要求される能力と資質は増え、何の犠牲もなく最高位まで得られる者は皆無である。だからこそ称号持ちは尊敬され、人々に必要とされる。シーグルとて、当然賢者と呼ばれる能力と資質はある。それを公的に認められた自負はある。
 だが――人として、欠けた人間であることには薄々気づいていた。こうして、ハイノが何故意味のない心配をしているのか。過ぎ去った痛みや苦しみを気にかけるのか。ありふれた不幸を気にかけない男本人の代わりに案じるのか。自分の心すら無駄と無視をしてきたのに、他人のそれなど、考慮に値するものではないと切り捨てた過去の自分を否定するような気がしていたからだろうか。だがあの朝、彼は何かが変わる予感を抱いていた。それを手放さないことを選んだ。
 ならば、向き合うべき時はいずれ来る。不意に、こうして。
「……何故ですか? 気にするほどのことでは無いと思いますが……」
 かすかに、声は掠れていたかもしれない。ハイノは不思議そうに、小さく首を傾げる。
「なぜ……? んむ……なぜが、どうして?」
 縋るような気持ちで、シーグルはハイノの手を握った。
「だって――せんせ、だいじだよ? だいすきだから、だいじ」
 少年はまっすぐに男を見て言った。男は言葉を失う。
 他人と距離を取るのも、他人にそれなりに優しくするのも、男にとっては等しく防衛方法であったことに彼はようやく気付く。過去の彼は、ひとたび心が折れてしまったら、この世界でありふれた死に飲まれるしかないことを知っていたのだ。それなのに、この無力で小さな少年は、拠り所を失うことの意味や痛みを刻み付けられてなお、目の前の男をまっすぐに見つめることができる。シーグルはそれを少年の強さだと思って敬意を抱いていたが、実はもっと、単純なことだったのかもしれない。
「あのね、だいすきは、すきがいっぱい、といういみです」
「……、……」
「うんとね……つよくて、やさしくて。きびしくて、おおきいところ。そばにいてくれて、いたいをなおして、あたまいいこする。たくさんしってる、おしえてくれる。だめなぼく、たすけてくれる。こわいことしない。ほめられる、と、うれしい」
「…………」
「すきはもっとある! おなかにひびくこえ、めがほそくなるところ。かみ、しゃきんとしたり、わしゃっとしたり。しずか、とおくをみるときある。てはひんやり、ぎゅっとするとあったかい。それから……」
「もう、もういいです。分かりました。……分かり、ました」
 指折り熱心に言うハイノを、シーグルは俯いたまま制する。
 まだ言い足りなそうに少年は顔を上げ、目を丸くする。
 己に欠けていた何か。少年に与えられた何か。音もなく歪な二つが噛み合うのを男は確かに感じた。
(ああ、きみは、『賢者』でも『シーグレンファルク』ですらなく……『わたし』をただ、まっすぐに見つめてくれるから)
 細い腕が伸びて、男の頭を引き寄せ、大切そうに抱きしめた。
「せんせ? いいこ、いいこです」
 微笑んで呟き、少年はいつまでも優しく頭を撫でた。
 かれが、そうされたように。
 かつてのかれが、そうしてほしかったように。
  

 **
  

 大陸の中央からやや北東、峡谷と山脈の合間を縫うように人里が点在し、大河の合流によって平野へと扇状にその街はあった。
 特徴的なのは、大河をまたいで街は広がり続けている点で、幾つもの橋が掛けられて西岸東岸と二分されて広がっている点であろう。この平野は国内有数の穀倉地帯として、夏には青々とした爽やかな草原、秋には広大な農地は一面黄金色に染まった野の姿に変わる。大河からの流れを引いているとはいえ、治水事業との兼ね合いで伏流水や地下水の利用も盛んであることから、巨大な風車の群れも観光客には人気のある風景だった。この風車の力を利用して収穫した麦は脱穀し、小麦粉に加工されて流通していくのである。
 その最寄りにして大規模な街が、このエンシオ市であった。
 この日、シーグルはエンシオ市の”跳躍”ポータルがある東門広場に立っていた。
 街が大きくなればなるほど、資格職者たちが集う利便性もインフラ事業の重点となり、街の各地にこうした”跳躍”到着地点が設けられることが多い。東門広場は街道にも面していることから、一般人の交通も多く、観光客目当ての路上の物売りも大道芸人も多く集まっている。
(相変わらず人が多い。やはりハイノは当分連れては来られないな)
 シーグルはいつもの黒づくめでポータルの白い円柱周りから速やかに移動して溜息をつく。
 この街のヴァイタルマークである最も巨大な風車は、農地都市外の丁度境目に当たる南側に屹立しており、何処からでも良く見えた。
 シーグルは歩き出す。
 山側の北へ向かう道は馬車や自走車等の為に広く整備されており、歩行者は店先並ぶ歩道を選んで歩くと彼の姿はかなり目立った。視線を感じながらも声をかけられることなくスムーズに目的地まで来れたのは、彼がこの周辺を歩くのは特別珍しいことではなかったからだろう。昔からあるこの通りは、魔道具販売資格を持った道具屋が軒を連ねており、古物商では掘り出し物もあり得ると多くの戦士職や魔術師職らしい人々が熱心にワゴンの中を眺めている。そこの大剣を背負った若者は、先輩らしい槍使いに防具の選び方を指南されている。こうしたあからさまな武器を携帯することが許されているのは皆有資格職者であり、街中で物騒な格好をしていても騒ぎにならないのはその情報が浸透して既に百年以上が経つからなのだろう。逆を言えば、武器使いの戦士職は誰にでも見えるようにその武器を持っていなければならないという法律があるため、凶器を持つ者の安心安全への配慮であるとともに、外見で身分を証明できるようになっている。
 やがて、煉瓦造りの赤茶気た三階建てほどの一際大きな建物が坂の上に見えてきた。
 古びた甲虫原色の看板には、『藍なる東雲団アルブラウズ・ギルド』とある。
 シーグルは、その大きな木製の扉を押して中に入った。
 まず二階まで吹き抜けのエントランスがあり、大きな”視覚支援”を施した掲示板が正面奥に設置されていた。そこには常時、現在協会から公開されている依頼が列挙されており、世界中の団に公開されている依頼、特定条件を満たした団向けの依頼、この団専用の依頼に分けられて三つの枠で括られている。五、六人ほどがそれを眺めて思案しており、その先には並んだカウンターでは、具体的な依頼内容の確認を窓口の者と団員が相談している。
 団は、三大資格職のどれかを有するものだけが属せる団体である。協会が世界各地で吸い上げて整理した依頼を請け負って、依頼人からの報酬を貰うシステムの最も現場に近い組織となっている。歴史は資格職の概念が生まれた時まで遡り、この藍なる東雲団も古参の一つとして有名なそれであった。
 ベンチでは、手元に個人用に”視覚支援”魔術の半透明の窓を開いて依頼を物色している者もおり、ざっと見渡すと二十名近くがこのエントランスにいた。彼らはシーグルがやってきても特に反応を示すこともない。賢者のホルダー自体は相当珍しいが、シーグルは頻繁に依頼をこなす勤労者として認識されているからなのだろう。
 やあ、とカウンターの一つで手が挙がる。指輪を幾つも付けた中年ほどの金茶髪の女性であった。人好きのする笑顔で手招きをするので、シーグルは丁度いいと寄っていく。
「おかえりなさい、シーグレンファルク。珍しく随分間が空きましたね」
「マルニエ様。申し訳ありません」
 特に悪びれもなくシーグルが言うのを、面白そうに彼女は笑う。目じりの皺が長くなる。
「いえいえ、このまま来なかったら報酬はこっそり懐に入れちゃおうかと……やだぁ嘘ですよ嘘! はい、今回の評価も最上でしたので、取り分は減額なしです。ご査収ください」
 そう言って、彼女は厚めの羊皮紙を差し出した。それを持って銀行に行けば即時現金化できるし、放っておいても額面上は口座に振り込まれていることになっているので、これは単なる領収書のようなものである。
(金貨一枚に銀貨五枚、上等だ。これを下ろしたら買い物に使ってしまおう)
 ちなみに最上評価は『過程、結果ともにまるで文句なし。また頼みたい』である。
 シーグルは国ごとに最も大きい銀行に口座を持っているが、それらを全て合わせても資産の半分以下ほどしか入れていない。殆どを現金化・物品化して各地に隠匿しているせいである。これは既に税金や手数料を引いた後の手取り分なので、特に法には触れない。別に銀行を信頼していないという訳ではなく、入用な時に下ろしに行くのが面倒なので、自分で自由に”接続”して取り出せる巨大な財布を持っていた方が楽だからである。
「さて、早速次の依頼を探しますか? たっぷりありますよお」
 マルニエはふくふくと笑う。
 彼女は案内手としてシーグルが団に属した頃からいる古参の一人で、いくつなのか聞くことは出来ないがその割にはすっきりとして若々しく見える。両手の指輪たちは、砂粒ほどの色石がついただけの銀のそれらであるが、以前聞いてもいないのに離婚するたびに増えている厄除のまじないが込められたそれなのだと教えられたことを会う度に思い出す。
「いえ、今日はそのつもりはありません。ところで……現在ウェンゼル様はいらっしゃいますか? 幾つか尋ねたいことがありまして」
「ウェンゼリオータ? 最近は魔学研での魔物の研究が楽しすぎるらしくて、滅多に帰りませんよ。あの子、熱中すると言うこと聞かないのよねえ。鳥文も読むかどうか怪しいものですよ。戻った時に知らせましょうか?」
「フム……いえ、結構です」
 当てが外れたな、とシーグルは少し落胆した。あの偏屈魔物好き少女なら、賢者よりディープな魔物情報を持っていそうだと踏んだのだが。
「では、ラトカ様はお帰りですか?」
「もちろん。定例会議には間に合わなかったけれどね。さすがに疲れたのか、少し休暇を取って昨日までいませんでしたよ。何か急ぎの用事ですか?」
「ええ、大切な話がありまして」
 シーグルは気を引き締める。
 今日、この慣れ親しんだ本部にハイノを置いてまでやってきた理由は――団を辞める、と申請するためであった。
  

(――もっとハイノと向き合わなければならない。ハイノがそうしてくれているように)
 そうはっきりと考えたのは、ハイノがまた寝静まった後、昨晩遅くのことであった。
 それには、時間が必要だった。
 いつ、どうして魔物がハイノを襲ってくるかも分からない。教えるべきことも山ほどある。今は任意の依頼を受けるのを休んでいる状態だが、賢者というスペックを必須とした名指しの依頼が来ることも多い。そういった難易度の高い仕事にはハイノを連れてはいけまい。戦力にもならず、現場は危険なことも多い。それ以前に人と接する機会も多く、魔物を連れ歩いていると噂が広まってはシーグル個人のみならず所属団体の評判や信用に関わる。かといって長く家を空けることも十分あり得る状況では、とてもではないがハイノの安否が不安すぎる。留守を預けておける協力者も今はない。
(幸い散財することなく貯蓄はできているし、自給自足も容易だ。道具も金銭も個人秘匿領域に保存しているし、極論身一つでも生活に問題はない。小遣い稼ぎも、非課税額内であれば言い逃れできるだろうし)
 魔術師職などの、魔力を使用した仕事をする為に資格が必要とされるのは、一般人を優に超える戦力の管理を国や自治体がしやすくするためであり、経済や財政の崩壊を防ぐためでもある。
 ヒト・モノの価値相場は、一般人と資格職とでは雲泥の差がある。例えば一般人が荷車を牛に曳かせて物流が成り立っている世の中で、魔術師が移動系の魔術で運送業を始めるとたちまち一般人の運送業者は失業し、輸送料金などの相場は破壊される。それほど魔術とは便利でコストの低い異常な技術なのである。そういったことがあらゆる産業界で行われれば、総人口の大多数を占める一般人において失業者が増大し、差別と怨嗟は人々の間に亀裂を生み、世は荒れ果てるだろう。やがて魔力を有する者とそうでない者との格差は深刻なものとなり、現在の支配構造並びに国家の形は大きく変容してしまうことが目に見えている。それを防ぐために、協会が依頼受付の窓口になって適正な料金と適正な人材を依頼主の元に派遣するシステムが全世界的に構築・維持されているのである。
 また、資格職者が協会を通さずに個人で仕事を請け負うと、そこに発生する協会の仲介手数料から成る多額の税金を徴収することができないため、協会及びその所属団体に属さない資格職者は、金銭の発生する労働を法的に禁じられ、資格剥奪や魔力出力阻害刑などの厳罰が課せられることもある。だが基本的に、というのは、やり取りされる金銭においては許容限度額が設けられており、完全に禁じているわけではないので、正直に税務院に申告をすることが資格職者の義務となっている。
 別に犯罪者になる気はないシーグルは、人の世から離れてひっそりと暮らす先人たちを参考に穏便な方法を模索するつもりであった。いつになるか分からないが、ハイノが独り立ちできるようになれば復帰することも考えられる。
(……そのハイノは大丈夫だろうか。熱は下がったが、眠ってばかりいる。あの時、体に大きな負担がかかったのだろう)
 家には魔術で封鎖機能を付与し、音声再生用魔道具を置いてきた。夜には帰ること、家から出てはいけないこと、水や食料など必要なものは室内にあることなどを記録させたペーパーウェイト型のそれは、ハイノが目を覚ますと自動的に再生されるようにしてある。
 賢い子なのでその言いつけはきっと守ると思うが、念の為室内の封が破られた際には警告が飛ぶようにもしてある。
(これからこの前できなかった買い物をするにしても、早めに帰りたいものだな……)
「――もしもーし?」
 そんなことを考えているうちに、黙り込んでしまったらしい。マルニエが鳶色の目をぱちぱちさせている。
「で、どうするんですか? 面談希望を出す?」
「はい。ただ、できるだけ早期の面談を望みますので、ラトカ様のご都合のいい時にお呼び出しいただければと――」
  

「今っ! 私を呼んだか! シーグレンファルク!」

  
 上から凛とした大声が降ってくる。
 エントランスがざわっと波立ち、風を切る音がシーグルの背後でしたかと思うと、カツンと一際大きな靴音がした。
 見るとそこには、片膝をついて屈むような体制で、少女がいた。ブロンドの長い髪を左サイドにて真っ赤なリボンで結い、青みがかった翠の双眸はぱっちりと大きく輝いている。
「ラトカちゃんだ」「リーダー、今飛び降りて登場したよな?」「なんで?」「かわいい」
 団員たちの声には耳も貸さず、彼女はスカートとタイツを組み合わせた可憐な戦闘服を揺らして、カツカツとヒールの音高らかにシーグルの方へと歩み寄っていく。
 人形のような可愛らしい顔には、自信と活力がみなぎっている。シーグルは彼女に向き直り、恭しく礼をした。
「お帰りなさいませ、ラトカ様」
「ああ、ただいま! 久しぶりだな! 随分長く顔を見ていなかった気がするぞ!」
「ちょっとラトカレギィ! また床にひびが入ったら自腹って言ったよね!」
「わははすまないマルニエール! シーグルよ頼む!」
「……『申す申す 白柳石の光沢 俯きたる日追い花 五十一の足跡 糾うは金麻の紐』」
 マルニエの文句にも悪びれず、ラトカはシーグルに鉢を回す。このスピード感も久しぶりだな、と思いつつ、シーグルは人差し指と中指の二本を当該箇所に向け、”復元”を実行する。物体に残る微かな記録を再現する、高等な魔術である。とはいえ時間を巻き戻すわけではないので、強度等は以前と全く同じにはならない。また周囲がざわざわと驚きの声を上げているが、当人たちはやはり気にも留めない。
「応急処置なので、後日職人を呼んで修復して下さい」
「そうしますよ、悪いねえ」
「うむ、相変わらず鮮やかな手際だ。感謝する!」
 上機嫌のラトカは一見わがままなようだが、快活でさっぱりしているせいか嫌味が全くない。シーグルはいつも、この若干十七歳ほどの上司の持つ人柄的なエネルギーに感心させられるのである。能力としては、戦士職の五位と魔術師職の四位、神官職の三位というまだまだ中堅どころなのであるが、この性格と外見の華やかさで、彼女は若いながらもこの伝統ある組織を束ねる長として奮闘しているのであった。
「恐れ入ります。ラトカ様も変わらずご健勝で何より。迷宮攻略は如何でしたか?」
「大変だったぞ! 魔物は強いし罠も多い。その割に貴重な素材や遺物は期待したほどではなかったよ。だから鑑定も君の手を煩わせるまでもなかった。まあ、武者修行にはなった、というところだな! はははは!」
 そういえばリースベットから言われていた、鑑定のお呼びがかからなかったのはそういう訳か、と納得する。
「それで、私に用があるという話をしていたな。書類の山にも飽きてきた頃だったんだ、執務室へ招待しよう」
「はあ、ありがとうございます」
「ついでに留守の間溜まっていた書類の処理を手伝ってもらいたいんだが」
「ラトカレギィ?」
「……ごほん。冗談だとも! そうだ、迷宮で窟蜜草を見つけたから手土産に持っていくといい。葉一枚で鍋いっぱいの飴が作れるぞ」
「はあ、どうぞお構いなく」
 ラトカの執務室は、本部の三階廊下の突き当りにある。じとっとしたマルニエの視線から逃れるように、二人は吹き抜けを迂回するように弧を描く階段を昇っていった。
  
  
 **  


「――ひょへ?」

  
 ラトカの間の抜けた声は、シーグルの言葉が想像だにしていなかったものであることを如実に示していた。
 書類の束と分厚い史料の棚に囲まれた大きな執務机の前に、一昔前の高級なソファセットが一組ある。そこに収まって、西方の紅茶を前に、二人は話を始めたところであった。
 いきなりの爆弾発言に、ラトカは硬直して顔を引き攣らせた。
「ちょ……え? 辞め……るのか? ウチを? なんでだあああ!?」
「大変急で申し訳ないのですが……一身上の都合により」
 ガタンとラトカが立ち上がってテーブルに手をついて前のめりにシーグルに迫った。金の紙の束がぼふんとシーグルの顔に当たる。それほど焦っているということだろう。
「そ、そう言われても、さすがにはいそうですかとは言えない! 我が団で、いや協会所属でも賢者の称号持ちは君くらいなものだぞ! 他の複数ホルダーは聖戦士や英傑はいるけれど……賢者は国や研究機関に採られて、民間ではレアなんだ!」
「承知の上です」
「はっ! 待遇に不満があるのか? 確かに私たちは君が働き者ゆえにそれに甘え過ぎていたかもしれないが……現場から離れたいというなら、依頼を受けるのは止めて顧問という肩書でゆっくりするというのも手では!?」
「お気持ちはありがたいのですが、それではちょっと」
「それでも駄目なのか!?」
 困った時には頼る気満々なのをを隠そうともしない彼女はいっそ清々しい。あわあわと取り乱す様子は、申し訳なさより滑稽さの方がほんの少し勝った。真面目な話の最中なので、いやそうでなくとも顔は無表情のままであるが。
 改めて背筋を伸ばして、シーグルはきちんと頭を下げた。
「長年この藍なる東雲団にはお世話になり、本当に感謝しております。複数ホルダーとなったのもここで働いている時で、皆様には大変祝福されたことなども感慨深く思い起こされます。しかしながら……」
 男は少女の目を真っ直ぐに見つめる。
「時に戦地派遣、時に迷宮攻略、時に災害救助。小さな依頼から困難な依頼まで、私の人生の殆どを費やして人々に尽力して参りました。今少し、自由な時間をいただきたいというのは、過ぎた願いでしょうか」
 ぐ、と少女が言葉を詰まらせる。
 称号持ちに課せられた社会的責任は重い。しかしそれを差し引いても、目の前の男の言葉に反駁できるほど、彼は怠け者ではなかった。
 協会及び団の果たす役割は、国の軍や機関のフォローしきれない領域をカバーするものでもある。魔領の緩衝地帯は近隣国の軍が常時駐留しており、時に魔領に動きがあれば協会に派遣要請が来るほどに手が足りていないのも事実であり、以東の国々との温度差は、協会の主戦力たる団員たちとのそれでもある。その割りを食ってきた一人としてのシーグルの言葉は、ラトカにも大きく響いた。
 肩を落として、ラトカは静かにソファに腰を下ろす。
「……協会が名指しで君を危険な依頼に差し向けるのを突っぱねることができないのは、ひとえに私の力不足だ。君には、苦労をかけている……」
「いえ。ラトカ様はよくやっておられます。私が同じ年の頃、同じように団員をまとめられたかといえば、無理だったでしょう」
 ラトカは苦々しく笑う。
「それは、私の実力ではないさ……私がリーダーとなった時も、忠実で実力のある君がいたから大きな混乱もなく代替わりが出来たのだと思っている。父からも、マウリ老が引退する際引き継ぐように君が来てくれて大いに助かったとも聞いていた。……感謝をしているんだ、引き留めたいが……君の決意は揺るがせそうにないらしい」
 彼女の弱々しい様子は、流石に堪えた。団をまとめ上げて進む方向を示し続けるためには、時には気丈に振る舞うこともあったろう。その細い両肩にのしかかる重圧を思えば、ここで突き放す自分は間違いなく悪者だ。しかしそうと承知で、シーグルはまた小さく頭を下げる。
「……申し訳ありません」
「ならばせめて……理由を聞かせてほしい。フリーになったところで働けば違法、隠遁するにもまだそんな歳でもないだろう。休むなら休むで、籍を置いたままでは何故いけないんだ? 何か、大きな使命を背負っているんじゃないのか!? せめて納得させてほしいんだ」
 それも尤もだ、とシーグルは思った。
 自分は政治には関わりは薄いが、団の稼ぎ頭としての働きはそこそこある。受ける依頼が減れば、団の収入も減る。
 す、とシーグルは深呼吸する。やはり黙ったまま去るのは不義理であろう。ここに来るまでにやはり迷いはあった。
 だが、彼女の様子を見て、覚悟を決める。
「分かりました、お話しします。実は――先日……人に近い魔物を助けてしまいまして」
「………んぇ?」
 本日二度目の、間の抜けた声。
 世界を救う使命とか、国に召し上げられるとか、そういうんじゃないの?と言いたげなそれに、シーグルは今度こそ引っ張られなかった。自分にとって、今一番重要だと思えることはもう揺るぎない。
「力も弱く優しい気質なので、人としても、魔物としてもまだ十分に生きていける段階にないのが、私の大きな気がかりなのです。ですから、私が師として、人を傷付けないよう、生きていくための知恵と力を教え導いてやりたいと考えています。そのための時間と自由が欲しくてこのような選択を致しました」
 ラトカはあっけにとられて、口を小さく開けている。その唖然とした表情からも、自分がいかに突拍子もないことを言っているのかが分かる。
 魔物を守ろうなどといえば、人によっては激高し、国によっては極刑すらありうるだろう。
「それでも魔物は魔物です。もしもの時、私なら被害を最小限に抑えられますし、然るべき責任を取るつもりです。ですが、その際にこの団と私が関係性を持ったままでは、ラトカ様や皆様に迷惑をかけてしまうかもしれません。それは避けたいのです。その上で、私が私の意志と責任において、あの子の『可能性』を信じてみたいというのが、退団の事由です」
「そんな、……ん、いや……」
 そんなことで、と言いかけたのを、ラトカは口を噤んで取り消す。
「そうか……それが、君のやりたいこと、なんだな」
 そう言うと思っていた、とシーグルは嬉しくなった。
 シーグルが彼女を上司として認めているのは、この誠実さなのである。相手の話を聞いて、決して馬鹿にしたり無下にしたりしないところが、彼女の長たる資質であると。
 彼女は視線をテーブルの茶に落とし、複雑そうな面持ちで言葉を次ぐ。
「私は幸い、と言っていいのか、魔物に対する憎しみはそうあるわけではない。正義感と必要性に迫られて、人々を守るために討っているだけだ。だが、世の中にはそうではなく……激しい憎しみや殺意を持っている者も決して少なくはない。それを承知で、だからこそ身を隠したいということなんだな?」
「仰る通りです。ラトカ様なら、冷静にこの話を聞いて下さると思ったからこそ、正直にお話しました」
 その言葉に、ラトカ自身も勇気付けられたのだろう。神妙な顔で、こっくりと頷いた。
「……分かった。君の信頼に、私は応えたいと思う。絶対に他言はしない」
 途端にの深い安堵がシーグルに齎される。
(一種の賭けだったが……功を奏した。リスクを冒して人を信じてみようなどという発想も、かつては俎上に上がらなかっただろうが……これもハイノの影響だろうか)
 これまでの自分なら、理由はきっと話さなかった。生真面目に退団を相談するまでは同じでも、必要な嘘ならいくらでもつけるのが大人である。
 しかし、慣れぬことをしたせいか、ラトカから想定外の言葉が飛び出した。
「だが……興味が湧いた。君にそれほど可能性を感じさせる魔物の子が、いかな者であるのか。会ってみたいぞ!」
 ぎょっとした。
 目が輝いているように見えるのは気のせいではない。
「そ、それは……即答しかねます。本人の意思を尊重します」
 すると、いつも忠実な部下の思わぬ反論だと感じたのか、ラトカは口を横一直線にして不機嫌そうに身を乗り出す。
「むううう! 会ってから退団について正式に決めるぞ!?」
「許可をいただかなくても、無断で行方をくらますこともできますが」
「ぬっ!? そういうのは良くない! そもそも退団許可を取りに来てくれたことには感謝をする! でも会ってみたい! 君の初弟子に!」
「ラトカ様……」
 我儘モードに突入してしまった。やはりこういう我を通すところは裕福な一人娘そのものなのだから困ったものだ。先代は甘やかしすぎていたきらいがある。
 シーグルはどうしたものかとため息をつく。
「では、帰ったら本人に訊いてみます。許可が貰えましたら会わせますが、拒否されたら会わせません。よろしいですか」
「うっ……い、いいよ。どっちにせよ、もう何度か引継ぎには来てくれるんだろう?」
「最低限の義理は通します」
「ふーっ! 君のそういうところが真面目で助かる!」
 勝算の薄い話ではあると思った。師としてもハイノの体調が心配であるし、まだ人間と交流を持つには言葉も知識も未熟だ。会話は随分上達したが、読み書きはこれからというところなのに。
 ともかく、今日はこれ以上ラトカと話すべきことはなかった。一応退団の意志は受理されたと見ていいだろうし、多忙のリーダーの時間を奪うのも忍びない。ソファから立ち上がって、一礼してドアノブに手をかける。
「――いや、待て!」
 鋭い一言に、ぴくりと手が止まる。
 ぴりと気を引き締めて振り返ると、厳しい顔つきでラトカが腕を組んで立っていた。
「最後に聞いておかねばなるまい……その子は……背は小さいか?」
「………………はあ。ラトカ様の頭一つ分ほど小さい背丈です」
「成る程。かわいい系か? やんちゃ系か? たくましい系か? どういう系なんだ?」
「…………………………かわいいです」
「うむ、よろしい!!」
  
 一体なにがよろしいのか、と本部の外に出てからシーグルは首を傾げた。
  
  
 **
  
  
 食料は順調に買い溜めしたが、一人で古着屋で子どもの服を買う際には周りの視線に耐えなければいけなかった。
 古くからある店ばかりのため殆どが顔見知りの店主や店子で、シーグルが独身であることも知っている。お喋り好きの彼らはどうしてもシーグルが子ども用の服を必要とするのか聞き出したかったようだが、のらりくらりとシーグルは躱し、店ごとに違う嘘をついて誤魔化した。どうせもう当分は顔を出さないのだと割り切っていたので、気は引けなかった。これは、今まで周りに気を使って生きてきたシーグルにとってごく新鮮なことで、途中から面白くすらなってきたのは自分でも意外だと思った。だがここにハイノがいたならもっと面白いのだろう、と気付いて、やはり手早く買い物を済ませることに尽力した。
 荷は買ったその場で倉庫に送り、手ぶらで彼はまた発着用ポータルに向けて歩き出す。余程の緊急性がない限り、エンシオ市のような人や魔術師の集まる街では市外へのポータルを経由しない“跳躍”や“接続”は忌避される。市内ならまだしも市外へとなると、術の難易度が三段階ほど上がり、他人との術式混線や場の乱れが危惧されるからであった。
「――おーい、そこの黒いの! ちょっと止まって!」
 聞き馴染みのある声に、シーグルは店先から外れたところで立ち止まって、辺りを見回す。
 すると、車道を挟んだ向かい側の歩道から、二人の人影が横断してくるのが見えた。背の高い女性と、後ろをついてくるのは少女である。
「リースベット様」
 シーグルは会釈する。するとリースベットは垂れ目を細めてからからと笑い、彼の腕を親しげに叩いた。
「元気してたかい、通信の時以来だねえ」
 癖っ毛があちこちに跳ねている赤髪は、シーグルの鼻先ほどの位置にある。杖も武器も持たず、彼女は胸元が開いたシャツにパンツスタイルと、一般人と変わらない軽装であった。
「マリス様もお久しぶりです」
「ご機嫌よう、ファルク様!」
 リースベットの連れである少女は、真っ直ぐな金茶の揃えられた髪を揺らし、スカートの裾を摘んで礼をする。その服装も良い生地を使ったいかにも神官職らしい白を基調としたローブを着用している。相変わらず育ちの良さが身嗜みにも所作にも現れる娘だな、とシーグルは思った。物臭気味のリースベットとは方向性が違う。
 そんなことはおくびにも出さず、彼は頷く。
「私はお陰様で変わりなく。お二方もご健勝でなによりです」
「はっはっは! 相変わらず仰々しい奴だなあ。同僚の前でくらいもっと肩の力抜けい!」
「ム、もう飲んでいらっしゃるのですか?」
 ふと漂った黄葡萄酒のにおいに、シーグルは眉間にしわを一本寄せる。まだ日も落ちて間もないのに、リースベットはほんのり赤ら顔でいつもより上機嫌である。
「もちろんよ、昼頃には依頼が終わってね! あんたもちょっと付き合いなよ。奢るよ!」
「しかし、これから帰るところでして」
「おいおい正気かい? この美人師弟と同席する機会を逃すなんて! マリスも話聞きたいよねー?」
「はいっ! 賢者様のお話聞きたいです!」『デス!』
 マリスはベルトにチェーンで繋がった手のひらサイズの村娘風の人形を持ち、裏声を使いつつ頷いているように動かした。人形は年季が入っており、刺繍されてできた顔には糸がほつれかけている。リースベットはマリスの肩を抱く。
「ほらほら、あたしのカワイイ弟子とお人形さんもそう言ってるよ」
「もー師匠! この子の名前はミルチッチですってばー!」
「あははははリースベットロウ一生の不覚ぅ」
 おどけてそう言うリースベットに、マリスは膨らましていた頬をしぼませ、またにこにことこちらに向き直る。
 女性二人の圧と期待を振り切るだけの野暮さは処世に不要であったので、シーグルは一旦は頷くしかなかった。
「……では、少しだけ。しかし本日は飲酒は致しません。家に帰らねばならないので」
「なんだなんだ、折角酌でもしてやろうと思ったのに。つれないねえ。ま、いいや。ヴーズヴィの店まで繋いでおくれよう」
 仕方なく三丁ほど先のリースベット行きつけの酒場に目的地を定める。前もって座標を知っていたので、無詠唱でシーグルは例の黒い平面を目の前に開いた。
 くぐるとそこは既に店内で、慣れた様子でリースベットは空いているカウンター席に直行する。続いておっかなびっくり顔を出したマリスは、無事に店の中の観葉植物横に出たことに唖然としている様子であった。最後にシーグルが通り抜ける。店内はこれからピークタイムを迎える頃で、賑やかに客も店員も活気にあふれていた。資格職らの御用達だけあって、不意に現れたシーグルらにも驚くことなくそれぞれの話や動きは続いていく。二人は早くも注文を済ませたリースベットの元へ向かう。
 途中、マリスはまじまじとシーグルを見上げて、感心したように言う。
「ふはぁ……賢者様ともなると“接続”に詠唱も必要ないのですねえ」
「いえ、大したことでは」
「全然大したことですっ! 文言を覚えるだけでも大変なのに、正確に意味と意図を理解して適切な魔力を通わせてやっとできるのが術式……なんですよね師匠!」
「そうそう。それが分かってても苦手なんだよな~我が弟子マリセラノスは」
「てへへ」
 困ったもんだ、と困っていなさそうな笑顔でリースベットは早速来た泡麦酒のジョッキに飛びついた。実にうまそうに口に泡をつけてぷはーっと彼女は一度に半分ほどまで飲む。
「まあ、魔術は属性術から操作やら概念やら、分野が広すぎて苦戦する気持ちはあたしにも分かるよ。あたしなんかも、最高位取ったあとは得意なやつばっか使ってるしね。師匠としてどうなのって感じよ」
「それで事足りるならいいと思いますが……」
「師匠はちゃんと師匠してくれてますよー」
「んふふーありがと。そうだマリス、いい機会だし、その朴念仁から魔術のコツでも聞き出してみたらどうだい? 口が硬くて弟子を取りもしない賢者なんて、勿体ないったらありゃしない」
 心外な言葉に、シーグルは首を振る。目の前に出された苦冬瓜の餡掛け煮があっという間に消える。口の中に。
「多忙にて時間がないだけで、隠してなど」
「ならばぜひ! コツの話、聞きとうございます!」
 目を輝かせて美少女にずいと迫られ、気まずそうにシーグルは少しだけ身を引いた。だがそちら側にはレニンの酢漬けをつまむリースベットがおり、この師弟に挟まれてしまった時点で黙ってやり過ごすことは不可能なのであった。
「はあ、では少しだけ……例え話ですが、マリス様は、ここからとある目的地にできるだけ早く辿り着きたい時、どのようにされますか?」
「えーと……すっごく急いで走ります!」
 リースベットの弟子となったマリスに会うのはこれで三度目くらいだが、この娘は素直だが少し単純すぎるな、と彼は思う。さっぱりして裏表のないリースベットと気が合う訳だ。
 こっくりと頷く。
「まあ、それはそうですね。そこは大前提として、最短の道のりを行くという話になってくるかと思います。しかしこの最短というのも、時々によって解釈が異なってくることもあります。例えば山あり谷ありの険しい道でも地図上の最短、つまり直線的に行くか。距離はいくらかあろうとも、安全で整備された道を行くか。これについては、目的地へ向かう用事によって、選択の余地があるでしょう」
 出された人参ジュースに手も付けずに少女は聞き入るので、シーグルも次の皿に手を伸ばせずに彼女の方に体を向けてちゃんと話す。
「そうして、目的地への地形や距離、安全性、利便性などを総合して、最善の決まった道のりを移動すること。これが詠唱です」
「……はい」
 急にマリスは不安そうな顔をした。ひひひとリースベットが後ろで笑う。
「先人たちが研究と苦労と工夫を重ねて辿り着いた最適解、詠唱とはそういう美しさがあります。これを放棄することは、基本的には褒められたことではありません」
「う……はい」
「ですから、私も他人に対してはきちんと詠唱して術を使います。それでも自分が使う際、急ぐ時、通う頻度の高い目的地の時などは、正規のルートを外れた方が便利なこともあるのです。そこで再び先程の問いですが、いち早く目的地に着くには、どうしますか?」
「……えー……? 最短ルートはもう出てるのに、それ以上って……」
 謎掛けをしている訳ではないのだが、例え話が気になりすぎるのか、シーグルは疑問符を浮かべている彼女の回答を藁地鴨のローストを食べながら待った。甘酸っぱいベリー系のソースが旨味の強い肉によく合って実にうまい。
 リースベットがおかわり、とオーダーしたのを聞いて話を切り出す。
「様々な答えがあるかと思います。ですので正解が何かというより、私の出した答えとしては……山を超えたり、谷を迂回したり、川を渡ることをしない道を選べばいい、というものでした」
「ほえ?」
 ぽかんと少女は口を開ける。その子どもらしい反応はハイノと似通ったところがある、とシーグルは思った。
「とはいえ人間には空は飛べません。一方鳥や竜や魔物などは飛べますので、詠唱もなしに、素早く術が使えます。人間の魔術とは、文字通り『魔』の術。魔物らの術を学問として体系化したものであり、速さや威力において本家には中々敵いません。ならば……さらに別の道を見つければいい」
「……えーと……? じゃあ……」
 シーグルは人差し指でカウンターを軽く叩いた。正確には、木製のそれを示したのではなく、さらにその下を指すために。
「地下です。人間には道具と知識、あと根性があります。地下を掘り、障害物や天候などを無視し、目的地まで殆どまっすぐに辿り着く道を作り出した。そこを高速で移動する道具を導入した。これが、私の行う詠唱なしの魔術です」
 しばしの沈黙。店の喧騒が遠くなるような気まずさに、シーグルは水を飲んで反応を待った。
 マリスは頭を整理しているようで、複雑な表情で何度も瞬きをする。
「えーと……分かるような、分からないような……ぐ、具体的にどういうことなんです?」
「つまり、理論と実績値から立体的に術の成立プロセスを理解して、魔力を通せば発動手順を踏める回路を予め己の記憶領域に組んでおくのです。そこに半自律的に圧縮した、発令明言を奔らせることで発動に至ります」
「…………ししょお~……助けてください~」
 ついに泣き言が飛び出した。こらえきれなくなったリースベットは、腹を抱えて笑った。
「あっはっは! やっぱりね。理屈派のシグと感覚派のマリスじゃそうなるわ!」
 予想通り、とばかりの言い草に、マリスは頬を膨らませるが、険悪な様子ではないのでシーグルはほっとする。相手の理解度や特性を知らずにせがまれて話すと大抵こうなる。かと言ってこれ以上噛み砕いた説明も難しい。
 一応フォローするように次の根菜のシーオイル和えを食べつつ彼は続ける。
「マリス様も幾つかの分野を修めると、それなりに分かってくると思います」
「そう……でしょうか?」
「だといいねえ。んふふマリセラノスちゃんよ、あっちの立食の皿から適当に取ってきておくれ」
「ふぁーい……」
 店の中央には大皿に料理が山盛りになったコーナーがあり、食事をメインに来ている者はそこから好きなだけ盛って食べている。料金は皿ごとに計算するという大胆で太っ腹なこのヴーズヴィの店が繁盛している理由は、腹が減っては戦はできぬ戦士職らの熱い支持があるおかげであった。なお、赤字かと思いきやちゃんと別口で利益を確保しているのが老舗のしたたかさである。
 自分もあっちの方がいいな、と思いつつ少女の背を見送ると、リースベットが自分の前に置いていたナッツ類を少しこちらに寄せた。
「あんたが賢者と呼ばれるのは、それらを統合して実践的なレベルで自分のものにしてるからだよ。沢山学べばいいってもんじゃない、できるかどうかもまた別問題。駆け出しにあの話はちょいと荷が重いよ」
「すみません」
「いっひっひ! この辺りは天才サマには分からんかもしれんね」
 テペットナッツを一つ口に放ってから、シーグルはゆるゆると首を振る。またしても心外である。
「とんでもない。私には、魔術の才能はそれほどありませんでした。ただ、努力は人一倍したと思います。苦悩する気持ちは分かるつもりです」
「いやいやぁ、あんたの師匠マウリ老は才を見抜く固有能力があったそうじゃないか。謙遜は通じないぞー」
 カウンターにもたれるリースベットは、ツンツンと指でシーグルの腕をつつく。酒飲みでだらしなくてスタイルも顔もいい、彼女に何故パートナーがいないのかというと、こういう奔放さにあるのだろうな、とシーグルは思った。妙齢の女性として、あまり褒められた態度ではない。
「いえ、事実です。努力をすること以外に、私には生き残る道はなかった。記憶も血縁も何もない私が、まず老師に拾われたことは幸運でしたが……その先は、人の役に立たなければ、必要とされるほど強くなければ、生きるための居場所を得られなかった。だから死ぬ気で頑張っただけです」
「ふへへ、死なんでよかったねえ」
 だが、同僚としてはこういうところが気が楽である。性別も関係なく、団の中堅から幹部としての立ち位置は時に孤独であるが、彼女はずっと変わらない。
 カウンターの向こうにある厨房で、威勢のいい男の声が飛ぶ。市井に女性の働く場所は多くなく、家の中で家事や育児をするか家業の手伝いが殆どである。だが魔力があるとなると、女性でも十分に活躍できるとして有資格職者の男女比はやや男性が多い程度と、一般人との乖離が大きい。結婚や子育てにとらわれず、自由で過酷な資格職の世界に女性が多いのは、それだけ抑圧から逃れたい思いもあるのではないか、とシーグルは思っている。リースベットのように、誰もが男とも対等に自由に振る舞えたらと。しかし彼女がそうできるのは、魔術師職の最高位を得る努力と苦難を乗り越えた実力があるからで、やはりこの世界では手をこまねいているだけでは何も得られないのである。
 ぐび、とまたジョッキをあおり、リースベットは深く息を吐く。
「……あんたが老師の後を継ぐようにして、この団に来てもう十年か。同期もだいぶ減ったねェ……飲み友がそろそろ後輩しかいなくなっちゃうよ」
 その横顔は寂しそうで、色香漂う美しさが確かにあった。いつの間に彼女はこんなに憂いを帯びた大人の女性になったのだろう。出会いより別れがこたえるせいだろうか。もう一緒に飲める同期はこの世にそう多くないことを噛みしめるように、また一口ゆっくりと飲み下す。
 彼女の様子を見ていると、これから打ち明ける話の内容を思うと良心が痛んだ。だが、黙っている方が不誠実なのも確かである。シーグルは息を吐いて、腹を決める。
「そのことなんですが。私もこの度退団したいと思っております」
「…………」
 今日は本当にこのぽかん顔に出会う日だ、と彼は思った。
 一瞬で酔いがさめたかのように、リースベットは椅子から転げ落ちないようにカウンターに突っ伏すようにしてしがみつく。それから、げほごほと気管にナッツが入りかけたのか大きく咳き込んでからがばりと顔を上げる。
「っな、ななんなんなんでェ!? 仕事人間のあんたが!? お客様第一のド糞真面目野郎が!? 年中無休で人々に尽くす系無趣味独身男が!!?」
「……概ね事実ですが、そうはっきりと言われますと困ります」
 悪意は多分無いのだろうし腹を立てるほど無自覚でもなかったが、一応突っ込んでおく。バケットの切り身に鶏レバーペーストを塗った一皿に手を伸ばし、二枚ほど口に放り込む。
 リースベットは顔色を白や青や赤や、どれにするか決めかねているかのように次々と変わる。
「それラトカにももう言ったわけ!? あのねえ、賢者のホルダーなんておいそれと手放す馬鹿がいるもんか! つーかどうしちゃったのさァ!? た、確かにずいぶん稼いではいるんだろうけど、もう隠居するってこと!? なんで!? 仕事人間がどういう風の吹き回し!? う、うーむ、この前は予定にない休みを取るし、どうも様子がおかしいと思っ……も、もしかして、けっこ……」
「落ち着いてください。少しばかり、自分の時間が必要になったというだけです」
「自分の時間んぅ?」
「はい。私は不器用ですので、仕事の片手間では中途半端になるかと思いまして」
 すると、彼女は悔しそうに眉をしかめてぶはーっと息を吐く。
「もう……そう言われると参るねえ。不器用かどうかはさておき、要領よく遊んで学んで仕事して、っていう器用なタイプじゃあないよなあ……だからってさあ! 昔っからそうだよあんたは。線を引いたように、自分のことは話したがらない」
「人様にお話しするほど中身のある人間ではないので」
「そーゆーのだよ! む! か! つ! く!」
「はあ、すみません」
 だんだん絡み酒になってきた気がする。気づけばジョッキは二つ空になり、つまみもそこそこに進んでいる。頃合いか、と彼は思った。
 シーグルは帽子もコートも取らずに座っていたので、すぐさま立ち上がることができた。なんとなくこの展開を想定できていたおかげでもある。
「そういうわけで、本日はこれで退散致します」
「えー! ちょっと、まだ何も聞き出せてないんだけど! それに今日はあんまり食べてないじゃん! まだ余裕で入るでしょ!?」
「そう言われましても。……ム」
 図星だが腕にでもしがみつかれたら人の目もあるし振り払うにも気が引ける。向かいにいる店員に、ふと目についた後ろの大皿にある赤目魚の餡掛け揚げを指さす。以前食べたことがあるが、頭から骨まで丸ごと食べられて、淡白な白身に強めの諸鶏がら出汁の餡と歯ごたえのある葉物が良く絡んで、店の看板メニューと言っていいほどの絶品であった。思い出したら食べたくなってきた。
「すみません、こちらを持ち帰り用に包んでください」
「はーい、お待ちをー」
「やっぱり誰かいるんじゃん!? ねェ!?」
 持って帰るくらいなら食ってけよ、とリースベットがコートの裾を掴んでバサバサはためかせる。
 それが目立ったのだろう。
「ーーあー!? そこにいるのはシーグルとリースベットじゃねえかァ!?」
 入口の扉付近から声が飛んでくる。
 思わず裾を取り落としたリースベットは、苦々しい顔をした。後輩にして団(ギルド)の本流筋の男、ヘイスイェルデンである。
「げっヒースだわ」
「てめーら定例会議をこっちに押し付けやがって、ふっざけんなよォ! クソ大変だったんだかんなー!」
 一瞬で沸点に達したヘイスイェルデンは、人混みをかき分けてずかずかとこちらへやってくる。これに捕まると本格的にまずい、とシーグルはいよいよ退散の姿勢を取る。持ち帰り用にトトの葉で包んだ薄木箱の袋を受け取り、金をカウンターに二山ほど多めに置く。一つは土産の代金、もう一つはリースベットが頼んだ皿分のそれである。
「挨拶にはまた後日伺います。あとはヒース様と飲んでください。マリス様にもどうぞよろしく」
「勘弁してよぉ! あいつのウザ絡みじゃ酒が不味くなるだけなんだけど! ……って、奢りだって言ってんでしょ、コラー!」
 カウンターにいつの間にか置かれていた料理の代金のコインが置いてあるのを見つけて、リースベットはきーっと腕を振り上げた。
 あっこら待て、とヘイスイェルデンの声が聞こえたが、シーグルは二階へ続く通路前が人が少ないと見るとひらりと飛び出し、あっという間に“接続”の黒い平面入口を開いてそれを潜った。
 瞬時に喧騒は消え、シーグルは夜の帳の裡に静まる東門のポータルのそばに佇んでいた。
「……ふう」
 肺に溜まった人の熱気や気配を、この閑散とした広場の冷えた空気と交換するように息を吐いて吸う。
 信頼できる上司と同僚たち、離脱を惜しんでくれる人々のありがたみを感じた一日であったが、今こうして一人の静寂に身を浸すと男はどこかほっとしていた。
 人の中でも恙無くやってきたこの十年程であったが、居心地の良さを感じるのはいつも一人の時だった。自分の心には他人は必要ないと思えるのはこういう実感からで、それが自分だと受け入れていたつもりでいた。あの不思議な魔物の子に出会うまでは。
 公的ポータルでも、個人の秘匿性を付与したポータルへ飛んだ場合は履歴が残らない。シーグルはガス燈の薄明かりに追われる影のようにポータルに寄っていき、その姿を音もなく消すのであった。
  
  

 深い黒に塗りつぶされた樹海を見下ろしていると、そこに何かがあるとは誰も思わない。一時の空中散歩を終えて無造作に下降すると、交錯する木の枝に触れようかという寸前でその視界は別のそれに像を結ぶ。
 “視覚偽装”を施した極小結界は主の帰還とともに通用口とばかりに穴を開けてすぐさま閉じる。
 一軒家は結界内にしか見えない明かりをほんのりと窓から溢し、素知らぬ顔でそこにあった。
 凪いでいた胸に、かすかに波紋が生まれる。何となくシーグルは身なりを整え、コートの肩や腕を払ってからドアの前に立つ。
(いきなり開けたらハイノは驚くだろうか? しかしノッカーも付けていないし、手でノックをするか声をかけてから入るべきか……いや、もしまだ、あるいはもう寝ていたら、起こしてしまうかもしれないな……)
 逡巡して、なるようになるかとそのままノブを回した。
 そっと押し開けると、照明の明るさに目を細めるとともにいい匂いがふわりと鼻腔をくすぐった。
 ダイニングテーブル辺りから視線を感じてそちらを見ると、目をまん丸にしたハイノが椅子から飛び降りてこちらに駆け寄ってくるところだった。
 そのまま、タックルするように飛びつく。シーグルの胴に抱きついたまま顔を上げずに、ハイノはくぐもった声をあげる。
「――おかえりなさい……!」
 ほんの少し泣きそうな声音だったことに、彼はすぐに気が付いた。ハイノにしてみれば、目が覚めたら一人で、外が暗くなっても音沙汰もない。シーグルが本当に帰ってくるか不安だったのだろう。
 胸の辺りに押し付けられる頭のついでに、捻れた小さな角が当たる。
「遅くなってすみません。ただいま戻りました」
 敢えて心配させたことに気付かないふりをして、シーグルは後ろ頭を撫で、ハイノの気が済むまでそうしていた。
 やがて顔を上げたハイノはにっこりしていて、目元は少し赤かった。せめて起きるまでそばにいてやればよかった、と男は後悔する。
 ふと、ハイノは奇妙な顔をした。眉を軽く寄せて、悩んでいるような、どちらかといえば不快寄りの初めて見る表情である。
「……」
「な、何ですか?」
「……いまきがついたけど……せんせいから、なんかへんなにおいがする」
 固まる。
 あの酒場の匂いだ。主に、果実酒と蒸留酒からそれぞれ発される特徴的なアルコール臭、あとは人々の熱気と料理が綯い交ぜになって、飲み屋の匂いは作られるのだ。
 コートや服に染み付いていたのか、とシーグルは内心動揺する。汗臭いだの何だのと悪口を言われることも昔は度々あったが、最近は気を使って振る舞っているので、あとは賢者の肩書故にか、面と向かって指摘されることはなかった。今回も酒場に行った後ろめたさで焦るというより、臭いと遠回しに言われるとこんなに傷付くものかという嫌な発見であった。ハイノに一歩退かれジト目で見られ、シーグルはつい言い訳を口にせずにはいられなかった。
「あの……これは酒という……大人の付き合いです、飲んでいませんが、そういう場にいたためについた匂いです、きっと……」
「……」
「……”分解”」
 もう何も言うまい、と大人しく臭いのもとである化学物質をさらに細かな粒子に分解する。
 上着掛けにコートをかけて、ハイノの入念な匂いチェックを経て、やっと落ち着く。やはり野生で生きてきたハイノは嗅覚が特別敏感なのだろう。そういうことにしておく。
 ぐるりと部屋の様子を見ると、活動の痕跡が見て取れる。テーブルにはリビングにあった数年前の本草目録が開いておいてある。文字は読めなくても、挿絵を見るだけでも時間が潰れたことだろう。キッチンには、火が消えた竈と深鍋が一つ。水場にはコンポスト用にまとめられた野菜屑と包丁類がある。
「夕食はどうしましたか? 食べたのですか?」
「いっしょがいいっておもって、まってました」
 ふふっと自慢げにハイノは言うと、その深鍋を示してそちらへかけていく。そういえばハイノは移動する時いつも小走りのような気がするな、とふとシーグルは思った。
 手の袋をテーブルに置き、後をついていくと、鍋の半分ほどまで茶色のスープと野菜たちが煮込まれているところを発見する。やはりこの匂いもキッチンの様子も、ハイノが一人で料理をしたという証拠だったのだ。これまではパンケーキの生地を混ぜるくらいしか一人でしていいこととして許可をしていなかったのだが、やればできるものだ。驚きと褒めたい気持ちを抑えて、努めて淡々と確認する。
「スープですか。どうやって火を起こしたのですか? 手は切りませんでしたか? 火傷は?」
「ないです! ひだねは、あかりからとって」
「厶……自動点火にしておいたのを利用したのですか。今回は私の落ち度でしたが、火の取り扱いは火事に繋がる危険性もあります。次は一人ではやらないこと」
「はあい」
 悪びれない返事に、思わず苦笑する。
 時間があったとはいえ臨機応変に動けることを念頭に置いて今後は留守番させなければならないだろう。ハイノは準備しておいた皿を持って、踏み台に上がってスープを盛り始める。あの鍋の量は大人三人分くらいはあったので、胃の余力があるうちに切り上げてきて正解だった、とシーグルはパンを切り分ける。
 ハイノはいつもより上機嫌で、席についてさあ食べようという時、机越しに身を乗り出して、白芋とスープをスプーンに乗せたものをシーグルに差し出した。
「はい、あーんして!」
 シーグルは変な汗をかく。
 味に不安があるわけではない、その『あーん』とは、まさか口を開いてそれを食べるというスキンシップ的なアレだろうか。
「いえ、自分で食べますので」
「だめ? たべない?」
「そういうことでは……、ム……」
 キョトンとしている様子を見る限り、ハイノはこれが親が子にしたり恋人同士がしたりするような行為とは知らない。なんかもう説明も面倒になって、仕方なく口を開ける。他に誰も見てないとはいえ、顔から火が出るかと思うほど、そしてここ数年経験のない恥ずかしさであった。
「わぁい! ふふっ、やったぁ……!」
 ハイノはスプーンに歯が当たる感覚やちゃんと食べてもらえたことなどに感激しているようであった。それから、わくわくと尋ねる。
「どうですか? まずくない?」
「ええ。ちゃんと芋にも火が通っていますし、塩加減もいい。それに……何かハーブ系も入れましたか?」
 ホクホクとした食感に塩ベースの汁、出汁には干し肉茸だろう。独特の清涼感と草の香りがあとから鼻に抜ける。
「しおのたなに、あった、まるいはっぱをつかったです」
「ほう、クガの葉を入れたのですか。フム、南バテウの郷土料理にこんなスープがあったような。中々味覚センスがあるようですね。美味しいです」
 素直に褒めると、照れくさそうにハイノは自分もスプーンを動かした。
 そして、ぬるくなったスープを口いっぱいに頬張り、空腹を思い出したかのように食べ始める。勿論店の専門家による食事よりずっと質素で単純ではあるが、美味しいと言うだけで作り手の喜ぶ顔が見られるのは悪くない。
 と、そこでシーグルはテーブルの端に所在なさげに置かれた袋の存在を思い出す。
「そうだ、これはお土産です。魚の揚げ物は食べたことがないでしょう」
「すごーい! おいしそう! でも、あげものってなーに?」
 尾が反り返った魚の丸揚げと冷めて粘度の増した餡をナイフで切り分けながら説明をし、シーグルはじんわりと癒やされていくのを感じていた。
 気を使うことは多いが、取り繕う必要がないということは、こんなにも息がしやすい。
  
  

「――ハイノ。私の上司に会ってみる気はありますか」
 そう切り出したのは、食事が終わってリビングのソファで棘笹茶を並んで啜っていた時のことであった。
 ハイノは目を丸くして、背筋を伸ばす。
「じょう、し……?」
「私のいる組織では、私より偉い方です。偉い、というのは、言うことを聞かせる立場にあるということです」
 ハイノの隣に腰を下ろしながら、シーグルはなるべく緊張させないようにゆったりと言う。
「せんせいに、いうこときかせるひと? こわいですか……?」
「怖くはありません。彼女は魔物に偏見を持った方ではありませんし、そばには私がついています」
「なぜ、ぼくに、あうんですか?」
「実を言うと、私は今所属している組織を辞めるつもりです。しかし、その偉い方に引き止められました。私も長年お世話になった組織ですので、できるだけ義理を通して辞めたいのですが、彼女は、ハイノに会ってみたいと」
 虹のような目が揺れる。
「んん……まって……せんせいをひつようなじょうし、とか、ほかのひとは、こまるってことですか? それに、せんせいがおしごとやめるのって、ぼくのせいですか? だったら……」
 ハイノはシーグルの仕事内容も考えも何も知らないはずだが、痛いところをついてくる。
 確かに、協会が公開している依頼は国がフォローしきれない範囲なので、賢者が請け負えないほど困難な依頼はあまり無いが、その逆は多い。人材不足が業界における深刻な問題である昨今、これまで以上に団員ならびにリースベットやヘイスイェルデンのような称号持ちホルダーは忙しくなることだろう。
 しかし、それを承知でシーグルは既に心を決めている。本人が自分のせいならと遠慮したからと撤回するような軽い気持ちではない。
 シーグルは首を振って、ハイノの肩にぽんと手を置いた。
「ハイノは気にしなくてもいいことです。私は、私の居場所を確保するために人助けをしてきたこれまでの生き方を変える、そんな時流に差し掛かったのだと思っています。未練が全くないわけではありませんが、何ごとにも優先順位と言うものがあります」
「んん……よくわかんないですけど……ぼくのせいで、せんせいががまんするはやだ……」
 しゅんとハイノが項垂れる。身を縮めるとこんなに小さいのか、とシーグルは胸が痛む。
「我慢ではありません。私は、私の為にあなたの師をやることを決めたのです。これは、私の意思でありエゴです。むしろ……付き合わせてしまって、申し訳ないと思います」
「へ? もうしわけない……は、ごめんなさいのいみ? んぇ……なぜ??」
「ああ、これはそういうことではなく……フム、今の段階では文脈とニュアンスを伝えるのは難しいですね。とにかく、ハイノは何も気にしないでよろしい」
「でも……」
 なかなか頑固な態度に、シーグルは苦笑する。
「私相手に、そんなに気を使ってばかりでは困ります。嫌なことには嫌と言っていいし、やりたいことがあればぜひ聞かせてください。それを実現させる手助けをするのが、師なのですから」
 はっ、とハイノは息を呑む。大きな目がさらに大きくなり、そこに自分が映るのをシーグルは見た。ハイノの頬が少し染まる。少年もまた、自分の心を見透かされたと思えば恥ずかしいと思うのだろうか、と師は興味深くそれを見つめる。
 やがて、唇を噛んでハイノは顔を引き締めた。
「なら――ぼく、じょうしさん、あってみたいです」
 その表情に、確かな決意を見る。目を少し丸くして、シーグルは問い返す。
「いいのですか?」
「ウン。ひと、まものよりやさしいし、せんせいがだいじょうぶ、っていうなら、だいじょうぶのひと」
 その笑みには一片の疑いもないことに、シーグルは言葉を詰まらせる。この信頼に勝る何をも彼は知らない。 
「せんせいがやりたいことを、てつだうのも、でしのやくめ! それに、いろんなひととはなし、してみたい、っておもいます。ぼくにできること、なにがあるのか、しりたいです」
 眩しいほどの前向きで希望に満ちた笑顔が、今の彼には直視することができた。この子の師であるという矜持が、シーグルも確かに変えている。
 小さな手をそっと取り、握り締める。心から、そのぬくもりを愛おしいと思った。
「ありがとうございます、ハイノ」
  
  
 **
  
(……どこかの森だ)
 彼女は自主的に目を閉じていたので、移動が終わったことを空気の匂いの違いで真っ先に気が付いた。
 出掛けにラトカの兄弟子のヘイスイェルデンに捕まりかけたが、二人はどうにか彼の追及を躱して概ね予定通りにこの密会をいよいよ実現するに至っていた。一部”感覚偽装”を施したうえで、秘匿ポータルを三つほど迂回経由して、ラトカは無事に森の中の一軒家に辿り着くことができた。彼女自身まだ魔術師職を極めてはいないので、シーグルのかける魔術の多くは彼女には抵抗も遮断も不可能であった。何より、そうする理由が彼女にはない。それをシーグルも承知していたので、無礼になるほどの過剰な探知対策をすることはなかった。
「ラトカ様。御足労いただき、ありがとうございます」
 シーグルの声は、前方から聞こえた。そっと瞼を押し開けてみると、制限されていた五感情報が一挙に解禁されたかのように、木々のざわめきや濃い土の匂いなどが神経を刺激した。
 数歩ほど離れた位置に、シーグルは立っている。いつものように淡々とした黒コートの男は、しかし今日は常よりも魔力を研ぎ澄ませて巡らせているように思えた。
「……!」
 彼の後ろで、ぴょこりと角と髪が見え隠れした。ラトカはごくりとつばを飲み込んだ。
 やがて、シーグルの手に促され、その魔物の子はぎくしゃくと前に進み出た。
 一見弱い十四、五歳の、美しさと幼さの同居する少年であった。しかし、黒い捩じれた角に、白い毛束のような尾、色の遊ぶ瞳は明らかに人ならざるものであった。
 不安と緊張の入り混じる表情で、少年は小さな唇を開く。
「――はじめまして。ぼくはハイノ……ハイネルエシーグルです」
「かッ……」
 それは、みぞおちに一撃重いやつを食らった時の声であった。
 え? という顔を師弟は同時にする。誰も、何も攻撃など行っていないのだが。
 ラトカは体を折り、片手で胸を、片手で顔半分を覆う。
  
「――かッ……わいい……!」
  
 絞り出すようなラトカの声は、今度はちゃんと言葉としてのそれであった。
 ハイノは目をぱちくりして、シーグルを振り返って混乱の表情を見せる。師はというと、そうきたかという想定外の事態にも既に適応しつつあった。
 しかし、ハイノが可愛いことにそんなにダメージを食らうものか、とも思いつつ。
 彼女ははあはあと息苦しそうに呼吸をしながらも、にやけてくる顔はもう隠しようがなかった。間違いなく、美少女が大変混乱し興奮しているの図、である。
「しししシーグルよ! なんだこれは! なんなんだこれは! 想像の二十倍かわいいぞ! どうしてくれる!」
「は、はあ」
 なんなんだこれは、はこちらの台詞だ、とシーグルは思った。どうしてくれる、も。
 ラトカの豹変ぶりに、ハイノは至極当然だが、怯えていた。かつて会った人間の誰も、こんな反応はしたことが無かったのだろう。気持ちは分かる、とシーグルはそっと寄り添う。
「あの……まちがえましたか……?」
「ああっ! 違う、違うんだ! ええと、ハイノ? 申し遅れたが、私はラトカレギィという者だ! 魂に誓って敵ではない! ぜひともラトカと……お姉ちゃんと……いや、好きに呼んでくれて構わない!」
「ぁえ……」
 矢継ぎ早に飛んでくる勢いのいい言葉と前のめりな様子は明らかに異常である。ラトカ自身も己を御しきれていない様子がまた怖い。
「ラトカ様、どうか落ち着いてください。あなたそういう感じの方でしたか?」
「うぬうう……バレてしまっては仕方がない。私は、可愛いものに目がないのだ! 子猫も豆兎ももっふもふの犬も! たまらないんだあああ!!」
「それは薄々分かっておりましたが、人型も対象なのですね」
「うむ! 小さい子どもも愛おしいが、ちょっとこの子はすごいぞ! 人としても可愛いし、角や尻尾もとても似合っていて寧ろプラス要素だ! 小動物的可愛さも兼ね揃えており、あああすごい、これは、これが恋だろうか!?」
「違うと思います」
「そうか! 愛か!」
 シーグルは頭痛がしてきた。
 確かに、ラトカとは数年来の付き合いではあるが、一緒に依頼を受けてどうこうしたことはそう多くない。野生の小動物を愛でる様子は見たことがあるし、屋台のぬいぐるみを欲しそうに見ていたことも記憶していたが、女性は得てして可愛いものが好きであるという既成概念が今までそれを見過ごしてきたのだろう。
 いくら女性でも、『こう』なる者は極々少数に違いない。まるで見たことのない魔物を前にしたウェンゼリオータのようだ、とシーグルは率直に言えば引いていた。
 ハイノは、じっと彼女を見つめていた。ラトカもこれ以上怯えさせないようにその場から動かず少年を凝視していた。妙な沈黙と絡み合う視線に、師は少しだけ不安を覚える。
 やがて、意を決したように口火を切ったのは、意外にもハイノの方だった。
「ええ、と……ラトカさんは、せんせいのじょうし、です?」
「おお、そうだとも。この舌っ足らずな『先生』の言い方もたまらないな!」
「ラトカ様」
「ンおっとすまない」
 折角勇気を出して話しかけたのに、また貝になってしまったらどうする。という注意の声かけをラトカも正しく受け取る。姿勢を正し、顔を引き締めるといつもの凛とした彼女に戻ったように見えた。
 ハイノはそのことにまた少し驚いたようだったが、思い切って先を続けた。
「ぇ……えと。せんせいが、いなくなったらこまりませんか? それって、ぼくのせいかもしれなくて、ごめいわくを……ええと、それで……ごめんなさい!」
「ハイノ、……」
 矢張りまだ気にしていたのか、とシーグルは思わず声を漏らした。しかしハイノは彼の方を振り返ることなく、彼女に頭を下げたままじっとしている。
 小さく息を飲んでから、ラトカはふっと、息を吐きながら微笑む。
「……いいや。その謝罪を受け取るわけにはいかないな。顔を上げてくれ」
 おずおずと言われた通り顔を上げ、ハイノは彼女を見る。
 ゆっくりとラトカは少年に歩み寄る。並んでみると、背は彼女の方が頭一つ分大きい。
「確かに、先生はとっても頼りになって、いてくれると助かる人だ。きみもそれは分かるだろう? だからきみは彼を必要としている」
「は、はい」
「しかし、だからといって先生の生き方を強制することは誰にもできない。有能であれ無能であれ、自分の生き方は自分で決めるべきだと私は思う。自分の意志で決めたことなら、どんなに苦しくても後悔はしないものだからな。逆に、後悔し続ける人生ほど惨めで辛いものはない」
 ざあ、と風が吹き通る。ほうけたハイノの髪に、枯れ草が引っかかる。
 ラトカは、胸に手を当てて笑った。
「だから私は、きみに出会って彼が嫌々でも仕方なくでもなく、望んでこの決断をしたことを誇りに思う。彼は、自分の心を裏切らなかったんだ。今この瞬間、きみの先生は間違いなく幸せだよ」
「しあわ、せ……?」
 そっと彼女はハイノの髪にかかった草を取って、にっと歯を見せて笑った。
「すごいな! きみは、きみの大切な人を既に幸せにしているんだ! 胸を張っていいぞ!」
「! はい……っ!」
 その笑顔に勇気づけられたように、ハイノも徐々に表情を緩める。
 シーグルは、かなわないな、と思った。彼女の言葉には力がある。まっすぐに人を見つめ、心に届く誠意と熱意がある。どちらもシーグルが持ち合わせていない人間としての魅力が、彼女をより大きく、美しく見せるのだ。実力が伴っていなくとも、いやだからこそこの人を支えたい、付いて行きたいと人々に思わせる人間とはきっとこういう者なのだ、と彼はしみじみ思った。
「正直、団や人々は多少困るだろうが、まあなんとかなるさ! 人ひとりいなくなって回らなくなる世界など、いつかは破綻するものだからな! わはははは!」
 からりとそう言ってのける辺りは、兄弟子のヘイスイェルデンと似ているようで、能天気さという意味では彼女の方が上であった。シーグルはハイノを見下ろして、少しだけからかうように言った。
「だ、そうですよ。ハイノ、もうこの件で心配はしませんね?」
「うん、よかった! せんせいのいったとおりだ。じょうしのひと、やさしくてかっこいい! ありがとうございます、ラトカさん!」
「んぐうううう!! こちらこそありがとう……!」
「色々台無しです」
  

  
 長居はすまい、とラトカは家の中に上がることは固辞し、結界内の井戸近くにある切り株と朽ち木に背負っていた荷物を下ろした。
 得意げに彼女はにんまりして、リュックに手を突っ込むと、一枚何かを取り出した。見ると、今の彼女より一回り小さなワンピースであった。
「これはかつて私が着ていた服だ。もう不要ゆえ、良かったら着てほしいと思ってな」
「ありがたいです。お気を使っていただき申し訳ありません」
 これはシーグルにとってかなりありがたかった。子どもの成長速度は話に聞く限り早いらしいし、その度にどう服を調達すべきかと悩む手間が省けると言うものだ。服を自分で縫製できたり、あるいはハイノを伴なって店に行けるほどになっていればいいが、男一人での子供服の大量購入は何かと目立つことがこれまでの経験で明確だ。
 しかし、出す服出す服、当然であるが女物である。ハイノ的には問題ないだろうか。
「おいでハイノ、こんなのはどうだろうか? ちょっと当ててみて……はああ似合う! こっちもどうだろう! 私はフリフリしたやつよりシュッとしたやつの方が好きでな、趣味が合えばいいんだが!」
「はあ、まあそうですね、ハイノが嫌でなければ……」
「ぼく、ふくすきです! さむくないし、ころんでもいたくない」
「根本的な発想だな! はっはっは!」
 細かいことを気にしないラトカと細かいことまで気にしていないハイノは、案外相性がいいのかもしれない、と男は心底ほっとした。いずれ、ハイノも人と接する方法を学んでいかなければならない。自分一人では、それが適切に行えるか不安であったので、秘密を守れて協力が期待できる第三者がいればとは考えていた。
「むう? そういえば、女物でも抵抗はないということは……そう、なのか?」
「ええ、そのお話も少々」
 ふと何かに気付いたラトカに、シーグルはこっくりと頷いた。それから、ハイノに向き直る。
「ハイノ、いただいた服を家の中に全部持って行ってくれますか? リュックはお返ししなければなりませんから。その間、私は少しラトカ様とお話があります」
「できます! これごとよいしょって、いいですか?」
「勿論だとも! 気を付けて背負ってくれ」
 苦労しながらも大きな荷を背負い、ハイノは家の方に駆けていった。それを微笑ましく見送ってから、ラトカは切り株に再び腰を下ろす。
「さて、話を続けよう。ハイノについて、何か懸念があるようだな」
「……ラトカ様は、『性別がない人』をご存じですか?」
 虚を突かれたように、彼女はその言葉に目を丸くする。それからすぐに、口元に手を当てて考え込む。
「むう、そうだな……神聖皇国フォルトフのラウラステア様が確かそうではなかったか? 魔力が非常に豊かで神に愛されたお方ゆえに、中性には神秘的なイメージがあるな。地域によっては短命であったり忌子として扱われるらしいが、かのお方が相当印象を良くしていらっしゃると思……、まさか、ハイノもそうなのか?」
 鋭く問うと、シーグルは小さく頷く。
「恐らくは。私も医学専攻ではないので確信があるわけではないのですが、あの子の身体を”分析”する機会がありまして、それで気が付きました」
「ははーん。それまでは男だと思っていたのだろう? でなければ、きみが女子を引き取るとは思えんからな」
 にやにやしてラトカが言う。ある意味で図星で、ある意味で誤りであったので、口を濁しつつシーグルは視線を泳がせる。
「はあ、まあ……実を言うと、何も想像していなかったのです。どちらでも、ハイノに変わりはありませんから」
「! ……」
「それで走査の結果、生殖器にあたる一切が無い、あるいは未成熟でした。普通の人間であれば既に成人と同様の機能を持っている年頃に見えますが、そもそも男性器も子宮も無いとは思わず。魔物の中にはそういった特徴のあるものもいるので、そちらの特性を色濃く受け継いでいるのかもしれません」
「成程……男でも、女でもない、か。後天的に変化が生じる可能性もあるな」
「ええ。しかし魔物の生態については私とて専門家には敵いません。ウェンゼル様や魔学研を頼ろうかと思っていたところです」
「それがよかろう。考えようによっては、どっちでもない方がハイノらしいというか、すごくイイと思うぞ。ずっと可愛いもんな」
「……」
 じっ、とシーグルの三白眼がラトカを睨むようにすぼまる。はっとして、ラトカは慌てて立ち上がった。
「他意なく! そのままの意味でだぞ! そっそんな目で見るな!」
「そちらこそハイノを変な目で見ないでください」
「見てない! 私は妹か弟がほしかったんだ! そういう目だ!」
「…………」
 ふーっとシーグルはため息を吐く。
 この少女はリーダーでありつつ団の皆に妹のように可愛がられていたが、まさか姉願望があったとは。普段の反動なのか、こちらが本音なのか、どちらにせよ今になって新事実を暴露されたこちらの身にもなってほしいと思った。対人関係的不器用ゆえにちゃんと向き合うのはハイノひとりで手一杯なのだから。
「……話が逸れました。ハイノの種族も不明で、情報が少ないのが現状です。魔力も無いに等しく、抵抗値も低く、膂力も見た目通り子どもの水準。そのせいか、魔物に襲われることも度々という始末です。何か、所見があればお聞きしたいのですが……」
「ふーむ。確かにその話からすると魔物らしからぬ非力さだな。こんなに人と近いものは私も見たことがないし、まだ本人も知らない能力があるのかもしれない。新種とか、突然変異、あるいは先祖返りとか……?」
「ほう? と言いますと」
「うん。人間と魔物の境目については、今でこそ姿かたちや身体情報で厳密に特定できるようになったが、その中間に位置したものも過去にはきっといたはずだ、とウェンゼルから聞いたことがある。そういうものの血の記憶が表面化すると、ハイノのような存在になるのかもしれないぞ」
 意外にもその可能性は無いわけではないな、とシーグルは思った。魔物は世代交代が著しく早い種と、自己変化に長けた種などが存在し、ひと世代違えば全く異なるものが生まれてくることもざらである。種族としての人間はその意味では安定的だが、魔物はとにかく種類も数もそれらの変化も凄まじい速さで増長していく。それが進化であるか、適応であるか、退化であるか、袋小路の変化であるかは結果論でしかなく、魔物は種族全体で実験的思考を繰り返しているような生態なのである。ハイノも、突然変異としての先祖返りでこう生まれたとしてもおかしくはない。シーグルはまたこっくりと頷く。
「面白い見解です。その線の確認として専門機関に身体情報の分析を依頼したいところです。ただ優先順位としては……」
「うむ、人の中でもやっていけるようにするのが先だな……いや。いっそ、何者か知らなくても……角も尾も落として、一般人として団の受付でもしていた方が幸せかもしれん」
 しんみりとラトカが言う。
 その光景は、比較的簡単に想像ができた。器量よしの元気な受付者として、きっとハイノはすぐに人の輪に馴染めるのだろうと二人は思った。魔物に脅かされることのない、結界内の安全なところで、たとえ家族は持てなくても、平和に一生を終えることが出来れば、それも一つの幸せであろう。
 シーグルはしばし目を閉じる。
 ――口では人と魔物の生き方を選択させたいといっておきながら、そんな未来を心のどこかで期待して、率先して人の言葉や常識を教えているのではないのか。魔物としての生き方よりずっと容易なそちらなら、いつまでも傍で少年を見守れる。そんな打算がないと本当に言い切れるのか。自問は途切れることなく湧いて出るが、自答することが今はできなかった。瞼を押し上げて、小さく息をつく。
「……いずれ、本人に選ばせましょう。頭のいい子ですから、人に溶け込むことは造作もないのかもしれません。戦いを覚えるには、些か優しすぎるきらいもある……」
「……ふふ」
 不意にラトカの声で、シーグルは我に返る。思考に沈み過ぎて客人の存在を忘れかけていた。
 彼女は優し気に微笑んで、じっとこちらを見つめていた。絵になるな、と思いつつシーグルはその視線の意味を問う。
「何か?」
「いや、何だか……いいな、と思ってな。きみは本来、そういうタイプの人間だったのかもしれないな」
「そういう、とは」
「たった一つのものを守るのが性に合っている、ということさ」
 彼女は立ち上がり、さく、さくとゆっくりと周辺を歩く。手を後ろで組んで、物思いにふける様に。
「……私の母が言っていた。人は、運命の星をいつか見つけるものだと。それが同性であるか異性であるかも、見た目も歳も言葉も立場も、何も関係ない。間にあるものが恋や愛や友情や憎悪や嫌悪であっても同じだ。本当に替えのきかない存在が、彗星王クレイゲンビストを導いた霊獣オルペリクスの如く……暗夜を往く道を照らしてくれるのだそうだ」
「……」
「小さい頃からその話を聞いていて、私はずっと憧れていた。恥ずかしい話だが、翼馬に乗った王子様を信じていたのだな。お伽話のように、父と母がそうであるように、結ばれて幸福になれるものだと。しかし……運命の星は、お互いにとってお互いがそうだとは限らないことも知った。考えてみれば当然だな、星は人のためだけに輝くのではない。星にとっての星が、他にいたっておかしいことじゃないんだって……」
 シーグルに背を向けた状態で、彼女はぴたりと歩くのを止めた。長いサイドテールが風に揺れる。
「でも、きみたちはきっとそうじゃない。相手が魔物だろうと人だろうと構わない、性別もどうでもいいなど、普通は考えもしないんだぞ? だけどそういう枠を超えて、きみたちは向き合い、お互いがお互いに必要とし合っているのが見てすぐに分かったよ。これまでの全部をひっくり返してもいいと思える存在に出会えたんだって」
「ラトカ様……」
「君は強く賢く、私の先を行き過ぎていて、これまで羨むことも劣等感を感じることも無かった。だが今初めて、そして心底、君が羨ましいと思う。――出会えずに一生を終える人もいるのに、どんなに求めても出会えない人もいるのに……それでも君は、」
 ラトカはくるりとスカートを翻して振り返った。羨望の眼差しを湛えた泣きそうな笑顔が、不意に彼の胸を打つ。
「君の星を見つけたんだな」
 彼女の背後で、ティーポットとカップを盆に乗せ、ドアから出てくる少年が見えた。頼んでもいないのに、茶を淹れて持ってくるところだろう。転ばないように慎重に、一生懸命に。その姿を見ていると、じわり、と胸の奥が微かにあたたかくなる。笑いながら、ラトカがハイノを迎えに駆け寄っていった。すまないな、気を使わせて。いいえ、ありがとうございます。
 空は藤色に染まりつつあり、茜と溶け合い何枚もの大気の薄いヴェールを重ねていく。
 東の空にはひときわ輝く一番星が、揺れる蝋燭の火のように瞬いていた。
  
  

 行きと同じように帰りも秘匿ポータル経由でラトカをエンシオ市まで送り届けなければいけないので、ハイノと彼女は家の前で別れを言い合った。すっかり彼女に懐いたらしいハイノは、名残惜しそうに手を握って、姿が見えなくなるまで手を振り続けていた。ラトカがほんの少し涙ぐんでいたことに、シーグルは気付かないふりをした。
 東門広場は既に日没後の落ち着いた様相で、別れ際、二人はどちらともなく握手をした。
「素敵な時間だった。私を信じてくれてありがとう。達者でな」
「こちらこそ、受け入れていただき、ありがとうございました。どうかお元気で」
 年齢も性別も立場も何もかも違っても、こうして信頼を結ぶことができることに、そして笑って別れを言えることに二人は静かに感謝をした。彼女の小さくなったリュックを背負った姿を見送っていると、はたと立ち止まって、慌てて彼女が戻ってくる。余韻が台無しである。
「おおそうだ、忘れるところだった! これをリースベットロウから預かっていた」
 差し出したのは、一通の蝋で留められた封筒だった。
 シーグルはそれを受け取って、今度こそ二人は別れる。それぞれの帰るべき場所へ。
  
 夜がやって来る前の空は、一際明るく、同時に影を長く伸ばす。その手に、全てを掴もうとするように。
  

しおりを挟む

処理中です...