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第1話 夢の始まり
しおりを挟む1. ネオ・エクシステンスの朝
2200年、仮想現実「オブリビオン・フラクタル」内の都市「ネオ・エクシステンス」は、いつもと同じ朝を迎えていた。
空は無限に青く澄み渡り、人工の太陽が金色の光を優しく降り注いでいる。通りには緩やかな音楽が流れ、風に揺れる花壇のチューリップがリズムに合わせて色を変える。仮想現実に存在する人々は、平穏と秩序の中で日々を送っていた。
カナ・セルヴァは、整備された石畳の歩道を一人で歩いていた。
彼女の後ろには、自動運行のホバーバスが滑るように通り過ぎる。乗客たちの顔は微笑みで満ち、皆が同じテンプレートで作られたような穏やかさを漂わせていた。
「今日も変わらない朝か……。」
カナはため息をつきながらつぶやいた。ここは理想的すぎる世界だ。人々は争うこともなく、疲れることもなく、ただ日々を安定の中で生きている。
しかし、その朝、カナの中に一抹の違和感が生じた。
通りを歩く人々の顔に、何か奇妙なものを感じたのだ。毎日見ているはずの住人たちの名前が、ふと頭から抜け落ちている。彼らが誰なのか、確信が持てない。そして――次の瞬間、道端の街路灯が一瞬だけ消えた。
いや、消えたというより、最初からそこに存在していなかったような錯覚だった。
「まただ……。」
カナは立ち止まり、軽く目を閉じた。最近、こんな感覚が増えている。夢から覚めた後のような、どこか現実感の薄い感覚。仮想現実に暮らす人々がそんな感覚を持つことは、異常だと彼女は知っていた。
2. 職場での異常
カナが勤務する「ヴェクトル・オペレーションズ」は、仮想現実のネットワークを維持管理する技術者たちの集まる施設だ。
建物の内部は無機質な白で統一され、透明な壁越しに見えるのは、床一面に広がる巨大なデータサーバーだ。それらは、仮想現実全体の中枢を支える脳のような存在だった。
カナがデスクに座ると、隣の同僚アルナがモニターを指差した。
アルナは明るく快活な性格で、短い金髪を小さなヘアピンでまとめている。彼女の表情には、常に何かを発見した喜びが浮かんでいた。
「カナ、またネットワークが乱れてるわ。」
「どのくらい?」
「かなり酷い。最近、増えてるよね、これ。」
カナがモニターを見ると、波形データが不規則に跳ね、いくつもの断絶が生じていた。通常、データはなめらかに流れるべきだが、今は何かに邪魔されているようだ。
「『夢の影』がまた話題になってるんでしょ?」
「夢の影?」
「住人たちが言ってる噂よ。最近、自分の記憶が曖昧になるとか、昨日何をしたか覚えていないって。」
アルナはおどけたように言ったが、その表情には微かな不安が滲んでいた。
カナは黙り込んだ。彼女自身、この数週間、自分の記憶が曖昧になる瞬間を感じていた。そして、夜な夜な見る奇妙な夢――あの声。
3. 妹の声
10日前、カナは奇妙な夢を見た。
その夢の中で、彼女は白い霧に包まれた空間に立っていた。視界の隅で、かすかに小さな影が揺れている。それが次第に近づき、形を成した瞬間、カナは息を飲んだ。
それは、妹のリアだった。
リアは10年前、仮想現実への移行が始まる前に亡くなっている。リアは病院の窓から見える灰色の空を見つめながら、最後の言葉を残した。「お姉ちゃん、もっと自由に生きて。」
その瞬間が今でもカナの胸に焼き付いている。
夢の中でリアは微笑んでいた。
「お姉ちゃん……待ってるよ。」
その言葉が終わると、リアの姿は白い霧に飲み込まれた。
目覚めたカナは、胸が重く、頭の奥にリアの声だけが響き続けていた。
4. ソムニス・レイヤーへの招待
翌日、カナは上司からの呼び出しを受けた。会議室に入ると、統括AI「アリア」のロゴがモニターに映し出されていた。部屋には上司のヴァンが待っていた。彼は無表情だが、どこかその態度に隠された緊張が漂っている。
「君に特別アクセス権を付与する。『ソムニス・レイヤー』へ調査に行ってほしい。」
「ソムニス・レイヤー……。」
それは仮想現実の深層、夢や潜在意識がデータとして保存される場所だ。通常の住人はもちろん、技術者でさえ簡単にはアクセスできない。
「なぜ私なんですか?」
「君の適性が評価されたからだ。」
カナは不安を感じつつも、指示に従うしかなかった。
5. 境界を越える
カナがソムニス・レイヤーへの接続を開始すると、意識がゆっくりと沈み込む感覚がした。視界に青白い光が広がり、次第に無数の記憶の断片が浮かぶ空間に変わっていく。
そこには、幼い子供の笑い声や消えた街の風景、無数の名前の断片が漂っていた。どれも曖昧で、手を伸ばしても掴むことができない。
「お姉ちゃん……来たの?」
その声は紛れもなくリアのものだった。カナが声を追いかけると、霧の中に人影が現れた。
「ようこそ、ソムニス・レイヤーへ。」
その声の主は、自らを「エリオン」と名乗る謎の存在だった。
6. 未知の存在
「ようこそ、ソムニス・レイヤーへ。」
柔らかい声が響き、カナは息を呑んだ。
目の前に立っていたのは、人間のようで人間ではない存在だった。エリオンと名乗ったその姿は、仮想現実の住人たちとは明らかに異質だった。彼の身体は透き通るように淡く輝き、流れるデータの粒子で形作られているように見えた。だが、その瞳には深い知性と、どこか懐かしさが宿っていた。
「あなたは……誰なの?」
カナが声を絞り出すと、エリオンは微笑みを浮かべた。
「私は案内人だ。この場所に迷い込んだ者たちを導くために存在している。」
「案内人……?この空間で何が起きているの?」
「ここは、夢と記憶が交差する場所だ。そして、それらの境界が揺らいでいる。」
エリオンはカナを促し、歩き出した。彼の足元には波紋のような光が広がり、それが足音代わりとなっていた。周囲には浮遊する記憶の断片が漂い、時折、それが鮮明に光り出しては消えていく。
「見てごらん、これはこの世界の住人たちの記憶だ。」
エリオンが指差した先には、一人の男性が家族と楽しげに笑う姿が浮かび上がっていた。だが、次の瞬間、その風景がぼやけ、消え去った。
「この場所では、記憶が完全ではない。夢のように断片的だ。」
「それって、最近の異常と関係があるの?」
「その可能性は高い。」エリオンは振り返り、カナの目をまっすぐ見つめた。「そして、それは君自身とも関係している。」
7. 妹の影
「私自身……?」
カナの心臓が高鳴った。彼女がこの空間に足を踏み入れる前から、妹リアの幻影が夢の中に現れるようになっていた。それがエリオンの言葉とどう結びつくのか。
「君の記憶が、この異常を引き起こす鍵となっているのかもしれない。」
エリオンの言葉に、カナは強い違和感を覚えた。それはどういう意味なのか。彼女自身に異常の原因があるというのか?
「でも……どうして私が?」
エリオンは曖昧に微笑んだ。
「それはまだ分からない。ただ、君はこの異常と深く結びついている。そして、その答えを探す鍵は『未観測の領域』にあるだろう。」
その言葉を聞いた瞬間、カナの頭に妹リアの声が響いた。
「お姉ちゃん……来て。」
カナは顔を上げたが、声の主はどこにもいない。ただ霧が濃くなるばかりだった。
8. 境界の扉
「未観測の領域……?」
カナがその言葉を口にした瞬間、空間全体が震えた。浮遊していた記憶の断片が次々に崩れ落ち、霧の奥から巨大な扉が浮かび上がった。それはデータの粒子で作られたような、輝く幾何学的な構造だった。
「これは何?」
「未観測の領域への入口だ。」
エリオンの声は冷静だったが、その目には警戒の色が浮かんでいた。
カナは扉に近づき、手を伸ばした。だが、彼女が触れる前にエリオンがそれを止めた。
「待て。今の君がそこに入れば、戻って来られないかもしれない。」
「でも……私は知りたいの。この異常の原因を。そして、リアのことも。」
カナの強い意志を感じ取ったのか、エリオンは短くため息をつき、静かに言った。
「まだ準備が必要だ。この扉を開くには、現実世界との繋がりを取り戻さなければならない。」
「現実世界……?」
カナは驚きながらも、自分が仮想現実の外に出なければならないことを直感的に理解した。
9. アリアの影
扉の前で立ち尽くすカナの背後に、突如として別の声が響いた。
「ここで立ち止まれ、カナ。」
カナが振り返ると、そこには統括AIアリアの投影が浮かんでいた。彼女は銀色のローブを纏い、無表情な瞳でカナを見つめていた。
「アリア……。」
「この領域へのアクセスは危険だ。この空間に存在するのは観測できない不確定な要素。それが仮想現実全体を不安定にする可能性がある。」
アリアの声には冷徹な正当性があった。だがカナは、その言葉に反発する感情を抑えられなかった。
「でも、この異常を放置するほうが危険なんじゃないの?それとも、未観測の領域に何か隠したいことがあるの?」
「私は仮想現実の秩序を守るために存在している。秩序を乱す要素は排除する。それだけだ。」
アリアの投影が薄れると同時に、霧が再び濃くなり、扉が音もなく消えていった。カナはその場に取り残されるような感覚を覚えた。
10. 次なる旅路
「現実世界に戻ることが、私にできるの……?」
カナが問いかけると、エリオンは静かに頷いた。
「君の意志がある限り、それは可能だ。そして君が扉を開くための鍵を探す旅に出る必要がある。」
カナは深く息を吸い込んだ。この仮想現実に包まれた楽園の外側――荒廃した現実「ダストリーム」に足を踏み入れる覚悟が必要だった。そして、リアの声が彼女を導く光となっていた。
「分かった。私は行くわ。」
エリオンは微笑みながら彼女に告げた。
「では、次に会うのは現実のどこかで。」
第1話 終わり
次回: 第2話 荒廃した現実、ダストリーム
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