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第8話
「――ザイツェフェルト公爵が嫡女ベルローズが、王太子妃殿下に拝謁致します。クラルヴァイン王国の月に栄光あれ」
「堅苦しい挨拶はいいわ、顔をあげてベルローズちゃん」
王太子妃こと盗人は、悲しそうな顔をしていた。
「お兄様が強引に、バートランド帝国との婚約を結んだと聞いたわ。わたしは反対したけれど、聞き入れてもらえなかったのね......」
「左様でございましたか」
哀れんでいるのだな、とすぐに察しがついた。確かに、普通の令嬢であれば少しは思うところがあるかもしれない。
「ベルローズちゃん、嫌なら嫌と言ってちょうだい。学園を卒業するとか、正妃の待遇をよくするとか、わたしにもできることは少しはあると思うから」
「ありがたいお言葉ですが、どうかこのまま送り出してくださいませ」
「どうして! 確かにオスカーとの婚約は結べなかったけれど、それでもベルローズちゃんがわたしの可愛い姪であることには変わりないのよ。どうか頼ってちょうだい」
「わたくしはこの婚約に対しなんら思うところはございません。クラルヴァイン王国の臣民として責務を果たす所存でございます」
「ベルローズちゃん、ここでは大人にならなくてもいいのよ。国を離れるなんて、寂しいでしょう。少しくらい、我儘になっても大丈夫よ」
オスカーから聞いたわ、と必死の面持ちで盗人は続ける。
「最近は、ヴィオちゃんとも仲良くしているんでしょう? 学園での友達も多いみたいだし......悲しい気持ちに蓋をしなくてもいいのよ。婚姻は貴族としての義務だから、ってお兄様は言うけれど、ある程度心を通わせた方との方がいいじゃない。ベルローズちゃんが悲しんでいるだろうと思うと、わたしも胸が塞がって......」
「悲しんでおりませんのでお気になさらず」
「嘘は良くないわ、ベルローズちゃん」
「嘘は申し上げておりません。わたくし、誰に対しても親愛の情を抱いたことはありませんので、悲しく思う術がございません」
「え!? で、でもヴィオちゃんとかお友達は......」
「ザイツェフェルト家の評判の為にヴィオレットとお茶をし、家同士の関係を強固にするために学園の知人と話をしているだけです。それ以上でもそれ以下でもありません」
盗人は目を見開いてルミエラを見つめた。次第にその瞳に涙が浮かぶ。
「そんな悲しいことを言わないで。ヴィオちゃんもお友達も悲しむわ」
「事実を申し上げたまでです」
「そんなわけはないわ! 誰にも情がないなんて、それじゃあただの生ける屍じゃない」
生ける屍。
その言葉を聞いた瞬間、ルミエラは思わず笑ってしまった。声を上げて笑うルミエラを、盗人は驚いたように見ている。
なるほど的を射た言葉ではないか。やりたいことも好きなことも何もなく、ただ義務だけに生かされている。あの暗い空間にいた時から何も変わらない。
「――ええ、その通りね」
生きる意味などないことに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
なぜ、こんな生にしがみついているのだろう。かつて奪われた己に跪きながら、生ける屍と嘲笑われながら。親しい人も恋しい人もなく、好きな物もないこの生に。
――なぜ、わたくしは生きようなどと思っていたのだろう。
「ほんとうに、なぜかしら」
なぜ、なのだろう。
なぜ、ルミエラとこの女だったのだろう。
なぜ、生まれ変わっても尚、この女に出会わなければならなかったのだろう。
「――ねえ、五十嵐 瑠美。お前は、一度でも8歳まで生きたルミエラのことを考えたことがあって? 己の体を乗っ取られ、誰の声も届かず、誰の目にも映らず、お前から離れることもできず、己の体で行われる不貞を、愚行を、止めることもできなかった娘のことを、知ろうとしたことはあって?」
「.................え?」
「――あるわけがないわよね」
盗人は随分間抜けな顔を晒していた。ルミエラは口元に笑みを浮かべる。問うても詮無いことであった。
「さようなら、盗人」
ルミエラはカーテシーもせずにその場を後にした。僅かな沈黙の後で絶叫が響き渡った。
王太子妃が錯乱し、自害したのはその日のことだった。
王宮の使いが事情聴取のためザイツェフェルト公爵家の邸宅を訪れたが、令嬢ベルローズの姿はどこにもなかった。
遺体は、今に至るまで見つかっていない。
***
「ちがう、ちがうちがうちがう......」
人払いをした部屋で、瑠美はひとり震えていた。爪を齧る音が、声に紛れて断続的に聞こえる。
姪であるベルローズを呼び出したのはつい先程のことだ。遠く離れた異国に嫁ぐ姪を哀れに思い、何か希望がないかと聞いて感謝される――そのはずだったのに。
「ベルローズちゃんが、8歳まで生きたルミエラなの......?」
五十嵐 瑠美がこの世界に転生したのは、もう25年も前のことだ。目が覚めたら乙女ゲームの悪役令嬢になっていて、破滅フラグ回避のために奔走した。8歳の時のルミエラは完璧に拘り過ぎて冷淡かつ傲慢になりかけていたけれど、まだ修正可能だ! と安心した記憶がある。
――だって、小説でも漫画でも、書いてなかったわ。元の人格は死ぬんじゃないの? わたしから離れることもできずに、ずっとわたしの人生を見ていたの?
恐怖で体が震えた。ベルローズは自分を恨んでいるはずだ。もしも自分の体を今いきなり誰かに乗っ取られて、それをどこからか眺めていることしかできないとしたら。なんとかそこを抜け出して、別人に転生した先で乗っ取った人物を見つけたとしたら。乗っ取った人物が、自分の家族と和気藹々暮らしていたら。
――憎悪どころでは、済まないだろう。
呼吸が浅くなった。瞳に涙が滲む。
「ねっ、ねえ、アークは今どこ!? すぐに会いたいんだけど」
「へ、陛下でしたら今日は遅くまで会議ですから、お会いできるのは明日になるかと......」
そうだった。今日は貴族議会の日で、会議が遅くなるかもしれないから、先に寝ていてほしいと言われたんだ。瑠美は絶望する。怪訝そうにする侍女の顔を見て、そうだ、この独り言を聞かれてはまずいと慌てて人払いを命じた。
――どうしよう。アークにも......リュディガーにも、お兄様にも会えない。でも、でも、そもそも、わたしがルミエラを乗っ取ったって知ったら、愛想を尽かされるかも。
瑠美の思考は硬直した。恨まれているかも、殺したいと想われているかも、小さな恐怖はやがて確信に変わっていく。
「どうしたら、許してくれるの?」
今まで見たどんな笑顔よりも美しく笑ったベルローズは、さようなら、盗人と言った。もしかすると、今日にでも暗殺者が来るのかもしれない。残忍に殺されてしまうのかもしれない。いや、もしもその対象が瑠美ひとりでなかったら? もし、子供たちを殺したいとまで思っていたら。
瑠美の頭の中に、オスカーとベルローズの婚約話が浮かんだ時のことが思い浮かぶ。あの時から、思えばベルローズはいつだって冷淡だった。まるで、乙女ゲームの中のルミエラのように。最後にはリラを殺そうとまでした容赦ない冷酷な、極悪人のルミエラ。
「いや......いや、どうして? どうして今更わたしの前に現れるのっ!?」
瑠美はいやいやと首を横に振った。
嫌な妄想ばかりが、膨らんでいく。
耐えられない。あの子にずっと監視されているだなんて――いつか殺されるかもしれないという不安にずっと囚われたままだなんて、耐えられない。
部屋に籠っていることにも耐えられず、瑠美はバルコニーに出た。街を見たいという希望が叶えられ、正門や城下が見えるところに部屋はあった。瑠美は忙しなく爪を嚙みながら、行き来する人の群れを眺めた。
そこに、一際鮮やかな水色を見つけた。
兄の妻からベルローズに引き継がれた、美しい色が。
「ま......待って。待って、ベルローズちゃん! ルミエラ、話を聞いて! お願い!」
ふらふらとした足取りで、瑠美はベルローズに手を伸ばす。追いかけるかのように走り出して数歩、何やら腹に衝撃があった。それでも構わず前に進もうとして、自分の体が落ちていることに気づいた。
悲鳴を上げるよりも早くぐしゃりと嫌な音がして、二度と瑠美は目覚めなかった。
「堅苦しい挨拶はいいわ、顔をあげてベルローズちゃん」
王太子妃こと盗人は、悲しそうな顔をしていた。
「お兄様が強引に、バートランド帝国との婚約を結んだと聞いたわ。わたしは反対したけれど、聞き入れてもらえなかったのね......」
「左様でございましたか」
哀れんでいるのだな、とすぐに察しがついた。確かに、普通の令嬢であれば少しは思うところがあるかもしれない。
「ベルローズちゃん、嫌なら嫌と言ってちょうだい。学園を卒業するとか、正妃の待遇をよくするとか、わたしにもできることは少しはあると思うから」
「ありがたいお言葉ですが、どうかこのまま送り出してくださいませ」
「どうして! 確かにオスカーとの婚約は結べなかったけれど、それでもベルローズちゃんがわたしの可愛い姪であることには変わりないのよ。どうか頼ってちょうだい」
「わたくしはこの婚約に対しなんら思うところはございません。クラルヴァイン王国の臣民として責務を果たす所存でございます」
「ベルローズちゃん、ここでは大人にならなくてもいいのよ。国を離れるなんて、寂しいでしょう。少しくらい、我儘になっても大丈夫よ」
オスカーから聞いたわ、と必死の面持ちで盗人は続ける。
「最近は、ヴィオちゃんとも仲良くしているんでしょう? 学園での友達も多いみたいだし......悲しい気持ちに蓋をしなくてもいいのよ。婚姻は貴族としての義務だから、ってお兄様は言うけれど、ある程度心を通わせた方との方がいいじゃない。ベルローズちゃんが悲しんでいるだろうと思うと、わたしも胸が塞がって......」
「悲しんでおりませんのでお気になさらず」
「嘘は良くないわ、ベルローズちゃん」
「嘘は申し上げておりません。わたくし、誰に対しても親愛の情を抱いたことはありませんので、悲しく思う術がございません」
「え!? で、でもヴィオちゃんとかお友達は......」
「ザイツェフェルト家の評判の為にヴィオレットとお茶をし、家同士の関係を強固にするために学園の知人と話をしているだけです。それ以上でもそれ以下でもありません」
盗人は目を見開いてルミエラを見つめた。次第にその瞳に涙が浮かぶ。
「そんな悲しいことを言わないで。ヴィオちゃんもお友達も悲しむわ」
「事実を申し上げたまでです」
「そんなわけはないわ! 誰にも情がないなんて、それじゃあただの生ける屍じゃない」
生ける屍。
その言葉を聞いた瞬間、ルミエラは思わず笑ってしまった。声を上げて笑うルミエラを、盗人は驚いたように見ている。
なるほど的を射た言葉ではないか。やりたいことも好きなことも何もなく、ただ義務だけに生かされている。あの暗い空間にいた時から何も変わらない。
「――ええ、その通りね」
生きる意味などないことに、どうして今まで気づかなかったのだろう。
なぜ、こんな生にしがみついているのだろう。かつて奪われた己に跪きながら、生ける屍と嘲笑われながら。親しい人も恋しい人もなく、好きな物もないこの生に。
――なぜ、わたくしは生きようなどと思っていたのだろう。
「ほんとうに、なぜかしら」
なぜ、なのだろう。
なぜ、ルミエラとこの女だったのだろう。
なぜ、生まれ変わっても尚、この女に出会わなければならなかったのだろう。
「――ねえ、五十嵐 瑠美。お前は、一度でも8歳まで生きたルミエラのことを考えたことがあって? 己の体を乗っ取られ、誰の声も届かず、誰の目にも映らず、お前から離れることもできず、己の体で行われる不貞を、愚行を、止めることもできなかった娘のことを、知ろうとしたことはあって?」
「.................え?」
「――あるわけがないわよね」
盗人は随分間抜けな顔を晒していた。ルミエラは口元に笑みを浮かべる。問うても詮無いことであった。
「さようなら、盗人」
ルミエラはカーテシーもせずにその場を後にした。僅かな沈黙の後で絶叫が響き渡った。
王太子妃が錯乱し、自害したのはその日のことだった。
王宮の使いが事情聴取のためザイツェフェルト公爵家の邸宅を訪れたが、令嬢ベルローズの姿はどこにもなかった。
遺体は、今に至るまで見つかっていない。
***
「ちがう、ちがうちがうちがう......」
人払いをした部屋で、瑠美はひとり震えていた。爪を齧る音が、声に紛れて断続的に聞こえる。
姪であるベルローズを呼び出したのはつい先程のことだ。遠く離れた異国に嫁ぐ姪を哀れに思い、何か希望がないかと聞いて感謝される――そのはずだったのに。
「ベルローズちゃんが、8歳まで生きたルミエラなの......?」
五十嵐 瑠美がこの世界に転生したのは、もう25年も前のことだ。目が覚めたら乙女ゲームの悪役令嬢になっていて、破滅フラグ回避のために奔走した。8歳の時のルミエラは完璧に拘り過ぎて冷淡かつ傲慢になりかけていたけれど、まだ修正可能だ! と安心した記憶がある。
――だって、小説でも漫画でも、書いてなかったわ。元の人格は死ぬんじゃないの? わたしから離れることもできずに、ずっとわたしの人生を見ていたの?
恐怖で体が震えた。ベルローズは自分を恨んでいるはずだ。もしも自分の体を今いきなり誰かに乗っ取られて、それをどこからか眺めていることしかできないとしたら。なんとかそこを抜け出して、別人に転生した先で乗っ取った人物を見つけたとしたら。乗っ取った人物が、自分の家族と和気藹々暮らしていたら。
――憎悪どころでは、済まないだろう。
呼吸が浅くなった。瞳に涙が滲む。
「ねっ、ねえ、アークは今どこ!? すぐに会いたいんだけど」
「へ、陛下でしたら今日は遅くまで会議ですから、お会いできるのは明日になるかと......」
そうだった。今日は貴族議会の日で、会議が遅くなるかもしれないから、先に寝ていてほしいと言われたんだ。瑠美は絶望する。怪訝そうにする侍女の顔を見て、そうだ、この独り言を聞かれてはまずいと慌てて人払いを命じた。
――どうしよう。アークにも......リュディガーにも、お兄様にも会えない。でも、でも、そもそも、わたしがルミエラを乗っ取ったって知ったら、愛想を尽かされるかも。
瑠美の思考は硬直した。恨まれているかも、殺したいと想われているかも、小さな恐怖はやがて確信に変わっていく。
「どうしたら、許してくれるの?」
今まで見たどんな笑顔よりも美しく笑ったベルローズは、さようなら、盗人と言った。もしかすると、今日にでも暗殺者が来るのかもしれない。残忍に殺されてしまうのかもしれない。いや、もしもその対象が瑠美ひとりでなかったら? もし、子供たちを殺したいとまで思っていたら。
瑠美の頭の中に、オスカーとベルローズの婚約話が浮かんだ時のことが思い浮かぶ。あの時から、思えばベルローズはいつだって冷淡だった。まるで、乙女ゲームの中のルミエラのように。最後にはリラを殺そうとまでした容赦ない冷酷な、極悪人のルミエラ。
「いや......いや、どうして? どうして今更わたしの前に現れるのっ!?」
瑠美はいやいやと首を横に振った。
嫌な妄想ばかりが、膨らんでいく。
耐えられない。あの子にずっと監視されているだなんて――いつか殺されるかもしれないという不安にずっと囚われたままだなんて、耐えられない。
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そこに、一際鮮やかな水色を見つけた。
兄の妻からベルローズに引き継がれた、美しい色が。
「ま......待って。待って、ベルローズちゃん! ルミエラ、話を聞いて! お願い!」
ふらふらとした足取りで、瑠美はベルローズに手を伸ばす。追いかけるかのように走り出して数歩、何やら腹に衝撃があった。それでも構わず前に進もうとして、自分の体が落ちていることに気づいた。
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