横浜あやかし喫茶~座敷童が営む店~

みつまめ つぼみ

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第3章:春の予感

14.

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 午前十時になり、『カフェ・ド・アルエット』は今日も開店する。

 カウンターでコーヒーを飲みながら、真理と拓海が同時にため息をついた。

「何とか間に合ったわね……」

「こういう日もあるよ。
 それより、朝ごはんまだでしょ?
 サンドイッチでいいかな?」

 真理がうなずくと、拓海は厨房に消えていった。

 しばらくして拓海がカウンターの中に戻ってきたので、真理も中に入り並んでサンドイッチを食べる。

 気まずい沈黙の中、二人は黙々とサンドイッチを口にしていく。

 ――どうして、私を抱きしめてたんだろう。

 聞きたいが、聞くのが怖い。

 だが、なんとも思ってない相手を抱きしめて寝るだろうか。

 そう思うと、期待が不安を押しのけていく。

 真理が思い切って口を開く。

「あのさ」

「ん? なに」

「……寝ぼけて私のこと、『真理』って呼んだでしょ」

 露骨にあわてた拓海が応える。

「――あれは! なんか耳元で名前を呼ばれた気がして!」

 真理が拓海を見つめて尋ねる。

「名前を呼ばれたら、私を呼び捨てにするの?」

「……その、夢で見ていたシチュエーションだったから、つい」

 真理の喉がゴクリとなった。

「それって――」

 カランコロンとドアベルが鳴り、来客が声を上げる。

「おはよう二人とも。
 昨晩はよく眠れた?」

 真理と拓海が弾けるように入り口を見ると、綾女が笑顔で小さく手を振っていた。

「あ……佐藤さん?」

「綾女でいいわよ、水臭い。
 それより、ブレンドもらえるかしら」

 カウンター席に進む綾女に、あわてて真理が水を出した。

 拓海も素早くコーヒーを淹れ始め、すぐに香ばしい香りが店内を満たす。

 真理がおずおずと綾女に尋ねる。

「ええっと、じゃあ綾女さん。
 昨晩は何がどうなったんですか?」

 綾女がニコリと微笑んで応える。

「最初に村上さんが酔いつぶれてね。
 それを介抱していたマスターを、戸田さんが酔い潰したのよ」

 ――それって、アルハラでは?

 真理は心の中であきれながら告げる。

「私のことも、真理でいいですよ。
 ――それより、昨晩はマスターのこと『拓海さん』って呼んでませんでした?」

「あーそれ?
 プライベートでは名前で呼んでるだけよ。
 でもお店で名前呼びしてると、勘違いされちゃうでしょ?
 だから『マスター』ってちゃんと呼んであげてるの」

 綾女が真理を手招きして耳打ちをする。

「それで、首尾はどうだったの?」

「どうもこうも、なにもありませんよ」

「あら、私たちだってまだ若いのよ?
 行く時がガンガン行っていいんじゃない?」

 まさか、踏み込んだところを綾女に邪魔されたとは言えなかった。

 きっと気まずい空気になっていることを察して、様子を見に来てくれたのだろう。

 そんな綾女に、文句を言う気にもなれなかった。

 綾女は昨晩の様子を楽しげに語りながら、真理や拓海と言葉を交わしていった。




****

 綾女が笑顔で帰ったあと、真理が小さく息をついた。

「戸田さんったら、何のつもりだったのかしら」

 拓海が苦笑を浮かべながら応える。

「直也は、あれで世話焼きなんだ。
 無神経に見えて気を使うタイプなんだよ」

 ――あれで?

 戸惑う真理が告げる。

「世話焼きって、それでマスターを潰れるまで酔わすの?」

 拓海がフッと笑って告げる。

「それより、コーヒーの淹れ方を教えようか。
 こっちにきて。手順を教えるから」

 はぐらかされた気がした真理は、少し不満げにカウンターに入った。

 お湯の沸かし方、コーヒーサーバーの温め方やコップの温め方。

 コーヒー豆の挽き方からお湯の注ぎ方まで。

 一通りを丁寧に教えられていく。

 時折添えられる手に、真理は胸の高鳴りを抑えられなかった。

 ――これじゃ、まるで若い子みたいじゃない。

 綾女の『私たちだってまだ若いのよ?』という言葉が耳に残っていた。

 まだ二十八歳、恋愛を諦めるには、まだ早いだろう。

 だが拓海とは出会ってそれほど経っていない。

 そんな相手にグイグイと踏み込めるほど、若いとも思えなかった。

 拓海が笑顔で告げる。

「――そう、その調子。
 その感覚で淹れれば、だいたい美味しくなるから」

「こんなに簡単なの?」

「蒸らし時間で味が変わるんだよ。
 粉の状態で蒸らし時間が変わるんだ。
 それは何度もやってればわかるから」

 真理が淹れ終わったコーヒーをカップに注いでいく。

 二人分のコーヒーをカウンターキッチンに置き、二人で試飲する。

 やや薄味だが、きちんとブレンドコーヒーの味わいがした。

 拓海がニコリと微笑んで告げる。

「合格。初めてでこれだけできれば上等だよ。
 あとは自分なりに、味の変化を試してみるといい」

 真理がはにかみながら応える。

「教え方が巧かったのよ。
 私一人で再現できるか、自信がないわ」

「慣れの問題だよ。
 一週間もすれば、自信もつくさ」

 微笑みあいながら、やはり真理は居心地の良さを感じていた。

 モダンジャズとコーヒーの香りに包まれながら、穏やかな時間が過ぎていく。

 ――こうして、一緒に喫茶店を切り盛りするのも、悪くないのかな。

 綾女の笑顔に後押しされて、真理が思い切って口にする。

「ねぇ拓海さん」

「なに? 村……え?」

 驚いて真理を見つめる拓海に、頬を染めながら真理が告げる。

「その、『マスター』じゃなくて、『拓海さん』って呼んでいいかな」

「えっと……構わ、ないけど。
 でもどうしたの? 急に」

 真理が目をそらしながら告げる。

「……朝、名前を呼んでもらった時さ。
 ちょっと嬉しいなって思って。
 だから拓海さんも、私のこと『真理』って呼んでもらえる?」

 胸の鼓動がうるさい時間に耐える真理に、拓海もはにかんで応える。

「いいのかな……じゃあ、改めてよろしくね、真理」

「うん、よろしく拓海さん」

 真理は照れをごまかすようにコーヒーを口にした。

 そんな真理を、拓海は嬉しそうに見つめて居た。




****

 一緒に昼食の賄いを食べ、静かなひと時を過ごしていく。

 時折訪れる客や、優美の接客に対応し終わると、時刻はもう午後四時過ぎだった。

 拓海が時計を見上げて告げる。

「今日は早く閉めちゃおうか。
 ジムはどうする?」

 真理が拓海に振り向いて応える。

「私は行くつもりだけど。
 やることがあるなら、拓海さんは無理に付き合わなくていいわよ?」

「いや、それなら一緒に行こうか。
 ちょっと体からアルコールを抜かないと」

 真理がクスリと笑って応える。

「まだお酒が残ってるの?」

「もう年かなー。
 学生時代より、お酒に弱くなった気がする」

 クスクスと笑いながら、真理が告げる。

「じゃあ、立て看板しまってくるわね」

「頼むね」

 拓海が閉店処理を進めていき、真理も立て看板を店内に回収した。

 二人が並んで店を出て鍵を閉める。

 黙ってエレベーターに乗りこみ、四階で拓海が降りる。

「それじゃ、またあとで」

 エレベーターが昇っていき、お互いの姿が見えなくなるまで見つめ合っていた。




****

 ジムで共に汗を流し、シャワーのあとで閉店後の雑務をこなす。

 すべてが終わってまた二人でエレベーターに乗り、真理は自宅に戻った。

 シャワーのあと、真理はパジャマに着替えてからビールを手に取り、ソファに腰かける。

 ――今日の私、頑張った!

 勢いよく缶ビールの栓を開け、喉に流し込んでいく。

 一息ついて、今日一日を振り返っていた。

 自分の名前をあれほど想いを込めて呼ばれたのなど、いつ以来だろうか。

 勘違いではない手応えを、拓海の言動から感じていた。

 ――もしかしたら、最後の春かも。

 そんな思いで浮かれ気味に缶ビールを空にした後、スキンケアをしてからベッドに入る。

 これから訪れる毎日を思い描き、酔いに身を任せて真理は心地良く寝息を立て始めた。
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