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#2 夏休みと二人の再会
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瑞希とナナオの二人が再会したのはそれから三年とちょっとが過ぎたころ、八月半ばのことだった。
ナナオは私立高校へ進学していた。細々とした出来事はあったものの、おおむね平穏な日々を送っていた。
小学校の頃からの彼の気質、すなわち知識欲や好奇心といったものはまだナナオの心の中にあったが、それらを整理することを覚えていた。突き詰めて学習する対象を絞り込み、そこから外れたものは切り捨てていった。そして、欲望を満たすために成績優秀者であることが有利に働くことを賢しくも覚えていた。
結果として、実力が明確に数値化される学校のテストでトップを譲ったことは一度もなかった。個人の努力の成果が実力に反映される陸上競技では、中学時代に良い結果を出していた。
ナナオが校長室に呼び出されるのは、その日が初めてではなかった。時と場所は違うが中学時代にも何度かあったし、高校の入学直後と七月ごろにも足を踏み入れたことがある。だが、その日のように夏休み唯一の登校日に呼び出されるのは初めてのことだった。
年代を感じさせるが決してみすぼらしくない校長室のドアをノックすると、「入りなさい」という声が聞こえた。ナナオはドアを開けると礼をしてから入室した。
来客との対話に使用されるローテーブルと、ソファーとチェアーがそれぞれ二対あった。部屋の入口側のソファーには校長が座っていて、ナナオを見て少しの喜色をその顔に浮かべていた。テーブルを挟んだ向かいには、私服姿の女性ーーいや、ナナオと同世代らしき少女が背筋を正した状態でソファーに掛けていた。
その少女はナナオを見ると微笑んだ。反射的に、ナナオも口角を少しだけ上げて笑った。
校長から座るよう促され、誰もいない一人掛けチェアーにナナオは腰を下ろす。その後で校長は話しだした。
「すまないね、急に呼び出してしまって」
「いえ先生、大丈夫です」とナナオは返事する。
「夏休みはどうだい、楽しめているかな」
「そうですね。やりたいことがたくさんやれているから、充実してます」
それは何よりだ、と校長がうなずくのを見ながら、ナナオは世間話はいいから早く用件を終えて帰らせてほしい、などと考えていた。彼には家に帰ってやらなければならないことがたくさんあったからだ。それらは学校から課せられた夏休みの課題などでなく、ナナオ個人が自主的にやっていることだったが、優先度でいえば後者の方が圧倒的に高かった。
小さな咳払いの後で校長は話しだした。
「今日はね、こちらの方が君に会いたいとのことで、来てもらったんだ」
「はあ」という気の抜けた返事がナナオの口から出た。右に座る私服の少女へ視線をやる。
見たことのない人だ、というのが第一印象だった。その次に、大人びた人だなと思った。
自分が忘れているだけかもしれないと記憶を掘り返してみるが、少なくともこの学校では出会ったことはない、という結論にいたった。ナナオの私的な趣味の関係者だろうかと対象を広げると、今度は出会ったことのある人物が多すぎて絞り込めない。
少女はおもむろに口を開いた。
「ナナオ、いやーー」
本名を呼ばれたナナオは、はっとした。記憶の中をあちこち彷徨っていたものが唐突に力強い存在によって掴まれて、とある場所へ運び込まれた。そこは懐かしいところであり、ナナオが足を踏み入れなくなって久しいところでもあった。
「久しぶりだね。こうして会えて、私は本当に、本当に嬉しいよ」
「……君は、瑞希か?」
ナナオは慎重に言葉を選んでそう言った。自分の中で確信を持てていたが、もしそうでなかったらということも考慮に入れて。
少女はナナオを正面に見据えて、喋りだした。
「覚えてくれてたか。まあ君なら……さんざん私と『おしゃべり』してくれた君なら、当たり前か」
やっぱり君だったか、という言葉をナナオは飲み込んだ。
何かが警鐘を鳴らしていた。小学校の同級生との久しぶりの再会で、言いたい言葉はたくさん浮かんでくるのに、それでも口を開けなかった。
個人的事情により自分より年上の大人と会う機会のあるナナオは、不意に心に響く警鐘を信頼していた。それに救われたことは二度三度では済まなかったからだ。
無駄な言葉を喋るとつけ込まれるぞ。
そんな注意喚起のアラートを受けて、ナナオは沈黙を選んだ。
「君と再会したとき、君が何を言うだろうかと私は何度も考えた。その結果、選択肢は次の三つに絞られた」
瑞希は右手の指を三本立てた。親指から中指まで。
中指が折りたたまれる。
「一つ。私を忘れている君は、初めましてと言う」
これはついさっき外れたけどね、と言って、人差し指を曲げる。
「二つ。最初はぴんとこないけど、私のことを思い出した途端にべらべらと喋りだす……まあ、どうやらこれも外れたようだ」
最後に、と言うと、瑞希の親指が拳とくっついた。
「三つ目。私を思い出すが、警戒して口を開かない。無口というわけでも、コミュニケーションが苦手なわけでもないのに、下手に言葉を口にできなくなる……君の反応を見るに、これが正解だったな」
君が期待していたとおりの人間に育っていてくれて嬉しいよ、と瑞希は華やかに笑った。
対象的に無表情のナナオは、君は口調を含めてだいぶ変わった人になったな、という感想を思い浮かべた。
ナナオは私立高校へ進学していた。細々とした出来事はあったものの、おおむね平穏な日々を送っていた。
小学校の頃からの彼の気質、すなわち知識欲や好奇心といったものはまだナナオの心の中にあったが、それらを整理することを覚えていた。突き詰めて学習する対象を絞り込み、そこから外れたものは切り捨てていった。そして、欲望を満たすために成績優秀者であることが有利に働くことを賢しくも覚えていた。
結果として、実力が明確に数値化される学校のテストでトップを譲ったことは一度もなかった。個人の努力の成果が実力に反映される陸上競技では、中学時代に良い結果を出していた。
ナナオが校長室に呼び出されるのは、その日が初めてではなかった。時と場所は違うが中学時代にも何度かあったし、高校の入学直後と七月ごろにも足を踏み入れたことがある。だが、その日のように夏休み唯一の登校日に呼び出されるのは初めてのことだった。
年代を感じさせるが決してみすぼらしくない校長室のドアをノックすると、「入りなさい」という声が聞こえた。ナナオはドアを開けると礼をしてから入室した。
来客との対話に使用されるローテーブルと、ソファーとチェアーがそれぞれ二対あった。部屋の入口側のソファーには校長が座っていて、ナナオを見て少しの喜色をその顔に浮かべていた。テーブルを挟んだ向かいには、私服姿の女性ーーいや、ナナオと同世代らしき少女が背筋を正した状態でソファーに掛けていた。
その少女はナナオを見ると微笑んだ。反射的に、ナナオも口角を少しだけ上げて笑った。
校長から座るよう促され、誰もいない一人掛けチェアーにナナオは腰を下ろす。その後で校長は話しだした。
「すまないね、急に呼び出してしまって」
「いえ先生、大丈夫です」とナナオは返事する。
「夏休みはどうだい、楽しめているかな」
「そうですね。やりたいことがたくさんやれているから、充実してます」
それは何よりだ、と校長がうなずくのを見ながら、ナナオは世間話はいいから早く用件を終えて帰らせてほしい、などと考えていた。彼には家に帰ってやらなければならないことがたくさんあったからだ。それらは学校から課せられた夏休みの課題などでなく、ナナオ個人が自主的にやっていることだったが、優先度でいえば後者の方が圧倒的に高かった。
小さな咳払いの後で校長は話しだした。
「今日はね、こちらの方が君に会いたいとのことで、来てもらったんだ」
「はあ」という気の抜けた返事がナナオの口から出た。右に座る私服の少女へ視線をやる。
見たことのない人だ、というのが第一印象だった。その次に、大人びた人だなと思った。
自分が忘れているだけかもしれないと記憶を掘り返してみるが、少なくともこの学校では出会ったことはない、という結論にいたった。ナナオの私的な趣味の関係者だろうかと対象を広げると、今度は出会ったことのある人物が多すぎて絞り込めない。
少女はおもむろに口を開いた。
「ナナオ、いやーー」
本名を呼ばれたナナオは、はっとした。記憶の中をあちこち彷徨っていたものが唐突に力強い存在によって掴まれて、とある場所へ運び込まれた。そこは懐かしいところであり、ナナオが足を踏み入れなくなって久しいところでもあった。
「久しぶりだね。こうして会えて、私は本当に、本当に嬉しいよ」
「……君は、瑞希か?」
ナナオは慎重に言葉を選んでそう言った。自分の中で確信を持てていたが、もしそうでなかったらということも考慮に入れて。
少女はナナオを正面に見据えて、喋りだした。
「覚えてくれてたか。まあ君なら……さんざん私と『おしゃべり』してくれた君なら、当たり前か」
やっぱり君だったか、という言葉をナナオは飲み込んだ。
何かが警鐘を鳴らしていた。小学校の同級生との久しぶりの再会で、言いたい言葉はたくさん浮かんでくるのに、それでも口を開けなかった。
個人的事情により自分より年上の大人と会う機会のあるナナオは、不意に心に響く警鐘を信頼していた。それに救われたことは二度三度では済まなかったからだ。
無駄な言葉を喋るとつけ込まれるぞ。
そんな注意喚起のアラートを受けて、ナナオは沈黙を選んだ。
「君と再会したとき、君が何を言うだろうかと私は何度も考えた。その結果、選択肢は次の三つに絞られた」
瑞希は右手の指を三本立てた。親指から中指まで。
中指が折りたたまれる。
「一つ。私を忘れている君は、初めましてと言う」
これはついさっき外れたけどね、と言って、人差し指を曲げる。
「二つ。最初はぴんとこないけど、私のことを思い出した途端にべらべらと喋りだす……まあ、どうやらこれも外れたようだ」
最後に、と言うと、瑞希の親指が拳とくっついた。
「三つ目。私を思い出すが、警戒して口を開かない。無口というわけでも、コミュニケーションが苦手なわけでもないのに、下手に言葉を口にできなくなる……君の反応を見るに、これが正解だったな」
君が期待していたとおりの人間に育っていてくれて嬉しいよ、と瑞希は華やかに笑った。
対象的に無表情のナナオは、君は口調を含めてだいぶ変わった人になったな、という感想を思い浮かべた。
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