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#1
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見慣れたオフィスに入り、自席につく。
すぐさま、私の左手から少し離れたところに熱いコーヒーの注がれたマグカップが置かれる。
淹れられて間もないであろう黒い液体からは湯気が立ちのぼり、カップの縁に細かな水滴を作りつづけていた。
「ボス、よろしければ」という控えめな声。私が静かな朝を好んでいることを、彼女が理解している証拠である。こちらから教えたことはないというのに、なぜか彼女は私の嗜好を理解していた。
彼女は私の部下だ。コードネームはクローバー。
私が新任の拠点責任者として赴任し、最初に加入したメンバーであり、私が最もその実力に信頼を置いている幹部だ。
マグカップを手に立ち上がり、オフィスの窓際へ足を運ぶ。名目上社長室として定義されているこの空間には任務とは無関係のものは一切置かれていない。横幅の長い机に、クッションは薄めながら心地よい角度でもたれかかることのできるチェアーと、他にはキャビネットと観葉植物と来客用ソファーセットぐらいしかなく、見ようによっては空虚な一室だった。
ここは使い切れないほど広い。仮に私の自室にある私物をすべて持ち込んだとしても、この部屋の一割も埋めることはできないだろう。そう、無駄にこのオフィスは広かった。
そのせいで窓から外の景色をのぞき込もうとするだけでも、そこそこの歩数が必要だった。部屋の広さに比例するサイズの大窓からは、都会のパノラマを一望できる。ここからもっとも遠くにある建物を眺めるのが、朝の日課だった。
「ボス、ご報告が」というクローバーの声に振り向く。左側に控えるのは彼女の癖だった。
視線で続きを促す。
嫌な予感を覚えながら。
「ここから見える景色はすべて我々、いえ、ボスの支配下に入りました」
長めのまばたきを一回。
それだけでかすかに頭が冷えた気がした。
冷静を装いコーヒーを口に含む。猫舌ぎみの私にとって、それはまだ熱いと感じられた。
「ボスの計画どおりに完遂しました。当初の予定より大幅に前倒しされたスケジュールでしたが、信頼して任せてくださったボスのため。このクローバーが全力で敵性組織を駆逐いたしました」
「そうか、わかった」とつぶやく。本来は嬉しい報告のはずだ。二年ぐらい前の私ならもっと大仰に喜んでいた。
だが今の私にとっては、喜びよりも驚きととまどいが勝ってしまい、労いの言葉を絞り出すことすら一苦労だった。
「よくやった、クローバー。君は素晴らしいエージェントだよ、私が知る限りーー」と、ここでわずかな逡巡を挟み、「最高は、君だ」と私は言った。
彼女の成果に対して、あまりにもささやかな一言だ。
それでも彼女は涙をこぼした。額に力をこめて涙をこらえ、懸命に言葉を口にする。
「ありがとうございます。ボスにそう言っていただけるなら……私は、これまでの人生、今日ほど大きな喜びを感じたことはありません!」
そう言い切ると、彼女は堰を切ったように嗚咽を漏らしはじめた。
眼下の景色と向かいあう。どこか現実感が希薄なように思えて、つい窓ガラスに手のひらを付けてしまった。
過ごしやすく調整された室内温度とは異なる冬の冷たさが伝わってくる。このガラスを突き破って飛び出せばこの現実から逃げ出せるだろうか、と考えたところで、私のそばに居る人物が誰であるか再認識し、私は現実逃避を止めた。
彼女は、エージェントクローバー。
誰が言い出したのか、二つ名は『監獄』。
一度彼女に捕捉されたら逃げることはまず不可能と言われている。
それは敵でも味方でも、たとえどれだけ困難な任務であっても、彼女に捕まれば檻に閉じ込められて無力化される。
そして実際に、彼女は私からの無茶な任務を達成してしまった。
彼女に失敗させるために、考えつく限りで最高の難易度の任務をつくり出したのに。
この国の首都にはびこる、平和を乱す者たちを一掃せよ。
そんな抽象的な任務をこなせるわけがないと私は思っていた。しかし、彼女が任務報告に虚偽を含めないことを私は知っている。
きっと、彼女は本当に成し遂げたのだろう、
私の視界に映る景色の全てから、混沌を排除してしまったのだ。
すぐさま、私の左手から少し離れたところに熱いコーヒーの注がれたマグカップが置かれる。
淹れられて間もないであろう黒い液体からは湯気が立ちのぼり、カップの縁に細かな水滴を作りつづけていた。
「ボス、よろしければ」という控えめな声。私が静かな朝を好んでいることを、彼女が理解している証拠である。こちらから教えたことはないというのに、なぜか彼女は私の嗜好を理解していた。
彼女は私の部下だ。コードネームはクローバー。
私が新任の拠点責任者として赴任し、最初に加入したメンバーであり、私が最もその実力に信頼を置いている幹部だ。
マグカップを手に立ち上がり、オフィスの窓際へ足を運ぶ。名目上社長室として定義されているこの空間には任務とは無関係のものは一切置かれていない。横幅の長い机に、クッションは薄めながら心地よい角度でもたれかかることのできるチェアーと、他にはキャビネットと観葉植物と来客用ソファーセットぐらいしかなく、見ようによっては空虚な一室だった。
ここは使い切れないほど広い。仮に私の自室にある私物をすべて持ち込んだとしても、この部屋の一割も埋めることはできないだろう。そう、無駄にこのオフィスは広かった。
そのせいで窓から外の景色をのぞき込もうとするだけでも、そこそこの歩数が必要だった。部屋の広さに比例するサイズの大窓からは、都会のパノラマを一望できる。ここからもっとも遠くにある建物を眺めるのが、朝の日課だった。
「ボス、ご報告が」というクローバーの声に振り向く。左側に控えるのは彼女の癖だった。
視線で続きを促す。
嫌な予感を覚えながら。
「ここから見える景色はすべて我々、いえ、ボスの支配下に入りました」
長めのまばたきを一回。
それだけでかすかに頭が冷えた気がした。
冷静を装いコーヒーを口に含む。猫舌ぎみの私にとって、それはまだ熱いと感じられた。
「ボスの計画どおりに完遂しました。当初の予定より大幅に前倒しされたスケジュールでしたが、信頼して任せてくださったボスのため。このクローバーが全力で敵性組織を駆逐いたしました」
「そうか、わかった」とつぶやく。本来は嬉しい報告のはずだ。二年ぐらい前の私ならもっと大仰に喜んでいた。
だが今の私にとっては、喜びよりも驚きととまどいが勝ってしまい、労いの言葉を絞り出すことすら一苦労だった。
「よくやった、クローバー。君は素晴らしいエージェントだよ、私が知る限りーー」と、ここでわずかな逡巡を挟み、「最高は、君だ」と私は言った。
彼女の成果に対して、あまりにもささやかな一言だ。
それでも彼女は涙をこぼした。額に力をこめて涙をこらえ、懸命に言葉を口にする。
「ありがとうございます。ボスにそう言っていただけるなら……私は、これまでの人生、今日ほど大きな喜びを感じたことはありません!」
そう言い切ると、彼女は堰を切ったように嗚咽を漏らしはじめた。
眼下の景色と向かいあう。どこか現実感が希薄なように思えて、つい窓ガラスに手のひらを付けてしまった。
過ごしやすく調整された室内温度とは異なる冬の冷たさが伝わってくる。このガラスを突き破って飛び出せばこの現実から逃げ出せるだろうか、と考えたところで、私のそばに居る人物が誰であるか再認識し、私は現実逃避を止めた。
彼女は、エージェントクローバー。
誰が言い出したのか、二つ名は『監獄』。
一度彼女に捕捉されたら逃げることはまず不可能と言われている。
それは敵でも味方でも、たとえどれだけ困難な任務であっても、彼女に捕まれば檻に閉じ込められて無力化される。
そして実際に、彼女は私からの無茶な任務を達成してしまった。
彼女に失敗させるために、考えつく限りで最高の難易度の任務をつくり出したのに。
この国の首都にはびこる、平和を乱す者たちを一掃せよ。
そんな抽象的な任務をこなせるわけがないと私は思っていた。しかし、彼女が任務報告に虚偽を含めないことを私は知っている。
きっと、彼女は本当に成し遂げたのだろう、
私の視界に映る景色の全てから、混沌を排除してしまったのだ。
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