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38, 過去との決別
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ジョエルと出掛けた後、部屋に運び込まれた宝石たちは、メイド達に頼んで、これまであったものを全てしまい、新しいものを収納してもらった。
それから、ヴィヴァースでよく着ていたドレスは全てメイド達にみんなで分けて貰うように依頼し、自分のドレスは新たに購入することにした。これまでそれほど使っては来なかったので、資金にゆとりはあったからだ。
何件かのドレスメーカーに数点ずつ依頼したので、それぞれ納期は短い。選んだのは年齢なりの若々しい色合いの物になった。それでも、やはりデザインは華美にならない物にした。
仕舞いこんだ宝石たちは、リヴィングストンから受け継いだ物は実家へと送り、それ以外はジョエルと行った店に相談し、全て売る事にしたのだった。
そしてそれは後日、資金となって手元に戻ってきた。
ちょうど王都に来ている父 スターリングに相談すると、投資はどうかと勧められ、それで自動車を開発している研究者のスポンサーになることにしたのだ。汽車だとか、自動車だとか、フィリスには全くわからない世界だけれど、未来に誕生する技術に投資するのは悪くないと思えたからだった。
そうして、長いように思えた社交シーズンも、夏を迎えていよいよ終盤に差し掛かっていた。
夏を迎え、最近会う毎にフィリスが断りを口にしていたので、アイザックは近頃は誘いに来なくなった。
その要因の一つにセス・アンブローズの存在がある。彼は純粋に友人関係でありながら、まるで求愛者のように振る舞っていた。それに巧みな話術で楽しませてくれるので、何故か自然と誘いを受けてしまう事が増えたからだった。
それと、もちろんあれからジョエルが度々フィリスを外へ誘い出されるようになった事も大きい。前まではトリクシーと、ヒューゴと共に来ていたのだが、それに合わせるようにジョエルに誘われ、代わりの上級メイドを付き添わせる事となってしまうからだった。ジョエルがそうであるのと、フェリクスもまたソールズベリに断った為か、アイザックとフィリスを取り持つ事はしなかったのだ。
セスのやや強引とも言える誘いは、フィリスが付き添い夫人としての扱いではなく、レディ フィリスとして扱いのそれで、一夜に一度はフロアに連れ出させた。
一度そうやって連れ出されると次にまた他の男性に誘われたりで、少しばかり戸惑わされる。
そんなある夜の、ブラッドフィールド公爵家の夜会。
重厚な造りのこの邸は全体的に古い時代の造りで、どこかひんやり寒々とした所がそこかしこにあって、そして今は亡きものも、彷徨っていそうだ。
フィリスはいつものように付き添い夫人たちと同じ席にいると、セスが誘いに来た。
「さぁ、私と踊る時間ですよ、レディ フィリス」
「セス卿……いつも、わたしを誘いに来られるなんて、珍しい物が好きなのか、暇をもて余していらっしゃるのか……」
「それはもちろん、貴女が魅力的だからですよ、レディ フィリス」
にっこりと頬笑むセスは、軽い口調で滑らかに言った。これがすらすら出てくるのは、彼がフィリスに対して色っぽい感情が無いからだろう。
もしもあったら、こんなにも滑らかに褒められるとは思えない。セスの手に手を重ねながら、フィリスは小声で言った。
「貴方がそんなにも口がお上手だなんて、思いもしなかったわ」
「酷いな、本心だよ」
セスとはこうして踊るけれど、ジョエルとは、ウィンスレットでのトリクシーのお披露目の時以来、踊った事がない。それは、やはり衆目のある中で平静を保つ自信がないとフィリスが言ったからだ。
気持ちを眠らせるなんて言って、そう思っているのに、矛盾してる……とは思うけれど、ダンスはやはりまだ無理そうなのだ。
いつものようにセスと踊り、他の紳士とも踊り、それから付き添い夫人たちの席へと戻ろうとした所で、フィリスはブライアンに声をかけられた。
「フィリス、きちんと話がしたいんだ」
ブライアンの申し出に、フィリスは即座に断りを口にした。
「わたしは、無いの」
「君は無くても私はあるんだ。これで最後にするから……君は逃げるように出ていってしまったから。きちんと区切りをつけさせて欲しい」
最後、区切りという言葉にフィリスはそれは必要なのかも知れないとそう思った。
「わかりました。でも、ここでじゃ無いでしょう?」
離婚した夫婦の会話なんて、新たな噂の火種を作ってしまうだけだ。
「そうだな、ガーデンに降りよう」
フィリスはフロアをちらりと見ると、ジェラルディンはパウダールームなのか姿は見えなかった。もしかすると、軽食でも摂っているのかも知れない。
もはや近頃では、二人の事を気にする事も無かったからだ。
前を歩くブライアンの後を、少しだけ離れてついていく。
まるで逢引きするみたいに、ガーデンで立ち止まる。
薄暗いガーデンはパーティーに参加する男女の忍び会う場所でもある。特にこの邸の庭は、灯りが遠くてブライアンの顔にも影が暗く差し込む。
「ずっと気になっていたんだ。すごく痩せて、面変りしたと……そんなに離婚がショックを受けさせたんだね、悪かった。でも私は君を追い出すつもりなんてなかった」
ブライアンはフィリスを前にすると軽く手を肩に添えてくる。
離婚がどうしてショックを受けないのか、逆に聞いてやりたかった。
「何を言ってるの?」
フィリスは彼の言い分に呆れた。
「追い出すつもりなんて無かった。だから、帰っておいで、君の部屋だって以前のまま残してある」
「万が一、わたしが同意したら、ジェラルディンはどうするの?」
「彼女は彼女。フィリスはフィリスだ」
そう簡単に言ってしまえる彼に、呆れてしまう。
「呆れてしまうわ。よくもそんな事が言えるわね、同意するわけがないわ。貴方はどうかしてる」
「どうかしてるのは、君の方だ。説明もさせずに黙って出ていくなんてどうかしてる。私たちは夫婦だったんだ、神の前で誓った仲だろう」
訳の分からない執着にフィリスは恐ろしくなる。暗く不気味なガーデンの気配と相まって、まるで別人のような彼に、こんな男だっただろうか?と怯えが出てきてしまった。穏やかでただ優しいそれだけの人だったはずなのに。
「あり得ない、貴方の近くに帰るなんて、あり得ない」
「フィリス、聞いて。私は君を愛してるよ、ずっと幸せに暮らしていたじゃないか……ずっと笑って、暮らしていたじゃないか」
「もうこれ以上話なんて出来ないわ」
フィリスは踵を返すと、
「行くな!」
ブライアンは腕を掴む。
その力が思うよりも強くてフィリスは
「離して!」
とやや悲鳴に似た声で言った所で、
「その手を離すんだ、ブライアン・マクニール」
フィリスにとっては聞くだけで、今は全身が反応してしまう人の声だった。
「おいで、フィリス」
姿を現した彼が手を差出し、彼の登場に驚いたらしく、ブライアンの手が緩む。その隙にフィリスは迷わずその手に飛び込んだ。
暗闇の中で道に迷い、灯りを見つけたような気分だった。
「離婚した妻に未練がましいな」
腕に飛び込んだフィリスを、しっかりと抱き締めたジョエルは厳しい声を出した。
「お前には関係ない」
「あるな………今は」
ジョエルはそう一言呟くと、ブライアンの目の前なのに、情熱的なキスをする。
合わさる唇がくちゅと音を立てて、離れる。互いの唇を光る糸で繋げながら。
「嘘だろう?フィリスはそんな………」
「別れた妻が美しくなったからか?それとも、妻であった頃より楽しんで見えるからか?それで未練でも出てきたのか?」
キスの余韻で体を預けるフィリスを支えながら、ジョエルはブライアンの視線から半ば隠す。
「女性が美しくなるのは……傷つけられた時じゃない。女として悦びを覚えた時だ」
ジョエルは、腰に腕を回しフィリスの体をぴったりと寄り添わせる。
「お前がキスの一つもまともに教えられていなかったのは、すぐに分かった……あとの事は、言わずとも分かるよな?」
ジョエルが放つ言葉が、キスでぼうっとしているフィリスの耳をくすぐらせる。
彼はフィリスを守ろうとしてる。
でもそれと引き換えに二人の関係を堂々と言ってしまっている。でも、今はどうでも良かった。何も理性的な考えなんて浮かばなかった。
「フィリス、ヴィヴァースに一緒に帰ろう。彼は君を薄汚れた愛人にでもするつもりだ。今なら間に合う」
その、彼の言葉にフィリスはブライアンへ対する冷えていく心とそして怒りの種を植え付けられた気がした。
「………どうする?目障りなら消してやろうか?」
ジョエルの囁きが聞こえてくる。
「そうして」
ブライアンなんか、もうどうでもいい。目の前から消えて欲しい。
とにかく今はジョエルの腕にただ頼もしさと安堵、それに女としての悦びを感じていた。
「だ、そうだ。聞こえたならさっさと去れ、ヴィヴァース。お前の妻と、妻が産んだお前に似てない娘の元に。次は似ている子供だといいな」
「口が過ぎるぞ、いくら公爵家とはいえ」
ブライアンはさすがに怒りを滲ませた声を出した。
「黙れ。妻一人守れない男が、何を言っても白々しい………。とっとと戻って新妻がお前に満足しているか確かめてみるんだな。これ以上フィリスの前をうろうろするなら………本気で消しにかかってもいいんだが……」
「フィリス一緒に…………っ!」
「見せてやりたいくらいだ。フィリスが、どんな風に私の腕の中で啼くのか」
その言葉と共に、指が背を辿りフィリスは軽く喘いだ。
「………あ………」
耳朶にキスをして首の敏感な箇所に舌を這わせて、ジョエルはブライアンを見た。
「この後も、見ていくか?………趣味がいいな」
ジョエルがそう言った所でようやくブライアンは立ち去る気配があった。
「ジョエル………」
フィリスは彼の首に手を回して、更なるキスを交わした。
フィリスはブライアンに心底から恐怖を感じていたらしい。彼が立ち去った事に、安堵が全身を駆け巡り、助けに来てくれたジョエルにすがりつきたくてならない。
「フィリス……さぁ、もう大丈夫だ」
宥めるように背を撫でられるが、フィリスは離れたくなかった。
「いや………まだ、離さないで」
ブライアンに………いや、彼だけじゃなくて。
ただ、今この時にフィリスが、誰の物か感じていたい。
「ここは………ガーデンで…誰か来るかも知れない」
「いや………」
まだ、芯が冷えている気がする。
それを察したのか、ジョエルはキスを額へと落とし、それから頬へと少しずつたくさんしていく。
そして、ブライアンの前でして見せたものよりもずっと濃厚なキスはもの苦しいまでの官能を引き起こす。
彼のキスと愛撫に慣れた体は、熱く、肌に火照りを呼び寄せる。それは彼も同じなのか、すでに知っている妖艶な空気が二人を取り巻いた。
「ジョエル…」
ここは外だと、それは分かっている。だから、今はこのまま熱を抑えて戻るしかない。
「落ち着くまで……こうしていよう」
すぐに離れるべきなのは理解している。それでも、どこか恐怖さえ抱かされた経験の後には、もう少しこの時間が必要だった。
ドレス越しの抱擁は、彼の香りと感触で体温をさらに上げて、さっきまでの鼓動の早さとは別の意味にとって代わった。
ゆっくりと宥めるような手が、背を撫で、首に触れてもう一度キスを交わす。
ようやく、恐ろしさは彼への熱へ代わりそれは、離れる事へのやるせなさになった。
ようやく体を少し離して、フィリスは息を吐き出した。
「大丈夫か?」
時間にすればさほどは経っていない。けれど、様々な事柄を理解して……何かが、変わったそんな時間だった。
「ええ………平気」
「一人で戻れそうか?」
「大丈夫よ、先にパウダールームに行ってから……」
「気をつけて……今夜また部屋で会おう」
フィリスはようやく、ジョエルから一歩離れた。
二人の間の風が、高まった熱を、その空気を払っていった。
ドレスをさりげなく直し、ジョエルの手が、キスと抱擁でほつれた髪を指で整える。
「ねぇ……どうして気づいたの?」
「君のお仲間が知らせてくれた。ミセス ロシェットだったかな。フィリスがヴィヴァースと一緒に出ていったと」
彼女がわざわざジョエルに知らせたなんて……。
まさか、自分は傍目にもわかるほど彼を見ていたのだろうか。
「そんな……」
「俺たちは、知る人は知ってる関係なのかも知れないな」
フィリスは爪先だってジョエルにキスをして
「わたしのせいね。貴方は完璧に理性的に振る舞っているもの」
彼は一度強く抱擁すると、手を繋いで歩き出した。
「いや、そうじゃない……。俺だってきっとそうだった。先に行って、――――この辺で休憩してから戻るよ」
ジョエルは邸の入り口近くまで導くと、手を離した。そしてフィリスは頷いて、邸の方へと向かった。
彼が後ろに居ると感じていれば、暗いガーデンも不気味では無く思えた。
それから、ヴィヴァースでよく着ていたドレスは全てメイド達にみんなで分けて貰うように依頼し、自分のドレスは新たに購入することにした。これまでそれほど使っては来なかったので、資金にゆとりはあったからだ。
何件かのドレスメーカーに数点ずつ依頼したので、それぞれ納期は短い。選んだのは年齢なりの若々しい色合いの物になった。それでも、やはりデザインは華美にならない物にした。
仕舞いこんだ宝石たちは、リヴィングストンから受け継いだ物は実家へと送り、それ以外はジョエルと行った店に相談し、全て売る事にしたのだった。
そしてそれは後日、資金となって手元に戻ってきた。
ちょうど王都に来ている父 スターリングに相談すると、投資はどうかと勧められ、それで自動車を開発している研究者のスポンサーになることにしたのだ。汽車だとか、自動車だとか、フィリスには全くわからない世界だけれど、未来に誕生する技術に投資するのは悪くないと思えたからだった。
そうして、長いように思えた社交シーズンも、夏を迎えていよいよ終盤に差し掛かっていた。
夏を迎え、最近会う毎にフィリスが断りを口にしていたので、アイザックは近頃は誘いに来なくなった。
その要因の一つにセス・アンブローズの存在がある。彼は純粋に友人関係でありながら、まるで求愛者のように振る舞っていた。それに巧みな話術で楽しませてくれるので、何故か自然と誘いを受けてしまう事が増えたからだった。
それと、もちろんあれからジョエルが度々フィリスを外へ誘い出されるようになった事も大きい。前まではトリクシーと、ヒューゴと共に来ていたのだが、それに合わせるようにジョエルに誘われ、代わりの上級メイドを付き添わせる事となってしまうからだった。ジョエルがそうであるのと、フェリクスもまたソールズベリに断った為か、アイザックとフィリスを取り持つ事はしなかったのだ。
セスのやや強引とも言える誘いは、フィリスが付き添い夫人としての扱いではなく、レディ フィリスとして扱いのそれで、一夜に一度はフロアに連れ出させた。
一度そうやって連れ出されると次にまた他の男性に誘われたりで、少しばかり戸惑わされる。
そんなある夜の、ブラッドフィールド公爵家の夜会。
重厚な造りのこの邸は全体的に古い時代の造りで、どこかひんやり寒々とした所がそこかしこにあって、そして今は亡きものも、彷徨っていそうだ。
フィリスはいつものように付き添い夫人たちと同じ席にいると、セスが誘いに来た。
「さぁ、私と踊る時間ですよ、レディ フィリス」
「セス卿……いつも、わたしを誘いに来られるなんて、珍しい物が好きなのか、暇をもて余していらっしゃるのか……」
「それはもちろん、貴女が魅力的だからですよ、レディ フィリス」
にっこりと頬笑むセスは、軽い口調で滑らかに言った。これがすらすら出てくるのは、彼がフィリスに対して色っぽい感情が無いからだろう。
もしもあったら、こんなにも滑らかに褒められるとは思えない。セスの手に手を重ねながら、フィリスは小声で言った。
「貴方がそんなにも口がお上手だなんて、思いもしなかったわ」
「酷いな、本心だよ」
セスとはこうして踊るけれど、ジョエルとは、ウィンスレットでのトリクシーのお披露目の時以来、踊った事がない。それは、やはり衆目のある中で平静を保つ自信がないとフィリスが言ったからだ。
気持ちを眠らせるなんて言って、そう思っているのに、矛盾してる……とは思うけれど、ダンスはやはりまだ無理そうなのだ。
いつものようにセスと踊り、他の紳士とも踊り、それから付き添い夫人たちの席へと戻ろうとした所で、フィリスはブライアンに声をかけられた。
「フィリス、きちんと話がしたいんだ」
ブライアンの申し出に、フィリスは即座に断りを口にした。
「わたしは、無いの」
「君は無くても私はあるんだ。これで最後にするから……君は逃げるように出ていってしまったから。きちんと区切りをつけさせて欲しい」
最後、区切りという言葉にフィリスはそれは必要なのかも知れないとそう思った。
「わかりました。でも、ここでじゃ無いでしょう?」
離婚した夫婦の会話なんて、新たな噂の火種を作ってしまうだけだ。
「そうだな、ガーデンに降りよう」
フィリスはフロアをちらりと見ると、ジェラルディンはパウダールームなのか姿は見えなかった。もしかすると、軽食でも摂っているのかも知れない。
もはや近頃では、二人の事を気にする事も無かったからだ。
前を歩くブライアンの後を、少しだけ離れてついていく。
まるで逢引きするみたいに、ガーデンで立ち止まる。
薄暗いガーデンはパーティーに参加する男女の忍び会う場所でもある。特にこの邸の庭は、灯りが遠くてブライアンの顔にも影が暗く差し込む。
「ずっと気になっていたんだ。すごく痩せて、面変りしたと……そんなに離婚がショックを受けさせたんだね、悪かった。でも私は君を追い出すつもりなんてなかった」
ブライアンはフィリスを前にすると軽く手を肩に添えてくる。
離婚がどうしてショックを受けないのか、逆に聞いてやりたかった。
「何を言ってるの?」
フィリスは彼の言い分に呆れた。
「追い出すつもりなんて無かった。だから、帰っておいで、君の部屋だって以前のまま残してある」
「万が一、わたしが同意したら、ジェラルディンはどうするの?」
「彼女は彼女。フィリスはフィリスだ」
そう簡単に言ってしまえる彼に、呆れてしまう。
「呆れてしまうわ。よくもそんな事が言えるわね、同意するわけがないわ。貴方はどうかしてる」
「どうかしてるのは、君の方だ。説明もさせずに黙って出ていくなんてどうかしてる。私たちは夫婦だったんだ、神の前で誓った仲だろう」
訳の分からない執着にフィリスは恐ろしくなる。暗く不気味なガーデンの気配と相まって、まるで別人のような彼に、こんな男だっただろうか?と怯えが出てきてしまった。穏やかでただ優しいそれだけの人だったはずなのに。
「あり得ない、貴方の近くに帰るなんて、あり得ない」
「フィリス、聞いて。私は君を愛してるよ、ずっと幸せに暮らしていたじゃないか……ずっと笑って、暮らしていたじゃないか」
「もうこれ以上話なんて出来ないわ」
フィリスは踵を返すと、
「行くな!」
ブライアンは腕を掴む。
その力が思うよりも強くてフィリスは
「離して!」
とやや悲鳴に似た声で言った所で、
「その手を離すんだ、ブライアン・マクニール」
フィリスにとっては聞くだけで、今は全身が反応してしまう人の声だった。
「おいで、フィリス」
姿を現した彼が手を差出し、彼の登場に驚いたらしく、ブライアンの手が緩む。その隙にフィリスは迷わずその手に飛び込んだ。
暗闇の中で道に迷い、灯りを見つけたような気分だった。
「離婚した妻に未練がましいな」
腕に飛び込んだフィリスを、しっかりと抱き締めたジョエルは厳しい声を出した。
「お前には関係ない」
「あるな………今は」
ジョエルはそう一言呟くと、ブライアンの目の前なのに、情熱的なキスをする。
合わさる唇がくちゅと音を立てて、離れる。互いの唇を光る糸で繋げながら。
「嘘だろう?フィリスはそんな………」
「別れた妻が美しくなったからか?それとも、妻であった頃より楽しんで見えるからか?それで未練でも出てきたのか?」
キスの余韻で体を預けるフィリスを支えながら、ジョエルはブライアンの視線から半ば隠す。
「女性が美しくなるのは……傷つけられた時じゃない。女として悦びを覚えた時だ」
ジョエルは、腰に腕を回しフィリスの体をぴったりと寄り添わせる。
「お前がキスの一つもまともに教えられていなかったのは、すぐに分かった……あとの事は、言わずとも分かるよな?」
ジョエルが放つ言葉が、キスでぼうっとしているフィリスの耳をくすぐらせる。
彼はフィリスを守ろうとしてる。
でもそれと引き換えに二人の関係を堂々と言ってしまっている。でも、今はどうでも良かった。何も理性的な考えなんて浮かばなかった。
「フィリス、ヴィヴァースに一緒に帰ろう。彼は君を薄汚れた愛人にでもするつもりだ。今なら間に合う」
その、彼の言葉にフィリスはブライアンへ対する冷えていく心とそして怒りの種を植え付けられた気がした。
「………どうする?目障りなら消してやろうか?」
ジョエルの囁きが聞こえてくる。
「そうして」
ブライアンなんか、もうどうでもいい。目の前から消えて欲しい。
とにかく今はジョエルの腕にただ頼もしさと安堵、それに女としての悦びを感じていた。
「だ、そうだ。聞こえたならさっさと去れ、ヴィヴァース。お前の妻と、妻が産んだお前に似てない娘の元に。次は似ている子供だといいな」
「口が過ぎるぞ、いくら公爵家とはいえ」
ブライアンはさすがに怒りを滲ませた声を出した。
「黙れ。妻一人守れない男が、何を言っても白々しい………。とっとと戻って新妻がお前に満足しているか確かめてみるんだな。これ以上フィリスの前をうろうろするなら………本気で消しにかかってもいいんだが……」
「フィリス一緒に…………っ!」
「見せてやりたいくらいだ。フィリスが、どんな風に私の腕の中で啼くのか」
その言葉と共に、指が背を辿りフィリスは軽く喘いだ。
「………あ………」
耳朶にキスをして首の敏感な箇所に舌を這わせて、ジョエルはブライアンを見た。
「この後も、見ていくか?………趣味がいいな」
ジョエルがそう言った所でようやくブライアンは立ち去る気配があった。
「ジョエル………」
フィリスは彼の首に手を回して、更なるキスを交わした。
フィリスはブライアンに心底から恐怖を感じていたらしい。彼が立ち去った事に、安堵が全身を駆け巡り、助けに来てくれたジョエルにすがりつきたくてならない。
「フィリス……さぁ、もう大丈夫だ」
宥めるように背を撫でられるが、フィリスは離れたくなかった。
「いや………まだ、離さないで」
ブライアンに………いや、彼だけじゃなくて。
ただ、今この時にフィリスが、誰の物か感じていたい。
「ここは………ガーデンで…誰か来るかも知れない」
「いや………」
まだ、芯が冷えている気がする。
それを察したのか、ジョエルはキスを額へと落とし、それから頬へと少しずつたくさんしていく。
そして、ブライアンの前でして見せたものよりもずっと濃厚なキスはもの苦しいまでの官能を引き起こす。
彼のキスと愛撫に慣れた体は、熱く、肌に火照りを呼び寄せる。それは彼も同じなのか、すでに知っている妖艶な空気が二人を取り巻いた。
「ジョエル…」
ここは外だと、それは分かっている。だから、今はこのまま熱を抑えて戻るしかない。
「落ち着くまで……こうしていよう」
すぐに離れるべきなのは理解している。それでも、どこか恐怖さえ抱かされた経験の後には、もう少しこの時間が必要だった。
ドレス越しの抱擁は、彼の香りと感触で体温をさらに上げて、さっきまでの鼓動の早さとは別の意味にとって代わった。
ゆっくりと宥めるような手が、背を撫で、首に触れてもう一度キスを交わす。
ようやく、恐ろしさは彼への熱へ代わりそれは、離れる事へのやるせなさになった。
ようやく体を少し離して、フィリスは息を吐き出した。
「大丈夫か?」
時間にすればさほどは経っていない。けれど、様々な事柄を理解して……何かが、変わったそんな時間だった。
「ええ………平気」
「一人で戻れそうか?」
「大丈夫よ、先にパウダールームに行ってから……」
「気をつけて……今夜また部屋で会おう」
フィリスはようやく、ジョエルから一歩離れた。
二人の間の風が、高まった熱を、その空気を払っていった。
ドレスをさりげなく直し、ジョエルの手が、キスと抱擁でほつれた髪を指で整える。
「ねぇ……どうして気づいたの?」
「君のお仲間が知らせてくれた。ミセス ロシェットだったかな。フィリスがヴィヴァースと一緒に出ていったと」
彼女がわざわざジョエルに知らせたなんて……。
まさか、自分は傍目にもわかるほど彼を見ていたのだろうか。
「そんな……」
「俺たちは、知る人は知ってる関係なのかも知れないな」
フィリスは爪先だってジョエルにキスをして
「わたしのせいね。貴方は完璧に理性的に振る舞っているもの」
彼は一度強く抱擁すると、手を繋いで歩き出した。
「いや、そうじゃない……。俺だってきっとそうだった。先に行って、――――この辺で休憩してから戻るよ」
ジョエルは邸の入り口近くまで導くと、手を離した。そしてフィリスは頷いて、邸の方へと向かった。
彼が後ろに居ると感じていれば、暗いガーデンも不気味では無く思えた。
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