私の好きの壁とドア

木魔 遥拓

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十六話『夏目前の小事件』

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 夏休みが間近に迫り、日に日に暑さが増していく。
 今日も日差しが強いなぁ。登校するだけで汗かいちゃうよ。
「おはようございます、先生」
「おう、古町。今日は暑いな」
 校門の前に立つ八戸波先生は、袖をまくり、首元に濡れたタオルを巻いて、左手に乾いたタオルを持っている。
 あまりアクティブに動くイメージのある先生ではないけれど、ちょっとスポーツ強そうでかっこいい。いつものダウナーさとは違う、爽やかな感じ。
 新しい魅力、また見つけちゃった。
「熱中症に気をつけろよ」
「はい」
 先生の忠告を受け取って教室へと向かう。
 建物の中に入ると日差しは防げたが、昇降口も廊下も熱気に包まれている。夏本番はまだ先だと言うのに、異常としか言いようがない。
 まだ体が暑いのに慣れてないから余計につらく感じる。でも、教室までの我慢。
 四階まで上りきり、扉が開いたままの教室を見て少し嫌な予感がした。
「夢国さん七津さん、おはよう」
「おはようございます。古町さん」
「おはよ~……暑いねぇ」
 教室に入ると、机の上で溶けそうになっている七津さんを、風流な団扇で扇ぐ夢国さんがいた。団扇を持つ夢国さんの顔にも汗が滲んでいる。
 やっぱり。教室の冷房がついていない。この気温なら、先生の誰かに言えば使用許可がもらえると思うんだけれど、誰もそれを言いにいく様子がないってことは。
 嫌な予感が確信に変わった。ただ、その現実をギリギリまで直視しないために口を噤んだ。
 私は鞄からアイスタオルを取り出し、教室近くの水道で濡らして絞った。
「ちょっとヒエッとするよ」
 夢国さんに一言注意してから、タオルをそっと首にかけた。
「うぅん……。気持ちいいですわ」
「いいなぁ、あーちゃん……。私もやりた~……い」
 夢国さん少し考えると、私を見た。無言で頷くと、首にかかっているタオルを七津さんの首にそっとかけた。
「ヒャヒッ! ふへぇ~。気持ちい~。風冷た~い」
 夢国さんが振る団扇の風と相まって、教室の中で七津さんだけが快適な環境を手に入れた。
 勝手なイメージで暑いの得意だと思っていたけれど、こんなにバテちゃうくらい苦手なの意外だな。
 七津さんに尽くしている夢国さんを教科書で扇いであげる。
「ありがとうございます。古町さんも暑いでしょう」
 夢国さんがこちらを気遣ってくれようとすると、やや下の方から、ふんわりと優しい風が吹いていた。
「ありがとう、七津さん」
「えへへ~、扇ぎっこだね~」
 私に向けてパタパタとノートを振る七津さんは、私が到着したばかりの時と比べると、幾分だけ楽になったように見えた。
 ホームルームが始まるまでの間、三人で風を送りあい、ローテーションでタオルを首にかけた。
 チャイムが鳴り、みんなそれぞれ席に戻った。最終的にタオルをかけていた七津さんが返そうとしてきたが、一番暑さに弱そうなので、一日貸しておくことにした。
 少しして、八戸波先生が入ってきた。
「おはよう。全員察してると思うが、教室の冷房がぶっ壊れてる。業者に連絡したら、明日までに直してくれるそうだ。悪いが、今日だけ我慢してくれ」
 話をしている先生の顔にも汗が滴り、体調のすぐれていなそうな顔色をしている。
「授業中でも水分補給してくれて構わない。というかしろ。体調が悪くなったら無理せず言えよ」
 心配してくれているのはすごく嬉しいんだけれど、先生のが倒れちゃいそうで逆に心配だな。
 ホームルームが終わると、教室に扇風機が運ばれてきた。かなり年季が入っていたが、窓を開けて作動させると幾分マシになった。
 それでも全体的に暑いことには変わらず、生徒の集中力が続かないのはもちろん、先生たちもつらそうだった。
 勉強に身がはいらないまま昼休みを迎えた。
 昼休みに入ってすぐ、夢国さんはなにも言わずに誰よりも早く教室を出ていった。手にお財布を持っていたので、自販機に行っているのだろう。他の生徒もかなり教室から出ていった。
 七津さん飲み物空っぽだから、買いに行ってあげてるのかな。
「大丈夫? 七津さん」
「うん。朝より全然楽だよ~。タオルも返すね。古町さんが倒れちゃったら大変だもん」
 七津さんはかけていたタオルを取り、廊下に出ていった。水が流れる音がして、少しすると帰ってきた。そのまま私の首に手を伸ばす。
「はぁ~。ありがとう、七津さん」
「返しただけだよ~」
 そんなやりとりをしていると、夢国さんが帰ってきた。スポーツドリンクのペットボトル三本と炭酸飲料一本。
「ちょっと、避暑地に行きませんか?」
 夢国さんは帰ってきて早々、移動の提案をしてきた。涼める場所があると言うなら、願ったり叶ったりだ。
「先ほど、命先輩にバッタリ会いましたの。そうしたら、空調の異常があるのは四階だけとのことで」
 ということは、先輩たちの教室は普通に涼しいんだ。
「もしかして、クラスのみんなが戻って来なかったのって」
「ええ。先輩方の教室で涼んでいるからですわ。特に、部活で付き合いの深い方達でしょうけれど」
 でも、私たち部活入ってないし。先輩たちの教室にお邪魔しちゃうのは気が引ける。というか、この方向って完全に別棟の方に向かってるけれど。もしかして。
「お邪魔しますわ」
「いらっしゃ~い。暑いと大変だね、後輩ちゃんたち」
 予想通り行き先は生徒会室だった。中には雪菜先輩と命先輩の二人だけ。扉を開けただけで、涼しい空気が足元を通り去っていく。
「いいんですか? こんな私的に使わせてもらって」
「別に大丈夫だよ、今日は緊急事態みたいなものだしね」
 先輩から。生徒会長から直々に許可がもらえるなら、使わせてもらってもいいのかな?
「まあ、私は普段から使ってるから。いつでも遊びに来ていいよ。大したもの置いてないけれど」
 遠慮の気持ちが薄まってきていると、雪菜先輩が冗談っぽく言った。
 普段からって。生徒会のお仕事ってそんなに大変なのかな。
 先輩のご厚意に甘えて、私たちは中に入った。
「あまり無理しないでくださいね? 先輩」
 先ほどの発言が心配になって言うと、雪菜先輩は目を丸くして驚きと困惑の混ざった顔をした。私の言葉の意味がわからないらしい。
「その、えっと。あまり仕事のしすぎは……。他の方もいるでしょうし」
「ぷっ、あはは! 琉歌ちゃんは真面目で可愛くていい後輩だ~」
 雪菜先輩より先に、命先輩がいみに気づいたようで愉快そうに笑った。雪菜先輩はまだわかっていない様子だ。
 命先輩はハグの体制に入ったが、先ほどまで私たち一年が暑かったことを考慮して撫でられるだけに止まった。
「ゆきなんは気楽だからここにくるだけだよ~。仕事とかじゃないから」
 私がそれを聞いて少しホッとしていると、雪菜先輩も私の発言の意図を理解したようで、小さく「あ」と声が漏れていた。
「だからクラスのみんなが昼休みの後に労ってくれてたのか」
「逆になんで今まで気付いてないんだか。ゆきなんも鈍チンだよね~」
 命先輩に頬をグリグリと押されながらチクチク言われているが、間違ってないからか雪菜先輩は不服そうな顔で受け入れていた。
 昼休みに移動してなくても、雪菜先輩は労われるくらい慕われていると思うな。
 命先輩が言ってたけれど、教室に残って昼休みを過ごしていたら、監視されてるような状態で逆に落ち着かないんだろうな。
 雪菜先輩を痴漢から助けたあの日から、先輩がイメージに縛られて、無理をしているんじゃないかと心配になることがある。
「えっと、古町さん。ありがと、心配してくれて」
「いえ、勘違いならよかったです」
 夢国さんや七津さんといる時も演じているのかな。八戸波先生と話してた時とか、命先輩と話してる時は素っぽかったけれど。
 頼ってくださいって前に言ってるし、気兼ねなく話せる相手になれるといいな。
 冷房の効いた生徒会室でとる昼食。教室は少し違う雰囲気と、先輩たちと食べているという状況が不思議だった。
「古町さんはお弁当なんだ。手作り?」
「はい。先輩もお弁当なんですね」
「うん。私はお母さんが作ってくれてるんだけど」
 雪菜先輩は少し恥ずかしそうに言うと、卵焼きに箸を伸ばした。
 私の卵焼きの形は楕円で一緒だけれど、家庭ごとに味って結構変わってくるんだよね。
「あ、気になる?」
「い、いえ! その、はい」
 ついつい気になってジロジロ見ちゃった。なんか食いしん坊だと思われてそうで恥ずかしい。
「よかったら、一個食べる?」
 先輩はお箸で二つのうちのを一つ掴むと、私の方に差し出してきた。
「だ、大丈夫。まだ口つけてないから」
 そういう問題じゃなくて。いや、特に問題はないんだけれど。少し気が引ける。厚意なら受け取らない方が逆に失礼かな。
「あ、ゆきなん卵焼き入ってるじゃん。も~らい。パクッと」
 雪菜先輩の卵焼きは、私のお弁当に加わることも、私の口の中に入ることもなく、後ろからスッと出てきた命先輩に奪われた。
「あ!! 命、それ古町さんにあげようとしたのに!」
「だって~、おばさんの卵焼き美味しいんだもん。これみよがしに出されたら、ついつい食べちゃうんです~」
「私のお弁当、一番の楽しみなのにー」
 相当ショックなのか、雪菜先輩はしょんぼり顔で肩を落とした。
 そんなに美味しいのかな、雪菜先輩の家の卵焼きって。それとも、単純に雪菜先輩が卵好きなだけか。どちらにせよ、美味しいって聞くと、食べれなかったの残念かも。
「あの。良かったら、食べますか? 私の」
 お菓子を落としてしまった子供のように凹んでいる雪菜先輩に、お弁当を見せた。
「いいの?! あ、いや。わ、悪いよ」
 雪菜先輩は嬉しそうに反応してくれたが、すぐにハッとして断った。立場的に、後輩からもらうのが申し訳ないのだろうか。
「古町さんの卵焼きは絶品ですわよ。以前一つ頂いたので、保証しますわ」
「そうですよ~。食べなきゃ損損~」
 後輩二人のアシストに押されて、雪菜先輩が葛藤している。威厳と欲望の板挟みだ。
「遠慮しないでください、雪菜先輩」
 卵焼きの一つを箸でつまみ、先輩に近づける。
 無理に強がらないでほしいな。……私たちがいると、教室にいる時と一緒で気が休まらないのかな。
「なに~? ゆきなん。いらないの~?」
 タイミングを見て教室に戻ろうかと考えていると、命先輩が首を伸ばして卵焼きに近づいた。食べようとしている素ぶりだが、とても遅い動きだ。
「な!? い、いる!」
 雪菜先輩は、パクリと私の卵焼きを食べると。静かに、ゆっくりと味わってくれた。その様子を見ている命先輩は、してやったりな顔をしている。
 すごい難しい顔で食べてる。もしかして美味しくなかったかな。
「味見したときは大丈夫だったんだけどな」
 少し不安になり、私も自分の卵焼きを一つ食べた。
「!?」
 うん。いつものだし巻き卵だ。多めに出汁入れて焼いてるだけだから、先輩には物足りなかったかな。先輩は卵焼きも甘いのが好みかも。
「お口に合わなかったですか?」
「いやいやいや! 美味しかったよ。なんか、料亭とかで出てきそうな優しい味」
 私の言葉を否定するように大きな手振をつけて、しっかりと感想をくれた。しかし、なぜか私の方をまっすぐ見てくれない。
 嘘とかお世辞って感じではないんだけれど。

「三条。少し使わせろって。古町たちもいたか。めざといな」

 唐突に扉が開くと、八戸波先生が入ってきた。冗談のように笑顔を浮かべてはいるが、顔が真っ青だった。
「先生!? すごい顔色ですよ。早くこっちに」
「悪いな。忠告しときながら油断した」
 足元も少しおぼつかなくなっている先生の手を取って、風当たりの良い席に座らせた。
「古町さん、タオル。急いで濡らしてくる」
「お願い、七津さん」
 私が焦って走るよりも、七津さんの方が早く戻って来れるはず。あとは水分補給もさせないと。
「夢国さん。まだ飲み物ある?」
「ええ。スポーツドリンクが残ってますわ」
 夢国さんからペットボトルを受け取り、先生に持たせ、支えながらゆっくりと口に運ぶ。
「少しずつ。飲んでください」
 先生は水分を口に含むと、喉全体を潤すようにゆっくりと飲んだ。飲み終えると小さく息を漏らして深い呼吸をした。
 一分もしないうちに七津さんが戻ってきて、タオルを先生の首にかけた。しばらくすると、先生の顔色が良くなってきた。
「ありがとな。かなり楽になった」
「よかったぁ。本当に、気をつけてくださいよ」
 先生が回復したことで安心して、その場へたれこんでしまった。
「大丈夫ですか? 古町さん」
「うん。ちょっと気が抜けただけ」
 熱中症の重苦しい感じはないけれど、なんか力が入らないや。大事に至らなくて本当によかった。
「もう少しお前らも休ませたいが、昼休み終わりだな」
「え~。午後授業なしにしてよ~」
 七津さんが袖をブンブン振り回して抗議している。一日通して夢国さんとくっつくことができていないので、その分のイライラも溜まっていそうだ。
「校長にでも自分で進言しに行け」
 八戸波先生は首にかけていたタオルを外すと、ゆっくりと立ち上がった。フラついてる様子もないので大丈夫そうだ。
「戻るぞ、お前ら。タオルありがとな、古町。あとは自分のタオルでなんとかする」
 先生はタオルを返すと、頭を撫でてくれた。夏前の熱気とはまた違う、私の大好きな熱が伝わる。
「はい。……本当に気をつけてくださいね」
 先生に何かあったら、私も無事じゃいられないもん。
 扉を開けて外に出ると、ムワッとした熱気に包まれる。冷房で少し冷えた体には、ほんの少しの間だけ気持ちがいい。
「三条たちも、遅れんじゃねえぞ」
 振り向いて会釈すると、雪菜先輩も命先輩も手を振って見送ってくれた。



「ねぇ、命。古町さん、ヤトちゃん先生のこと、どう思ってると思う?」
「普通に先生じゃないの? なに嫉妬~? 先生はみんなの先生だぞ~」
「だよね。変なこと訊いてごめん」
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