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第2部 神の愛娘
第1章 嚆矢 5
しおりを挟む勇者ワーナーとセリス王女がマダム・ペリペの店にあらわれたのは、一時間ほども経ってからの事だった。
「遅れてすまない」
二人は店子に案内されて店の裏口から入ってきた。
王女が頭からかぶっていた薄手の外套を取ると、店子は思わずうっとりとした溜息をついた。──彼にとっては、目前の天使の美しさよりも人間の王女の美しさのほうが、よっぽど現実的なものだったのだ。……彼は天使が部屋を行ったり来たりする度に居心地が悪そうに目を白黒させていた。
勇者ワーナーに促されて室内に入ってきたセリス王女は、そこに天使の姿を見つけて息を呑んだ。打たれたように言葉を無くす。
その様を見てアレクシスは苦笑した。……どうやら人間が天使に見せる反応はみな同じらしい。──聖職者だけにいえることかも知れないが──アイゼンメルドの司祭も同じような憧れと畏敬の入り混じった熱っぽい目でこの天使を見ていた。
「勇者ワーナー」セリス王女が喘ぐように息をついて、隣の勇者を見上げた。「説明を。これはどういうことなのでしょう?」
ワーナーはなんと説明したものか迷って、結局、一番手短に説明した。
「天使アブリエルはターナーの僕(しもべ)です」
紹介された天使がローブの裾を掴んで優雅に一礼した。
セリス王女は息を詰まらせて、可憐な頬を染めた。天使を見るのと同じような目でアレクシスに目をやる。その目が感嘆と憧れを含んでいた。
「トリニティ王女は? 見つかりましたか?」
勇者ワーナーの言葉にアレクシスは硬い表情で頷いた。
「いったい王女は何処にいたんだ?」
「……ドンジョンです」
「主塔(ドンジョン)?」
アレクシスは首を振った。
「地下牢(ダンジャン)の方。──しかし、あの城にあんな場所があるなんて思いもよりませんでした。かなり広く、雨水も流れ込んでいて環境が悪い」
しかも。
アレクシスの脳裏に、あの場所の光景が浮かんだ。
闇に閉ざされた、城の地下の迷宮とうず高く積もった死者の山。新しいものもあれば古いものもあった。国を維持するために犠牲になった者達だろうか。
幽閉するための場所というよりも、あの城の地下牢(ドンジョン)は政敵を屠るための専用の場所のようだった。
そういうところへ、トリニティは落とされた。──国を維持するための犠牲者として。
「では王女は無事なのだね?」
その質問に、アレクシスは言い澱んだ。「……かろうじて」
それを聞いたセリス王女が胸元を押さえ、安堵の息を漏らした。
「お姉さまに会えますか?」
「いや。意識がない」
「会うだけでも構いませんの。無事な姿をこの目で見たいのですわ」
嬉しさに頬を紅潮させるセリス王女を見ながら、アレクシスは首を振った。
「今はまだ遠慮してやれ」
「遠慮?」
セリス王女は訳が分からない、という表情でアレクシスを見上げた。
「実の姉妹に、なんの遠慮が要りますの?」
「分からないのか?」
アレクシスが顔をしかめた。声が思わず険悪になり、セリス王女がぎょっとしたように驚いた。
「一週間もドンジョンにいたんだぞ? いまあいつがどんな状態かわかるか? 死ななかったのは単に運が良かっただけだ。──回復するまで遠慮するくらいの分別をもってやれ」
「わ、わたくしは……別に、そんな気持ちで言ったのでは……」王女は身を縮ませて、目に涙を浮かべた。その様子は何処からどう見ても、心底姉を心配している妹にしか見えない。彼女はまだアレクシスが言った言葉の意味を理解できないようだったが、戸惑うようにうなだれた。閉じた瞼から涙の粒が零れ落ちていた。
「ただ──お姉さまが心配で」
「そうですよ。姫君は心から姉君を心配なされているだけなんですから……」
後ろのあたりで店子が遠慮がちに言っていたが、アレクシスは無視してセリス王女を睨み付けた。思わず、視線が鋭くなった。
トリニティは年頃の娘だ。あの傷だらけの無残な姿を、無遠慮に多くの者に晒したいとは思わないだろう。……例えそれが、実の妹だとしても。
せめてもう少し回復しなければ、人目に晒せるような状態ではなかった。
「グラディス」
「何?」
「ルイスは何処だ?」
「ああ──」
彼はアレクシスのように徴兵されていたわけではない。たまたまこの店に仕事を探しに来ていたところに、アレクシスと会ったのだ。運が悪いとしかいいようがなかった。
マダム・ペリペはにっこりと意味ありげに微笑んだ。
「彼なら、ちょっと用事を頼んで済ませに行ってもらっているわ」
「用事?」
「ええ。大丈夫。きっとすぐに済むわ。……徒労に終わればいいんだけれど」腰に手を当て溜息混じりに言う。「でもあなたが係わってる場合、絶対そうはならないのよねぇ」
終わりの言葉をからかうように語尾上がりの調子で言って、マダムは意地悪げにアレクシスを見た。アレクシスが露骨に顔をしかめた。
「言うな」
マダム・ペリペが口元に手をやり、軽く吹き出した。
「……では、トリニティ王女は、やはりセリス王女の心配していた通り、陛下の手にかけられたのですか?」
「そう──おそらく。だが何故、今更?」
アレクシスはワーナーに向かって疑問を口にした。
トリニティは八年間ものあいだ、隅塔(キープ)に幽閉されていた。『呪われた』王女として世間から抹殺された存在だ。
「あえて王自ら手など下さずとも、何も困る事などないだろうに」
呪いの力で、あと数年もすれば寿命が尽きるといわれている。
アレクシスの言葉に、勇者ワーナーがかぶりを振った。
「それは違うターナー。トリニティ王女に生きてもらっていては困る理由が王には出来たんだ」
「困る理由?」
「ああ。王は二週間前にセリス王女を修道院から呼び戻した。──トリニティ王女の廃嫡を決定したからだ」
「廃嫡?」
「そうだ」
ワーナーの言葉に、アレクシスは驚きを隠さなかった。
「あいつはまだ王位継承権を持っていたのか?」
ワーナーが頷いた。
意外だった。トリニティは八年も前に魔王ブラックファイアに呪われた身として幽閉されている。その時点で継承権や王族としての権限を剥奪されていたのではなかったのか。
なぜ──? トリニティの呪いが解ける日が来ると、王は思っていたのだろうか。
「廃嫡の理由は?」
「それは」ワーナーは躊躇いがちにセリス王女に目をやった。「ここにいるセリス王女を
第一王位継承者にするためだ」
「わたくしが?」
突然自分が事件の渦中に投げ出されたセリス王女は、まったく思いもしなかったらしく、驚きの表情を浮かべた。
「わ、わたくし──そんな事は、まったく知りませんでしたわ! でも、まさか! お姉さまがいらっしゃるのに……!」
「だからです」
吐息をつく勇者ワーナーの顔には疲労の色が濃い。どうやら彼は城の事情にかなり詳しいようだ。
「わたしも王がまさかここまでするとは思いもしませんでしたが。……トリニティ王女が行方不明になり、セリス王女が私のもとにおいでになったときには、ぞっとしました。まさか王が──わが子を手にかける選択をなされようとは」
一行の間に沈黙が落ちた。
それぞれが互いの顔を見合わせ、事の大きさに戸惑っていた。自分たちが係わってしまった事の大きさに。
神妙な顔で、マダム・ペリペが口を開いた。
「……これからどうするか、考えなきゃいけないわね?」
「これから?」
修道院で長く過ごして世情に疎い王女は、自分が置かれている状況も、自分が巻き込んだ者達への配慮も分かっていないようだった。
勇者ワーナーが苦渋に満ちた顔で思案げに頷き、アレクシスは深い吐息をついた。
「それも、早急にな」
「そうだな。トリニティ王女をどうするのか、我々はどうするのか」
「ええ。そうね。きちんと決めてしまわなくてはいけないわ。それぞれの立場を」
アレクシスはマダム・ペリペを見た。
「グラディス。あんたはどうする気だ?」
巻き込まれた事態のわりに──だからこそかもしれないが──冷徹な目でマダム・ペリペは答えた。
「協力はしてあげてもいいけれど、正直、巻き込まれるのは御免だわ。あたしはついていくのは遠慮させてもらうわ」
女店主としてのしたたかさ故の冷徹な判断だ。
「あなたは? アレク」
「俺? 俺は……」
やや間をおいて、アレクシスは答えた。
「付き合うしかないな。仕方がない──あのままあいつを一人で放り出すわけにもいかないし……どのみち、前回あいつに雇われた時点でこの一件にはもう巻き込まれているんだからな」
「あらあら……」マダムは溜息をついた。「じゃあ、アブリエルとディーバはアレクにセットってことでいいとして」
「はい!」
「ええっ? 俺をこいつとひとくくりにする気かっ!」
悪魔が天使の襟元を掴んで引っ張った。
「い、痛いっ。痛いですっ! 乱暴は止めて下さい!」
「うるさいチキショーッ」
息の合ったコンビネーションを見せる天使と悪魔の漫才にもマダムは挫けなかった。
「ルイスは……欠席裁判でいいわね。じゃあ勇者様は?」
「私はこのまま城に残る。誰か城の事情を得られる者が残った方がいいだろう。……逆に
身動きがとりづらくなるが……」
「じゃあ、あんたは?」
「──え?」
話を振られて、セリス王女は慌てた。話の流れがまったく見えていないようだった。
──当然だろう。そこまで考えて、城を抜け出してきたのではなかったのだろうから。
姉の心配が先にたって、思いあまってそのまま城を飛び出した──そんな感じだった。
「どういうことでしょうか? 皆さんのおっしゃっている言葉の意味が理解できないのですが……」
途方に暮れたように言うセリス王女に、全員の深い溜息が見事に揃った。
「つまり──」
王女というものは皆こんなものなのかと半ば呆れながら、アレクシスは無駄とも思える説明をしようと口を開いた。
「ターナーさん」
後ろから、遠慮がちに店子がアレクシスに声をかけてきた。
「なんだ?」
「その、あの──トリニティ王女の意識が戻りました」
皆が一斉にそちらを振り向いた。店子は慌てて手を振りながら、「うわ言だと思うんですが……あなたの名前を呼んでいます」
今度は全員が一斉にアレクシスを見た。
「お姉さまに会えるのですか?」
喜びの声を上げるセリス王女の腕を、ワーナーがそっと引いた。王女がふりかえった。
「ワーナー?」
「今はご遠慮ください。ターナーに行かせた方がいい」
「どういうことですの?」
アレクシスの後ろで、王女がまたもや理解できない、といわんばかりの声をだした。終始控えめで可憐な美しさを醸し出していた彼女も、続く出来事に取り乱し気味のようだった。言葉に投げやりな、険を含むような調子が出始めた。王女に理解処理できる範疇を超え始めたらしい。
後ろに王女と勇者のやり取りと聞きながら、アレクシスは扉を開けトリニティが眠る部屋へ入った。
湯で体を洗い流し消毒され、体のあちこちに包帯を巻きつけたトリニティがベッドで薄く目を開けていた。
「──気がついたか?」
アレクシスは安堵の息を漏らし、トリニティに声をかけた。王女が声に応じてこちらを向き、弱々しげに微笑んだ。
(続く)
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