語られる事もなき叙事詩(バラッド)

伊東 馨

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第2部 神の愛娘

第3章 奇跡を起こす条件 2

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   施療所の人々が一斉にトリニティを見つめる。みな一様に、声を詰まらせ、ひどくショックを受けたような様子だった。
「──?」
 不審に思いながらも、トリニティは水桶を僧房の中まで運び込んだ。
 ──やだなぁ。あたしのこと、ここの人たちも皆知ってるんだ。
 穴が開くかと思うほど見つめられて、トリニティは少々傷つきながら僧房の中へ入った。皆が一斉に身を固くしたのが分かった。なにもそこまで嫌わなくてもと思う。
「たった今運び込まれてきた人はどこ?」
 トリニティの問いに返事が無い。溜息をつきながら、トリニティは壁にぴたりとつくように置いてある机の上の洗面器に水を注ごうと桶を担ぎ上げた。
「──汚い」
 汚かった。洗面器は使っていないらしく、とにかく汚かった。それに僧房の中の暗いことといったらない。病人に風を当てないようにするためかもしれないが、こう窓を閉め切っていては空気が澱むだろう。
 室内はかび臭いし、饐えた様な匂いとか、なんだか判別のつかない複雑な悪臭が充満していた。
「窓を開けるわ。──まったく、気が知れないわね。知らないの? 換気は大事なのよ」
 つい最近まで自分だって知らなかったことなのだが、トリニティはさも知っている風な口をききながら、僧房の窓を次々と開け放っていった。室内に明かりが差し込んだ。
 トリニティは振り返って僧房の中を見渡し──絶句した。
「うっわ、きたな! こんなだから変な匂いがしてたんだわ!」

 僧房の床にじかに──藁も敷かず──襤褸が広げてあって、そこに人々が転がっていた。ざっと三十人くらいだろうか。
 着ている衣服ももちろんシーツも敷布も黒く汚れていて不衛生この上ない。誰かに体を拭いてもらったりした様子もなく、みんな体にこびりついた汚れもそのままだ。どうも、それだけではなかった。
 トリニティは僧房を見渡した後、厳しい顔つきでぎゅっと眉を寄せた。
 この僧房はおかしい。僧房の中の人々が、手当てされている様子が無かった。
 ……皮膚が爛れて苦しそうに呻く者。もはや意識が無いのか身動きもしない者。重傷者ばかりが集められているようなのだが……。
 まだ意識があって、顔だけでも動かせる者達は皆、ひどい衝撃を受けたような顔で呆然とトリニティを凝視し続けていた。
 トリニティは僧房の一角に、既に事切れているらしい男の遺体に気付いた。襤褸の上に横たえられたまま、すでに腐敗が始まっている。
 どういうことだろう。こういった場所であろうとなかろうと、亡くなった者は速やかに弔うものだ。弔うのはもちろん生者の役目だが、そのまま放置しておけば生者の中に疫病を生む。
 トリニティの見つめる視線の先に気付いた男が口を開いた。
「二日前に死んでな。……いつもなら外へ連れて行くんだが、残念ながら今はもうこの中に動ける者がいなくてな」
 トリニティが不審げに問うた。
「──どういうこと?」
 男はかろうじて体の向きを変えたが、体を起こす事は出来ないようだった。なんとか体を起こそうとするのだが、よろめいてしまう。トリニティが慌ててそれを支えようと身を投げ出したが、自分が十歳程度の体だという事を失念していた──そのまま男と共に床に倒れこんだ。
「いたた……。怪我しなかっただけましか……」
「す、すまねぇ! おじょうちゃん!」
 おじょうちゃん、と呼ばれたトリニティは僅かに頬を染めた。自分が『呪われた王女』だとこの男は知らないらしい。
「本当にすまねぇ! すぐにここを出てったほうがいい!」
 トリニティは異常なまでに謝罪を繰り返す男が体勢をさて直すのを支えてやろうと、男のわきの下に肩を入れた。僧房の患者たちが息を飲む声が聞こえた。
 汗と腐臭が鼻を突く。この男も何の治療も受けていないようだった。
「お、おじょうちゃん!」
 男はうろたえた様に身を捩って、トリニティから逃れようとした。
「俺に触るんじゃねぇ!」
 突き飛ばされたトリニティは派手に床にしりもちをついた。体が小さく軽いので、大の大人に突き飛ばされれば簡単にこうなる。
 男が慌てて謝った。
「す、すす。すまねぇ!」
「──どうして謝るのよ」
 トリニティは立ち上がると、膝の埃を払った。男がうろたえたように言った。
「どうしてって……あんた、ここがどんなとこか知らないのかい」
「どんなとこって……」
 馬鹿にされるのが我慢ならず、頬に朱をさしてトリニティが唇を尖らせた。どうせ自分は神殿の僧侶達にろくに話しかけてももらえず、どの建物が何の機能を持つ場所なのかの説明もしてもらえていない。
「施療所でしょ。血の雨以降、神殿内に残った建物のいくつかを施療所として使ってるって聞いたわ」
 男が途方に暮れたような顔をした。
「──知らないのか──」
 絶句したようにその言葉を搾り出した。
「違うの?」
 トリニティの言葉に、男は首を振った。
「違う。ここは──『死者の館』だ」男は僧房に横たわるだけの人々をぐるりと見渡した。「『死を待つ者の館』だ」


「『死を待つ者の館』?」
 トリニティの言葉に、男は力なく頷いた。
「そうだ。血の雨を浴びた者はもちろん、ベルダ司祭の奇跡の御業を願っても救えなかった者……死ぬことが定まっている者、もうどうしようもない者がここへ連れてこられる。……連れてこられるというより、捨てられる……と言ったほうがいいかな」
 男の説明に、トリニティは怒りの形相で眉を寄せた。
「い、いや!」トリニティの顔を見た男は慌てて首を振った。「今の言い方はまずかったな!」
「ベルダ司祭だけはここに来られるんだから!」
「司祭様?」
 男は何度も頷く。
「そうだ。疫病の者とかもいるからな。他の僧侶は誰も絶対にここへは来ないんだが。司祭だけは別だ。俺たちに食料を運んでくれたり……神に奇跡を祈ったりしてみてくれる。──何度祈っても効果はないんだが。それでも……司祭の気持ちは俺たちにとっちゃ、涙が出るほどありがたい」
 そうか。
 だからここにいる者みんながあたしをショックを受けたような顔で、穴があくほど見つめていたんだ。
 誰も来るはずが無い場所だったから。
「──あなたは」
「俺か? 俺は血の雨に打たれてな」そう言いながら左の腕をつき出した。肘から下の部分の袖が頼りなげになびいた。「他の部分はあまりあたらなかったんだが腕が……。命が惜しくてな。腐っていく一番ひどい部分を落としたんだが。ダメらしくて……。どんどん広がっていくんだ」
 男は力なく笑った。
「家族はこの神殿内に暮らしてるはずだ。多分な」
 男の体はかなり熱かった。傷の熱だろうか。この男は他の者達ほど重症ではないように見えるが、この施療所にいるということは、そういうことなのだろう。
「もうダメな奴はここの入り口に置いていかれる。そこから自力で中に入るか、まだ動ける者が中へ入れてやるかするんだ。次々に死んでいくから、死んだ者は外の一角へ運ぶ。禽(とり)が俺たちを弔ってくれる」
 俯いた男の顔が辛そうに歪んだ。
「……」
 胸が痛んだ。
 かつて塔に閉じ込められていたトリニティには、この男の……彼らの気持ちが、痛いほどに分かった。

 誰にも顧みてもらえることの無い哀しみ。

 城の地下。天然のドンジョンの中で、このまま誰に知られることもなく果てるのかと絶望した。あの苦しみ。

「──」

 トリニティは立ち上がった。
 つかつかと、性格をそのまま現したかのような、気丈でまっすぐな歩みを進めて、先程の死者の前へ行く。小柄な体をすべて使って、遺体を引きずった。
「お、おじょうちゃん?」
 訳もわからず男がうろたえ、他にも数人の者が身を捩ってこちらを見た。
「何してるんだ?っ」
「何って──」トリニティは息を切らせながら答えた。「外へ運び出すのよ。死んだ人は禽が弔ってくれるんでしょ」
「け、けど──俺の言うこと、聞いてなかったのかっ? ここには疫病の者もいるんだぞ! おじょうちゃんに染つっちまう!」
「そうだ。すぐに出てったほうがいい」
 他から掠れた声が賛同したが、トリニティはそれを無視した。
「おじょうちゃんったら!」
「うるさいわねっ!」
 尚も言う男に向かって、トリニティは怒鳴り声をあげた。小さな老女の体だ。大声を張り上げたつもりでも、実際にはそれ程でもないかもしれない。
「あんたの方こそ、あたしの言ったこと聞かなかったのっ? ──弔うったら弔うの!」
 男はしりもちをついたまま、驚きの表情でトリニティを見上げた。
「それから、まだ色々やる事があるし! あたしは忙しいんだから、余計なことで煩わせないで頂戴っ」
 ぷんぷんと怒りながらトリニティは腕まくりをして腰に手を当てた。枯れ枝のような細い両腕があらわになった。
「まずこの僧房を掃除して。それからあんた達の体を拭かなきゃ。汚すぎっ!」
「──お、おじょうちゃん……」
「疫病だか血の雨だかしらないけどねっ! こんな状態じゃ、なおるもんも治らないわよっ」
「でも……司祭が奇跡を願ってもダメだったんだよ……」
「あたしだってダメだったわよ!」
 こんなところで胸を張るものでもないのだが、トリニティは誇らしげに胸を張った。
「でもいいの! あたし、もう気にしないわ! そう決めたの!」
「──は?」
 訳もわからずうろたえるばかりの男は無視して、トリニティは言葉を続けた。
「神様に頼って、おこりもしない奇跡を待つのはもう沢山! 奇跡が起きないなら、自分で起こすわ──ううん! 奇跡なんて、もう起きなくていい。あたしにはもう、やらなきゃいけないことが出来たんだし、忙しいんだから! ……やる事をやって、一杯やって……そして胸を張って死ぬわ!」
 男はトリニティの顔と、そして今にも折れそうな萎れた腕とを見比べた。
「おじょうちゃん、あんた……。あんたも……」
 大声でそこまで言って、トリニティはにっこりとして胸をなでおろした。
「ああ、すっきりした!」

 自分が呪われた王女だと分かって閉じ込められてからこっち。
 幼馴染みの魔術師を失ってからこっち。

 どれ程多くの言葉を飲み込み、声に出さず、胸のうちに押し込めてきただろうか。
 自分の実の父親に手にかけられた事も。妹と立場が異なってしまった事も。
 多くの事を、どれ程飲み込んできたことか。

 今こうして自分の決意を──つたない言葉でしかなくても──口に出して喋り、誰かに聞いてもらえたことが、どれ程、幸福を感じさせてくれることか。

「さ!」トリニティは男に向かって手を差し出した。「手伝えるなら手伝って!」
「いや……だから……おじょうちゃん、俺の言った事の方は聞いてた──?」
 トリニティは頬を膨らませた。この男、まだ何か不服があるとでも言うのか。
「染るからここから出て行けっていうこと──?」
「ああ」
「聞かなかった!」
「……は?」
「聞いてなかった? あたしは、『聞かなかった』て言ったのよ!」
「いや、だから」
「そんなの! 思い込みの範疇でしょ! 染るって思うから染るのよっ!」
「……いや、おじょうちゃん、だからそれは違うんじゃ……」
「もうっ! しつこいわねっ。あたし、忙しいって言ったでしょ! どうせあたしは呪われててじきに死ぬことが決まってるんだから、これ以上余分なものは染らないわよっ。きっと!」
「……」
 男ががっくりと肩を落とすのを無視して、トリニティは作業を再開した。
 無茶苦茶な論理だということくらい、トリニティにだって分かっている。それはきっと、男にだって分かっているはずだ。なぜなら……男は今にも泣き出しそうなくらい顔をくしゃくしゃにして面(おもて)をあげると、体を引きずるようにして立ち上がって、トリニティを手伝い始めたからだった。
 房内の殆どの者が、われ先に身を起こそうとした。なかには、すすり泣きながら体を引きずってでも手伝おうとするものもいた。
「あんたは寝てなさい! 手伝うのは動ける人だけでいいの!」
「だが──」
「……馬鹿ね」
 トリニティは膿む傷もそのままに、それでも手伝おうとしてくれたその男の背にそっと手を乗せた。
「ありがとう──気持ちだけで十分よ」
 そう言って穏やかに微笑む。男が俯いて肩を震わせた。

 かつてトリニティがあのドンジョンの暗闇の中で。アレクシスに救いを見出したように。
 あの後、生きて再び彼に会えたときに、心からの感謝の言葉を言えたように。
 いまトリニティは目前の男にその言葉を伝えた。
 ベルクトスカを失ってからずっと考えていた。王女とはいっても、何の力もない自分に何が出来るだろうかと。
 王が行う政治のように立派なことではないかもしれない。いま自分がしようとしている事は、取るに足らない小さな事でしかないだろう。
 だがそれでも。
 トリニティは感謝の心で胸を満たした。
 この国の人の為に、自分に出来ることが見つかったのだ。
 
(続く)
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