語られる事もなき叙事詩(バラッド)

伊東 馨

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第2部 神の愛娘

第3章 奇跡を起こす条件 4

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     水汲みを頼まれたアレクシスが井戸へつくと、そこにはいつものようにセリス王女がひっそりと佇んでいた。
「ターナー様」
 近づいてくるアレクシスに気付いて、セリス王女が笑顔を向けた。アレクシスが無言で差し出した水桶を、王女は驚いたような表情でみつめた。
 両者の間に沈黙が落ちた。
「──どうした? 水を頼む」
「え? ええ──はい」
 セリス王女は戸惑うように答え、アレクシスと水桶とを交互に見た。
「なんだ?」
「いえ……! すぐに」
 イラついた声でアレクシスに言われ、セリスは身を縮ませるようにして返事をして、慌てたように作業を始めた。縄を結わえた桶が音を立てて井戸の中に投げ込まれた。
 釣瓶も何もない井戸だった。
 水汲みの作業などした事も無いような不器用さで桶を引き上げると、そこには──途中で零れたというよりは──最初から水が入っていなかったのではと疑いたくなるような程の、わずかばかりの水が桶の底にあるだけだった。
「……」
 セリスは絶句したように水桶の中を覗き込み……次いで、アレクシスの様子を窺うように盗み見た。
 もう一度、カラと言っていい桶を途方に暮れたように見る。
「どうした? 早くして欲しいんだが」
 アレクシスのような目線鋭い強面の男にイラついた表情で言われて、怯えない者などいないだろう。慌ててセリスはもう一度桶を井戸に放り込んだが、何度やっても引き上げた桶の中には僅かしか水が入らない。
 ──あっという間に、セリスの額にも首にも腕にも珠のような汗がびっしりと浮き上がった。
 あまりの不器用なその様子に、アレクシスは吐息をついた。
「……急がなくていい。待ってやるからゆっくりやれ」
 今にも泣き出しそうな表情のセリスは、姉に負けず劣らず、気丈そうだ。それでも口をへの字に結び作業を続けた。


「──ターナー様は意地悪ですわ」
 ようやく桶に半分水が溜まった頃、セリスは搾り出すような声でそのセリフを吐き出した。両手の平が真っ赤に腫れあがっていた。
「俺が? 何故?」
 井戸の縁に縋って寛ぐアレクシスは、ついに一度もセリスに手を貸さなかった。
 セリスは恨みがましい目でアレクシスを見つめ──自らの不器用さの象徴である桶に視線を落とした。
「他の方はみんな、ご自分が水を汲んでくださいますのに」
 セリス王女のパリウムの裾は零れた水でぐっしょりとしている。汗ばんで髪も乱れたその様を、アレクシスは半ば呆れたように見つめた。
 セリスは頬に朱をさした。
「わたくし──こういう事は、不器用ですもの」
 だからこの無様な姿を見て笑うな、といいたいのだろうか。姉に負けず劣らずな矜持に、アレクシスが口元を綻ばせた。
「ターナー様っ!」
 更に顔を赤くして、セリスがアレクシスに詰め寄った。
「いや、悪い。お前達って、あんまり似ているもんだから」
 片手をあげて軽くかわすアレクシスに、セリスは不服そうな声をあげた。
「わたくしはお姉さまとは違います!」
 アレクシスが今度は腹を押さえて笑った。ついにセリス王女は日頃の淑やかさも捨て、腕を振り上げて、それを振り回した。
「──もうっ!」
「お前、水汲みなんてした事ないのか? ──そんな訳無いだろう。何年も修道院にいたんだろ?」
「十年ですわっ!」
 紫の瞳が子供っぽく輝く。まさに幼い子供のように──両の頬を膨らませて、セリスは答えた。
「水汲みなら、最初の頃、さんざんさせられましたわっ」
 遠い過去、修道院の生活にまだ慣れぬ頃の思い出は辛いものだったに違いない。それまで王女として不自由なく、なんの労働もせずに生きてきた少女が、突然、修道院に入れられたのだ。
「大きくなってからは……する事はなくなりましたけれど……」
 セリスの瞳が遠く過ぎ去った日々を思い出すかのように、ここではない場所を見つめた。
「……修道院の生活って、ご存知ですか」
「いいや。あいにく修道士になった経験はなくてね」
 セリスがアレクシスを見上げて弱々しく笑った。
「あまり笑えない冗談ですわ」
「ルイスあたりによく言われる」
「ふふ」右手を口元に持っていき、今度は楽しそうに笑った。
 ワーナーズ・タワーで初めて会ったときのような、この神殿で他の者達の前で見せているような、王女然とした笑顔ではなく。
 聖女と呼ばれる時のような儚げで美しい微笑でもなく。
 ──おそらくは、彼女自身が持つ、姉のトリニティを始めごく僅かの者しか知らない、本物の彼女の笑みを。
 アレクシスが口元だけで笑った。アレクシスがしかめっ面をやめたのを見て、セリスはもう一度親しみのこもった笑顔を向けた。
「ターナー様」
「アレクでいい」
「ええと──アレクシス様?」
 躊躇いがちにそう言うセリスに、アレクシスは嘆息した。
「修道院でそう言えという教育を受けてるのか? だとしても俺はどこの馬の骨とも知れない、ただの傭兵だ。王女のあんたが敬語を使う相手じゃないぜ」
「お姉さまを助け出してくださいましたから。──では、アレク様では?」
「ああ──まあ、それでいい……」アレクシスが諦め顔で肩を落とした。「で、なんだ?」
「お姉さまといつから知り合いに? ──わたくし、ずっと聞いてみたかったのですけれど、聞く機会がなくて」
「ああ。それか……それなら、ひと月半ばかり前……くらいかな。あいつが家出したときに旅の護衛として雇われたのさ」
 セリスはじっとアレクシスの言葉に耳を傾けていた。右手をそっと頬のところへ持っていく。考え込むような仕草が愛らしさを添えた。
「……わたくし、その件は城に戻されてから知りましたわ。お姉さまはどうして家出なんてなさったのかしら」
「ベルダ司祭に奇跡の御業を頼みにな。……だが詳しくはトリニティから直接聞けばいい。姉だろ」
 言われたセリスは僅かばかり俯いて、無言の時を置いた。
「……お姉さまは、呪われた身の上を嘆いていらっしゃるの? だから司祭様に呪いを解いて欲しかったのでしょうか? ……今もまだ以前のままだという事は、呪いは解けなかったということなのでしょうか?」
「──それも俺に聞くことじゃない」
 冷たく返されて、セリスは恨めしそうな、不服そうな顔をあげた。
「アレク様はやっぱり意地悪です」
「俺が? なぜ」
「──妹のわたくしの立場も察して下さいませんと」
 アレクシスは肩を竦めた。
「俺には関係ないことだ。お前達姉妹の問題なら、直接あいつに言え」
「それが言えれば苦労はしません!」
「だが結局はそれが一番いい」
「──」セリスは驚いたような表情でアレクシスを見つめた。胸のうちに沸き起こった複雑な心境をそのまま表に現したかのような、頼りなげな顔で俯く。歯痒そうに唇を噛んだ。
「そうですわね……。きっと、それが一番いいんですわ。分かってます。けれど──」
 セリスは瞼を閉じてそっと吐息を吐き出した。
「お姉さまがうらやましいですわ」
「あいつが?」アレクシスは心外そうにセリスを見下ろした。「──呪われて、あと数年で死ぬあいつが?」
「ええ」
 セリスはこっくりと頷いた。
「うらやましいですわ。──アレク様のような人たちに会えて」
「俺──?」
 意外な発言に、アレクシスは片眉をあげた。セリスがにっこりと微笑んだ。
「ええ。そうです。うらやましいですわ……あなたのような方に思われるお姉さまが」
「はっ?」
 アレクシスが驚きの声をあげた。
「なんで俺が──?」
 声にはありありと否定の色があったが、セリス王女は一向に構う様子もなく、あいも変わらず朗らかな笑みをアレクシスに向けた。
「隠しても無駄ですわよ。わたくしも女。その手のことには素晴らしい感が働きますのよ」セリスは堂々と胸を張った。「ネリスの女店主の店で──扉の影から、お姉さまとアレク様の様子を見て、ピンときましたわ!」
 アレクシスが露骨に嫌そうに顔をしかめた。
「──俺をロリコンにしたい気か?」
「あら。お姉さまは十八ですわ」妹王女は姉をきちんと、外見ではなく判断しているらしい。
「それなのにどうして以前、あんな、つれないことをおっしゃったのですか?」
「つれない?」
「そうですわ。……今のお姉さまを見捨てて、自分たちだけここを出て行けばいいというような事を……」
 アレクシスは眉根を寄せて、深い溜息をついた。溜息には様々な意味があった。この見かけとは裏腹な第二王女の無責任な発言とか、もっと別の深い意味が。
「……答えないといけないのか」
 意外にも。
 搾り出すようなその声に含まれる真剣な感情を察して、セリス王女はおや、という顔をした。真摯な表情でそっと頷く。
「ええ。ぜひ聞いておきたいのです。……駄目ですか」
 瞼を閉じたアレクシスは苦笑気味に首を振った。

(続く)
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