語られる事もなき叙事詩(バラッド)

伊東 馨

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第2部 神の愛娘

第4章 神の門前で 5

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 襲いかかる鍵爪をとっさに抜いた剣で受けようとしたが、硬い鱗に剣が弾かれ地面に落ちた。
 アレクシスは舌打ちした。
 どの道、空を飛ぶ相手に剣では対処できない。妖獣は再び空へ舞い上がり下降体勢に入った。鋭い嘴を突き出し、獰猛な攻撃をかけてきた。
 『嘆きの炎』が炸裂した。
 アレクシスが瞬間的に放った魔法の焔(ほむら)は、頭上二百クヌートの高さでケツアルコアトルに命中した。間近で炸裂した焔がアレクシスの頭上にも降りそそいだ。
 妖獣は高く啼き空へ舞い上がり、アレクシスは焔を受けて地面を転がった。
「くそっ!」
 火傷を気にかけずすぐに立ち上がって、妖獣の次の攻撃に備えようとする。
 空の敵はやっかいだ。
 あれほどの巨体でありながら、驚くほど動きが早い。
 牽制し攻撃をかわそうとアレクシスが『嘆きの炎』を放ったのは、ケツアルコアトルが五百クヌートは離れている時だった。
 五百クヌートも離れていれば、千切れ飛んだ焔がアレクシス自身に降り注ぐ事など無いはずだった。
 だが実際には目測よりも三百クヌートも手前で妖獣に命中した。思ったよりずっと早いスピードで妖獣が飛んだのだ。
 ──どうする。
 空に舞い上がった妖獣が円を描くように羽ばたき、再び下降体勢に入った。
 この手の厄介な敵には逃げ出すのが最も有効な対処法だが、この場合そうもいかない。
ケツアルコアトルは召喚獣として黄魔術師達に使役されている。いまここで逃げ出したとしても、アレクシス同様に奴もまたアイゼンメルドを目指して攻撃をしてくるだけだろう。それは避けなければならなかった。
 しかも、以前ファイアドラゴンと戦った時のような無茶は出来なかった。妖獣を倒したはいいが自分も身動きできなくなってしまっては、町に残してきたトリニティをどうやって守る。 『加速(ハイ・スピード)』も『強力(ハイ・パワー)』も同じ理由で使えない。
 千々になった魔法の焔が、アレクシスの足元で燻る様に踊りながら、ゆっくりと消えていった。
 町の方から、戦の音が微かに聞こえた。重なり合う金属の音や人々の叫び声が。
 ちりちりとした焦燥感がアレクシスに湧き上がってきた。
 突き出した掌の前に『嘆きの炎』の焔が収束していく。熱が一箇所に集中し、まだ消えていなかった足元の焔の欠片も舞い上がり、再び収錬され火球が生み出されていく。
 今度はさっきよりも早い段階で妖獣に向けて放った。
 妖獣が啼く。
 爆炎に巻かれ、体勢を傾け落ちたように見えた妖獣だったが、火炎の中から嘶きとともに巨大な嘴が突き出された。
 咄嗟に避けたものの嘴がアレクシスの脇腹を掠った。地面に倒れこんだアレクシスは、転がりながら妖獣を避け立ち上がろうとした。
 アレクシスが心の中で悪態をついた。
 魔術を使うのに長たらしい呪文も魔法円も使わない分、人並みはずれた集中力と術の制御を要求される。
 だが──。
「くそっ! 目の前の敵に集中しろ!」
 こんな時だというのに、町に残してきたトリニティの安否が気遣われ魔術に集中できない自分がいた。
 ケツアルコアトルに体当たりされ一瞬でも焔に巻かれたアレクシスの傷は大きい。……魔法の焔は通常の火よりもずっと始末に終えない。
 術師が放った魔法の焔を自身が受けるなんてとんだ笑い種だが仕方が無い。黒魔術は威力のある攻撃系の魔法を扱えるが、それはすべて放出系だ。相手にぶつけ、ぶつけた先で威力を発揮する。魔法の有効範囲内で魔術を使えば、自分自身も被害を受けた。
 立ち上がろうと腕を突いたアレクシスは、伸ばした腕を慌てて引いた。その先に発動中の魔法円が耀いていた。
「──」
 アレクシスはその魔法の耀きを見つめた。
 自身が放った魔法の焔の火の粉が風に舞う。舞い落ちる火の粉が衣服を焦がした。
 火の粉は小さいから燃え広がる事はなく、肌を露出する部分も少ないから然程苦痛ではない。それでもその熱気と、顔に当たる痛みに黄魔術師達は顔を振り体を捩りながらも、魔法円の制御を止めようとしない。
 アレクシスが立ち上がりながら顔を上げ、火花を散らすように耀きながら舞う火の粉の流れを目線で追った。
 肩で大きく息をし、整える。
 再び、啼き声とともに妖獣が飛び掛ってきた。
 何度も焔に焼かれた妖獣は焦げた翼を叩きつけるようにして羽ばたかせながら、烈火のごとく怒り狂って、その矛先をアレクシスに向けていた。
 アレクシスが走った。
 地面に落とした剣を拾い上げる。
 刀身に指先を這わせた。
 火花が散り、刀身に『裁きの雷(いかづち)』が込められる。
 地面に降り立ったケツアルコアトルが地を蹴って、鋭い嘴をアレクシスに叩きつけた。それをかわしながら、アレクシスは構えた剣を横なぎに打ち付けた。
 空気が鳴り、妖獣が甲高く啼いた。バランスを崩した巨体が地面に滑り込むようにして倒れこんだ。
 飛んだ片足が一人の黄魔術師の体にぶつかり、悲鳴をあげてよろめいた魔術師は魔法円の中へ向かって倒れこんだ。
 断末魔の悲鳴は一瞬。残りの魔術師達が喉をつぶしたような悲鳴をあげた。
 妖獣は体半分が魔法円の中に入った。だが、召喚の契約で自身が出てきた魔法円だ。妖獣自体は憐れな魔術師と同じ末路は辿らなかった。
 だが、巨体が地面を引きずったために魔法円が崩れた。術が発動中に破壊されたのだ。
黄魔術師達は恐怖の悲鳴を上げ、次々と始めの魔術師と同じ末路を辿った。
 アレクシスは剣を捨てると、宙に向かって短い呪文を唱えた。
 組み上げた印掌にしたがって頭上に現れた光の玉が耀き、展開され、宙に魔法円が描きあげられてゆく。
 空中に紡ぎだされた魔法円は、地上に描かれた魔法円よりも少し大きい。
 まるでそれ自体が生き物であるかのように、地面に描かれた魔法円と引き合い、同じ大きさになるように縮んでいった。
 円弧の軌道上にはみ出ていた妖獣の体の上にも、引き合う魔法円の軌跡は描かれていく。
 妖獣が断末魔の声で啼いた。魔法円の軌跡にそって、妖獣の体が弾け飛んだ。
 上下の魔法円の大きさがぴたりと揃った。
 火の粉のように小さく千切れ飛び消えかけていた『嘆きの炎』の欠片が舞い上がり、閉じられた魔法円の空間の中で一つに練成されていく。蠢く火球の赤が──今までよりもずっと深く、赤くなった。
 そして──炸裂。
 みごとに切り取られた空間。
 魔法円に縁取られた結界の中でだけ『嘆きの焔』が炸裂した。上半身を失った妖獣が絶息の声をあげる事は無かった。



 アレクシスが息を切らせながら立ち上がると、そこに勇者の姿はなかった。
 熱気と脂肪の燃える特有の臭いが鼻をつく。
「……結局、無駄足に終わったな」
 兵力を出来るだけ削ごうとここまで来たものの、目的は果たせなかった。……これだけ苦労したのにだ。
 わき腹を押さえ、ふらつくように足元の剣を取ったアレクシスは刀身に目をやり──盛大に顔をしかめた。
 そして嫌気がさしたように首を振る。
「くそ」
 乗ってきた馬は見つからなかった。アレクシスは深い溜息をついて、眼下に広がるアイゼンメルドの町並を見下ろした。
 火の手が上がるのが見えた。騒然とした声がここまで響いてくる。
 勇者め。歯噛みするような思いだ。……ここから足を引きずって走っても、着くまでにかなり時間がかかるだろう。
 戦う術を持たない町人や僧侶だけの集団だ。アレクシスが戻るまで持ちこたえていられるのかわからない。
 アレクシスは息を整えながら額に手を当てた。荒れ狂う感情を沈めるように大きく息を吸い、吐き出す。
 落ち着け。そう自分自身に言い聞かせた。
 落ち着くんだ。
 閉じた瞼の裏に、小柄な少女の面影が浮かんだ。
 ──奔放に流れる髪そのままのような性格の娘の姿が。思わず眉間に皺を寄せる。放っておくとどんどん厄介な事態へ巻き込まれるあの性質。目が離せないなんてもんじゃない。
 アレクシスは目を開き、もう一度呼吸を整えた。
「呼べ。俺の名を」
 低く静かに、一人その言葉を口元にのせた。
 意識を眼下の町へ──神殿へ向ける。

 移動の魔法円は出現先に目標物が必要だ。それは、はっきりとした存在でなければならない。その目標に意識を合わせて、魔法円を繰る。存在さえ感じ取れれば、距離は問題ではなかった。
 だから城へトリニティを探しに行くとき、先に悪魔を行かせた。

 もう一度、アレクシスは口を開いた。
「呼べ──トリニティ」

 俺はそこへ行く。
 


 (続く)
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