語られる事もなき叙事詩(バラッド)

伊東 馨

文字の大きさ
104 / 131
第4部 アマランタイン

第3章 続く螺旋の詩 5

しおりを挟む
 何度か経験済みの独特の感触が体内を駆け巡るのに身を任せ、トリニティは自分の意識を城に居るはずのアレクシスへと集中させた。記憶の中の彼の姿を脳裏に強く思い描く。
 その思いが強ければ強いほど。
 寄り添い重なる心の度合いが深ければ深いほど、より高精度の確率で目的の人物の傍へと姿を現すことができるというのは、既に知っている。
 トリニティが脳裏にアレクシスの姿を思い描くと、胸の内に焼け付く様に熱い感情の塊が湧き上がってきた。
 その塊はただ一つのことを思うものではなく、さまざまな感情が潮のように渦巻いているのだった。
 相手を激しく求める心。熱情のような感情も、情愛のような感情も混ざっていた。
 傷が膿んで疼くような痛みも。痛みと同じだけの悲しみも交じっていた。



 ──自分で自分の最後の運命を切り開きたくて城の塔の扉から出て行ったあの日。

 あの日。

 まさかこのような形で城に戻ることになるなど、想像もしなかった。

 永い放浪の旅の末に再び城に戻り──これは予感ではなくもはや確信だが──きっと、今日が最後の旅になるだろう。

 ……行き着く先にどんな結末が待っているのだろうか。

 これが王権争いである以上、その結末は、どちらかが勝ちどちらかが負けるという図式でしかありえない。その図式の中で踊る当事者たちがどのような考えで、どのような気持ちを抱えているかなど問題ではないのだ。
 ベルダ司祭やルイス達の指摘通り、どちらにとっても良い結末だった……などという、大団円などありえないことなのだった。
 それはトリニティにも分かっている。分かってはいたが──それでも、そのような結末がどこかに転がっていないだろうかと探し求める自分は、皆や妹が言うように甘いのだろうか。

 そして──。

 自分は……。

 昔から、こんなにも弱く甘い人間だったろうか……。

 閉ざされた塔で過ごした八年間という月日があまりにも長く、あまりにも人を、世界を呪い続けてきたがゆえに、トリニティは幽閉される前までの自分がどのような性質だったか忘れてしまっていた。
 少なくとも、塔にいる間と出てきてからしばらくの自分は、手負いの獣のようにイラついて攻撃的だったはずだ。
 出会った誰もが嫌うはずの嫌な自分だった。自分自身でさえ、そんな自分に吐き気を催すほど嫌悪したものだ。──いや、それとも。うまくいかない事の何もかもを、すべて他人のせいにしてもなんの疑問も持たぬほど腐り果てた人間だったろうか。
 そんな自分が今は都合の好いラストシーンがありはしないかと心の奥底で求めるような人間になってしまった。
 世間を斜に見るルイスあたりなら──自分にではなく単なる知り合いになら──堕ちたものだな、と捨て台詞でも吐きそうな、そんな人間になってしまったのだ。
 そんな非力な自分が情けなくもあったが、以前のような腐った果実のようだった自分よりはずっといいはずだとも思う。
 いずれにせよ、後悔と迷いばかりが残ることに変わりはない。その時、その場面で。どんな判断をすればいいのか。最良の判断はどれなのか。いつも迷い続けていた。
 この一件にどんな結末が待っていたとしても、それは一連の出来事のうちのたった一つが終わったに過ぎないのだ。そこから先にはさらに別の問題が、別の迫られる判断が待っている。

 トリニティの脳裏に浮かぶ漆黒の男。

 失われた王家の末裔だと知った……。

 この出来事が終われば、きっと次に問題になるのはそれだ。トリニティの胸が疼くように痛んだ。つらく苦しい判断に迫られる問題だ。神はなぜ自分たち人間にこのような困難ばかり与えるのだろうか。
 心の中だけで吐息のように息を吐きだし、トリニティは考えることを止めた。
 ──考えたってどうしようもない事を考えるのはやめよう。
 くよくよと悩んでもどうしようもない問題なのだ。今は目の前の事ただそれだけに意識を集中して、今という瞬間の中だけに生きていよう。
 その瞬間に全力で臨もう。
 ……それは来るべき問題から逃げ出すという事にはならないはずだ。その問題はその時が来た時に、また悩み、考えればいい──。


 空間と空間をまたぐように潜り抜ける、一瞬を駆け抜けるような時間(とき)。
 そのわずかな時間の間にそれだけの事を思い巡らせ、トリニティは閉じた瞼を開いた。
 ……体が元の感触を取り戻していく……。
 毛先から、肩先から、魔法の虹彩が雫のように流れ落ちて消えていった。
 きらめくそれらにしばし目をとめて──トリニティは顔をあげた。




 目前には懐かしい景色が広がっていた。




 光を受けた城の中庭。その外れにある流行おくれの古びた東屋。
 トリニティの記憶の底に眠る、この場所の記憶が、泡が噴き出すように溢れ出て彼女を埋めた。
 それら幸せだった頃の幼い記憶に軽い眩暈をおこし、トリニティはよろめきながら何度か瞬いた後、目を細めじっと目前の光景に目を凝らした。
「──あら」
 懐かしい声がした。
 弾かれるように顔をあげると、東屋の中におかれたテーブルセットの椅子に腰かけた妹の姿が目に飛び込んできた。


 紙の様に白い肌。きらめくように流れる銀糸。いつ見ても儚げで可憐なその微笑み。光の中で何故かその肌はいつも以上に白く霞んで見えた。
「──セリス……!」
 トリニティは絞り出すように妹の名を呼ぶと、二つ年下の妹は唇の端だけを持ち上げて張り付いたような笑みを見せた。
「ずいぶんごゆっくりでいらしたのね」
 皮肉げにそう言って、他人にはけして見せることのない勝気な瞳で挑むように姉を見つめた。その視線が、勝ち誇るように少し離れた足元へと向けられた。トリニティの視線もつられる様に下へ動いた。
「──!!」
 そこに見たものに激しい衝撃を受けて、トリニティは息を飲んだ。口を両手で押さえ込んで、わななく様にその場にへたり込んだ。あまりの衝撃に膝から一気に力が抜け、立っていられなくなったのだ。
 姉のその無様な様子を見た妹は暗い喜びに浸るように満足そうな表情を見せた。
「──ア……ア……アレク──!!」
 こみあげてくるものを無理やり押さえ込んで、何度も何度も言葉に詰まりながらトリニティはようやくその言葉を絞り出した。
 城の外から大きな声が上がるのが、この城壁の中にまで聞こえてきた。──戦いは始まったのだ。自分たちの最後の戦いの火ぶたが切って落とされた。

 その戦の、もっとも重要な邂逅が今ここでなされている。

 ……なされているというのに、その邂逅は異様なまでに静かで不気味なものだった。
 城門で始まった戦闘の喧騒も此処まではまだ遠く、突然始まったその戦に、城内はようやく慌ただしさを見せ始めたばかりだ。普段でも静かなこの中庭はそれらの騒然とした空気とはまだ無縁の場所だった。

 だが。

 ──ただ音だけが──静けさを守っていたというだけで、この場所ではもう、もっと前から戦いは始まっていたのだ。

 アレクシスは居た。
 セリス王女の足もとに──血の海の中に倒れこんでいた。
 体の中心から流れ出した彼の血は大きな池を作りだし、アレクシスを飲み込んで黒く蠢きながら辺りに鉄の匂いを振り撒いていた。
 蠢く──?
 そう。
 失血死を招くのではと危惧するほどの量の血が、地面に吸い込まれるでもなく池の様に溜まり、それは沸騰する湯さながらに激しく泡立っていた。目を凝らせばそれは泡立つというよりも、何かが蠢いているかのようにも見えた。
 トリニティは一層口元を強く抑え込んだが、ついに耐えかねて咳込むように噎せた。セリス王女が一層愉快そうに目を細め辛辣な言葉を放った。
「仮にも王女が、そのような無様な様を晒すなど、はしたなくていらしてよ」
 そう言って笑った。
 ──黒く蠢くそれは、小さな蟲達の背だった。
 何百、何千という塊が、赤黒い血色のぬめりを放ちながら不気味に蠢いている。見る者に吐き気を催すようなその動きは、食い散らかされた内腑と赤く染まった肉片の海に心地よさそうに体を沈め、溢れんばかりだった。
 今にも消えそうな幽かな息遣いが、途切れ途切れにトリニティの耳に届いた。
「地獄の虫」トリニティの後ろに立つマダム・ペリペが呟いた。「憐れだわ──いっそ、死ねる体なら楽だったでしょうに」
 その言葉にぞっとしながらトリニティは振り返った。セリス王女もいま初めて気づいたというように姉の後ろに立つ天使と悪魔に目をやった。
「……それはどういう事ですの? 彼が何時までたっても死ぬ様子がないのと関係が?」
 すでにそれだけの時が経っていたのか──だが、セリス王女はアレクシスのその惨状にも心を動かされもしないとでもいうような、氷のような瞳をマダムに向けた。
「おかしいと思っておりました。普通、この状態の人間はとうの昔に死んでもいいはずです。……それなのにアレク様は苦しむ様子ばかりで死ぬような素振りは一向に見られません。これ以上苦しませるのも可哀想ですし。どうしたものかと、思いあぐねていたところですわ」
「仕方があるまい」マダムの代わりに魔王が答えた。
「それはまだ子を成しておらぬ。代の変わらぬダンジョンマスターを死なせるわけにはいかないのでな──たとえどのような状態になろうとも」
 魔王の最後の一言に目前のアレクシスの姿が重なって、トリニティはぞっとした。体の芯から、命の底から冷えた。


 かつて──アレクシスと二人だけで過ごしたダンジョンの中の野営地で。トリニティはその事についてアレクシスに聞かなかったか……。
 なんという悲しい運命(さだめ)だと思いながら聞かなかったか……。

 いま、それを目前にして。トリニティはただふるえながらすすり泣くことしか出来なかった。
「ア……アレク……!!!」
 慟哭のその声に答えるように、アレクシスの体が微かに動いた。
 


 ダンジョンマスターの呪われた定めがそこにあった。


(続く)




今回は「裏」はお休みです。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました

佐倉穂波
恋愛
 転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。  確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。 (そんな……死にたくないっ!)  乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。 2023.9.3 投稿分の改稿終了。 2023.9.4 表紙を作ってみました。 2023.9.15 完結。 2023.9.23 後日談を投稿しました。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さくら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

『異世界庭付き一戸建て』を相続した仲良し兄妹は今までの不幸にサヨナラしてスローライフを満喫できる、はず?

釈 余白(しやく)
ファンタジー
 毒親の父が不慮の事故で死亡したことで最後の肉親を失い、残された高校生の小村雷人(こむら らいと)と小学生の真琴(まこと)の兄妹が聞かされたのは、父が家を担保に金を借りていたという絶望の事実だった。慣れ親しんだ自宅から早々の退去が必要となった二人は家の中で金目の物を探す。  その結果見つかったのは、僅かな現金に空の預金通帳といくつかの宝飾品、そして家の権利書と見知らぬ文字で書かれた書類くらいだった。謎の書類には祖父のサインが記されていたが内容は読めず、頼みの綱は挟まれていた弁護士の名刺だけだ。  最後の希望とも言える名刺の電話番号へ連絡した二人は、やってきた弁護士から契約書の内容を聞かされ唖然とする。それは祖父が遺産として残した『異世界トラス』にある土地と建物を孫へ渡すというものだった。もちろん現地へ行かなければ遺産は受け取れないが。兄妹には他に頼れるものがなく、思い切って異世界へと赴き新生活をスタートさせるのだった。 連載時、HOT 1位ありがとうございました! その他、多数投稿しています。 こちらもよろしくお願いします! https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/398438394

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

処理中です...