白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』

鍛高譚

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第1章 政略結婚の

1-6

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 部屋を見渡すと、高価そうな家具が整然と配置され、壁には華麗な絵画が飾られている。ベッドは天蓋付きで豪奢だが、今夜はそのベッドで一人眠るのだろう。
 表向きは新婚夫婦。しかし、この結婚は初めから「白い結婚」として取り決められていた。ランカスター家とクラレンス家の契約に従い、二人は夫婦として振る舞うが、夫婦の営みは持たない。つまり、相互不干渉の関係だ。
 なぜなら、この結婚の目的は政治的同盟と体面の維持にあるからだ。エドワードにはローザをはじめとする愛人がいるし、ジェニファーにも自由を与える――表向きはそういう取り決めだ。しかし、貴族社会である以上、周囲からの視線があるから“表面上だけは”夫婦としてふさわしい立ち居振る舞いをしなければならない。
 ジェニファーはあまりに虚しさを感じながら、ふと一つの決意を固める。
 ――それでも、私は私の立場で最善を尽くしてみせる。
 たとえ愛のない結婚であっても、ランカスター家の娘として、恥ずかしくない生き方をしたい。ジェニファーはそう自分に言い聞かせ、震える手をぎゅっと握りしめた。

 その夜、エドワードは結局、遅くに帰ってきた。時計の針は深夜を回っている。ジェニファーはベッドの上でまどろみながらも、扉の開く音に気づき、薄目を開けた。
 エドワードが部屋に入ってきたのだ。彼はジェニファーが寝ていることを確認すると、軽くため息をつき、部屋を出て行こうとする。その様子が見えてしまったジェニファーは、胸がちくりと痛んだ。
 ――こちらを振り向くことすらしないのね。
 自分の立場は“妻”であるはずなのに、まるで空気のように扱われている。そう思うと、その光景はあまりにも惨めで、そして悔しかった。
 だが、ジェニファーは起き上がって声をかけることはしなかった。何を言っていいかわからないし、エドワードの態度からしても、無理に関わろうとすれば煩わしがられるだけだろう。
 結婚初夜は、こうしてあっけなく幕を閉じた。

 翌朝。ジェニファーが目覚めると、窓から眩い日差しが差し込んでいた。高級なカーテンが揺らめき、さわやかな空気が部屋を満たしている。
 身支度を整え、メイドが用意してくれた朝食を軽くとると、ジェニファーは執事の案内で館の中を少し見学することにした。公爵夫人として館を把握しておく必要があるし、使用人たちに顔を覚えてもらわなければならない。
 廊下を歩きながら、ジェニファーはやや緊張していた。幼少期から厳しい貴族教育を受けてきたとはいえ、公爵家の主婦としていきなり振る舞うのは初めての経験だ。しかも、実質的には夫婦の実体がない状態。どこから仕事に手をつけたらいいのだろう。
「ここが大広間でございます。普段はお客様をお招きする際に使われる場所ですね。こちらのサロンは夫人のお茶会などに最適かと……」
 執事は淡々と説明を続ける。ジェニファーは心の中でメモを取りながら、合間に微笑を向けていた。使用人たちはどこかよそよそしく、しかし公爵夫人としての彼女を丁重に扱っている。
 突然、背後から澄んだ声がかかった。
「おはようございます、ジェニファー様」
 振り返ると、そこには中年の女性――公爵家の家令長を務めるマーサが立っていた。灰色の髪をきちんとまとめ、落ち着いた色合いのドレスを着こなし、きびきびとした動作が印象的だ。
「マーサ……でしたね。おはようございます」
 ジェニファーがにこやかに挨拶すると、マーサは少し恭しく頭を下げた。
「はい、マーサ・ブレアと申します。お屋敷内の事柄については、私に何でもお申し付けください。旦那様――エドワード殿下のご意向もあり、当面は夫人を全面的にお支えするようにとのお達しを受けておりますので」
 マーサの言葉を聞いて、ジェニファーは少し驚いた。
「エドワード殿下……そのような指示を?」
「はい。『余計なことを詮索するな』という条件付きですが、あなたの当面の采配は認めるとのことです」
 条件付き。ジェニファーはその“余計なこと”とは何を指すのか、すぐに察した。おそらくは、愛人関係や彼の政治的な動きなどを深く探ろうとしないこと――それが条件なのだろう。
 しかし、少なくとも館の運営や使用人の指揮については、ジェニファーが夫人として主導してよいことになっているらしい。それを聞いて、彼女は少しほっとした。何もできないまま“置物”にされるよりはずっといい。
「わかりました。マーサ、さっそくですが、館の使用人たちの人数や役割分担、それから毎月の家計や備品の調達状況などを把握したいのです。私が今後、管理するうえで必要となりますので、まとめた資料があれば見せていただけますか」
 ジェニファーがそう申し付けると、マーサはさっと目を見開き、そしてすぐに微笑んだ。
「かしこまりました。すでに書類は公爵夫人のために用意しております。執務室の方へご案内いたしますね」
 そう言って、マーサは先導するように歩き始めた。ジェニファーは彼女の後ろをついていく。その背中からは、公爵家を切り盛りしてきた長としての威厳と、ジェニファーへのある種の期待感が感じられた。
(なんとか、私にできることをやっていこう)
 そう思うと、不思議と少しだけ気が楽になった。結婚は望んだ形ではなかったが、公爵家の主婦として自分ができる仕事があるのなら、そこで自分の存在意義を見出したい。

 執務室で書類を受け取り、ジェニファーは一通り目を通す。使用人の数は相当多く、料理長や馬丁、メイド長などの責任者の名がずらりと並んでいる。家計管理も複雑だが、幼い頃から会計の基本くらいは仕込まれているジェニファーにとっては難しすぎるものではない。
 むしろ興味を引いたのは、公爵領の運営に関わる事項だった。領内の税収や農作物の収穫、商人たちとの取引状況など、かなり広範な情報がまとめられている。エドワード自身も領主としての義務を果たし、国王や他の貴族との政治交渉も行っているのだろう。
「今後、私がどこまで口出ししてよいのか、正直なところわかりませんが……」
 ジェニファーがためらいがちに言うと、マーサは小さく頷いた。
「領主としての最終判断は殿下が下されます。しかし、殿下は貴女の聡明さを認めておられるようですから、公爵夫人として、ある程度は助言して差し上げることを期待されているのではないでしょうか」
「エドワード殿下が、私に期待を……?」
 ジェニファーは信じがたい思いだった。結婚式や披露宴での彼の態度からは、そんな風には到底思えない。
「はい。実際、こうして私にも『夫人に協力せよ』と仰せつかっていますし……。もちろん、殿下には殿下のお考えが終わりでしょうけれど」
 マーサの言葉には含みがあった。エドワードがジェニファーを都合のいい“公爵夫人”として使いたいだけなのか、あるいは本当に彼女の能力を買っているのかは分からない。だが、ジェニファーにとってはわずかな光明でもある。自分の居場所を見つけ、誇りを保ちながら生きていくための足掛かりになるかもしれない。
「わかりました。しばらくは館の運営を学びつつ、力になれることがあれば、惜しまず取り組んでいきたいと思います」
「頼もしいお言葉です、夫人」

 そんな風に館の仕事を把握しようとしていたジェニファーだが、貴族社会は彼女にそう悠長な時間を与えてはくれなかった。その日の午後、早速、ジェニファーは「公爵夫人の挨拶回り」と称して社交界への顔見せを要求されたのだ。
 実は、夫人となった以上、周辺の貴婦人や王宮での要職夫人たちに挨拶をするのが慣例である。いわば“洗礼”のようなもので、一度に多くの人と接触し、関係づくりを始めなければならない。
「ジェニファー様、明日は王宮にてお義母様……クラレンス公爵未亡人と、王宮の女官長とのお茶会が予定されております。そちらに出席していただき、その後、いくつかの伯爵家や侯爵家の奥方のもとへご挨拶にうかがう予定です」
 マーサが淡々と説明する。
「お義母様……そうね。きっと厳しい方だと伺っていますが、実際にはどのようなお方なのかしら」
「先代公爵と共に王家を支えてこられた方で、格式と伝統を重んじるご性格です。殿下ですら頭が上がらないこともあるとか。とにかく、一筋縄ではいかないかもしれません」
 ジェニファーは小さく息をついた。エドワードの態度が冷淡だったのも、この義母の存在が大きいのかもしれない。
「わかりました。できる限り礼を尽くしてお会いしましょう」
 彼女としても、ここで義母の心象を悪くしてしまったら、今後の立ち回りは一層難しくなる。貴族社会では、嫁入り先の当主や家族との関係がそのまま地位や立場に影響を及ぼすからだ。

 翌日、馬車に乗って王宮へ向かったジェニファーは、改めてその威圧感に圧倒されそうになる。何度も訪れたことがある場所ではあるが、いざ“公爵夫人”として足を踏み入れるのは初めてだ。
 王宮の回廊を歩いていると、華やかなドレスをまとった貴婦人たちや、煌びやかな武官の姿が行き交う。どこを見ても豪奢で、王宮特有の華美さを感じる。
「お会いできて光栄ですわ、公爵夫人」
「まあ、新婚早々ご苦労ですわね」
 行き交う人々から、さまざまな挨拶を受ける。ジェニファーはそのたびに優雅に微笑み、丁寧に礼を返す。すると、中にはこそこそとした声で「どうせ形式だけの結婚ですものね」「本当に公爵殿下に相手にされるかしら」などと囁く者もいたが、ジェニファーはあえて気づかないふりをした。
 案内役の侍女に従い、目的の部屋へと通される。そこは窓が大きく、日の光がさんさんと降り注ぐ優雅なサロンだった。純白の壁には花のレリーフが彫られ、中央のテーブルには新鮮な果物と茶菓子が美しく並べられている。
 そこに座していたのは、一人の気品ある老女と、その周りを取り巻く数名の貴婦人たち。老女こそが、エドワードの母――クラレンス公爵未亡人である。
 彼女の名はイザベラ。今は先代公爵が亡くなっているため、未亡人として公爵家に一定の影響力を保持している。深い紫のドレスを身にまとい、白髪をきちんとまとめ上げた姿は、厳粛で近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
「初めまして、イザベラ様。ジェニファー・ランカスターと申します。公爵夫人としてふさわしい振る舞いを身につけられるよう、精一杯努めて参りますので、どうぞよろしくお願いいたします」
 ジェニファーは姿勢を正し、すっと頭を下げた。
 イザベラは静かにジェニファーを上から下まで見つめる。まるで品評しているかのようだ。やがて口を開くと、その声には厳しい響きが含まれていた。
「まあ……写真で見るより少しは落ち着いているようね。若い娘は得てして浮ついているものだけれど、あなたの態度は悪くないわ」
 それがイザベラなりの“誉め言葉”なのだろう。周囲の貴婦人たちは苦笑交じりに見守る。
「ありがとうございます。まだまだ未熟ですが、これから精一杯学んでいく所存です」
 ジェニファーが丁重に返事をすると、イザベラは軽くうなずいた。
「どこまで期待できるかは未知数だけれど、とりあえず、公爵家の恥にならないようにね。エドワードはああ見えて気まぐれな面があるから、余計なトラブルはごめんだわ」
 それはつまり、エドワードの愛人問題などを含めて“見て見ぬふりをしろ”と言わんばかりにも聞こえる。ジェニファーは胸にしこりを覚えつつも、表情には出さない。
「肝に銘じますわ。イザベラ様」
 こうして、お茶会は始まった。ジェニファーは周囲の貴婦人たちから根掘り葉掘り質問攻めに遭い、ランカスター家のことや、エドワードとの馴れ初め(もちろん形式的なことしか話せないが)などを語る。
 その最中、イザベラはほとんど口を挟まず、ただジェニファーの受け答えを観察しているようだった。やがて一通りの会話が落ち着いたところで、イザベラは口を開く。
「あなたは、まだ若いし美しい。これから先、公爵夫人として多くの誘惑や試練があるでしょう。エドワードがあなたをどう扱うかも分からない。それでも、あなたがクラレンス家の名を貶めないように務めるなら、私も協力は惜しまないわ」
 ジェニファーは僅かに唇を引き結びながら、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。そのお言葉に応えられるよう、努力いたします」

 こうして義母との初対面は、なんとか大きな衝突もなく終わった。しかし、その場の空気は決して暖かいものではなかった。周りの貴婦人たちは、ジェニファーの言動をいちいち観察し、彼女の能力や度量を測っている。少しでも失礼があれば、たちまち非難が巻き起こるだろう。
 ジェニファーは見えない重圧に押されながらも、最後まで気丈に振る舞った。これが今後長く続く“公爵夫人”としての役割なのだろう。彼女はそのことを改めて自覚させられ、帰りの馬車の中でぐったりと肩を落とすのだった。

 ――そして、このような日々が続く。
 形式的な夫婦関係、エドワードからの冷淡な態度、義母からの厳しい監視、社交界の好奇と羨望と蔑みが混じった視線。それらすべてに耐えなければならないのが、ジェニファーの“新婚生活”だった。
 彼女は思う。
(この結婚は、私にとって幸せをもたらすのだろうか? それとも……)
 そんな不安を抱えながら、ジェニファーはただ黙々と日々をこなしていくしかなかった。学んだ礼儀作法を完璧にこなし、笑顔を絶やさず、家のために尽くす――それが今の彼女の使命だったのだ。

 しかし、ひとたび寝室に戻れば、そこは広く冷たい空間が広がるだけ。夫は別の部屋、あるいは不在。夜の静寂が、ジェニファーの孤独をいや増していく。
 ――私は、ただの飾り物。そう自分で納得して生きるしかないのか?
 時折、枕元で声を殺して泣きそうになることもあった。だが、これが自分に与えられた運命なのだとあきらめるには、彼女はまだ若く、そして心の奥底では「本当の幸せ」を求める想いを消し去れずにいた。
 表向きは「完璧な公爵夫人」を演じるジェニファー。その装いはいつも美しく、街を歩けば貴婦人たちから称賛の言葉が上がる。だが、彼女の胸の内には常に寂寥感が漂っていた。
 こうして、政略結婚による「白い結婚」は幕を開けた。あまりにも冷たく、孤独で、しかし華やかな世界に縛りつけられたジェニファーの物語は、まだ始まったばかりである。
 この結婚が、のちに王都を揺るがす壮絶な“ざまあ”へと繋がっていくことを、彼女自身はまだ知る由もなかった。


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