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1-1. 静かな森の暮らし
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1-1. 静かな森の暮らし
西の大陸の果て――“忘れられた森”と呼ばれる深い緑の中に、小さな村がひっそりと息づいていた。
村を取り囲むように広がる樫や楓の古木は、一年中新緑や紅葉の衣をまとい、時折小鳥の歌声を響かせる。朝露が草葉を濡らすたび、空気はひんやりと澄み、村人たちはその清らかな恵みに心を休めていた。
その村に、誰もが「リリス様」と呼ぶ一人の女性が住んでいる。
真っ白な肌、漆黒の長髪、そして淡い紫の瞳を持つ彼女は、“西の森の魔女”と噂されながらも、村人には善き魔女として尊敬されていた。
リリスは薬草や聖水を扱い、人々の病や怪我を癒すための秘薬をいつも無償で分け与える。その手際はまるで賢者そのもの――草木がささやく声に耳を傾け、最適な処方を導き出す能力は、“魔女”などという言葉を忘れさせるほど温かかった。
――朝陽が村を包むころ、リリスはいつものように小さな薬草小屋の扉を開けた。
手にした籠には、昨夜採取した夜香木(やこうぼく)やミルラの樹脂、朝露に濡れた月見草の花が詰められている。
「おはよう、リリス様」
庭先の小径を歩く少女が頭を下げると、リリスはにっこりとほほ笑んだ。
「おはよう、マリ。気分はどう?」
「昨夜の薬のお陰で、もう熱はほとんど下がりました。ありがとうございます」
リリスは手早く薬袋を取り出し、優しく少女の額に当てる。娘たちの命を預かる母親たちは、安心した顔でお辞儀を返し、家へと戻っていった。
――歩みを進めると、広場を囲むように並ぶ家々の門口にも人々が集まっている。
「リリス様、足をどうかお休めください」
「いいえ、私はこの森の...」
村長の老女や鍛冶屋の青年、木こりの父子までもが声をかけるが、リリスは決して施しを受け取らない。代わりに、取り出した小瓶を一つひとつ手渡しながら、
「痛むところはないかしら? 必要なら何度でも取りに来てね」
そう言っては、静かに次へと向かう。温かな瞳は誰に対しても等しく優しく、言葉を交わす度に村人たちの心に灯をともすようだった。
――そのなかでも、ひときわ熱心に彼女の手元を見つめている少年がいた。
髪は栗色、瞳は透き通るような翡翠色。まだ六、七歳ほどだろうか、小柄であどけなさが残る顔立ち。しかし、その目だけは、誰よりも深くまっすぐにリリスを見つめていた。
「リリス様、僕にも薬をください!」
少年が駆け寄ると、リリスは一瞬だけ笑みを強めて、軽く小瓶を手渡した。
「アルト、無茶はいけないわ。飲み過ぎると眠くなっちゃうからね」
「わかった。でも、また来る!」
アルトは得意げに小瓶を抱え、跳ねるように踊り去った。その姿を、リリスは優しいまなざしで見送りながら、心の奥底で小さな安堵を感じていた。
――夕暮れ時、空が茜色に染まる頃、リリスは森の奥へと一人帰路につく。
よそ者が近づきにくい深い茂みの向こうに、小さな丸木小屋が隠れるように建っていた。窓辺には、暮れゆく空に向かって燭台の灯りがともる。
中では、様々な薬草が吊るされ、草木の香りが静かに漂っている。リリスは小屋の戸を開けると、自分だけの時間を深呼吸で味わった。
「今日も無事に過ぎたわね……」
一人、自分自身にそう囁く声には、わずかな寂しさが滲んでいた。人々に「善き魔女」と慕われながら、それでも自らの“魔女”としての存在をどこか遠くに感じている。
百年、千年と生きる“本物の魔女”である彼女には、人間の一生の儚さが、胸に痛みとして刻まれていた。誰かを救う度に、いつか訪れる別れの予感がその背後に影のように寄り添う。
だが、その寂しさを救ってくれるのは、あの幼い少年――アルトの純粋な瞳だった。
彼だけは年齢や死の距離を超え、リリスの心をほんの一瞬だけまっすぐに照らす。
リリスは灯りの下、小瓶を一つ取り出し、アルトの笑顔を思い浮かべながら、“ある誓い”を小さく立てるのだった。
――「どんなことがあっても、あなたたちを守る」
そう、善き魔女としてではなく、一人の“リリス”として、心からそう願いながら。
静かな森に、再び夜の帳が降りるころ、小屋からは薬草を煎じる優しい音色だけが響いていた。
西の大陸の果て――“忘れられた森”と呼ばれる深い緑の中に、小さな村がひっそりと息づいていた。
村を取り囲むように広がる樫や楓の古木は、一年中新緑や紅葉の衣をまとい、時折小鳥の歌声を響かせる。朝露が草葉を濡らすたび、空気はひんやりと澄み、村人たちはその清らかな恵みに心を休めていた。
その村に、誰もが「リリス様」と呼ぶ一人の女性が住んでいる。
真っ白な肌、漆黒の長髪、そして淡い紫の瞳を持つ彼女は、“西の森の魔女”と噂されながらも、村人には善き魔女として尊敬されていた。
リリスは薬草や聖水を扱い、人々の病や怪我を癒すための秘薬をいつも無償で分け与える。その手際はまるで賢者そのもの――草木がささやく声に耳を傾け、最適な処方を導き出す能力は、“魔女”などという言葉を忘れさせるほど温かかった。
――朝陽が村を包むころ、リリスはいつものように小さな薬草小屋の扉を開けた。
手にした籠には、昨夜採取した夜香木(やこうぼく)やミルラの樹脂、朝露に濡れた月見草の花が詰められている。
「おはよう、リリス様」
庭先の小径を歩く少女が頭を下げると、リリスはにっこりとほほ笑んだ。
「おはよう、マリ。気分はどう?」
「昨夜の薬のお陰で、もう熱はほとんど下がりました。ありがとうございます」
リリスは手早く薬袋を取り出し、優しく少女の額に当てる。娘たちの命を預かる母親たちは、安心した顔でお辞儀を返し、家へと戻っていった。
――歩みを進めると、広場を囲むように並ぶ家々の門口にも人々が集まっている。
「リリス様、足をどうかお休めください」
「いいえ、私はこの森の...」
村長の老女や鍛冶屋の青年、木こりの父子までもが声をかけるが、リリスは決して施しを受け取らない。代わりに、取り出した小瓶を一つひとつ手渡しながら、
「痛むところはないかしら? 必要なら何度でも取りに来てね」
そう言っては、静かに次へと向かう。温かな瞳は誰に対しても等しく優しく、言葉を交わす度に村人たちの心に灯をともすようだった。
――そのなかでも、ひときわ熱心に彼女の手元を見つめている少年がいた。
髪は栗色、瞳は透き通るような翡翠色。まだ六、七歳ほどだろうか、小柄であどけなさが残る顔立ち。しかし、その目だけは、誰よりも深くまっすぐにリリスを見つめていた。
「リリス様、僕にも薬をください!」
少年が駆け寄ると、リリスは一瞬だけ笑みを強めて、軽く小瓶を手渡した。
「アルト、無茶はいけないわ。飲み過ぎると眠くなっちゃうからね」
「わかった。でも、また来る!」
アルトは得意げに小瓶を抱え、跳ねるように踊り去った。その姿を、リリスは優しいまなざしで見送りながら、心の奥底で小さな安堵を感じていた。
――夕暮れ時、空が茜色に染まる頃、リリスは森の奥へと一人帰路につく。
よそ者が近づきにくい深い茂みの向こうに、小さな丸木小屋が隠れるように建っていた。窓辺には、暮れゆく空に向かって燭台の灯りがともる。
中では、様々な薬草が吊るされ、草木の香りが静かに漂っている。リリスは小屋の戸を開けると、自分だけの時間を深呼吸で味わった。
「今日も無事に過ぎたわね……」
一人、自分自身にそう囁く声には、わずかな寂しさが滲んでいた。人々に「善き魔女」と慕われながら、それでも自らの“魔女”としての存在をどこか遠くに感じている。
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だが、その寂しさを救ってくれるのは、あの幼い少年――アルトの純粋な瞳だった。
彼だけは年齢や死の距離を超え、リリスの心をほんの一瞬だけまっすぐに照らす。
リリスは灯りの下、小瓶を一つ取り出し、アルトの笑顔を思い浮かべながら、“ある誓い”を小さく立てるのだった。
――「どんなことがあっても、あなたたちを守る」
そう、善き魔女としてではなく、一人の“リリス”として、心からそう願いながら。
静かな森に、再び夜の帳が降りるころ、小屋からは薬草を煎じる優しい音色だけが響いていた。
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