婚約破棄されたので、愛のない契約結婚を選んだはずでした

鍛高譚

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第2章 完璧なはずの生活と、夫の変化

16話

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16.ほんの些細なすれ違いと、もどかしさ

 しかし、この微妙な“変化”は必ずしも順風満帆なものではなかった。
 ある日の午後、カーテンリンゼは館の一室で書類の整理をしていた。次回、領地の視察に出る際に必要な書類や地図を確認し、備品リストをまとめる作業である。使者から報告が届いている書面には、王都とは違う地域特有の問題点が書かれており、彼女なりに何か対処策を提案できないか考えていた。
 そのとき、侍女の一人が慌てた様子で部屋に飛び込んできた。
 「公爵夫人様! 大変でございます、先ほど突然……」
 息を整えながら言う侍女の背後には、どうやら急な来客があるらしい気配が漂っている。

 「落ち着いて。何があったの?」
 「はい……それが、王都でも名高い伯爵令息、マクシミリアン様が、急に公爵夫人様に面会を求めていらっしゃいまして……」
 「マクシミリアン? ……マクシム・エベレット伯爵家のご子息かしら」
 カーテンリンゼは眉をひそめる。マクシム・エベレット伯爵家――それはかなり古い家柄であり、かつてはアルベルト侯爵家とも縁が深かった。特に問題がある相手ではないが、どうして突然ここへ?

 「公爵様にはお取り次ぎしたのでしょうか」
 「はい。ですが、公爵様は『急用があるから勝手に会ってくれ』とおっしゃって、書斎にこもってしまわれまして……。客間にはマクシミリアン様が通されておりますが、公爵夫人様に直接お会いしたいと……」
 なるほど、レオポルドは来客に対してあまり興味がないのだろう。以前より聞いていたが、表向きの社交は最低限にとどめるという方針だ。今回も“夫人に任せる”という姿勢らしい。
 カーテンリンゼは小さく息を吐き出す。このまま放置するわけにもいかない。伯爵令息を邸から追い返すのも角が立つし、ひとまず会って話を聞くしかないだろう。

 「わかりました。すぐに客間へ行きます。侍女長に飲み物などの準備を頼んでください」
 「かしこまりました!」
 そう言って侍女は慌ただしく駆け戻っていく。カーテンリンゼは机に置いていた書類を軽く整理し、身だしなみを整えたうえで客間へ向かった。

 客間の扉を開けると、そこには華やかな貴公子然とした青年が立っていた。ブロンドの髪に青い瞳、手には仕立ての良い杖を持ち、いかにも貴族らしい微笑を浮かべている。
 「これはこれは……お久しぶりですね、カーテンリンゼ・ヴァレンシュタイン公爵夫人」
 その軽薄とも取れる声に、彼女はごく控えめに礼を返す。
 「お久しぶりです、マクシミリアン様。突然のご訪問とは、いかがなさったのかしら」
 伯爵令息がここを訪れる理由――おそらく、彼は社交界でも評判の「女好き」として知られている。もしかすると、カーテンリンゼという“元王太子の婚約者”で“今は公爵夫人”に興味を抱き、ちょっかいを出しに来たのかもしれない。

 マクシミリアンはソファに腰を下ろすよう促されても構わず、優雅な身のこなしで近寄ってきた。
 「実は、以前から気になっておりましてね。あなたが王太子との婚約を破棄されたときも、ずいぶんと話題になりましたが……こうして公爵夫人となった今、そのお姿は以前にも増して美しいと評判です。私はどうしても、その目で確かめたくなったのですよ」
 言葉だけを切り取れば、褒め言葉とも取れる。だが、その口調や表情にはどこか薄っぺらな軽々しさを感じる。カーテンリンゼは内心で“やはり”とため息をつきながら、にこやかな顔を取り繕った。
 「恐れ入りますわ。ですが、公爵夫人である私に、もしも下世話なお話をしに来られたのでしたら、お引き取りいただくしかありません。公爵様もお忙しいですし」

 きっぱりと牽制すると、マクシミリアンは悪びれもせず笑う。
 「ははっ、怖い怖い。まるで氷の刃のようだ。ですが、その冷たい美貌こそ、あなたの魅力ではありませんか。……私はね、カーテンリンゼ公爵夫人。あなたのような女性を見ていると、どうしても心が昂ぶるのです。以前にも宮廷の舞踏会でお話ししたことがありましたね?」
 確かに、昔の舞踏会で挨拶程度は交わした記憶がある。しかし、その時から彼の軽薄な態度は変わらず、カーテンリンゼはただ苦笑しただけだった。
 ――要するに、彼は私を口説きに来たということか。ばかばかしい。

 「夫人として、他の男性とそんな話をするわけにはいきません。あなたには悪いですが、お引き取りいただけないでしょうか。今はまだ昼日中ですし、社交的な訪問としては失礼のないうちに――」
 丁寧に断ろうとしたそのとき、マクシミリアンは突然カーテンリンゼの手を取り、軽く唇を寄せてきた。
 「あなたがどれほど冷たくあしらおうとも、私は構いません。むしろ、その冷たさが燃え上がるほどに、私はあなたを求めたくなるのですよ」

 思わずカーテンリンゼは、反射的に手を振り払う。その動きでテーブルのティーカップが揺れ、カタカタと小さな音を立てた。
 「……あなたは何をしているのですか」
 低く抑えた声で問いかける彼女に、マクシミリアンはまったく悪びれた様子もない。
 「たとえ契約結婚だろうと、男と女の心は縛れないものだ。公爵夫人とはいえ、あなたに本当の愛がないのなら、私と一緒に燃えるような恋をしてみませんか?」

 その耳障りな言葉が空気を揺らす。カーテンリンゼは怒りというよりも、呆れを感じる。だが、それよりも先に足音が響いた。
 「そこまでだ、マクシミリアン・エベレット」
 ドアの前に立っていたのは、レオポルド・ヴァレンシュタイン公爵その人。厳めしい表情で、冷たい光を宿した灰色の瞳が伯爵令息を射すくめる。
 「公爵様……!」
 驚きのあまり言葉を失うカーテンリンゼに対し、レオポルドは手で制するように合図を送り、まっすぐにマクシミリアンを見据えた。
 「公爵夫人は私の妻だ。あまり度を超した無礼を働くようなら、この場で叩き出すことになるぞ」

 その低く響く声に、マクシミリアンは苦笑いを浮かべつつ身を引いた。
 「おやおや、公爵様がお出ましとは光栄ですね。ただ、私は少しご夫人とお話をしていただけですよ。……いつでもこんな具合に守ってあげるなんて、よほど大事な契約相手なのでしょうな」
 意地の悪い笑みを浮かべるマクシミリアンに、レオポルドは「出て行け」と短く言い放つ。
 この雰囲気を読んだ侍女と執事が急いで扉を開け、「こちらへ」とマクシミリアンを促す。伯爵令息は「ふふ、またいずれ」と軽く手を振り、勝手に廊下へ出て行った。

 やがて客間に静寂が戻る。カーテンリンゼはやや沈んだ気持ちで、テーブルに置かれたティーセットを見下ろした。結局、彼女が激怒する前にレオポルドが現れ、マクシミリアンは引き下がったわけだが、なんとも後味の悪い展開だ。
 「ああいう輩は相手にしなくていい。必要があれば、私が追い払う」
 レオポルドは淡々とした声で言う。その態度には怒りというよりも、冷静な苛立ちが混ざっているように感じられた。
 「あなたこそ、書斎にこもっておられると伺っていましたが……?」
 問い返すと、彼はわずかに息を吐き出して答える。

 「お前の客人などと思っていなかった。だが、会話の内容が廊下まで聞こえてきたのでな。……耳を疑ったよ。まさか、あんな公然と夫人に手を出すとは」
 それはカーテンリンゼも同感だ。マクシミリアンは以前から女好きとして有名だったが、公爵家の夫人にまで手を伸ばすのは度が過ぎていると言わざるを得ない。
 「助けてくれてありがとうございます。でも、私一人でも追い返すことができたと思います」
 素直に感謝しつつも、最後は少し強がりを言ってしまう。すると、レオポルドは表情を変えぬまま、「そうだな」と短く返す。

 「お前なら、きっと一人でも追い返せただろう。しかし、ああいう輩はしつこい。……もしまた何かあったら、私に言え。夫である以上、お前を守るのは私の役目だ」
 その“夫である以上”という言葉に、胸がわずかに熱くなる。契約結婚でも、こうして堂々と“守る”と言い切ってくれるのは、少なからず心強い。
 「わかりました。……ご心配、痛み入ります」
 ほんの少しだけ頭を下げると、レオポルドは形のいい唇を引き結び、「では失礼する」と再び書斎へと戻っていった。

 客間に取り残されたカーテンリンゼは、なぜか心が落ち着かず、胸を抑えるようにして息を整える。
 ――こんなにもあっさりと“私を守る”などと言われて、どうしてドキリとしてしまうのか。
 これが、ただの旦那が妻に向ける当然の態度なのか、それとも微妙な感情が混じっているのか。頭が混乱するほどに、自分が揺れているのがわかった。
 テーブルの上のティーカップを片付けるため、侍女が入ってくる。その視線に気づいたカーテンリンゼは、小さく首を振り、「ごめんなさい、少し部屋に戻るわ」と言い残して急ぎ足で廊下へ出た。
 途中ですれ違う使用人たちに挨拶をする余裕もなく、彼女は自室に滑り込み、ドアを閉める。

 思わずドアにもたれかかりながら、カーテンリンゼは自問する。
 ――私、どうしてこんなに胸が苦しくなっているの?
 愛のない契約結婚、干渉しない関係。彼女はそれを望んでいたはずだ。しかし最近、レオポルドの何気ない仕草や言葉が、やけに意識に残ってしまう。守ると宣言されただけで、まるで少女のようにときめいている自分がいるのだ。
 「……こんなの、おかしい」
 つぶやいても、耳に届くのは自分の早まる鼓動だけ。契約を破るつもりはない。だが、もしこのまま夫への感情が変化していったら、自分はいったいどうなるのだろう。
 カーテンリンゼは胸のざわめきを必死に抑え込もうとする。そうしなければ、この完璧なはずの“白い結婚”が壊れてしまうと、どこかで直感的に感じていた。
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