何もしていない聖女と言われたので、婚約破棄を受け入れます

鍛高譚

文字の大きさ
8 / 32

第8話 曇る鏡

しおりを挟む
第8話 曇る鏡

二人目の遺体が見つかった翌日から、王城の空気は目に見えて変わった。

人々は笑わなくなった。

正確には、以前のようには笑えなくなったのだ。

誰もが表向きには平静を装っている。王城で働く者にとって、主の前で怯えを見せることは許されない。貴族たちもまた、噂に眉をひそめながらも、あくまで上品に、控えめに囁き合うだけだ。

だがその実、皆が同じものを恐れていた。

夜である。

陽が落ち、長い廊下の影が濃くなる時間を、王城の者たちは以前より早く意識するようになっていた。

侍女たちは単独で動くことを避け、下働きの者たちは仕事を終えると急いで詰所へ戻る。夜番の騎士でさえ、持ち場を交代する際には必要以上に足早になる。

誰もが、次に消えるのが自分ではないと確信できなくなっていた。

それでも、王太子ジョン・ウィリアムの周囲だけは少し違った。

彼は変わらず日々の執務をこなし、エリザベートを気遣い、婚約の準備を進めていた。侍女が二人死んだ程度で王城全体が怯えきっているのは、ひどく愚かしいことのように思える。

原因がわからないのなら、調べればいい。

騒ぐことではない。

そう考えていた。

だが、理屈とは別のところで、小さな不快が胸に残っている。

それが何なのか、自分でもうまく説明できなかった。

その日の午後、ジョンは側近の騎士を伴って、王城の北側にある古い回廊を歩いていた。

古い王族の肖像画や大鏡が並ぶ、装飾の多い場所だ。

昼間であってもやや薄暗く、冬には冷気がたまりやすい場所でもある。

「このあたりか」

ジョンが足を止める。

「はい。侍女たちが“鏡が曇る”と噂しているのは、この回廊と、東の飾りの間の近くだそうです」

側近の騎士がそう答えた。

ジョンは小さく鼻を鳴らした。

「馬鹿馬鹿しい」

そう言いながらも、彼は自然と壁際の大鏡へ目を向ける。

磨き上げられた縁飾りの中に、回廊が映っている。

自分の姿、側近の騎士の姿、背後の窓から差し込む白い光。

何もおかしなところはない。

だが近づいてよく見れば、鏡面の端に、確かに薄い曇りが残っていた。

誰かが息を吹きかけたあとのような、淡い白さ。

「昨夜も拭かせたそうですが、朝にはまた曇っていたと」

「湿気のせいだろう」

ジョンは言った。

「この回廊は日当たりが悪い」

「ですが、他の場所では起きておりません」

その言葉に、ジョンは少しだけ眉を寄せた。

そう言われると、たしかにおかしい。

窓は閉じられ、雨も降っていない。季節的に、そこまで湿気がこもる時期でもない。

ジョンは鏡の前に立つ。

そこには、当然のように自分が映っている。

完璧な王太子の姿だ。姿勢も、顔立ちも、身につけている衣も、どれも整っている。

その自分の隣に、側近の騎士も見える。

そしてそのとき、不意に誰かの気配がした。

「殿下」

振り返ると、回廊の向こうからエリザベートが歩いてくるところだった。

淡い灰青色のドレスを着たその姿は、薄暗い回廊の中で妙に白く見えた。彼女は侍女をひとりだけ伴っている。

「このようなところにいらしたのですね」

相変わらず、かすかな息のように柔らかい声だった。

ジョンは緊張をほどくように肩の力を抜く。

「どうした、エリザベート。ひとりで歩いていたのか」

「少しだけ、気分を変えたくて」

彼女はそう言って微笑んだが、その笑みはいつもよりわずかに弱い。

「お部屋にばかりおりますと、息が詰まってしまいそうでしたの」

「無理はするな」

ジョンはすぐに言った。

「城の中が落ち着かぬ今、お前は静かな場所にいたほうがいい」

エリザベートは目を伏せる。

「……やはり、皆さま不安なのですね」

「侍女が二人も奇妙な死に方をしたのだ。多少はな」

「怖いですわ」

彼女は小さく囁いた。

その声音には、作り物めいたところが少しもない。少なくとも、ジョンにはそう聞こえた。

「夜になると、鏡の中に何かが映るのではないかと思ってしまうのです」

ジョンは思わず鏡へ視線を向ける。

そこには自分と側近の騎士が映っていた。

だが――

ほんの一瞬だけ、そこにエリザベートの姿がなかった。

白い回廊。並ぶ肖像画。自分。騎士。

けれど、今まさに隣に立ったはずのエリザベートだけが、鏡の中にいない。

心臓がどくりと鳴る。

ジョンは息を詰めた。

次の瞬間、鏡の中に、何事もなかったかのようにエリザベートの姿が現れた。

青白い顔。伏せられた睫毛。細い指先。

いつも通りの、儚げな伯爵令嬢の姿。

「殿下?」

エリザベートが不思議そうに首を傾げる。

「どうかなさいましたか」

ジョンはすぐには答えられなかった。

自分が何を見たのか、一瞬わからなくなる。

いや、見間違いだ。

そうとしか思えない。

「……いや」

ようやくそれだけ言って、彼は視線を外した。

鏡を見すぎたせいだろう。

もともと曇っていたのだ。光の加減で、映るタイミングがずれたように見えただけかもしれない。

そう考えれば、十分説明がつく。

だが胸の内のざわめきは、説明で消えるものではなかった。

エリザベートは、そんな彼を気遣うように一歩近づく。

「お顔の色が優れませんわ」

「何でもない」

「本当に?」

彼女は心配そうにジョンを見上げる。

その距離の近さに、彼はようやくいつもの感覚を取り戻した。

目の前にいるのは、守るべき婚約者だ。

ただ怯えている、か弱い令嬢。

それ以上でも以下でもない。

「少し疲れているだけだ」

ジョンはそう言って、無理に口元を緩めた。

「お前こそ、冷える場所に来るものではない」

エリザベートは小さく笑う。

「まあ。殿下は本当にお優しいのですね」

その言葉に、側近の騎士はさりげなく一歩下がった。

主と婚約者の空気を乱さぬためだろう。

しかし彼の目もまた、鏡に向いていた。

彼も何かを見たのか、それとも何も見ていないのか。

その表情からは読み取れなかった。

ジョンは話題を変えるように言った。

「この回廊の鏡が曇るという噂を聞いたことはあるか」

「ええ」

エリザベートは素直に頷く。

「侍女たちが怯えておりました」

「どう思う」

「……どう、とは?」

「気味が悪いと思うか」

エリザベートは少しだけ考え、それから柔らかく言った。

「鏡は正直なものですから」

「正直?」

「ええ。映るべきものを映し、映してはならないものを拒むこともございますでしょう?」

その返答に、ジョンはなぜか言葉を失った。

ただのたとえ話だ。

たしかに、そうなのかもしれない。

鏡は、あるものを映す。

ないものを映しはしない。

そこまで考えて、彼は自分でもおかしくなる。

何を馬鹿なことを、と。

エリザベートはそんな彼の沈黙を気にするふうもなく、曇った鏡へそっと目を向けた。

その目元には、薄い笑みが浮かんでいるようにも見えたが、ジョンがもう一度見たときには、ただいつもの儚げな表情に戻っていた。

「お部屋へ戻りますわ」

彼女は静かに言う。

「これ以上、殿下のお邪魔をしてはいけませんもの」

「いや、邪魔ではない」

とっさにそう返した自分に、ジョンは一瞬だけ驚いた。

エリザベートは嬉しそうに目を細める。

「それでも、今日は休みます」

「そうしろ」

「殿下も、どうかご無理をなさらないで」

そう言って一礼し、彼女は侍女を伴って去っていく。

その後ろ姿を見送りながら、ジョンは無意識にもう一度鏡を見た。

自分と、側近の騎士。

遠ざかるエリザベートと、その侍女。

今度はちゃんと映っている。

何もおかしくない。

何も。

「殿下」

側近の騎士が、慎重な声で呼びかけた。

「……何か、気になることでも?」

ジョンはすぐには返事をしなかった。

どこまで言うべきか迷ったのだ。

鏡に映らなかった気がする、などと。

そんなものは、あまりにも馬鹿げている。

王太子たる者が、城の女中たちのように、曖昧な怪談に心を動かされるなどあってはならない。

「いや」

結局、彼は首を振った。

「何でもない。見間違いだ」

側近の騎士はそれ以上追及しなかった。

だが、ジョンの胸のざわめきは去らない。

見間違い。

きっとそうだ。

そうでなければ困る。

彼女が鏡に映らないなど、そんなことがあるはずがない。

夕刻になっても、その違和感は薄れなかった。

執務机に向かっても、目の前の書類に集中できない。

ふと顔を上げれば、部屋の隅の鏡が目に入る。

今は何も映っていない。ただ、自分の執務室が静かにそこにあるだけだ。

それでもジョンは、何度も視線を向けてしまう。

鏡の中の世界が、自分の知るものと少しずつずれていくような、そんな得体の知れぬ不安があった。

そして夜。

ひとりになった部屋で、彼は不意に昼間のエリザベートの言葉を思い出す。

――鏡は正直なものですから。

映るべきものを映し、映してはならないものを拒むこともございますでしょう?

ジョンは眉を寄せた。

何気ない言葉だったはずだ。

なのに、どうしてこんなにも耳に残るのか。

「……馬鹿げている」

低く呟き、立ち上がる。

気を紛らわせるために、窓辺へ歩いた。

夜の王城は静かだ。

遠くの塔に灯りがひとつ、またひとつと点っている。

そのとき、窓硝子に映る自分の顔の向こうに、白い影が立った気がした。

ジョンは咄嗟に振り返る。

だが、部屋には誰もいない。

静まり返った執務室と、揺れる蝋燭の明かりだけ。

彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。

そしてゆっくりと、再び窓硝子を見る。

もう何も映っていない。

「……疲れているだけだ」

今度は誰に聞かせるでもなく、そう言った。

言葉にしなければ、心が落ち着かないほどには、彼はすでに揺らぎ始めていた。

その頃、王城の奥の一室で。

エリザベートは鏡台の前に座り、長い髪を梳いていた。

侍女はもう下がらせている。

部屋には彼女しかいない。

鏡面には、燭台の火が揺れ、白い寝台が映り、閉じられた扉が映っている。

だがそこに、椅子に座る彼女の姿はなかった。

櫛を動かすたび、髪だけが宙で揺れているようにも見える。

それでもエリザベートは気にも留めず、楽しげに口元を綻ばせた。

「ようやく」

その声は甘く、夜に溶ける。

「気づき始めましたのね」

紅い瞳が細められる。

王太子はまだ信じていない。

見間違いだと思い込もうとしている。

けれど、一度生まれた疑念は、そう簡単には消えない。

鏡は嘘をつけない。

だからこそ、最初のひびは美しい。

エリザベートは櫛を置き、鏡の中の空白を見つめた。

「さて……次は、どうやって確かめに来てくださるのかしら」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

大好きなあなたが「嫌い」と言うから「私もです」と微笑みました。

桗梛葉 (たなは)
恋愛
私はずっと、貴方のことが好きなのです。 でも貴方は私を嫌っています。 だから、私は命を懸けて今日も嘘を吐くのです。 貴方が心置きなく私を嫌っていられるように。 貴方を「嫌い」なのだと告げるのです。

婚約者の私を見捨てたあなた、もう二度と関わらないので安心して下さい

神崎 ルナ
恋愛
第三王女ロクサーヌには婚約者がいた。騎士団でも有望株のナイシス・ガラット侯爵令息。その美貌もあって人気がある彼との婚約が決められたのは幼いとき。彼には他に優先する幼なじみがいたが、政略結婚だからある程度は仕方ない、と思っていた。だが、王宮が魔導師に襲われ、魔術により天井の一部がロクサーヌへ落ちてきたとき、彼が真っ先に助けに行ったのは幼馴染だという女性だった。その後もロクサーヌのことは見えていないのか、完全にスルーして彼女を抱きかかえて去って行くナイシス。  嘘でしょう。  その後ロクサーヌは一月、目が覚めなかった。  そして目覚めたとき、おとなしやかと言われていたロクサーヌの姿はどこにもなかった。 「ガラット侯爵令息とは婚約破棄? 当然でしょう。それとね私、力が欲しいの」  もう誰かが護ってくれるなんて思わない。  ロクサーヌは力をつけてひとりで生きていこうと誓った。  だがそこへクスコ辺境伯がロクサーヌへ求婚する。 「ぜひ辺境へ来て欲しい」  ※時代考証がゆるゆるですm(__)m ご注意くださいm(__)m  総合・恋愛ランキング1位(2025.8.4)hotランキング1位(2025.8.5)になりましたΣ(・ω・ノ)ノ  ありがとうございます<(_ _)>

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」 夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。 王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。 「左様でございますか」 彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

ご安心を、2度とその手を求める事はありません

ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・ それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望

不実なあなたに感謝を

黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。 ※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。 ※曖昧設定。 ※一旦完結。 ※性描写は匂わせ程度。 ※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。

処理中です...