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第8話 曇る鏡
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第8話 曇る鏡
二人目の遺体が見つかった翌日から、王城の空気は目に見えて変わった。
人々は笑わなくなった。
正確には、以前のようには笑えなくなったのだ。
誰もが表向きには平静を装っている。王城で働く者にとって、主の前で怯えを見せることは許されない。貴族たちもまた、噂に眉をひそめながらも、あくまで上品に、控えめに囁き合うだけだ。
だがその実、皆が同じものを恐れていた。
夜である。
陽が落ち、長い廊下の影が濃くなる時間を、王城の者たちは以前より早く意識するようになっていた。
侍女たちは単独で動くことを避け、下働きの者たちは仕事を終えると急いで詰所へ戻る。夜番の騎士でさえ、持ち場を交代する際には必要以上に足早になる。
誰もが、次に消えるのが自分ではないと確信できなくなっていた。
それでも、王太子ジョン・ウィリアムの周囲だけは少し違った。
彼は変わらず日々の執務をこなし、エリザベートを気遣い、婚約の準備を進めていた。侍女が二人死んだ程度で王城全体が怯えきっているのは、ひどく愚かしいことのように思える。
原因がわからないのなら、調べればいい。
騒ぐことではない。
そう考えていた。
だが、理屈とは別のところで、小さな不快が胸に残っている。
それが何なのか、自分でもうまく説明できなかった。
その日の午後、ジョンは側近の騎士を伴って、王城の北側にある古い回廊を歩いていた。
古い王族の肖像画や大鏡が並ぶ、装飾の多い場所だ。
昼間であってもやや薄暗く、冬には冷気がたまりやすい場所でもある。
「このあたりか」
ジョンが足を止める。
「はい。侍女たちが“鏡が曇る”と噂しているのは、この回廊と、東の飾りの間の近くだそうです」
側近の騎士がそう答えた。
ジョンは小さく鼻を鳴らした。
「馬鹿馬鹿しい」
そう言いながらも、彼は自然と壁際の大鏡へ目を向ける。
磨き上げられた縁飾りの中に、回廊が映っている。
自分の姿、側近の騎士の姿、背後の窓から差し込む白い光。
何もおかしなところはない。
だが近づいてよく見れば、鏡面の端に、確かに薄い曇りが残っていた。
誰かが息を吹きかけたあとのような、淡い白さ。
「昨夜も拭かせたそうですが、朝にはまた曇っていたと」
「湿気のせいだろう」
ジョンは言った。
「この回廊は日当たりが悪い」
「ですが、他の場所では起きておりません」
その言葉に、ジョンは少しだけ眉を寄せた。
そう言われると、たしかにおかしい。
窓は閉じられ、雨も降っていない。季節的に、そこまで湿気がこもる時期でもない。
ジョンは鏡の前に立つ。
そこには、当然のように自分が映っている。
完璧な王太子の姿だ。姿勢も、顔立ちも、身につけている衣も、どれも整っている。
その自分の隣に、側近の騎士も見える。
そしてそのとき、不意に誰かの気配がした。
「殿下」
振り返ると、回廊の向こうからエリザベートが歩いてくるところだった。
淡い灰青色のドレスを着たその姿は、薄暗い回廊の中で妙に白く見えた。彼女は侍女をひとりだけ伴っている。
「このようなところにいらしたのですね」
相変わらず、かすかな息のように柔らかい声だった。
ジョンは緊張をほどくように肩の力を抜く。
「どうした、エリザベート。ひとりで歩いていたのか」
「少しだけ、気分を変えたくて」
彼女はそう言って微笑んだが、その笑みはいつもよりわずかに弱い。
「お部屋にばかりおりますと、息が詰まってしまいそうでしたの」
「無理はするな」
ジョンはすぐに言った。
「城の中が落ち着かぬ今、お前は静かな場所にいたほうがいい」
エリザベートは目を伏せる。
「……やはり、皆さま不安なのですね」
「侍女が二人も奇妙な死に方をしたのだ。多少はな」
「怖いですわ」
彼女は小さく囁いた。
その声音には、作り物めいたところが少しもない。少なくとも、ジョンにはそう聞こえた。
「夜になると、鏡の中に何かが映るのではないかと思ってしまうのです」
ジョンは思わず鏡へ視線を向ける。
そこには自分と側近の騎士が映っていた。
だが――
ほんの一瞬だけ、そこにエリザベートの姿がなかった。
白い回廊。並ぶ肖像画。自分。騎士。
けれど、今まさに隣に立ったはずのエリザベートだけが、鏡の中にいない。
心臓がどくりと鳴る。
ジョンは息を詰めた。
次の瞬間、鏡の中に、何事もなかったかのようにエリザベートの姿が現れた。
青白い顔。伏せられた睫毛。細い指先。
いつも通りの、儚げな伯爵令嬢の姿。
「殿下?」
エリザベートが不思議そうに首を傾げる。
「どうかなさいましたか」
ジョンはすぐには答えられなかった。
自分が何を見たのか、一瞬わからなくなる。
いや、見間違いだ。
そうとしか思えない。
「……いや」
ようやくそれだけ言って、彼は視線を外した。
鏡を見すぎたせいだろう。
もともと曇っていたのだ。光の加減で、映るタイミングがずれたように見えただけかもしれない。
そう考えれば、十分説明がつく。
だが胸の内のざわめきは、説明で消えるものではなかった。
エリザベートは、そんな彼を気遣うように一歩近づく。
「お顔の色が優れませんわ」
「何でもない」
「本当に?」
彼女は心配そうにジョンを見上げる。
その距離の近さに、彼はようやくいつもの感覚を取り戻した。
目の前にいるのは、守るべき婚約者だ。
ただ怯えている、か弱い令嬢。
それ以上でも以下でもない。
「少し疲れているだけだ」
ジョンはそう言って、無理に口元を緩めた。
「お前こそ、冷える場所に来るものではない」
エリザベートは小さく笑う。
「まあ。殿下は本当にお優しいのですね」
その言葉に、側近の騎士はさりげなく一歩下がった。
主と婚約者の空気を乱さぬためだろう。
しかし彼の目もまた、鏡に向いていた。
彼も何かを見たのか、それとも何も見ていないのか。
その表情からは読み取れなかった。
ジョンは話題を変えるように言った。
「この回廊の鏡が曇るという噂を聞いたことはあるか」
「ええ」
エリザベートは素直に頷く。
「侍女たちが怯えておりました」
「どう思う」
「……どう、とは?」
「気味が悪いと思うか」
エリザベートは少しだけ考え、それから柔らかく言った。
「鏡は正直なものですから」
「正直?」
「ええ。映るべきものを映し、映してはならないものを拒むこともございますでしょう?」
その返答に、ジョンはなぜか言葉を失った。
ただのたとえ話だ。
たしかに、そうなのかもしれない。
鏡は、あるものを映す。
ないものを映しはしない。
そこまで考えて、彼は自分でもおかしくなる。
何を馬鹿なことを、と。
エリザベートはそんな彼の沈黙を気にするふうもなく、曇った鏡へそっと目を向けた。
その目元には、薄い笑みが浮かんでいるようにも見えたが、ジョンがもう一度見たときには、ただいつもの儚げな表情に戻っていた。
「お部屋へ戻りますわ」
彼女は静かに言う。
「これ以上、殿下のお邪魔をしてはいけませんもの」
「いや、邪魔ではない」
とっさにそう返した自分に、ジョンは一瞬だけ驚いた。
エリザベートは嬉しそうに目を細める。
「それでも、今日は休みます」
「そうしろ」
「殿下も、どうかご無理をなさらないで」
そう言って一礼し、彼女は侍女を伴って去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、ジョンは無意識にもう一度鏡を見た。
自分と、側近の騎士。
遠ざかるエリザベートと、その侍女。
今度はちゃんと映っている。
何もおかしくない。
何も。
「殿下」
側近の騎士が、慎重な声で呼びかけた。
「……何か、気になることでも?」
ジョンはすぐには返事をしなかった。
どこまで言うべきか迷ったのだ。
鏡に映らなかった気がする、などと。
そんなものは、あまりにも馬鹿げている。
王太子たる者が、城の女中たちのように、曖昧な怪談に心を動かされるなどあってはならない。
「いや」
結局、彼は首を振った。
「何でもない。見間違いだ」
側近の騎士はそれ以上追及しなかった。
だが、ジョンの胸のざわめきは去らない。
見間違い。
きっとそうだ。
そうでなければ困る。
彼女が鏡に映らないなど、そんなことがあるはずがない。
夕刻になっても、その違和感は薄れなかった。
執務机に向かっても、目の前の書類に集中できない。
ふと顔を上げれば、部屋の隅の鏡が目に入る。
今は何も映っていない。ただ、自分の執務室が静かにそこにあるだけだ。
それでもジョンは、何度も視線を向けてしまう。
鏡の中の世界が、自分の知るものと少しずつずれていくような、そんな得体の知れぬ不安があった。
そして夜。
ひとりになった部屋で、彼は不意に昼間のエリザベートの言葉を思い出す。
――鏡は正直なものですから。
映るべきものを映し、映してはならないものを拒むこともございますでしょう?
ジョンは眉を寄せた。
何気ない言葉だったはずだ。
なのに、どうしてこんなにも耳に残るのか。
「……馬鹿げている」
低く呟き、立ち上がる。
気を紛らわせるために、窓辺へ歩いた。
夜の王城は静かだ。
遠くの塔に灯りがひとつ、またひとつと点っている。
そのとき、窓硝子に映る自分の顔の向こうに、白い影が立った気がした。
ジョンは咄嗟に振り返る。
だが、部屋には誰もいない。
静まり返った執務室と、揺れる蝋燭の明かりだけ。
彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。
そしてゆっくりと、再び窓硝子を見る。
もう何も映っていない。
「……疲れているだけだ」
今度は誰に聞かせるでもなく、そう言った。
言葉にしなければ、心が落ち着かないほどには、彼はすでに揺らぎ始めていた。
その頃、王城の奥の一室で。
エリザベートは鏡台の前に座り、長い髪を梳いていた。
侍女はもう下がらせている。
部屋には彼女しかいない。
鏡面には、燭台の火が揺れ、白い寝台が映り、閉じられた扉が映っている。
だがそこに、椅子に座る彼女の姿はなかった。
櫛を動かすたび、髪だけが宙で揺れているようにも見える。
それでもエリザベートは気にも留めず、楽しげに口元を綻ばせた。
「ようやく」
その声は甘く、夜に溶ける。
「気づき始めましたのね」
紅い瞳が細められる。
王太子はまだ信じていない。
見間違いだと思い込もうとしている。
けれど、一度生まれた疑念は、そう簡単には消えない。
鏡は嘘をつけない。
だからこそ、最初のひびは美しい。
エリザベートは櫛を置き、鏡の中の空白を見つめた。
「さて……次は、どうやって確かめに来てくださるのかしら」
二人目の遺体が見つかった翌日から、王城の空気は目に見えて変わった。
人々は笑わなくなった。
正確には、以前のようには笑えなくなったのだ。
誰もが表向きには平静を装っている。王城で働く者にとって、主の前で怯えを見せることは許されない。貴族たちもまた、噂に眉をひそめながらも、あくまで上品に、控えめに囁き合うだけだ。
だがその実、皆が同じものを恐れていた。
夜である。
陽が落ち、長い廊下の影が濃くなる時間を、王城の者たちは以前より早く意識するようになっていた。
侍女たちは単独で動くことを避け、下働きの者たちは仕事を終えると急いで詰所へ戻る。夜番の騎士でさえ、持ち場を交代する際には必要以上に足早になる。
誰もが、次に消えるのが自分ではないと確信できなくなっていた。
それでも、王太子ジョン・ウィリアムの周囲だけは少し違った。
彼は変わらず日々の執務をこなし、エリザベートを気遣い、婚約の準備を進めていた。侍女が二人死んだ程度で王城全体が怯えきっているのは、ひどく愚かしいことのように思える。
原因がわからないのなら、調べればいい。
騒ぐことではない。
そう考えていた。
だが、理屈とは別のところで、小さな不快が胸に残っている。
それが何なのか、自分でもうまく説明できなかった。
その日の午後、ジョンは側近の騎士を伴って、王城の北側にある古い回廊を歩いていた。
古い王族の肖像画や大鏡が並ぶ、装飾の多い場所だ。
昼間であってもやや薄暗く、冬には冷気がたまりやすい場所でもある。
「このあたりか」
ジョンが足を止める。
「はい。侍女たちが“鏡が曇る”と噂しているのは、この回廊と、東の飾りの間の近くだそうです」
側近の騎士がそう答えた。
ジョンは小さく鼻を鳴らした。
「馬鹿馬鹿しい」
そう言いながらも、彼は自然と壁際の大鏡へ目を向ける。
磨き上げられた縁飾りの中に、回廊が映っている。
自分の姿、側近の騎士の姿、背後の窓から差し込む白い光。
何もおかしなところはない。
だが近づいてよく見れば、鏡面の端に、確かに薄い曇りが残っていた。
誰かが息を吹きかけたあとのような、淡い白さ。
「昨夜も拭かせたそうですが、朝にはまた曇っていたと」
「湿気のせいだろう」
ジョンは言った。
「この回廊は日当たりが悪い」
「ですが、他の場所では起きておりません」
その言葉に、ジョンは少しだけ眉を寄せた。
そう言われると、たしかにおかしい。
窓は閉じられ、雨も降っていない。季節的に、そこまで湿気がこもる時期でもない。
ジョンは鏡の前に立つ。
そこには、当然のように自分が映っている。
完璧な王太子の姿だ。姿勢も、顔立ちも、身につけている衣も、どれも整っている。
その自分の隣に、側近の騎士も見える。
そしてそのとき、不意に誰かの気配がした。
「殿下」
振り返ると、回廊の向こうからエリザベートが歩いてくるところだった。
淡い灰青色のドレスを着たその姿は、薄暗い回廊の中で妙に白く見えた。彼女は侍女をひとりだけ伴っている。
「このようなところにいらしたのですね」
相変わらず、かすかな息のように柔らかい声だった。
ジョンは緊張をほどくように肩の力を抜く。
「どうした、エリザベート。ひとりで歩いていたのか」
「少しだけ、気分を変えたくて」
彼女はそう言って微笑んだが、その笑みはいつもよりわずかに弱い。
「お部屋にばかりおりますと、息が詰まってしまいそうでしたの」
「無理はするな」
ジョンはすぐに言った。
「城の中が落ち着かぬ今、お前は静かな場所にいたほうがいい」
エリザベートは目を伏せる。
「……やはり、皆さま不安なのですね」
「侍女が二人も奇妙な死に方をしたのだ。多少はな」
「怖いですわ」
彼女は小さく囁いた。
その声音には、作り物めいたところが少しもない。少なくとも、ジョンにはそう聞こえた。
「夜になると、鏡の中に何かが映るのではないかと思ってしまうのです」
ジョンは思わず鏡へ視線を向ける。
そこには自分と側近の騎士が映っていた。
だが――
ほんの一瞬だけ、そこにエリザベートの姿がなかった。
白い回廊。並ぶ肖像画。自分。騎士。
けれど、今まさに隣に立ったはずのエリザベートだけが、鏡の中にいない。
心臓がどくりと鳴る。
ジョンは息を詰めた。
次の瞬間、鏡の中に、何事もなかったかのようにエリザベートの姿が現れた。
青白い顔。伏せられた睫毛。細い指先。
いつも通りの、儚げな伯爵令嬢の姿。
「殿下?」
エリザベートが不思議そうに首を傾げる。
「どうかなさいましたか」
ジョンはすぐには答えられなかった。
自分が何を見たのか、一瞬わからなくなる。
いや、見間違いだ。
そうとしか思えない。
「……いや」
ようやくそれだけ言って、彼は視線を外した。
鏡を見すぎたせいだろう。
もともと曇っていたのだ。光の加減で、映るタイミングがずれたように見えただけかもしれない。
そう考えれば、十分説明がつく。
だが胸の内のざわめきは、説明で消えるものではなかった。
エリザベートは、そんな彼を気遣うように一歩近づく。
「お顔の色が優れませんわ」
「何でもない」
「本当に?」
彼女は心配そうにジョンを見上げる。
その距離の近さに、彼はようやくいつもの感覚を取り戻した。
目の前にいるのは、守るべき婚約者だ。
ただ怯えている、か弱い令嬢。
それ以上でも以下でもない。
「少し疲れているだけだ」
ジョンはそう言って、無理に口元を緩めた。
「お前こそ、冷える場所に来るものではない」
エリザベートは小さく笑う。
「まあ。殿下は本当にお優しいのですね」
その言葉に、側近の騎士はさりげなく一歩下がった。
主と婚約者の空気を乱さぬためだろう。
しかし彼の目もまた、鏡に向いていた。
彼も何かを見たのか、それとも何も見ていないのか。
その表情からは読み取れなかった。
ジョンは話題を変えるように言った。
「この回廊の鏡が曇るという噂を聞いたことはあるか」
「ええ」
エリザベートは素直に頷く。
「侍女たちが怯えておりました」
「どう思う」
「……どう、とは?」
「気味が悪いと思うか」
エリザベートは少しだけ考え、それから柔らかく言った。
「鏡は正直なものですから」
「正直?」
「ええ。映るべきものを映し、映してはならないものを拒むこともございますでしょう?」
その返答に、ジョンはなぜか言葉を失った。
ただのたとえ話だ。
たしかに、そうなのかもしれない。
鏡は、あるものを映す。
ないものを映しはしない。
そこまで考えて、彼は自分でもおかしくなる。
何を馬鹿なことを、と。
エリザベートはそんな彼の沈黙を気にするふうもなく、曇った鏡へそっと目を向けた。
その目元には、薄い笑みが浮かんでいるようにも見えたが、ジョンがもう一度見たときには、ただいつもの儚げな表情に戻っていた。
「お部屋へ戻りますわ」
彼女は静かに言う。
「これ以上、殿下のお邪魔をしてはいけませんもの」
「いや、邪魔ではない」
とっさにそう返した自分に、ジョンは一瞬だけ驚いた。
エリザベートは嬉しそうに目を細める。
「それでも、今日は休みます」
「そうしろ」
「殿下も、どうかご無理をなさらないで」
そう言って一礼し、彼女は侍女を伴って去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、ジョンは無意識にもう一度鏡を見た。
自分と、側近の騎士。
遠ざかるエリザベートと、その侍女。
今度はちゃんと映っている。
何もおかしくない。
何も。
「殿下」
側近の騎士が、慎重な声で呼びかけた。
「……何か、気になることでも?」
ジョンはすぐには返事をしなかった。
どこまで言うべきか迷ったのだ。
鏡に映らなかった気がする、などと。
そんなものは、あまりにも馬鹿げている。
王太子たる者が、城の女中たちのように、曖昧な怪談に心を動かされるなどあってはならない。
「いや」
結局、彼は首を振った。
「何でもない。見間違いだ」
側近の騎士はそれ以上追及しなかった。
だが、ジョンの胸のざわめきは去らない。
見間違い。
きっとそうだ。
そうでなければ困る。
彼女が鏡に映らないなど、そんなことがあるはずがない。
夕刻になっても、その違和感は薄れなかった。
執務机に向かっても、目の前の書類に集中できない。
ふと顔を上げれば、部屋の隅の鏡が目に入る。
今は何も映っていない。ただ、自分の執務室が静かにそこにあるだけだ。
それでもジョンは、何度も視線を向けてしまう。
鏡の中の世界が、自分の知るものと少しずつずれていくような、そんな得体の知れぬ不安があった。
そして夜。
ひとりになった部屋で、彼は不意に昼間のエリザベートの言葉を思い出す。
――鏡は正直なものですから。
映るべきものを映し、映してはならないものを拒むこともございますでしょう?
ジョンは眉を寄せた。
何気ない言葉だったはずだ。
なのに、どうしてこんなにも耳に残るのか。
「……馬鹿げている」
低く呟き、立ち上がる。
気を紛らわせるために、窓辺へ歩いた。
夜の王城は静かだ。
遠くの塔に灯りがひとつ、またひとつと点っている。
そのとき、窓硝子に映る自分の顔の向こうに、白い影が立った気がした。
ジョンは咄嗟に振り返る。
だが、部屋には誰もいない。
静まり返った執務室と、揺れる蝋燭の明かりだけ。
彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。
そしてゆっくりと、再び窓硝子を見る。
もう何も映っていない。
「……疲れているだけだ」
今度は誰に聞かせるでもなく、そう言った。
言葉にしなければ、心が落ち着かないほどには、彼はすでに揺らぎ始めていた。
その頃、王城の奥の一室で。
エリザベートは鏡台の前に座り、長い髪を梳いていた。
侍女はもう下がらせている。
部屋には彼女しかいない。
鏡面には、燭台の火が揺れ、白い寝台が映り、閉じられた扉が映っている。
だがそこに、椅子に座る彼女の姿はなかった。
櫛を動かすたび、髪だけが宙で揺れているようにも見える。
それでもエリザベートは気にも留めず、楽しげに口元を綻ばせた。
「ようやく」
その声は甘く、夜に溶ける。
「気づき始めましたのね」
紅い瞳が細められる。
王太子はまだ信じていない。
見間違いだと思い込もうとしている。
けれど、一度生まれた疑念は、そう簡単には消えない。
鏡は嘘をつけない。
だからこそ、最初のひびは美しい。
エリザベートは櫛を置き、鏡の中の空白を見つめた。
「さて……次は、どうやって確かめに来てくださるのかしら」
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