何もしていない聖女と言われたので、婚約破棄を受け入れます

鍛高譚

文字の大きさ
14 / 32

第14話 密書

しおりを挟む
第14話 密書

王太子ジョン・ウィリアム・ポリドーリは、便箋の上にペン先を落としたまま、長いこと最初の一行を書けずにいた。

何と書けばいいのか、わからなかったのだ。

ホーリィー・メイデン。

その名を紙の上に記すだけで、喉の奥が苦くなる。

彼女は、自分が公衆の面前で婚約を破棄し、王都から追い出した相手だった。しかも理由は、吸血姫の仕掛けた嘘を、そのまま信じたからだ。

そんな相手に、今さら助けを求めるのか。

あまりにも浅ましい。

あまりにも都合がよすぎる。

わかっている。

わかっているのに、他に思いつかない。

夜が来る。

あれが、また来る。

その恐怖が、矜持も羞恥も削り取っていった。

ジョンはゆっくりと息を吐き、ようやくペンを動かす。

――ホーリィー・メイデンへ。

そこまで書いて、また止まる。

公的な文面ではおかしい。かといって、私的な手紙を書くような間柄でもない。

いや、もう体裁を取り繕っている場合ではなかった。

ジョンは眉を寄せ、書き直す。

――ホーリィー。

その二文字が、紙の上に不自然なほど重く見えた。

彼女の名を、こんなふうに呼んだことがあっただろうか。

記憶を探ってみても、曖昧だった。

婚約者でありながら、自分は彼女をただ“そこにいるもの”として扱っていたのかもしれない、と今さら思い知らされる。

ジョンは唇を噛み、それから一気に書き進めた。

自分が誤っていたこと。

王城で異様な怪死が続いていること。

エリザベート・バートリの正体が、人ならざるものであったこと。

そして、彼女がホーリィーを恐れていたこと。

最後に、ほとんど懇願のような筆跡で記す。

――このままでは王城が滅ぶ。
――どうか、戻ってきてほしい。

書き終えたとき、ジョンはしばらく便箋を見つめていた。

ひどい文だった。

謝罪としても、説明としても、足りない。

だが、今の自分に書けるのはここまでだった。

本当に言うべきことは、もっと別にある。

許してほしい、などと口にする資格すらない。

それでも、どうか来てほしい――その一点だけは、偽りなく切実だった。

ジョンは手紙を封じると、小さく鈴を鳴らした。

ほどなくして、側近の騎士が現れる。

長年ジョンに仕えてきた、数少ない信頼できる男だった。

「殿下」

一礼した騎士へ、ジョンは封書を差し出す。

「これを届けろ」

騎士は受け取ったが、すぐには動かなかった。

宛名を見て、目の色がわずかに変わる。

「……メイデン公爵令嬢に、でございますか」

「そうだ」

「極秘のご用件と承ってよろしいでしょうか」

ジョンはうなずく。

「誰にも知られるな。とくに……」

そこで言葉を切る。

エリザベートの名を口にすることさえ、今は忌まわしかった。

それでも騎士は察したようだった。

「バートリ伯爵令嬢にも、でございますね」

ジョンは目を上げる。

「……わかるか」

「ここ数日、城で起きていることを思えば」

騎士は慎重に答えた。

「何かが、普通ではないとは」

ジョンは一瞬だけ、すべてを話してしまいたい衝動に駆られた。

鏡のこと。

尾行したこと。

下働きの娘が崩れ落ちるのを見たこと。

そして、エリザベートが自ら“吸血姫”と名乗ったこと。

だが言葉は喉で止まる。

いったん口にしてしまえば、もう引き返せない。

王太子がいかに愚かだったか、騎士にも明かすことになる。

そのためらいを見抜いたのか、騎士はそれ以上問わなかった。

ただ低く言う。

「必ず、お届けいたします」

「急げ」

ジョンの声は思った以上に切迫していた。

「日が落ちる前に城を出ろ」

騎士は深く頭を下げる。

「は」

扉が閉まり、足音が遠ざかる。

それを聞き届けてから、ジョンはようやく椅子の背に身体を預けた。

少しだけ、息がしやすくなる。

これで助かるかもしれない。

そんな希望が、ほんのわずかに胸に灯る。

だが、その灯は長く続かなかった。

不意に、部屋の隅の鏡が目に入ったのだ。

昼の光を受けた鏡面は静かに澄んでいる。

そこには、執務机も、椅子も、開いたままの文箱も映っている。

そしてジョン自身も。

ただ、その肩越しの扉のところに、白い影が立っていた。

ジョンの心臓が跳ねる。

勢いよく振り返る。

誰もいない。

けれど、開いたはずのない扉が、ほんのわずかに揺れていた。

風ではない。

この部屋の窓は閉じている。

ジョンはゆっくりと立ち上がった。

背中を、冷たい汗が伝う。

見られている。

そんな感覚が、はっきりとあった。

彼は恐る恐る鏡を見る。

もう白い影はない。

代わりに、自分の顔だけがひどく青ざめて映っていた。

「……気づかれた、のか」

呟いた声は、掠れてほとんど音にならなかった。

その頃、王城の馬場へ向かう裏手の通路を、側近の騎士は足早に進んでいた。

王太子の命令通り、目立たぬよう軽装に着替え、外套の内に手紙を隠している。

できるだけ人目につかず城を出るつもりだった。

なのに、妙に人の気配がない。

昼下がりの王城なら、使用人や下働きの誰かしらとすれ違うものなのに、今はやけに静かだ。

騎士は無意識に腰の剣へ手をやった。

不穏だ。

城全体が、息を潜めているような気がする。

曲がり角をひとつ曲がったところで、女の声がした。

「どちらへ?」

騎士は反射的に足を止める。

声のした先、回廊の窓辺に、エリザベート・バートリが立っていた。

淡い色のドレスに、薄いレースのショール。

昼の光の中では、相変わらず可憐な伯爵令嬢にしか見えない。

だが騎士は、思わず背筋をこわばらせた。

彼女の声は柔らかい。

柔らかいのに、なぜか一歩も動きたくなくなる。

「少し、用がございまして」

騎士は礼を取りつつ、できるだけ視線を合わせないように言う。

エリザベートはにこりと微笑んだ。

「まあ。お忙しいのですね」

そして、ごく自然な仕草で一歩近づく。

「それは、殿下のお使い?」

騎士の喉が動いた。

なぜ知っている。

そう問うてしまいそうになるのを、かろうじて堪える。

「お答えすることではございません」

精いっぱいの返答だった。

だがエリザベートは気分を害した様子もなく、むしろ楽しそうに目を細める。

「そう」

白い指先が、窓辺の鏡の縁をなぞる。

そこには回廊が映っていた。

騎士の姿も、エリザベートの姿も。

ただ、ほんの一瞬だけ、光の加減なのか、彼女の姿だけが霞んだように見えた。

騎士は息を呑む。

そのわずかな隙に、エリザベートはさらに距離を詰めていた。

「それでは、お引き止めしてごめんなさい」

甘い声だった。

「どうぞ、お急ぎになって」

騎士は一礼し、その場を離れる。

足早に去りながらも、背中に視線が刺さっているのを感じた。

振り返らない。

振り返ってはいけない。

ただ急げ。

城を出るまで。

騎士がようやく馬場に辿り着いたときには、手のひらが汗で湿っていた。

馬を引き、鐙に足をかける。

あと少し。

城門を抜けさえすれば。

そのとき、馬が急にいなないた。

騎士ははっとして手綱を強く引く。

見ると、馬の前方、厩舎の影から、誰かがこちらを見ていた。

下働きの娘かと思った。

だが違う。

若い侍女だ。

見覚えがある。

数日前に死んだはずの侍女によく似ていた。

いや、似ているのではない。

あれは――

騎士の全身に悪寒が走る。

次の瞬間、その影はすっと奥へ引いた。

追うべきではない。

本能がそう叫ぶ。

騎士はすぐに馬へ飛び乗った。

そして王城の裏門へ向かって駆け出す。

背後で、女の笑い声がした気がした。

高くはない。

鈴を鳴らすような、小さく優しい笑い声。

それが誰のものか、考えるまでもなかった。

一方、エリザベートは先ほどの回廊にまだ立っていた。

窓辺の鏡は静かに曇り始めている。

その中に、彼女の姿はやはり曖昧だった。

「助けを求めるのですね」

彼女は小さく笑う。

怒っているわけではなかった。

むしろ愉しんでいる。

王太子が、今さら聖女へ縋ろうとすることを。

「本当に、遅いこと」

白い指先が、鏡面にうっすら残る曇りをなぞる。

そして囁く。

「けれど……そう簡単に届くと思って?」

その紅い瞳は、窓の外ではなく、どこかもっと遠くを見ているようだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。 尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。 けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。 そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。 再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。 一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。 “尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。 静かに離婚しただけなのに、 なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。

私に価値がないと言ったこと、後悔しませんね?

みこと。
恋愛
 鉛色の髪と目を持つクローディアは"鉱石姫"と呼ばれ、婚約者ランバートからおざなりに扱われていた。 「俺には"宝石姫"であるタバサのほうが相応しい」そう言ってランバートは、新年祭のパートナーに、クローディアではなくタバサを伴う。 (あんなヤツ、こっちから婚約破棄してやりたいのに!)  現代日本にはなかった身分差のせいで、伯爵令嬢クローディアは、侯爵家のランバートに逆らえない。  そう、クローディアは転生者だった。現代知識で鉱石を扱い、カイロはじめ防寒具をドレス下に仕込む彼女は、冷えに苦しむ他国の王女リアナを助けるが──。  なんとリアナ王女の正体は、王子リアンで?  この出会いが、クローディアに新しい道を拓く! ※小説家になろう様でも「私に価値がないと言ったこと、後悔しませんね? 〜不実な婚約者を見限って。冷え性令嬢は、熱愛を希望します」というタイトルで掲載しています。

【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。

猫屋敷むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で―― 私の願いは一瞬にして踏みにじられました。 母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、 婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。 「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」 まさか――あの優しい彼が? そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。 子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。 でも、私には、味方など誰もいませんでした。 ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。 白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。 「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」 やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。 それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、 冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。 没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。 これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。 ※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ ※わんこが繋ぐ恋物語です ※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ

結婚して3年経っても子供ができないという理由で離縁されたエマは、前世の記憶を思い出して幸せになる。周りが勝手に復讐してくれました。

山田 バルス
恋愛
 結婚三年目の春、エマは伯爵家の夫アンドレオから突然、側室を迎える話を告げられる。子をなせなかったことを理由に、彼女は僅かな補償のみで離縁された。妻として過ごした三年間は「無価値だった」と突きつけられ、エマは貴族社会から静かに切り捨てられる。  また実家の父母の墓参りに行くと、当主になっていた兄に離縁金を奪われてしまう。  大ピンチのエマには、秘密があった。なんと彼女は幼少期に前世の記憶を思い出していたのだ。  かつて観光地で石を磨き、アクセサリーを作り、人に喜ばれる仕事をしていた人生。何も持たない今だからこそ、もう一度「自分の手で生きる」ことを選び、あの人が住む商業国家スペイラ帝国へ向かう決意をする。  国境への道中、盗賊に襲われるが、護衛兵ロドリゲスの活躍で難を逃れる。彼の誠実な態度に、エマは「守られる価値のある存在」として扱われたことに胸を打たれた。  スペイラ帝国では身分に縛られず働ける。エマは前世の技術を活かし、石を磨いてアクセサリーを作る小さな露店を始める。石に意味を込めた腕輪やペンダントは人々の心を掴み、体験教室も開かれるようになる。伯爵夫人だった頃よりも、今の方がずっと「生きている」と実感していた。  ある朝、ロドリゲスが市場を訪れ、エマの作ったタイガーアイの腕輪を購入する。ところがその夜、彼は驚いた様子で戻り、腕輪が力を一・五倍に高める魔道具だと判明したと告げる。エマ自身は無意識だったが、彼女の作るアクセサリーには確かな力が宿っていた。  後日二人は食事に出かけ、エマは自分が貴族の妻として離縁された過去を打ち明ける。ロドリゲスは強く憤り、「最悪な貴族だ」と彼女と一緒になって怒ってくれた。その気持ちが、エマにとって何よりの救いだった。彼は次に防御力を高める腕輪を依頼し、冒険者ギルドで正式な鑑定を受けるよう勧める。  翌日、冒険者ギルドで鑑定を行った結果、エマの腕輪は高い防御効果を持つことが判明。さらに彼女自身を鑑定すると、なんと「付与特化型聖女」であることが明らかになる。聖女が付与した魔道具は現実の力として強く発現するのだ。  価値がないと切り捨てられた人生は、ここでは確かな力となった。スペイラ帝国で、聖女エマの新しい人生が、静かに、そして輝かしく始まる。

姉の婚約者と結婚しました。

黒蜜きな粉
恋愛
花嫁が結婚式の当日に逃亡した。 式場には両家の関係者だけではなく、すでに来賓がやってきている。 今さら式を中止にするとは言えない。 そうだ、花嫁の姉の代わりに妹を結婚させてしまえばいいじゃないか! 姉の代わりに辺境伯家に嫁がされることになったソフィア。 これも貴族として生まれてきた者の務めと割り切って嫁いだが、辺境伯はソフィアに興味を示さない。 それどころか指一本触れてこない。 「嫁いだ以上はなんとしても後継ぎを生まなければ!」 ソフィアは辺境伯に振りむいて貰おうと奮闘する。 2022/4/8 番外編完結

欠席魔の公爵令嬢、冤罪断罪も欠席す 〜メイリーン戦記〜

水戸直樹
ファンタジー
王太子との婚約――それは、彼に恋したからでも、権力のためでもなかった。 魔王乱立の時代。 王も公爵も外征に出ている王都で、公爵令嬢メイリーンは“地味な婚約者”として王城に現れる。 だが、王太子は初顔合わせに現れなかった。 にもかかわらず、記録に残ったのは「公爵令嬢の欠席」。 抗議はしない。 訂正もしない。 ただ一つ、欠席という事実だけを積み上げていく。 ――それが、誰にとっての不合格なのか。 まだ、誰も気づいていない。 欠席から始まる、静かなるファンタジー戦記。

短編【シークレットベビー】契約結婚の初夜の後でいきなり離縁されたのでお腹の子はひとりで立派に育てます 〜銀の仮面の侯爵と秘密の愛し子〜

美咲アリス
恋愛
レティシアは義母と妹からのいじめから逃げるために契約結婚をする。結婚相手は醜い傷跡を銀の仮面で隠した侯爵のクラウスだ。「どんなに恐ろしいお方かしら⋯⋯」震えながら初夜をむかえるがクラウスは想像以上に甘い初体験を与えてくれた。「私たち、うまくやっていけるかもしれないわ」小さな希望を持つレティシア。だけどなぜかいきなり離縁をされてしまって⋯⋯?

【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。

ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」 実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて…… 「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」 信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。 微ざまぁあり。

処理中です...