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第14話 密書
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第14話 密書
王太子ジョン・ウィリアム・ポリドーリは、便箋の上にペン先を落としたまま、長いこと最初の一行を書けずにいた。
何と書けばいいのか、わからなかったのだ。
ホーリィー・メイデン。
その名を紙の上に記すだけで、喉の奥が苦くなる。
彼女は、自分が公衆の面前で婚約を破棄し、王都から追い出した相手だった。しかも理由は、吸血姫の仕掛けた嘘を、そのまま信じたからだ。
そんな相手に、今さら助けを求めるのか。
あまりにも浅ましい。
あまりにも都合がよすぎる。
わかっている。
わかっているのに、他に思いつかない。
夜が来る。
あれが、また来る。
その恐怖が、矜持も羞恥も削り取っていった。
ジョンはゆっくりと息を吐き、ようやくペンを動かす。
――ホーリィー・メイデンへ。
そこまで書いて、また止まる。
公的な文面ではおかしい。かといって、私的な手紙を書くような間柄でもない。
いや、もう体裁を取り繕っている場合ではなかった。
ジョンは眉を寄せ、書き直す。
――ホーリィー。
その二文字が、紙の上に不自然なほど重く見えた。
彼女の名を、こんなふうに呼んだことがあっただろうか。
記憶を探ってみても、曖昧だった。
婚約者でありながら、自分は彼女をただ“そこにいるもの”として扱っていたのかもしれない、と今さら思い知らされる。
ジョンは唇を噛み、それから一気に書き進めた。
自分が誤っていたこと。
王城で異様な怪死が続いていること。
エリザベート・バートリの正体が、人ならざるものであったこと。
そして、彼女がホーリィーを恐れていたこと。
最後に、ほとんど懇願のような筆跡で記す。
――このままでは王城が滅ぶ。
――どうか、戻ってきてほしい。
書き終えたとき、ジョンはしばらく便箋を見つめていた。
ひどい文だった。
謝罪としても、説明としても、足りない。
だが、今の自分に書けるのはここまでだった。
本当に言うべきことは、もっと別にある。
許してほしい、などと口にする資格すらない。
それでも、どうか来てほしい――その一点だけは、偽りなく切実だった。
ジョンは手紙を封じると、小さく鈴を鳴らした。
ほどなくして、側近の騎士が現れる。
長年ジョンに仕えてきた、数少ない信頼できる男だった。
「殿下」
一礼した騎士へ、ジョンは封書を差し出す。
「これを届けろ」
騎士は受け取ったが、すぐには動かなかった。
宛名を見て、目の色がわずかに変わる。
「……メイデン公爵令嬢に、でございますか」
「そうだ」
「極秘のご用件と承ってよろしいでしょうか」
ジョンはうなずく。
「誰にも知られるな。とくに……」
そこで言葉を切る。
エリザベートの名を口にすることさえ、今は忌まわしかった。
それでも騎士は察したようだった。
「バートリ伯爵令嬢にも、でございますね」
ジョンは目を上げる。
「……わかるか」
「ここ数日、城で起きていることを思えば」
騎士は慎重に答えた。
「何かが、普通ではないとは」
ジョンは一瞬だけ、すべてを話してしまいたい衝動に駆られた。
鏡のこと。
尾行したこと。
下働きの娘が崩れ落ちるのを見たこと。
そして、エリザベートが自ら“吸血姫”と名乗ったこと。
だが言葉は喉で止まる。
いったん口にしてしまえば、もう引き返せない。
王太子がいかに愚かだったか、騎士にも明かすことになる。
そのためらいを見抜いたのか、騎士はそれ以上問わなかった。
ただ低く言う。
「必ず、お届けいたします」
「急げ」
ジョンの声は思った以上に切迫していた。
「日が落ちる前に城を出ろ」
騎士は深く頭を下げる。
「は」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
それを聞き届けてから、ジョンはようやく椅子の背に身体を預けた。
少しだけ、息がしやすくなる。
これで助かるかもしれない。
そんな希望が、ほんのわずかに胸に灯る。
だが、その灯は長く続かなかった。
不意に、部屋の隅の鏡が目に入ったのだ。
昼の光を受けた鏡面は静かに澄んでいる。
そこには、執務机も、椅子も、開いたままの文箱も映っている。
そしてジョン自身も。
ただ、その肩越しの扉のところに、白い影が立っていた。
ジョンの心臓が跳ねる。
勢いよく振り返る。
誰もいない。
けれど、開いたはずのない扉が、ほんのわずかに揺れていた。
風ではない。
この部屋の窓は閉じている。
ジョンはゆっくりと立ち上がった。
背中を、冷たい汗が伝う。
見られている。
そんな感覚が、はっきりとあった。
彼は恐る恐る鏡を見る。
もう白い影はない。
代わりに、自分の顔だけがひどく青ざめて映っていた。
「……気づかれた、のか」
呟いた声は、掠れてほとんど音にならなかった。
その頃、王城の馬場へ向かう裏手の通路を、側近の騎士は足早に進んでいた。
王太子の命令通り、目立たぬよう軽装に着替え、外套の内に手紙を隠している。
できるだけ人目につかず城を出るつもりだった。
なのに、妙に人の気配がない。
昼下がりの王城なら、使用人や下働きの誰かしらとすれ違うものなのに、今はやけに静かだ。
騎士は無意識に腰の剣へ手をやった。
不穏だ。
城全体が、息を潜めているような気がする。
曲がり角をひとつ曲がったところで、女の声がした。
「どちらへ?」
騎士は反射的に足を止める。
声のした先、回廊の窓辺に、エリザベート・バートリが立っていた。
淡い色のドレスに、薄いレースのショール。
昼の光の中では、相変わらず可憐な伯爵令嬢にしか見えない。
だが騎士は、思わず背筋をこわばらせた。
彼女の声は柔らかい。
柔らかいのに、なぜか一歩も動きたくなくなる。
「少し、用がございまして」
騎士は礼を取りつつ、できるだけ視線を合わせないように言う。
エリザベートはにこりと微笑んだ。
「まあ。お忙しいのですね」
そして、ごく自然な仕草で一歩近づく。
「それは、殿下のお使い?」
騎士の喉が動いた。
なぜ知っている。
そう問うてしまいそうになるのを、かろうじて堪える。
「お答えすることではございません」
精いっぱいの返答だった。
だがエリザベートは気分を害した様子もなく、むしろ楽しそうに目を細める。
「そう」
白い指先が、窓辺の鏡の縁をなぞる。
そこには回廊が映っていた。
騎士の姿も、エリザベートの姿も。
ただ、ほんの一瞬だけ、光の加減なのか、彼女の姿だけが霞んだように見えた。
騎士は息を呑む。
そのわずかな隙に、エリザベートはさらに距離を詰めていた。
「それでは、お引き止めしてごめんなさい」
甘い声だった。
「どうぞ、お急ぎになって」
騎士は一礼し、その場を離れる。
足早に去りながらも、背中に視線が刺さっているのを感じた。
振り返らない。
振り返ってはいけない。
ただ急げ。
城を出るまで。
騎士がようやく馬場に辿り着いたときには、手のひらが汗で湿っていた。
馬を引き、鐙に足をかける。
あと少し。
城門を抜けさえすれば。
そのとき、馬が急にいなないた。
騎士ははっとして手綱を強く引く。
見ると、馬の前方、厩舎の影から、誰かがこちらを見ていた。
下働きの娘かと思った。
だが違う。
若い侍女だ。
見覚えがある。
数日前に死んだはずの侍女によく似ていた。
いや、似ているのではない。
あれは――
騎士の全身に悪寒が走る。
次の瞬間、その影はすっと奥へ引いた。
追うべきではない。
本能がそう叫ぶ。
騎士はすぐに馬へ飛び乗った。
そして王城の裏門へ向かって駆け出す。
背後で、女の笑い声がした気がした。
高くはない。
鈴を鳴らすような、小さく優しい笑い声。
それが誰のものか、考えるまでもなかった。
一方、エリザベートは先ほどの回廊にまだ立っていた。
窓辺の鏡は静かに曇り始めている。
その中に、彼女の姿はやはり曖昧だった。
「助けを求めるのですね」
彼女は小さく笑う。
怒っているわけではなかった。
むしろ愉しんでいる。
王太子が、今さら聖女へ縋ろうとすることを。
「本当に、遅いこと」
白い指先が、鏡面にうっすら残る曇りをなぞる。
そして囁く。
「けれど……そう簡単に届くと思って?」
その紅い瞳は、窓の外ではなく、どこかもっと遠くを見ているようだった。
王太子ジョン・ウィリアム・ポリドーリは、便箋の上にペン先を落としたまま、長いこと最初の一行を書けずにいた。
何と書けばいいのか、わからなかったのだ。
ホーリィー・メイデン。
その名を紙の上に記すだけで、喉の奥が苦くなる。
彼女は、自分が公衆の面前で婚約を破棄し、王都から追い出した相手だった。しかも理由は、吸血姫の仕掛けた嘘を、そのまま信じたからだ。
そんな相手に、今さら助けを求めるのか。
あまりにも浅ましい。
あまりにも都合がよすぎる。
わかっている。
わかっているのに、他に思いつかない。
夜が来る。
あれが、また来る。
その恐怖が、矜持も羞恥も削り取っていった。
ジョンはゆっくりと息を吐き、ようやくペンを動かす。
――ホーリィー・メイデンへ。
そこまで書いて、また止まる。
公的な文面ではおかしい。かといって、私的な手紙を書くような間柄でもない。
いや、もう体裁を取り繕っている場合ではなかった。
ジョンは眉を寄せ、書き直す。
――ホーリィー。
その二文字が、紙の上に不自然なほど重く見えた。
彼女の名を、こんなふうに呼んだことがあっただろうか。
記憶を探ってみても、曖昧だった。
婚約者でありながら、自分は彼女をただ“そこにいるもの”として扱っていたのかもしれない、と今さら思い知らされる。
ジョンは唇を噛み、それから一気に書き進めた。
自分が誤っていたこと。
王城で異様な怪死が続いていること。
エリザベート・バートリの正体が、人ならざるものであったこと。
そして、彼女がホーリィーを恐れていたこと。
最後に、ほとんど懇願のような筆跡で記す。
――このままでは王城が滅ぶ。
――どうか、戻ってきてほしい。
書き終えたとき、ジョンはしばらく便箋を見つめていた。
ひどい文だった。
謝罪としても、説明としても、足りない。
だが、今の自分に書けるのはここまでだった。
本当に言うべきことは、もっと別にある。
許してほしい、などと口にする資格すらない。
それでも、どうか来てほしい――その一点だけは、偽りなく切実だった。
ジョンは手紙を封じると、小さく鈴を鳴らした。
ほどなくして、側近の騎士が現れる。
長年ジョンに仕えてきた、数少ない信頼できる男だった。
「殿下」
一礼した騎士へ、ジョンは封書を差し出す。
「これを届けろ」
騎士は受け取ったが、すぐには動かなかった。
宛名を見て、目の色がわずかに変わる。
「……メイデン公爵令嬢に、でございますか」
「そうだ」
「極秘のご用件と承ってよろしいでしょうか」
ジョンはうなずく。
「誰にも知られるな。とくに……」
そこで言葉を切る。
エリザベートの名を口にすることさえ、今は忌まわしかった。
それでも騎士は察したようだった。
「バートリ伯爵令嬢にも、でございますね」
ジョンは目を上げる。
「……わかるか」
「ここ数日、城で起きていることを思えば」
騎士は慎重に答えた。
「何かが、普通ではないとは」
ジョンは一瞬だけ、すべてを話してしまいたい衝動に駆られた。
鏡のこと。
尾行したこと。
下働きの娘が崩れ落ちるのを見たこと。
そして、エリザベートが自ら“吸血姫”と名乗ったこと。
だが言葉は喉で止まる。
いったん口にしてしまえば、もう引き返せない。
王太子がいかに愚かだったか、騎士にも明かすことになる。
そのためらいを見抜いたのか、騎士はそれ以上問わなかった。
ただ低く言う。
「必ず、お届けいたします」
「急げ」
ジョンの声は思った以上に切迫していた。
「日が落ちる前に城を出ろ」
騎士は深く頭を下げる。
「は」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
それを聞き届けてから、ジョンはようやく椅子の背に身体を預けた。
少しだけ、息がしやすくなる。
これで助かるかもしれない。
そんな希望が、ほんのわずかに胸に灯る。
だが、その灯は長く続かなかった。
不意に、部屋の隅の鏡が目に入ったのだ。
昼の光を受けた鏡面は静かに澄んでいる。
そこには、執務机も、椅子も、開いたままの文箱も映っている。
そしてジョン自身も。
ただ、その肩越しの扉のところに、白い影が立っていた。
ジョンの心臓が跳ねる。
勢いよく振り返る。
誰もいない。
けれど、開いたはずのない扉が、ほんのわずかに揺れていた。
風ではない。
この部屋の窓は閉じている。
ジョンはゆっくりと立ち上がった。
背中を、冷たい汗が伝う。
見られている。
そんな感覚が、はっきりとあった。
彼は恐る恐る鏡を見る。
もう白い影はない。
代わりに、自分の顔だけがひどく青ざめて映っていた。
「……気づかれた、のか」
呟いた声は、掠れてほとんど音にならなかった。
その頃、王城の馬場へ向かう裏手の通路を、側近の騎士は足早に進んでいた。
王太子の命令通り、目立たぬよう軽装に着替え、外套の内に手紙を隠している。
できるだけ人目につかず城を出るつもりだった。
なのに、妙に人の気配がない。
昼下がりの王城なら、使用人や下働きの誰かしらとすれ違うものなのに、今はやけに静かだ。
騎士は無意識に腰の剣へ手をやった。
不穏だ。
城全体が、息を潜めているような気がする。
曲がり角をひとつ曲がったところで、女の声がした。
「どちらへ?」
騎士は反射的に足を止める。
声のした先、回廊の窓辺に、エリザベート・バートリが立っていた。
淡い色のドレスに、薄いレースのショール。
昼の光の中では、相変わらず可憐な伯爵令嬢にしか見えない。
だが騎士は、思わず背筋をこわばらせた。
彼女の声は柔らかい。
柔らかいのに、なぜか一歩も動きたくなくなる。
「少し、用がございまして」
騎士は礼を取りつつ、できるだけ視線を合わせないように言う。
エリザベートはにこりと微笑んだ。
「まあ。お忙しいのですね」
そして、ごく自然な仕草で一歩近づく。
「それは、殿下のお使い?」
騎士の喉が動いた。
なぜ知っている。
そう問うてしまいそうになるのを、かろうじて堪える。
「お答えすることではございません」
精いっぱいの返答だった。
だがエリザベートは気分を害した様子もなく、むしろ楽しそうに目を細める。
「そう」
白い指先が、窓辺の鏡の縁をなぞる。
そこには回廊が映っていた。
騎士の姿も、エリザベートの姿も。
ただ、ほんの一瞬だけ、光の加減なのか、彼女の姿だけが霞んだように見えた。
騎士は息を呑む。
そのわずかな隙に、エリザベートはさらに距離を詰めていた。
「それでは、お引き止めしてごめんなさい」
甘い声だった。
「どうぞ、お急ぎになって」
騎士は一礼し、その場を離れる。
足早に去りながらも、背中に視線が刺さっているのを感じた。
振り返らない。
振り返ってはいけない。
ただ急げ。
城を出るまで。
騎士がようやく馬場に辿り着いたときには、手のひらが汗で湿っていた。
馬を引き、鐙に足をかける。
あと少し。
城門を抜けさえすれば。
そのとき、馬が急にいなないた。
騎士ははっとして手綱を強く引く。
見ると、馬の前方、厩舎の影から、誰かがこちらを見ていた。
下働きの娘かと思った。
だが違う。
若い侍女だ。
見覚えがある。
数日前に死んだはずの侍女によく似ていた。
いや、似ているのではない。
あれは――
騎士の全身に悪寒が走る。
次の瞬間、その影はすっと奥へ引いた。
追うべきではない。
本能がそう叫ぶ。
騎士はすぐに馬へ飛び乗った。
そして王城の裏門へ向かって駆け出す。
背後で、女の笑い声がした気がした。
高くはない。
鈴を鳴らすような、小さく優しい笑い声。
それが誰のものか、考えるまでもなかった。
一方、エリザベートは先ほどの回廊にまだ立っていた。
窓辺の鏡は静かに曇り始めている。
その中に、彼女の姿はやはり曖昧だった。
「助けを求めるのですね」
彼女は小さく笑う。
怒っているわけではなかった。
むしろ愉しんでいる。
王太子が、今さら聖女へ縋ろうとすることを。
「本当に、遅いこと」
白い指先が、鏡面にうっすら残る曇りをなぞる。
そして囁く。
「けれど……そう簡単に届くと思って?」
その紅い瞳は、窓の外ではなく、どこかもっと遠くを見ているようだった。
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