何もしていない聖女と言われたので、婚約破棄を受け入れます

鍛高譚

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第17話 救いを求める名

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第17話 救いを求める名

翌朝、王太子ジョン・ウィリアム・ポリドーリは、侍従が何度目かの呼びかけをしてようやく目を覚ました。

「殿下、朝でございます」

その声が、遠くから聞こえる。

瞼を持ち上げるだけで重かった。

身体の節々に力が入らず、寝台から起き上がるまでに、ひどく時間がかかる。昨夜までなら気力でどうにか誤魔化せた衰えが、今朝はもう隠しきれないところまできていた。

「……下がれ」

掠れた声でそう言うと、侍従は一瞬ためらった。

「ですが、お加減が――」

「下がれと言った」

強く言い返すだけの勢いもなく、それでもどうにか言葉を押し出す。

侍従は不安そうにしながらも、一礼して下がっていった。

ひとりになってから、ジョンはようやく寝台の端に腰を下ろす。

息が上がっていた。

たったそれだけの動作で、胸の奥が空っぽの器のように寒く鳴る。

鏡台の前まで歩くのもひと苦労だった。

そこに映った自分の顔を見て、ジョンはしばらく声を失う。

頬は明らかに削げていた。

目の下の影は深く、唇からは血の気が引いている。肌そのものが薄くなったように青白く、王太子としての威厳どころか、生者らしい温度さえ感じられない顔だった。

二晩。

たった二晩で、ここまで変わるものなのか。

「……冗談だろう」

呟いた声は、鏡の中の自分に吸い込まれて消えた。

けれど現実は少しも揺らがない。

あれは本当に、自分を少しずつ空っぽにしている。

その事実が、今朝はもはや疑いようもなく身体に刻まれていた。

しばらくして、扉の向こうから控えめな声がした。

「殿下」

側近の騎士だった。

ジョンは一瞬だけ救われたような気持ちになる。

「入れ」

扉が開き、騎士が静かに入ってくる。

だがジョンの顔を見た途端、その表情が強張った。

騎士はすぐに膝をつく。

「お顔色が……」

「言うな」

ジョンは短く遮った。

気遣いの言葉ですら、今は自分をひどく惨めにする。

騎士は視線を伏せたまま、低く告げる。

「密書は、無事にメイデン公爵家へ届きました」

その一言で、ジョンの心臓が大きく鳴った。

「……そうか」

喉の奥が、少しだけほどける。

届いた。

少なくとも、助けを求める声は届いたのだ。

「ホーリィーは……」

名を口にした瞬間、自分でも驚くほど声が弱くなった。

騎士は慎重に答える。

「公爵令嬢は、状況を理解しておられました」

「理解……」

「王都を離れたときに異変を感じた、と」

ジョンは目を伏せる。

やはり。

彼女は何もしていなかったのではない。

何もしていないように見えていただけで、ずっと何かを保っていたのだ。

自分がそれを見ようとしなかっただけで。

その認識が、遅れて胸に落ちる。

遅すぎる、としか言いようがない。

「戻ると?」

騎士はわずかに間を置いてから、はっきりと答えた。

「王太子殿下のためではなく、王城と王都のために戻る、と」

その言葉に、ジョンは笑いそうになった。

乾いた、どうしようもない笑いだった。

当然だ。

彼女が自分のために戻る理由などない。

それでも来るという。

無関係な人々を救うために。

その事実が、ありがたく、同時に痛烈だった。

「……ああ」

ようやくそれだけ呟く。

騎士は続けた。

「急ぎ支度をなさるとのことでした」

「急ぎ……か」

ジョンは机に手をつく。

急いでも、ここへ着くまでには時間がかかる。

少なくとも今夜までは、まだ。

そこまで考えたところで、背筋に冷たいものが落ちた。

今夜も来る。

そう思った瞬間、呼吸が浅くなる。

騎士はその変化に気づいたのか、低く問うた。

「殿下。昨夜、何があったのですか」

その言葉に、ジョンの指先が強張る。

言うべきだ。

もう隠している場合ではない。

そう頭ではわかっていた。

なのに、言葉が出てこない。

王太子である自分が、婚約者に化かされ、二晩もただ怯えていたなどと、どうして口にできる。

沈黙が落ちる。

騎士も無理には促さなかった。

ただ、待っている。

その沈黙が、かえってジョンを追い詰めた。

「……あれは」

ようやく言葉が出る。

だが喉がひどく渇いていた。

「人ではない」

騎士がゆっくり顔を上げる。

ジョンは鏡から目を離せなかった。

「お前も、薄々そう思っていただろう」

騎士は否定しない。

その代わり、静かに問い返す。

「バートリ伯爵令嬢のことでございますか」

ジョンはうなずいた。

「尾けた」

短く吐き出すように言う。

「夜中に、あれを尾けて……見た」

少女を抱き寄せる姿。

首筋へ唇を寄せる仕草。

崩れ落ちる身体。

そして紅い瞳。

思い出すだけで、胸の奥が冷える。

「下働きの娘を襲っていた」

騎士の顔色が変わる。

だが、さすがに声は上げなかった。

「自ら……名乗った」

ジョンは目を閉じる。

言葉にしたくない。

それでも言わなければ。

「あれは、吸血姫だと」

室内の空気が、しんと静まり返る。

騎士の鎧が小さく鳴った。

彼が息を呑んだのだとわかった。

だが驚きよりも先に、納得の色があった。

鏡のこと。

変死体のこと。

城の淀んだ気配。

それらが、このひと言でようやく一本に繋がったのだろう。

「……では」

騎士の声は低かった。

「公爵令嬢を追放させたのも」

ジョンは唇を噛む。

そこがいちばん、痛かった。

「あれは、ホーリィーを恐れていた」

ようやく絞り出す。

「対面すれば、正体を見抜かれるからだと」

騎士は何も言わない。

責める言葉すらない。

その沈黙が、どんな叱責よりも重かった。

ジョンは自嘲気味に笑う。

「滑稽だろう」

声がかすれる。

「守ったつもりで、怪物を城へ迎え入れていた」

騎士はゆっくりと首を垂れた。

「殿下……」

その呼びかけに、慰めはない。

ただ、主の破滅を前にした痛ましさが滲んでいた。

ジョンは疲れきった目で窓の外を見る。

昼の光が差している。

その明るさが、かえって遠い。

「ホーリィーは、間に合うと思うか」

問いかけというより、独り言に近かった。

騎士はすぐには答えなかった。

正直な男だ。

安易な希望を口にしない。

それでも、やがて低く言う。

「間に合わせるために、お戻りになるのでしょう」

その言葉が、かえって胸に刺さる。

間に合わせるために。

自分を助けるためではなく、城を救うために。

ジョンはしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。

「……もう一通、書く」

騎士が顔を上げる。

「殿下」

「もっと早く、送るべきだった」

後悔は今さら尽きない。

だがせめて、今夜までの時間を少しでも縮めるために、何かできることがあるならしたかった。

「王都の外れまで迎えを出せ。最短で城へ入れるように」

「かしこまりました」

騎士はすぐに立ち上がる。

ジョンは机の前へ戻り、ふらつく指で便箋を引き寄せた。

今度は文面に迷う暇もない。

――急ぎ戻られたし。
――城はすでに深く侵されている。
――エリザベートは吸血姫である。
――私は、二晩でこの有様だ。

最後の一文を書いたところで、ペン先が震えた。

情けない、と自分でも思う。

だが飾る余裕などなかった。

それはほとんど救難信号だった。

手紙を封じ、騎士へ渡す。

「頼む」

王太子としてではなく、ただ一人の人間として出た言葉だった。

騎士はその重さを受け止めるように、深くうなずいた。

「必ず」

扉が閉まり、足音が遠ざかる。

ジョンはそこでようやく、机に突っ伏すように肘をついた。

もう限界が近い。

二晩でこれなら、三晩目はどうなるのか。

考えたくもない。

そのとき、不意に鏡の中で何かが動いた。

ジョンははっと顔を上げる。

鏡の中には、自分の背後の扉が映っていた。

そこに、エリザベートが立っている。

昼のドレス姿で、静かに微笑んで。

ジョンは反射的に振り返る。

現実の扉は閉まったまま、誰もいない。

ぞくりと背中を悪寒が走る。

再び鏡を見ると、もう彼女の姿はない。

「……知られている」

密書のことを。

迎えを出そうとしていることを。

あるいは、自分がまだ助かろうとしていることを。

そんな確信が、冷たく胸を満たした。

その頃、王城の別の一室では、エリザベートがゆったりと昼の茶を飲んでいた。

白いカップの縁に唇を寄せながら、彼女は目を細める。

「今度はお迎えまで」

愉しそうに囁く。

「本当に、必死ですこと」

その声音に怒りはない。

むしろ甘い愛しささえ滲んでいた。

追い詰められて、ようやく聖女の名を呼ぶ王太子。

その愚かさが、ひどく心地よいのだ。

エリザベートは窓辺の鏡へ視線をやる。

そこには部屋だけが映り、自分の姿はない。

「でも、そう簡単にお会いさせるわけにはいきませんわ」

紅い瞳が、ゆるやかに笑った。

「わたくしのお礼は、まだ終わっておりませんもの」
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