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第29話 何もしない聖女
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第29話 何もしない聖女
王都の朝は、ひどく静かだった。
吸血姫が滅びた翌日だというのに、街はまだ騒がない。昨夜まで何が起きていたのかを、正確に知る者は少ないのだろう。ただ、理由のわからぬ不穏が去ったことだけは、誰もが肌で感じていた。
窓を開けたときの空気が違う。
夜に怯えて閉ざしていた戸口を、人々がためらいながらも開き始める。
街路に出る者の足取りも、昨夜までのように急いてはいない。
王都がようやく、呼吸を取り戻しつつあった。
王城でも、それは同じだった。
曇っていた鏡は澄み、回廊に残っていた重苦しい気配も薄れている。侍女たちはまだ小声で話しているが、その声の震えは昨日よりずっと小さい。
それでも、喪失まで消えたわけではない。
王太子は死んだ。
宰相も、眷属にされた騎士たちも戻らなかった。
王城の中には、助かったという安堵と、失われたものへの沈痛とが入り混じっている。
その朝、ホーリィー・メイデンは王城の高い回廊をひとりで歩いていた。
昨夜からほとんど休んでいない。
それでも不思議と足取りは重くなかった。
王都へ戻ってから、ずっと胸の奥に散らばっていたものが、ようやく正しい場所へ収まっていく感覚がある。
城の空気に自分の力が馴染んでいく。
破れた結界の縁を、少しずつ縫い合わせていくような感覚だ。
けれど、その働きは傍目には何も見えない。
光が大きく噴き上がるわけでもなければ、鐘が鳴るわけでもない。
ただ、そこにいるだけで、城の空気が静かに澄んでいく。
それだけだった。
「……やはり、何もしていないように見えるのね」
小さく呟く。
自嘲ではない。
事実の確認に近い声だった。
あの婚約破棄の夜会で、王太子は言った。
聖女と呼ばれながら、何もしていない、と。
その言葉は、半分だけ正しかったのだろう。
少なくとも、誰の目にもわかるようなことはしていなかったのだから。
ホーリィーは回廊の窓辺で足を止め、王都を見下ろした。
朝の光の下、街は穏やかに見える。
屋根の連なり、遠くの広場、門へ続く道。何ひとつ劇的には変わっていないようでいて、それでも昨夜の前とは違う。
王都の上に、薄くやわらかな膜のようなものが広がっているのが、今ははっきり感じられた。
目に見えない守り。
これが、自分の役目なのだ。
そのとき、後ろから控えめな足音が近づいてきた。
振り返ると、若い侍女が立っていた。
昨夜まで顔色を失っていた娘のひとりだ。だが今朝は、青ざめながらもきちんと顔を上げている。
「ホーリィー様」
深く頭を下げる。
「お探ししました」
「どうかしたの」
「陛下がお呼びです」
ホーリィーは小さくうなずく。
侍女は案内を申し出たが、ホーリィーはやわらかく断った。
「場所はわかるわ。ありがとう」
侍女はほっとしたように笑い、再び一礼して去っていく。
その背を見送りながら、ホーリィーはふと気づく。
昨日まで、この城の者たちは自分にどう接していいのかわからない顔をしていた。婚約破棄された令嬢なのか、王家に冷遇された者なのか、それともただの公爵令嬢なのか。
けれど今は違う。
戸惑いは残っていても、彼らははっきりと“聖女様”を見る目をしている。
その変化が、少しだけ不思議だった。
国王に呼ばれたのは、昨日と同じ小間だった。
けれど今朝の空気は昨夜よりも落ち着いている。重臣たちの顔には疲れが残っているものの、昨日のような混乱はない。
国王はホーリィーが入るとすぐ、席を勧めた。
「休めておらぬだろうに、すまぬ」
「大丈夫です」
そう答えると、国王は少し苦い顔をした。
「お前は、すぐにそう言うな」
ホーリィーは返事をしなかった。
大丈夫かどうかよりも、いま優先すべきことがあるだけだ。
国王は机の上に置かれた書類へ目を落とす。
「昨夜のことについて、すでに最低限の布告は出した」
「最低限、ですか」
「王太子は急逝。バートリ伯爵令嬢は正体不明の魔性であり、聖女の手により討たれた、と」
ホーリィーは静かに聞いていた。
それ以上細かな事情まで広く知らせれば、王家の失態がそのまま王都全体の動揺へ繋がる。いまはまだ、それを避けたいのだろう。
国王は続ける。
「だが貴族たちの間では、いずれ詳しい話を求められる」
「そうでしょうね」
「息子の婚約破棄についても、説明を免れぬ」
その言葉のあと、国王は一瞬だけ黙った。
重い話題だった。
婚約破棄は王太子が勝手に行ったこととはいえ、王家の名の下に行われたものだ。ホーリィーの名誉を回復するには、その誤りも正面から認めなければならない。
「お前には、改めて公の場で名誉を回復する機会を設ける」
ホーリィーは少しだけ目を伏せる。
嬉しくないわけではない。
だが、それだけで何もかも元に戻るわけではないことも知っている。
「ありがとうございます」
国王はそこで、ふっと肩の力を抜いた。
「だがな」
「はい」
「おそらく、民の多くには伝わらぬだろう」
ホーリィーは顔を上げる。
国王は苦笑に近い顔をしていた。
「王都が平穏であるかぎり、お前の働きは誰の目にも見えぬ」
その言葉に、ホーリィーは小さく笑った。
「そうでしょうね」
「腹は立たぬか」
「立ちません」
今度は迷いなく答えられた。
「王都が無事であるなら、それでかまいません」
国王はその返答をしばらく見つめていた。
やがて深く息をつく。
「やはりお前は……息子にはもったいない娘だった」
その言葉には、悔恨と痛みがある。
ホーリィーは何も返さなかった。
過ぎたことを論じても仕方がない。
王太子はもういない。
残った者が立て直すしかない。
その後、ホーリィーは城内の浄化の手順について説明し、必要な人員や立ち入りを制限すべき区画を確認した。実務の話をしているあいだ、国王も重臣たちも真剣に耳を傾ける。
以前のように“聖女”という肩書きだけがあるのではない。
彼女の判断を、必要なものとして受け止めている。
それだけで十分だった。
話が終わり、小間を出ると、王城はすっかり朝の明るさに満ちていた。
ホーリィーは、城の中庭へ続く回廊をゆっくりと歩く。
途中、侍女たちがすれ違う。
皆きちんと頭を下げる。
その中に、昨日まで震えていた若い侍女もいた。
彼女は一礼したあと、少しためらうようにしてから言った。
「……昨夜は、ありがとうございました」
小さな声だった。
けれど本心からの礼だとわかった。
ホーリィーはやわらかくうなずく。
「怖かったでしょう」
侍女は唇を噛み、こくりとうなずいた。
「でも、いまは……息がしやすいです」
そのひと言に、ホーリィーは微笑んだ。
それでいいのだと思う。
誰かが息をしやすくなること。
夜を恐れずに、窓を開けられること。
それこそが、自分の役目の結果なのだから。
やがて中庭へ出る。
春の光が眩しかった。
花壇の花々は、昨夜の恐怖など知らぬ顔で風に揺れている。
噴水の水音が、ひどく穏やかに聞こえた。
ホーリィーはその場に立ち、空を見上げた。
王都の上には、見えない光が静かに広がっている。
壊れかけていた結界は、まだ不完全ながら、たしかに再び王都を包み始めていた。
それを見上げる者は誰もいない。
誰の目にも映らない。
きっとこの先も、多くの人は気づかないだろう。
王都が平和であるほど、聖女が何をしているのかは見えなくなるのだから。
「何もしない聖女、か」
もう一度、その言葉を口にする。
今度は少しだけ、可笑しかった。
本当は何もしていないのではない。
何も起きないようにしているだけだ。
それが誰にも見えず、誰にも褒められなくても、もういいと思えた。
そのとき、中庭の向こうからマリアが小走りに近づいてきた。
「お嬢様!」
息を弾ませながら、それでも顔は明るい。
「どうしたの」
「街からの便りです。王都のあちこちで“今朝はよく眠れた”って言っている人が多いそうです」
ホーリィーは瞬きをした。
それから、少しだけ目を細める。
「そう」
「理由なんて、誰もわかっていないみたいですけど」
マリアはどこか誇らしげだった。
「でも、きっとお嬢様のおかげです」
ホーリィーは返事の代わりに、中庭の先の空を見た。
朝の青が、ゆっくり広がっていく。
目には見えない。
名前も知られない。
それでも、誰かが安らかに眠れたのなら、それで十分だ。
王都の空には今日も、誰にも見えない聖なる結界が静かに広がっていた。
そしてその中心には、相変わらず“何もしない”聖女が、ただ穏やかに立っているのだった。
王都の朝は、ひどく静かだった。
吸血姫が滅びた翌日だというのに、街はまだ騒がない。昨夜まで何が起きていたのかを、正確に知る者は少ないのだろう。ただ、理由のわからぬ不穏が去ったことだけは、誰もが肌で感じていた。
窓を開けたときの空気が違う。
夜に怯えて閉ざしていた戸口を、人々がためらいながらも開き始める。
街路に出る者の足取りも、昨夜までのように急いてはいない。
王都がようやく、呼吸を取り戻しつつあった。
王城でも、それは同じだった。
曇っていた鏡は澄み、回廊に残っていた重苦しい気配も薄れている。侍女たちはまだ小声で話しているが、その声の震えは昨日よりずっと小さい。
それでも、喪失まで消えたわけではない。
王太子は死んだ。
宰相も、眷属にされた騎士たちも戻らなかった。
王城の中には、助かったという安堵と、失われたものへの沈痛とが入り混じっている。
その朝、ホーリィー・メイデンは王城の高い回廊をひとりで歩いていた。
昨夜からほとんど休んでいない。
それでも不思議と足取りは重くなかった。
王都へ戻ってから、ずっと胸の奥に散らばっていたものが、ようやく正しい場所へ収まっていく感覚がある。
城の空気に自分の力が馴染んでいく。
破れた結界の縁を、少しずつ縫い合わせていくような感覚だ。
けれど、その働きは傍目には何も見えない。
光が大きく噴き上がるわけでもなければ、鐘が鳴るわけでもない。
ただ、そこにいるだけで、城の空気が静かに澄んでいく。
それだけだった。
「……やはり、何もしていないように見えるのね」
小さく呟く。
自嘲ではない。
事実の確認に近い声だった。
あの婚約破棄の夜会で、王太子は言った。
聖女と呼ばれながら、何もしていない、と。
その言葉は、半分だけ正しかったのだろう。
少なくとも、誰の目にもわかるようなことはしていなかったのだから。
ホーリィーは回廊の窓辺で足を止め、王都を見下ろした。
朝の光の下、街は穏やかに見える。
屋根の連なり、遠くの広場、門へ続く道。何ひとつ劇的には変わっていないようでいて、それでも昨夜の前とは違う。
王都の上に、薄くやわらかな膜のようなものが広がっているのが、今ははっきり感じられた。
目に見えない守り。
これが、自分の役目なのだ。
そのとき、後ろから控えめな足音が近づいてきた。
振り返ると、若い侍女が立っていた。
昨夜まで顔色を失っていた娘のひとりだ。だが今朝は、青ざめながらもきちんと顔を上げている。
「ホーリィー様」
深く頭を下げる。
「お探ししました」
「どうかしたの」
「陛下がお呼びです」
ホーリィーは小さくうなずく。
侍女は案内を申し出たが、ホーリィーはやわらかく断った。
「場所はわかるわ。ありがとう」
侍女はほっとしたように笑い、再び一礼して去っていく。
その背を見送りながら、ホーリィーはふと気づく。
昨日まで、この城の者たちは自分にどう接していいのかわからない顔をしていた。婚約破棄された令嬢なのか、王家に冷遇された者なのか、それともただの公爵令嬢なのか。
けれど今は違う。
戸惑いは残っていても、彼らははっきりと“聖女様”を見る目をしている。
その変化が、少しだけ不思議だった。
国王に呼ばれたのは、昨日と同じ小間だった。
けれど今朝の空気は昨夜よりも落ち着いている。重臣たちの顔には疲れが残っているものの、昨日のような混乱はない。
国王はホーリィーが入るとすぐ、席を勧めた。
「休めておらぬだろうに、すまぬ」
「大丈夫です」
そう答えると、国王は少し苦い顔をした。
「お前は、すぐにそう言うな」
ホーリィーは返事をしなかった。
大丈夫かどうかよりも、いま優先すべきことがあるだけだ。
国王は机の上に置かれた書類へ目を落とす。
「昨夜のことについて、すでに最低限の布告は出した」
「最低限、ですか」
「王太子は急逝。バートリ伯爵令嬢は正体不明の魔性であり、聖女の手により討たれた、と」
ホーリィーは静かに聞いていた。
それ以上細かな事情まで広く知らせれば、王家の失態がそのまま王都全体の動揺へ繋がる。いまはまだ、それを避けたいのだろう。
国王は続ける。
「だが貴族たちの間では、いずれ詳しい話を求められる」
「そうでしょうね」
「息子の婚約破棄についても、説明を免れぬ」
その言葉のあと、国王は一瞬だけ黙った。
重い話題だった。
婚約破棄は王太子が勝手に行ったこととはいえ、王家の名の下に行われたものだ。ホーリィーの名誉を回復するには、その誤りも正面から認めなければならない。
「お前には、改めて公の場で名誉を回復する機会を設ける」
ホーリィーは少しだけ目を伏せる。
嬉しくないわけではない。
だが、それだけで何もかも元に戻るわけではないことも知っている。
「ありがとうございます」
国王はそこで、ふっと肩の力を抜いた。
「だがな」
「はい」
「おそらく、民の多くには伝わらぬだろう」
ホーリィーは顔を上げる。
国王は苦笑に近い顔をしていた。
「王都が平穏であるかぎり、お前の働きは誰の目にも見えぬ」
その言葉に、ホーリィーは小さく笑った。
「そうでしょうね」
「腹は立たぬか」
「立ちません」
今度は迷いなく答えられた。
「王都が無事であるなら、それでかまいません」
国王はその返答をしばらく見つめていた。
やがて深く息をつく。
「やはりお前は……息子にはもったいない娘だった」
その言葉には、悔恨と痛みがある。
ホーリィーは何も返さなかった。
過ぎたことを論じても仕方がない。
王太子はもういない。
残った者が立て直すしかない。
その後、ホーリィーは城内の浄化の手順について説明し、必要な人員や立ち入りを制限すべき区画を確認した。実務の話をしているあいだ、国王も重臣たちも真剣に耳を傾ける。
以前のように“聖女”という肩書きだけがあるのではない。
彼女の判断を、必要なものとして受け止めている。
それだけで十分だった。
話が終わり、小間を出ると、王城はすっかり朝の明るさに満ちていた。
ホーリィーは、城の中庭へ続く回廊をゆっくりと歩く。
途中、侍女たちがすれ違う。
皆きちんと頭を下げる。
その中に、昨日まで震えていた若い侍女もいた。
彼女は一礼したあと、少しためらうようにしてから言った。
「……昨夜は、ありがとうございました」
小さな声だった。
けれど本心からの礼だとわかった。
ホーリィーはやわらかくうなずく。
「怖かったでしょう」
侍女は唇を噛み、こくりとうなずいた。
「でも、いまは……息がしやすいです」
そのひと言に、ホーリィーは微笑んだ。
それでいいのだと思う。
誰かが息をしやすくなること。
夜を恐れずに、窓を開けられること。
それこそが、自分の役目の結果なのだから。
やがて中庭へ出る。
春の光が眩しかった。
花壇の花々は、昨夜の恐怖など知らぬ顔で風に揺れている。
噴水の水音が、ひどく穏やかに聞こえた。
ホーリィーはその場に立ち、空を見上げた。
王都の上には、見えない光が静かに広がっている。
壊れかけていた結界は、まだ不完全ながら、たしかに再び王都を包み始めていた。
それを見上げる者は誰もいない。
誰の目にも映らない。
きっとこの先も、多くの人は気づかないだろう。
王都が平和であるほど、聖女が何をしているのかは見えなくなるのだから。
「何もしない聖女、か」
もう一度、その言葉を口にする。
今度は少しだけ、可笑しかった。
本当は何もしていないのではない。
何も起きないようにしているだけだ。
それが誰にも見えず、誰にも褒められなくても、もういいと思えた。
そのとき、中庭の向こうからマリアが小走りに近づいてきた。
「お嬢様!」
息を弾ませながら、それでも顔は明るい。
「どうしたの」
「街からの便りです。王都のあちこちで“今朝はよく眠れた”って言っている人が多いそうです」
ホーリィーは瞬きをした。
それから、少しだけ目を細める。
「そう」
「理由なんて、誰もわかっていないみたいですけど」
マリアはどこか誇らしげだった。
「でも、きっとお嬢様のおかげです」
ホーリィーは返事の代わりに、中庭の先の空を見た。
朝の青が、ゆっくり広がっていく。
目には見えない。
名前も知られない。
それでも、誰かが安らかに眠れたのなら、それで十分だ。
王都の空には今日も、誰にも見えない聖なる結界が静かに広がっていた。
そしてその中心には、相変わらず“何もしない”聖女が、ただ穏やかに立っているのだった。
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