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第4章
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王都の中心にそびえる白亜の王宮――その大理石の回廊を、シャル・ド・ネ・アルベールはゆるゆると歩いていた。
とはいえ足取りが遅いのは緊張ゆえではない。単に「朝食を食べ過ぎて少し眠い」からだ。彼女は欠伸を噛み殺しながら、腕に抱えた菓子箱を見下ろした。
「王宮のティーセットは一流ですけれど、お茶請けはイマイチですのよね。今日はわたくし特製“雲シフォン”で補強いたしますわ」
同行する侍女長マルグリットは、主君のマイペースぶりに半ば諦めの笑みを浮かべる。
――今朝、国王直々の召喚状が届いた。内容は“勲章授与と功績表彰”。通常なら正装で早馬を飛ばすところだが、シャルは「表彰式は午後。午前は睡眠確保」と決め込み、昼までしっかり惰眠をむさぼってから出発したのである。
◆ ◆ ◆
謁見の間。
金糸のタペストリーとステンドグラスが陽光を受け、虹色の斑を床に落としている。
玉座の前で跪くシャルに、国王グスタフ三世が慈父のような笑みを向けた。
「公爵令嬢シャル・ド・ネ・アルベールよ。そなたの領地改革と慈善活動は、王国に多大なる恩恵をもたらした。ここに“金麦穂大勲章”を授与する」
近衛騎士がクッションに載せた勲章を捧げ持つ。シャルは「ありがとうございますわ」と頭を垂れ、胸元に輝く金色の麦穂を眺めた。
――でも正直、重量感で肩が凝りそう。昼寝の邪魔にならないかしら。そんなことを考えていると、王妃エリザベートが一歩前へ出た。
「そしてこちらは私からのささやかな贈り物。あなたの葡萄ジュースを、正式に“王宮公式飲料”と認定します。妊婦も子どもも楽しめる品を作ってくれてありがとう」
王妃がそっと手を差し伸べる。シャルは戸惑いながらも握り返し、柔らかな微笑を返した。
会場の貴族たちが拍手する中、国王が声を潜めて続ける。
「王太子との一件では苦労をかけたな。……あやつも自業自得、反省しておる。そなたの自由は尊重するが、いずれは我が王家以外にも良き縁談があるやもしれん。心に留めておいてくれればそれで良い」
つまり「息子は諦めたけど、君は国の宝だから味方だよ」という遠回しのエールらしい。
シャルは涼しい顔で頷いた。
「ええ、良きご縁があれば前向きに検討いたしますわ。――昼寝時間を侵害しない相手でしたら」
玉座後ろで控えていた侍従が咳を噴き出す。国王は目を瞬かせ、やがて腹の底から笑った。
「ははは! そなたらしい。よかろう、ティータイムを邪魔せぬ者を探すとしよう」
◆ ◆ ◆
表彰式の後、王宮庭園のティーテラス。
秋薔薇が咲き誇り、噴水の水音が涼やかに響く。シャルは持参した菓子箱を開け、雲のようにふわふわのシフォンケーキを皿に載せた。
「お口に合うと良いのですけれど」
王妃がフォークでひと切れ掬い、唇に運ぶ。瞬間、瞳がとろんと緩んだ。
「まぁ……本当に雲みたい。軽やかなのに卵のコクがしっかり。ベルガモットの香りも……!」
給仕長が慌ててメモを取り、次いで国王も大口で頬張る。
「うむ、頬が落ちそうだ。これを宮廷晩餐のデザートに採用したいが、良いか?」
「レシピをお渡ししますわ。でも作り手の腕が大事ですから、厨房の皆さまに頑張っていただかなくては」
“頑張らない”が座右の銘の令嬢が、他人にはサラリと頑張りを要求する。給仕長は「精進いたします……!」と震えた。
テーブルの向こうでは、庭師の少年がジュース瓶を運んでいる。陽光に透ける紫が宝石のようだ。シャルは一口すすり、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで陛下、午後五時には領地に戻りたいのですが――猫の晩ごはん当番がありますの。表敬訪問は何時頃までかしら?」
国王は椅子の背でもたれ、肩をすくめた。
「そなたのスケジュールが第一だ。……ティーが冷めたら帰るがよい」
「ありがとうございますわ。では遠慮なく」
シャルはカップを傾け、深く香りを吸い込む。王妃が楽しげに微笑み、侍女たちが追加の菓子を並べる。
秋風が薔薇の香りを運び、テラスはほんのり甘い空気に包まれた。
◆ ◆ ◆
その後、シャルは予定通り夕刻前に王宮を辞した。
馬車が城門を出る頃、彼女は窓から王都の街並みを眺め、ふわぁと欠伸を漏らす。
「表彰式もティータイムも堪能しましたし……帰ったら仮眠ですわね」
対面席のマルグリットが苦笑する。
「お嬢様、本日だけで勲章と王家公認の称号を二つも――」
「でも一番の収穫は、王妃がシフォンを気に入ってくださったことですわ。あれで厨房もますます張り切るでしょうし、わたくしのティータイムが充実しますもの」
やはり最優先は自分の“おやつと昼寝”。
馬車の揺れが子守歌となり、シャルはコクリと船を漕ぎ始めた。マルグリットはそっと膝掛けを掛け、外の夕焼け空を見上げる。
――国王の厚遇も、王妃の信頼も、彼女にとっては“おいしいスコーンのおまけ”くらいの軽さなのだろう。
だが、その軽やかさこそが周囲を救い、国まで動かす。
アルベール領の怠惰令嬢は、今日もまた自由気ままに微笑みながら、理想の未来へ歩みを進めていた。
王都の朝は、秋晴れの空を渡る雁の列とともに始まった。けれど公爵令嬢シャル・ド・ネ・アルベールの一日は、まだ羽根布団の中でくるまれたまま——。
「お嬢様、朝でございます」
「やめて……今、雲になって浮かんでいるところなの……」
侍女長マルグリットの必死の声も、ふわふわ夢心地の前には無力だ。
だが「国王陛下より至急の召喚状です!」という一言で、シャルは片目だけ開けた。枕元に差し出された巻紙には、真紅の王印が燦然と輝いている。
「……午後一時の謁見? ならば十二時起床で間に合いますわね」
「い、いえ、通常は午前中に王宮へ——」
「“通常”と“わたくし”は両立しませんのよ、マルグリット」
結局、召喚状が届いた当日の午前は“睡眠確保”に費やされ、出立は正午きっかり。寝起き十五分で結ったゆるふわシニヨン、淡桃色のドレス、その胸元には「目立たぬ程度に」と言いつつ収穫祭でもらった花のブローチ——本人は“省エネ正装”のつもりだが、街道を行く馬車の窓から見える庶民は目を奪われ、手を振っていた。
* * *
白亜の王宮に到着すると、第一侍従が駆け寄り深々と礼を取った。
「公爵令嬢、玉座の間へご案内いたします」
「その前に控室でティーを一杯所望しますわ。空腹で倒れては陛下に失礼ですもの」
侍従が目を白黒させる間に、シャルは自作の菓子箱を開封。雲のように軽いシフォンケーキが、ふわりと甘い香りを放った。控室の給仕たちは“自家製おやつを持ち込む来賓”など初めてで戸惑うが、シャルは気にしない。
「ふむ、王宮のダージリンは相変わらず温度管理が完璧ですわね」
「恐れ入ります……あの、もしよろしければ、そのお菓子を少々——」
「いいですわよ。材料費は王家持ちで♪」
給仕が慌てて礼を言いながら一切れ口に運ぶ。瞬間、目を丸くして「雲……?」と呟く様子に、シャルは満足げに微笑んだ。
* * *
謁見の間。ステンドグラスを通した陽光が虹の絨毯を敷き、玉座の背後に黄金の翼を描く。
国王グスタフ三世は威厳ある佇まいで立ち上がり、王妃エリザベートは柔らかな微笑で迎えた。列席の貴族たちの視線が一斉にシャルへ注がれるが、当の本人は「お昼寝前の伸び」をしたいのを堪えて優雅に一礼する。
「公爵令嬢シャル・ド・ネ・アルベール——その功績はもはや領内にとどまらず、王国全土に恩恵をもたらした。ここに“金麦穂大勲章”を授与する」
近衛騎士が差し出すクッションの上で、黄金の麦穂が太陽を弾いた。シャルは「肩こりの原因になりそうですわ」と心中で嘆きつつも、笑顔で受章。続けて王妃が進み出る。
「あなたの葡萄ジュースは妊婦や子どもだけでなく、高齢の方々にも好評です。よって本日より“王宮公式飲料”として採用しますわ」
周囲がざわついた。王室御用達どころか“公式”とは前例がない。けれどシャルは軽く首を傾げるだけ。
「ありがとうございます。では納品書は後ほどロベールから——」
国王が思わず咳払いで笑いを噛み殺し、列席者にもくすくすと笑いが広がった。
さらに国王は声を潜め、近くまでシャルを招く。
「王太子の件では……済まぬことをした。そなたの自由を尊重するが、王家は常に味方と心得よ」
「お気遣い痛み入りますわ。自由が最優先ですので、昼寝を侵害しない範囲であれば味方と存じます」
国王は腹の底から愉快そうに笑い、側近たちが頭を抱えた。
* * *
式後、王宮庭園の特設ティーテラスへ。
秋薔薇とハーブが香る中、王妃が興味津々で菓子箱を覗き込む。
「先ほどのシフォンが忘れられなくて。作り方を——」
「王妃様、自分で焼くのは大変ですわ。厨房にコツを伝えますので、わたくしは試食係として招いてくだされば」
「それは名案ですわ!」
給仕長が青ざめる一方、国王はさっそく二切れ目に手を伸ばしながら尋ねた。
「シャル、将来の縁談はどう考える?」
「そうですわね……“朝寝坊を尊重し、午後ティーに同席できる人”が条件でしょうか」
「うむ、なかなか難題だが探してみよう」
そのやりとりに王妃が笑い、薔薇の花弁が風に舞った。陽射しが黄金色に傾き始めた頃、シャルはカップを置き、王家に礼を述べる。
「陛下、王妃様。本日は楽しいティータイムをありがとうございました。猫の晩ごはん当番がありますので、そろそろ失礼いたしますわ」
国王が「猫が王命に勝るか」と茶目っ気たっぷりに問えば、シャルは即答する。
「当然ですわ」
* * *
馬車が王宮を離れると、シャルは窓辺にもたれ、頬杖をついた。
「勲章よりシフォンを褒められた方が嬉しかったですわね」
マルグリットが呆れと尊敬の入り混じった溜息を漏らす。
「お嬢様は本当にブレません……。ところで次の予定は?」
「帰宅したら仮眠、その後は新作スコーンの試食会ですわ」
「かしこまりました」
夕焼けが王都の屋根を朱に染める。
国王の厚遇も、王妃の賛辞も、怠惰令嬢にとっては“おいしいお茶請け”が増える前触れに過ぎない。
けれど、その何気ない欲望が領地を潤し、王国をも豊かにすることを——馬車を引く御者も、街角で手を振る市民も、誰もが知っている。
シャルは欠伸をひとつ。
「……帰ったら三十分だけ、本気で昼寝しますわ」
そして彼女の瞼が静かに落ちる。
その寝顔を乗せた馬車が、秋風の大通りをゆったりと進んでいく間、王都の人々は微笑みとともに頭を垂れた。
“自由で怠惰な救世主”に——ほんの少し遅めの、午後の礼を。
秋も深まり、アルベール公爵邸の温室には早咲きのクリスマスローズがほころび始めていた。
ガラス越しの淡い陽光を浴びながら、シャル・ド・ネ・アルベールはティーワゴンを前に優雅に腰掛けている。テーブルクロスの上には、焼きたてスコーンとクロテッドクリーム、そして今日のお試し菓子“ほうじ茶フィナンシェ”。
「さて、本日の面接を始めますわ」
向かいの椅子で背筋を伸ばした青年が、少しだけ喉を鳴らした。
灰銀の髪に薄縁眼鏡、上質ながら飾り気のないインディゴのスーツ。隣国ゼルヴァルト公爵家の次男——ユーリス・フォン・ゼルヴァルト。二十四歳。専門は魔導鉱石の研究で、学会では“引きこもりの天才”と呼ばれる男である。
「お招きにあずかり光栄です、公爵令嬢」
「こちらこそ。遠路はるばる“白い結婚”を前提にいらしたとか。まずは自己PRをどうぞ」
「自己PR……?」
ユーリスは戸惑いながらも、小さく咳払いをした。
「私は研究に人生の八割を捧げておりまして、社交より実験室を好みます。結婚後も互いの生活を干渉せず、必要な時にだけ協力し合う関係が理想です」
「ふむふむ。具体的には?」
「週に一度、もしくは二週間に一度、夕食を共にする程度でいかがかと」
「それ以外は?」
「私は研究所に籠もり、あなたは……ええと、昼寝を?」
「正解ですわ♪」
シャルが満足げに手を叩くと、温室のガラスに映った陽光がキラリと弾けた。侍女長マルグリットは遠巻きにハラハラ見守り、執事ジャンは記録用のノートを広げる。
「では質問タイムに入りますわ。第一問。——朝寝坊をどこまで許容できますか?」
「上限は設けません。私も実験の徹夜で昼まで寝ていることが多いので」
「合格。第二問。猫はお好き?」
「……犬派でしたが、研究所に迷い込んだ子猫を保護したら愛らしくて。今では膝の上が定位置です」
「合格! 第三問。午後三時のティータイムに合わせて帰宅できる?」
「魔導鉱石の臨界試験がなければ。もし外せない実験なら、代わりに試作スコーンのデータを送っていただければコメントを返します」
「むしろ優秀! 最終質問——昼寝用ハンモックの共用は可?」
「耐荷重さえ問題なければ」
シャルはくるりと椅子を回転させ、マルグリットとジャンにウインクした。
「どうやら理想の相手が見つかりましたわ」
ユーリスが目を瞬く。
「それは……つまり?」
「はい、お受けします。“白い結婚”成立ですわ」
* * *
とんとん拍子で話が進む中、温室の隅でロベール管理官が書類を抱えて青ざめていた。
「お、お嬢様! 財産契約や領地運営の調整が——」
「後でいいですわ。まずは祝杯。ユーリス様、ジュースかワイン、どちらを?」
「昼間なのでジュースで」
シャルは笑みを深め、真空濃縮の葡萄ジュースを二つのグラスに注ぐ。琥珀の光が揺れ、ほの甘い香りが温室に満ちた。
「乾杯の前に、念のため確認ですわ」
「なんでしょう」
「週一ティータイムの曜日は、土曜午後固定で?」
「異議なし」
「急な仕事で来られない場合は?」
「代替として研究成果の面白い失敗談を手紙で送ります」
「素晴らしい!」
グラスが軽く触れ合い、澄んだ音が響く。
「それでは——怠惰と研究に敬意を表して、乾杯ですわ」
「乾杯」
葡萄の芳香が喉を滑り、二人の表情がほころぶ。
シャルは椅子の背にもたれ、ゆるりと足を組んだ。
「ユーリス様、あなたの研究は魔導鉱石の“共振”現象でしたかしら?」
「ええ。低周波で魔力効率を三割向上させる試みです」
「三割……ワインの発酵にも応用できそうですわね。樽の中で音波を——」
「なんと面白い発想だ!」
学者の目が輝き、怠惰令嬢の瞳もきらり。
「では来週のティータイムは、音波発酵の試験設計をテーマにしましょう。——もちろん昼寝後に」
「喜んで」
* * *
数刻後。
書斎に戻ったシャルは、ジャンが用意した仮契約書にサラサラと署名した。
【互いの生活を尊重し、干渉は最小限】【昼寝・研究時間の確保を最優先】【ティータイムをもって愛情確認とする】——常識外れの条文に、ロベールは頭を抱えながらも「これぞアルベール家」と感嘆するしかない。
「マルグリット、ハンモックの追加発注を」
「かしこまりました。耐荷重は?」
「二人+猫三匹ぶんで」
窓の外では夕陽が葡萄畑を黄金に染めている。
シャルは羽根ペンを置き、ふわりと欠伸。
「やっぱり契約仕事は疲れますわね。——少し昼寝を」
「もう夕方ですけれど……」
「昼寝に時間帯は関係ありませんわ♪」
クッションに埋もれたシャルの頬には、満足そうな赤み。
理想のパートナーを得ても、彼女の日常は変わらない。
だが“干渉しない愛”という新しい調味料が加わり、これからのティータイムはきっと、もっと甘く、もっと自由に香るだろう。
そして温室の外で、ユーリスは自作の手帳にこうメモしていた。
《毎週土曜——ティータイム。備考:昼寝尊重。菓子レシピ要研究》
天才研究者と怠惰令嬢。
この奇妙に噛み合った歯車が、やがて新たな発明と極上スイーツを生み、王国の胃袋を再び震撼させることになる——その事実を、当人たちはまだ知らない。
アルベール領の北丘陵──ぶどう畑を一望する小高い草原に、白壁と青い尖塔のコテージが完成した。
看板には金文字でこう刻まれている。
> “午後の雲” ──昼寝専用別荘
建設費はワインとジュースの今期利益の一部。設計図はシャル・ド・ネ・アルベール自らが「ふかふかベッド八割、キッチン一割、書斎ゼロ割」で描いたものだ。
今日はその完成祝い。初秋の陽射しの下、丘の斜面にレースクロスを敷き、即席ピクニックが開かれていた。
「焼き栗パイ追加でーす!」
老醸造家ピエールが汗を拭きつつ皿を運べば、領民の子どもたちが歓声を上げる。
「ジュースおかわりある?」
「はいはい、泡立てたミルク入りの特別版よ」
侍女長マルグリットが給仕すれば、紫の液面に真っ白な泡が花咲いた。
そして、丘の頂上。
昼寝用ハンモック──耐荷重「大人二名+猫三匹」仕様──に揺られているのは、もちろんシャルである。
隣では、先日“白い結婚”が成立したユーリス・フォン・ゼルヴァルトが研究ノートを開き、魔導鉱石の最新データを記していた。
「揺れながら字を書くのは難しいな」
「昼寝を優先して寝転んで書けばよろしいのに」
「それでは君のスペースが……」
「ハンモックはシェアするためにあるのですわ♪」
ふわりと吹いた風が、二人の髪を揺らす。遠くでぶどうの葉が金緑色に光り、足元の草むらでは子猫が転げ回っている。
ユーリスがペンを置き、ひとつ欠伸をした。
「……確かに、研究の合間にこうして空を眺めるのも悪くない」
「で しょう? 怠惰は発想の母ですもの」
「それを聞いて安心した。次の実験は“低周波発酵”だが、寝ながら監視できる仕組みを考えよう」
「それは名案!」
笑い合う二人の下で、管理官ロベールが決算書を手に右往左往している。
「お嬢様ー! 今年度の最終利益が確定しましてー!」
だがハンモックから返ってくるのは、のびやかな返事だけ。
「聞こえませーん♪ 数字は明日でーす」
「ま、またですか……」
肩を落とすロベールの背に、ピエールが焼き栗パイを差し出した。
「まあまあ、甘い物でも。お嬢様の“頑張らない主義”のおかげで、わしらは飯がうまい」
「……確かに」
領民代表の少女ミレイユが花冠を掲げ、シャルのもとへ駆けてきた。
「シャル様! 新しいシフォン、すっごくふわふわで雲みたい!」
「ありがとう。じゃあ雲みたいに軽い抱っこ、して差し上げましょうか」
「きゃー!」
ハンモックから降りたシャルがミレイユをひょいと抱き上げると、周りの子どもたちも「私も!」「僕も!」と列を作る。
「体力が尽きる前に並びなさいませよー」
笑い声が風に乗り、丘の上に弾けた。
ひとしきり遊んだ後、シャルはコテージのテラスに戻り、ティーポットを傾けた。琥珀の液体がカップに満ちると同時に、猫たちが足元へ集まって喉を鳴らす。
ユーリスも隣に座り、研究ノートを閉じる。
「……やっぱり土曜のティータイムはいいものだ」
「でしょ? では乾杯の音頭をお願いしますわ」
「え、僕が?」
「共同オーナーですもの」
ユーリスは少し照れながらカップを掲げる。
「それでは——昼寝と研究と、おいしいスコーンに。乾杯」
「乾杯ですわ♪」
カップが触れ合い、静かな澄んだ音が秋空へ溶けていく。
その時、ロベールが「お嬢様、最後に一行だけ!」と駆け寄った。
「来期の予算枠だけ、ご確認を……」
「……はいはい。見るだけ見ますわね」
シャルは決算書を斜め読みし、ペンで「昼寝基金」と書かれた欄に二重丸を付けた。
「以上。——さて、スコーンが冷めますわ」
「あ、ありがとうございました……」
ロベールが涙目で去っていくのを見送り、シャルはふうっと息をつく。
眼下の草原では、子どもたちが歌い、領民が踊り、ピエールが酔客にワインを振る舞っている。
夕陽がぶどう畑の彼方に沈む頃、テラスのランプに灯が入り、琥珀色の光が二人と三匹の猫を包んだ。
シャルは膝上の猫を撫で、そっと微笑む。
> 世界は今日も勝手に転がる。
> ならば私は、好きなだけ昼寝して、好きなだけ甘い物を作り、
> ときどき愛しい人とティーカップを鳴らせばいい。
カップをソーサーに戻す小さな音。
その余韻の中で、丘の上の“午後の雲”は静かに揺れ、秋の夜風がカーテンをふわりと膨らませた。
そして怠惰令嬢シャル・ド・ネ・アルベールは、満ち足りた瞳で星空を見上げ、そっと呟く。
「おやすみなさい、世界。——明日もおいしい昼寝ができますように」
とはいえ足取りが遅いのは緊張ゆえではない。単に「朝食を食べ過ぎて少し眠い」からだ。彼女は欠伸を噛み殺しながら、腕に抱えた菓子箱を見下ろした。
「王宮のティーセットは一流ですけれど、お茶請けはイマイチですのよね。今日はわたくし特製“雲シフォン”で補強いたしますわ」
同行する侍女長マルグリットは、主君のマイペースぶりに半ば諦めの笑みを浮かべる。
――今朝、国王直々の召喚状が届いた。内容は“勲章授与と功績表彰”。通常なら正装で早馬を飛ばすところだが、シャルは「表彰式は午後。午前は睡眠確保」と決め込み、昼までしっかり惰眠をむさぼってから出発したのである。
◆ ◆ ◆
謁見の間。
金糸のタペストリーとステンドグラスが陽光を受け、虹色の斑を床に落としている。
玉座の前で跪くシャルに、国王グスタフ三世が慈父のような笑みを向けた。
「公爵令嬢シャル・ド・ネ・アルベールよ。そなたの領地改革と慈善活動は、王国に多大なる恩恵をもたらした。ここに“金麦穂大勲章”を授与する」
近衛騎士がクッションに載せた勲章を捧げ持つ。シャルは「ありがとうございますわ」と頭を垂れ、胸元に輝く金色の麦穂を眺めた。
――でも正直、重量感で肩が凝りそう。昼寝の邪魔にならないかしら。そんなことを考えていると、王妃エリザベートが一歩前へ出た。
「そしてこちらは私からのささやかな贈り物。あなたの葡萄ジュースを、正式に“王宮公式飲料”と認定します。妊婦も子どもも楽しめる品を作ってくれてありがとう」
王妃がそっと手を差し伸べる。シャルは戸惑いながらも握り返し、柔らかな微笑を返した。
会場の貴族たちが拍手する中、国王が声を潜めて続ける。
「王太子との一件では苦労をかけたな。……あやつも自業自得、反省しておる。そなたの自由は尊重するが、いずれは我が王家以外にも良き縁談があるやもしれん。心に留めておいてくれればそれで良い」
つまり「息子は諦めたけど、君は国の宝だから味方だよ」という遠回しのエールらしい。
シャルは涼しい顔で頷いた。
「ええ、良きご縁があれば前向きに検討いたしますわ。――昼寝時間を侵害しない相手でしたら」
玉座後ろで控えていた侍従が咳を噴き出す。国王は目を瞬かせ、やがて腹の底から笑った。
「ははは! そなたらしい。よかろう、ティータイムを邪魔せぬ者を探すとしよう」
◆ ◆ ◆
表彰式の後、王宮庭園のティーテラス。
秋薔薇が咲き誇り、噴水の水音が涼やかに響く。シャルは持参した菓子箱を開け、雲のようにふわふわのシフォンケーキを皿に載せた。
「お口に合うと良いのですけれど」
王妃がフォークでひと切れ掬い、唇に運ぶ。瞬間、瞳がとろんと緩んだ。
「まぁ……本当に雲みたい。軽やかなのに卵のコクがしっかり。ベルガモットの香りも……!」
給仕長が慌ててメモを取り、次いで国王も大口で頬張る。
「うむ、頬が落ちそうだ。これを宮廷晩餐のデザートに採用したいが、良いか?」
「レシピをお渡ししますわ。でも作り手の腕が大事ですから、厨房の皆さまに頑張っていただかなくては」
“頑張らない”が座右の銘の令嬢が、他人にはサラリと頑張りを要求する。給仕長は「精進いたします……!」と震えた。
テーブルの向こうでは、庭師の少年がジュース瓶を運んでいる。陽光に透ける紫が宝石のようだ。シャルは一口すすり、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで陛下、午後五時には領地に戻りたいのですが――猫の晩ごはん当番がありますの。表敬訪問は何時頃までかしら?」
国王は椅子の背でもたれ、肩をすくめた。
「そなたのスケジュールが第一だ。……ティーが冷めたら帰るがよい」
「ありがとうございますわ。では遠慮なく」
シャルはカップを傾け、深く香りを吸い込む。王妃が楽しげに微笑み、侍女たちが追加の菓子を並べる。
秋風が薔薇の香りを運び、テラスはほんのり甘い空気に包まれた。
◆ ◆ ◆
その後、シャルは予定通り夕刻前に王宮を辞した。
馬車が城門を出る頃、彼女は窓から王都の街並みを眺め、ふわぁと欠伸を漏らす。
「表彰式もティータイムも堪能しましたし……帰ったら仮眠ですわね」
対面席のマルグリットが苦笑する。
「お嬢様、本日だけで勲章と王家公認の称号を二つも――」
「でも一番の収穫は、王妃がシフォンを気に入ってくださったことですわ。あれで厨房もますます張り切るでしょうし、わたくしのティータイムが充実しますもの」
やはり最優先は自分の“おやつと昼寝”。
馬車の揺れが子守歌となり、シャルはコクリと船を漕ぎ始めた。マルグリットはそっと膝掛けを掛け、外の夕焼け空を見上げる。
――国王の厚遇も、王妃の信頼も、彼女にとっては“おいしいスコーンのおまけ”くらいの軽さなのだろう。
だが、その軽やかさこそが周囲を救い、国まで動かす。
アルベール領の怠惰令嬢は、今日もまた自由気ままに微笑みながら、理想の未来へ歩みを進めていた。
王都の朝は、秋晴れの空を渡る雁の列とともに始まった。けれど公爵令嬢シャル・ド・ネ・アルベールの一日は、まだ羽根布団の中でくるまれたまま——。
「お嬢様、朝でございます」
「やめて……今、雲になって浮かんでいるところなの……」
侍女長マルグリットの必死の声も、ふわふわ夢心地の前には無力だ。
だが「国王陛下より至急の召喚状です!」という一言で、シャルは片目だけ開けた。枕元に差し出された巻紙には、真紅の王印が燦然と輝いている。
「……午後一時の謁見? ならば十二時起床で間に合いますわね」
「い、いえ、通常は午前中に王宮へ——」
「“通常”と“わたくし”は両立しませんのよ、マルグリット」
結局、召喚状が届いた当日の午前は“睡眠確保”に費やされ、出立は正午きっかり。寝起き十五分で結ったゆるふわシニヨン、淡桃色のドレス、その胸元には「目立たぬ程度に」と言いつつ収穫祭でもらった花のブローチ——本人は“省エネ正装”のつもりだが、街道を行く馬車の窓から見える庶民は目を奪われ、手を振っていた。
* * *
白亜の王宮に到着すると、第一侍従が駆け寄り深々と礼を取った。
「公爵令嬢、玉座の間へご案内いたします」
「その前に控室でティーを一杯所望しますわ。空腹で倒れては陛下に失礼ですもの」
侍従が目を白黒させる間に、シャルは自作の菓子箱を開封。雲のように軽いシフォンケーキが、ふわりと甘い香りを放った。控室の給仕たちは“自家製おやつを持ち込む来賓”など初めてで戸惑うが、シャルは気にしない。
「ふむ、王宮のダージリンは相変わらず温度管理が完璧ですわね」
「恐れ入ります……あの、もしよろしければ、そのお菓子を少々——」
「いいですわよ。材料費は王家持ちで♪」
給仕が慌てて礼を言いながら一切れ口に運ぶ。瞬間、目を丸くして「雲……?」と呟く様子に、シャルは満足げに微笑んだ。
* * *
謁見の間。ステンドグラスを通した陽光が虹の絨毯を敷き、玉座の背後に黄金の翼を描く。
国王グスタフ三世は威厳ある佇まいで立ち上がり、王妃エリザベートは柔らかな微笑で迎えた。列席の貴族たちの視線が一斉にシャルへ注がれるが、当の本人は「お昼寝前の伸び」をしたいのを堪えて優雅に一礼する。
「公爵令嬢シャル・ド・ネ・アルベール——その功績はもはや領内にとどまらず、王国全土に恩恵をもたらした。ここに“金麦穂大勲章”を授与する」
近衛騎士が差し出すクッションの上で、黄金の麦穂が太陽を弾いた。シャルは「肩こりの原因になりそうですわ」と心中で嘆きつつも、笑顔で受章。続けて王妃が進み出る。
「あなたの葡萄ジュースは妊婦や子どもだけでなく、高齢の方々にも好評です。よって本日より“王宮公式飲料”として採用しますわ」
周囲がざわついた。王室御用達どころか“公式”とは前例がない。けれどシャルは軽く首を傾げるだけ。
「ありがとうございます。では納品書は後ほどロベールから——」
国王が思わず咳払いで笑いを噛み殺し、列席者にもくすくすと笑いが広がった。
さらに国王は声を潜め、近くまでシャルを招く。
「王太子の件では……済まぬことをした。そなたの自由を尊重するが、王家は常に味方と心得よ」
「お気遣い痛み入りますわ。自由が最優先ですので、昼寝を侵害しない範囲であれば味方と存じます」
国王は腹の底から愉快そうに笑い、側近たちが頭を抱えた。
* * *
式後、王宮庭園の特設ティーテラスへ。
秋薔薇とハーブが香る中、王妃が興味津々で菓子箱を覗き込む。
「先ほどのシフォンが忘れられなくて。作り方を——」
「王妃様、自分で焼くのは大変ですわ。厨房にコツを伝えますので、わたくしは試食係として招いてくだされば」
「それは名案ですわ!」
給仕長が青ざめる一方、国王はさっそく二切れ目に手を伸ばしながら尋ねた。
「シャル、将来の縁談はどう考える?」
「そうですわね……“朝寝坊を尊重し、午後ティーに同席できる人”が条件でしょうか」
「うむ、なかなか難題だが探してみよう」
そのやりとりに王妃が笑い、薔薇の花弁が風に舞った。陽射しが黄金色に傾き始めた頃、シャルはカップを置き、王家に礼を述べる。
「陛下、王妃様。本日は楽しいティータイムをありがとうございました。猫の晩ごはん当番がありますので、そろそろ失礼いたしますわ」
国王が「猫が王命に勝るか」と茶目っ気たっぷりに問えば、シャルは即答する。
「当然ですわ」
* * *
馬車が王宮を離れると、シャルは窓辺にもたれ、頬杖をついた。
「勲章よりシフォンを褒められた方が嬉しかったですわね」
マルグリットが呆れと尊敬の入り混じった溜息を漏らす。
「お嬢様は本当にブレません……。ところで次の予定は?」
「帰宅したら仮眠、その後は新作スコーンの試食会ですわ」
「かしこまりました」
夕焼けが王都の屋根を朱に染める。
国王の厚遇も、王妃の賛辞も、怠惰令嬢にとっては“おいしいお茶請け”が増える前触れに過ぎない。
けれど、その何気ない欲望が領地を潤し、王国をも豊かにすることを——馬車を引く御者も、街角で手を振る市民も、誰もが知っている。
シャルは欠伸をひとつ。
「……帰ったら三十分だけ、本気で昼寝しますわ」
そして彼女の瞼が静かに落ちる。
その寝顔を乗せた馬車が、秋風の大通りをゆったりと進んでいく間、王都の人々は微笑みとともに頭を垂れた。
“自由で怠惰な救世主”に——ほんの少し遅めの、午後の礼を。
秋も深まり、アルベール公爵邸の温室には早咲きのクリスマスローズがほころび始めていた。
ガラス越しの淡い陽光を浴びながら、シャル・ド・ネ・アルベールはティーワゴンを前に優雅に腰掛けている。テーブルクロスの上には、焼きたてスコーンとクロテッドクリーム、そして今日のお試し菓子“ほうじ茶フィナンシェ”。
「さて、本日の面接を始めますわ」
向かいの椅子で背筋を伸ばした青年が、少しだけ喉を鳴らした。
灰銀の髪に薄縁眼鏡、上質ながら飾り気のないインディゴのスーツ。隣国ゼルヴァルト公爵家の次男——ユーリス・フォン・ゼルヴァルト。二十四歳。専門は魔導鉱石の研究で、学会では“引きこもりの天才”と呼ばれる男である。
「お招きにあずかり光栄です、公爵令嬢」
「こちらこそ。遠路はるばる“白い結婚”を前提にいらしたとか。まずは自己PRをどうぞ」
「自己PR……?」
ユーリスは戸惑いながらも、小さく咳払いをした。
「私は研究に人生の八割を捧げておりまして、社交より実験室を好みます。結婚後も互いの生活を干渉せず、必要な時にだけ協力し合う関係が理想です」
「ふむふむ。具体的には?」
「週に一度、もしくは二週間に一度、夕食を共にする程度でいかがかと」
「それ以外は?」
「私は研究所に籠もり、あなたは……ええと、昼寝を?」
「正解ですわ♪」
シャルが満足げに手を叩くと、温室のガラスに映った陽光がキラリと弾けた。侍女長マルグリットは遠巻きにハラハラ見守り、執事ジャンは記録用のノートを広げる。
「では質問タイムに入りますわ。第一問。——朝寝坊をどこまで許容できますか?」
「上限は設けません。私も実験の徹夜で昼まで寝ていることが多いので」
「合格。第二問。猫はお好き?」
「……犬派でしたが、研究所に迷い込んだ子猫を保護したら愛らしくて。今では膝の上が定位置です」
「合格! 第三問。午後三時のティータイムに合わせて帰宅できる?」
「魔導鉱石の臨界試験がなければ。もし外せない実験なら、代わりに試作スコーンのデータを送っていただければコメントを返します」
「むしろ優秀! 最終質問——昼寝用ハンモックの共用は可?」
「耐荷重さえ問題なければ」
シャルはくるりと椅子を回転させ、マルグリットとジャンにウインクした。
「どうやら理想の相手が見つかりましたわ」
ユーリスが目を瞬く。
「それは……つまり?」
「はい、お受けします。“白い結婚”成立ですわ」
* * *
とんとん拍子で話が進む中、温室の隅でロベール管理官が書類を抱えて青ざめていた。
「お、お嬢様! 財産契約や領地運営の調整が——」
「後でいいですわ。まずは祝杯。ユーリス様、ジュースかワイン、どちらを?」
「昼間なのでジュースで」
シャルは笑みを深め、真空濃縮の葡萄ジュースを二つのグラスに注ぐ。琥珀の光が揺れ、ほの甘い香りが温室に満ちた。
「乾杯の前に、念のため確認ですわ」
「なんでしょう」
「週一ティータイムの曜日は、土曜午後固定で?」
「異議なし」
「急な仕事で来られない場合は?」
「代替として研究成果の面白い失敗談を手紙で送ります」
「素晴らしい!」
グラスが軽く触れ合い、澄んだ音が響く。
「それでは——怠惰と研究に敬意を表して、乾杯ですわ」
「乾杯」
葡萄の芳香が喉を滑り、二人の表情がほころぶ。
シャルは椅子の背にもたれ、ゆるりと足を組んだ。
「ユーリス様、あなたの研究は魔導鉱石の“共振”現象でしたかしら?」
「ええ。低周波で魔力効率を三割向上させる試みです」
「三割……ワインの発酵にも応用できそうですわね。樽の中で音波を——」
「なんと面白い発想だ!」
学者の目が輝き、怠惰令嬢の瞳もきらり。
「では来週のティータイムは、音波発酵の試験設計をテーマにしましょう。——もちろん昼寝後に」
「喜んで」
* * *
数刻後。
書斎に戻ったシャルは、ジャンが用意した仮契約書にサラサラと署名した。
【互いの生活を尊重し、干渉は最小限】【昼寝・研究時間の確保を最優先】【ティータイムをもって愛情確認とする】——常識外れの条文に、ロベールは頭を抱えながらも「これぞアルベール家」と感嘆するしかない。
「マルグリット、ハンモックの追加発注を」
「かしこまりました。耐荷重は?」
「二人+猫三匹ぶんで」
窓の外では夕陽が葡萄畑を黄金に染めている。
シャルは羽根ペンを置き、ふわりと欠伸。
「やっぱり契約仕事は疲れますわね。——少し昼寝を」
「もう夕方ですけれど……」
「昼寝に時間帯は関係ありませんわ♪」
クッションに埋もれたシャルの頬には、満足そうな赤み。
理想のパートナーを得ても、彼女の日常は変わらない。
だが“干渉しない愛”という新しい調味料が加わり、これからのティータイムはきっと、もっと甘く、もっと自由に香るだろう。
そして温室の外で、ユーリスは自作の手帳にこうメモしていた。
《毎週土曜——ティータイム。備考:昼寝尊重。菓子レシピ要研究》
天才研究者と怠惰令嬢。
この奇妙に噛み合った歯車が、やがて新たな発明と極上スイーツを生み、王国の胃袋を再び震撼させることになる——その事実を、当人たちはまだ知らない。
アルベール領の北丘陵──ぶどう畑を一望する小高い草原に、白壁と青い尖塔のコテージが完成した。
看板には金文字でこう刻まれている。
> “午後の雲” ──昼寝専用別荘
建設費はワインとジュースの今期利益の一部。設計図はシャル・ド・ネ・アルベール自らが「ふかふかベッド八割、キッチン一割、書斎ゼロ割」で描いたものだ。
今日はその完成祝い。初秋の陽射しの下、丘の斜面にレースクロスを敷き、即席ピクニックが開かれていた。
「焼き栗パイ追加でーす!」
老醸造家ピエールが汗を拭きつつ皿を運べば、領民の子どもたちが歓声を上げる。
「ジュースおかわりある?」
「はいはい、泡立てたミルク入りの特別版よ」
侍女長マルグリットが給仕すれば、紫の液面に真っ白な泡が花咲いた。
そして、丘の頂上。
昼寝用ハンモック──耐荷重「大人二名+猫三匹」仕様──に揺られているのは、もちろんシャルである。
隣では、先日“白い結婚”が成立したユーリス・フォン・ゼルヴァルトが研究ノートを開き、魔導鉱石の最新データを記していた。
「揺れながら字を書くのは難しいな」
「昼寝を優先して寝転んで書けばよろしいのに」
「それでは君のスペースが……」
「ハンモックはシェアするためにあるのですわ♪」
ふわりと吹いた風が、二人の髪を揺らす。遠くでぶどうの葉が金緑色に光り、足元の草むらでは子猫が転げ回っている。
ユーリスがペンを置き、ひとつ欠伸をした。
「……確かに、研究の合間にこうして空を眺めるのも悪くない」
「で しょう? 怠惰は発想の母ですもの」
「それを聞いて安心した。次の実験は“低周波発酵”だが、寝ながら監視できる仕組みを考えよう」
「それは名案!」
笑い合う二人の下で、管理官ロベールが決算書を手に右往左往している。
「お嬢様ー! 今年度の最終利益が確定しましてー!」
だがハンモックから返ってくるのは、のびやかな返事だけ。
「聞こえませーん♪ 数字は明日でーす」
「ま、またですか……」
肩を落とすロベールの背に、ピエールが焼き栗パイを差し出した。
「まあまあ、甘い物でも。お嬢様の“頑張らない主義”のおかげで、わしらは飯がうまい」
「……確かに」
領民代表の少女ミレイユが花冠を掲げ、シャルのもとへ駆けてきた。
「シャル様! 新しいシフォン、すっごくふわふわで雲みたい!」
「ありがとう。じゃあ雲みたいに軽い抱っこ、して差し上げましょうか」
「きゃー!」
ハンモックから降りたシャルがミレイユをひょいと抱き上げると、周りの子どもたちも「私も!」「僕も!」と列を作る。
「体力が尽きる前に並びなさいませよー」
笑い声が風に乗り、丘の上に弾けた。
ひとしきり遊んだ後、シャルはコテージのテラスに戻り、ティーポットを傾けた。琥珀の液体がカップに満ちると同時に、猫たちが足元へ集まって喉を鳴らす。
ユーリスも隣に座り、研究ノートを閉じる。
「……やっぱり土曜のティータイムはいいものだ」
「でしょ? では乾杯の音頭をお願いしますわ」
「え、僕が?」
「共同オーナーですもの」
ユーリスは少し照れながらカップを掲げる。
「それでは——昼寝と研究と、おいしいスコーンに。乾杯」
「乾杯ですわ♪」
カップが触れ合い、静かな澄んだ音が秋空へ溶けていく。
その時、ロベールが「お嬢様、最後に一行だけ!」と駆け寄った。
「来期の予算枠だけ、ご確認を……」
「……はいはい。見るだけ見ますわね」
シャルは決算書を斜め読みし、ペンで「昼寝基金」と書かれた欄に二重丸を付けた。
「以上。——さて、スコーンが冷めますわ」
「あ、ありがとうございました……」
ロベールが涙目で去っていくのを見送り、シャルはふうっと息をつく。
眼下の草原では、子どもたちが歌い、領民が踊り、ピエールが酔客にワインを振る舞っている。
夕陽がぶどう畑の彼方に沈む頃、テラスのランプに灯が入り、琥珀色の光が二人と三匹の猫を包んだ。
シャルは膝上の猫を撫で、そっと微笑む。
> 世界は今日も勝手に転がる。
> ならば私は、好きなだけ昼寝して、好きなだけ甘い物を作り、
> ときどき愛しい人とティーカップを鳴らせばいい。
カップをソーサーに戻す小さな音。
その余韻の中で、丘の上の“午後の雲”は静かに揺れ、秋の夜風がカーテンをふわりと膨らませた。
そして怠惰令嬢シャル・ド・ネ・アルベールは、満ち足りた瞳で星空を見上げ、そっと呟く。
「おやすみなさい、世界。——明日もおいしい昼寝ができますように」
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