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第2章 閉ざせぬ扉とささやかな光
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■宿での新たな日々と広がる噂
宿に戻ると、すでに日が暮れかけている。アルタリアは荷物を厨房に運び込みながらエルダに買ってきた物を報告する。エルダは黙々と検品をして、「あら、ここはもう少し安くなったはずよ」と口を尖らせる場面もあったが、総じて合格点をくれた。
「はい、これからもっと交渉の勉強をします……すみません」
「いいのよ。最初にしては上出来。明日はもうちょっと安く買ってきてもらうわよ」
軽口を叩かれながらも、エルダはどこか楽しげだった。厨房に食材を収め終わると、アルタリアは次の仕事として自室の掃除に取りかかる。といっても、自室と言っていいのか悩むほど簡素な部屋だが、それでも屋根の下で眠れることは有難い。買った洗浄草を使って床を拭き、窓を開け放って空気を入れ替えると、気分まで清々しくなる。
宿の夕食時には客が集まり、アルタリアは配膳を手伝う。テーブルを回り、注文を取り、エルダが作る煮込み料理やパンを運んでいく。まだ接客に慣れない彼女だが、客たちからは「かわいらしい子だな」「最近入ったのか?」と声がかかることも少なくない。王都から流れた噂を知っている者がこの場にいる様子はないが、いつ情報が入り込むかわからない。気を許しすぎてはいけないと、アルタリアは自制する。
だが、街全体の噂として、王都での“大事件”が話題に上ることは日常茶飯事だ。たとえば、こんな話が聞こえてくる。
「いやあ、聞いたか? 第二王子の婚約が白紙になって、相手は追放同然でどこかに逃げたらしいぞ」
「しかも、王子は最近“聖女”を名乗る娘と一緒に各地の寺院を巡っているそうだ。やっぱり聖女様は凄いって話だな。奇跡を見せたっていう噂だぞ」
食堂の片隅で談笑する商人たちの会話に、アルタリアは耳を塞ぎたくなる思いだった。過去の自分と、国中を賑わす“聖女”の存在。あまりにも苦い記憶を呼び起こす単語が並び、胸が軋む。しかし、ここで取り乱しては正体を疑われる可能性もある。彼女は必死に表情を崩さぬよう、黙々と皿を下げるだけだった。
(エリオット殿下は新しい聖女とともに行動しているのね……。わたしなんか、もう眼中にもないでしょう。いや、それでいい。どうせ彼らはわたしを捨てたのだから)
煮え切らない感情を心の奥へ押し込め、アルタリアはただ、今与えられた業務を淡々とこなす。愛したとは言い難くとも、自分を支え合う相手だと信じていた人間に捨てられるのは、やはりつらいものだ。追放という事実がそれを否応なく思い出させてくる。
だが、ここで嘆いていても仕方がない。真実を知らない周囲の人々の噂話に、いちいち動揺しては生きていけない。
■仕事を終えて
夜が更け、客がそれぞれ部屋に落ち着いてから、アルタリアもようやく休憩を取ることができた。食堂の片隅で冷めかけたスープとパンを食べ、時折マルコが声をかけてくれる。
「今日もお疲れさま、アルタリア。ずいぶん慣れてきたみたいだね」
アルタリアはふっと微笑む。実際、自分でも少しずつ要領をつかんできたと感じる。客に気配りをするポイントや、厨房の動きを乱さずに動く方法など、注意すべき点は山ほどあるが、それでも最初の日々よりずっとスムーズに動けている。
「はい。皆さんに助けられてばかりですけど、なんとかやっています。明日もよろしくお願いします」
「こちらこそ頼むよ。そうだ、買い出しのとき困らないように、もっと町の地理を覚えたらいい。休みの日があれば、一緒に回って教えてあげようか?」
マルコは宿の若い店主として忙しい身だが、好意的にいろいろ教えてくれる。アルタリアはありがたい申し出に軽く頷いた。
「ぜひお願いします。でも、わたしはここで働かせてもらってるだけなので……あまり負担をかけてしまっては……」
「気にしないで。今のうちに町を知ってもらった方が、宿としても助かるからさ。じゃあ、近々時間を作るから声をかけるよ」
そんな話をしながら食事を終えると、アルタリアはそっと自室に戻った。腰を下ろして、改めて自分の足や腕の疲労を確かめる。慣れない肉体労働が続くせいか、脛から太腿まで鈍い痛みがある。手のひらにも微かに水ぶくれができかけていた。
けれど、その痛みこそが“生きている”という実感をもたらしていた。貴族令嬢として過保護に暮らしていたころは感じることのなかった、自分自身の身体と心の限界。今、彼女はそれを乗り越えようとしている。
部屋の隅にある洗面台で顔を洗い、鏡を覗く。明かりは薄暗いが、そこに映る自分の姿は一皮むけてきたようにも見える。
(しっかりしないと……。いつか、あの人たちに“ざまあ見ろ”と言える日まで、わたしは生き抜くんだ)
エリオットや聖女と呼ばれる娘、そして裏切った伯爵家の周囲の者たち……アルタリアは想いを断ち切るように目を閉じる。これは復讐心というよりも、自分自身への誓いに近い。二度と誰かの都合で振り回される人生には戻らない。そのために、アルタリアは今できることを着実にこなしていくしかないのだ。
宿に戻ると、すでに日が暮れかけている。アルタリアは荷物を厨房に運び込みながらエルダに買ってきた物を報告する。エルダは黙々と検品をして、「あら、ここはもう少し安くなったはずよ」と口を尖らせる場面もあったが、総じて合格点をくれた。
「はい、これからもっと交渉の勉強をします……すみません」
「いいのよ。最初にしては上出来。明日はもうちょっと安く買ってきてもらうわよ」
軽口を叩かれながらも、エルダはどこか楽しげだった。厨房に食材を収め終わると、アルタリアは次の仕事として自室の掃除に取りかかる。といっても、自室と言っていいのか悩むほど簡素な部屋だが、それでも屋根の下で眠れることは有難い。買った洗浄草を使って床を拭き、窓を開け放って空気を入れ替えると、気分まで清々しくなる。
宿の夕食時には客が集まり、アルタリアは配膳を手伝う。テーブルを回り、注文を取り、エルダが作る煮込み料理やパンを運んでいく。まだ接客に慣れない彼女だが、客たちからは「かわいらしい子だな」「最近入ったのか?」と声がかかることも少なくない。王都から流れた噂を知っている者がこの場にいる様子はないが、いつ情報が入り込むかわからない。気を許しすぎてはいけないと、アルタリアは自制する。
だが、街全体の噂として、王都での“大事件”が話題に上ることは日常茶飯事だ。たとえば、こんな話が聞こえてくる。
「いやあ、聞いたか? 第二王子の婚約が白紙になって、相手は追放同然でどこかに逃げたらしいぞ」
「しかも、王子は最近“聖女”を名乗る娘と一緒に各地の寺院を巡っているそうだ。やっぱり聖女様は凄いって話だな。奇跡を見せたっていう噂だぞ」
食堂の片隅で談笑する商人たちの会話に、アルタリアは耳を塞ぎたくなる思いだった。過去の自分と、国中を賑わす“聖女”の存在。あまりにも苦い記憶を呼び起こす単語が並び、胸が軋む。しかし、ここで取り乱しては正体を疑われる可能性もある。彼女は必死に表情を崩さぬよう、黙々と皿を下げるだけだった。
(エリオット殿下は新しい聖女とともに行動しているのね……。わたしなんか、もう眼中にもないでしょう。いや、それでいい。どうせ彼らはわたしを捨てたのだから)
煮え切らない感情を心の奥へ押し込め、アルタリアはただ、今与えられた業務を淡々とこなす。愛したとは言い難くとも、自分を支え合う相手だと信じていた人間に捨てられるのは、やはりつらいものだ。追放という事実がそれを否応なく思い出させてくる。
だが、ここで嘆いていても仕方がない。真実を知らない周囲の人々の噂話に、いちいち動揺しては生きていけない。
■仕事を終えて
夜が更け、客がそれぞれ部屋に落ち着いてから、アルタリアもようやく休憩を取ることができた。食堂の片隅で冷めかけたスープとパンを食べ、時折マルコが声をかけてくれる。
「今日もお疲れさま、アルタリア。ずいぶん慣れてきたみたいだね」
アルタリアはふっと微笑む。実際、自分でも少しずつ要領をつかんできたと感じる。客に気配りをするポイントや、厨房の動きを乱さずに動く方法など、注意すべき点は山ほどあるが、それでも最初の日々よりずっとスムーズに動けている。
「はい。皆さんに助けられてばかりですけど、なんとかやっています。明日もよろしくお願いします」
「こちらこそ頼むよ。そうだ、買い出しのとき困らないように、もっと町の地理を覚えたらいい。休みの日があれば、一緒に回って教えてあげようか?」
マルコは宿の若い店主として忙しい身だが、好意的にいろいろ教えてくれる。アルタリアはありがたい申し出に軽く頷いた。
「ぜひお願いします。でも、わたしはここで働かせてもらってるだけなので……あまり負担をかけてしまっては……」
「気にしないで。今のうちに町を知ってもらった方が、宿としても助かるからさ。じゃあ、近々時間を作るから声をかけるよ」
そんな話をしながら食事を終えると、アルタリアはそっと自室に戻った。腰を下ろして、改めて自分の足や腕の疲労を確かめる。慣れない肉体労働が続くせいか、脛から太腿まで鈍い痛みがある。手のひらにも微かに水ぶくれができかけていた。
けれど、その痛みこそが“生きている”という実感をもたらしていた。貴族令嬢として過保護に暮らしていたころは感じることのなかった、自分自身の身体と心の限界。今、彼女はそれを乗り越えようとしている。
部屋の隅にある洗面台で顔を洗い、鏡を覗く。明かりは薄暗いが、そこに映る自分の姿は一皮むけてきたようにも見える。
(しっかりしないと……。いつか、あの人たちに“ざまあ見ろ”と言える日まで、わたしは生き抜くんだ)
エリオットや聖女と呼ばれる娘、そして裏切った伯爵家の周囲の者たち……アルタリアは想いを断ち切るように目を閉じる。これは復讐心というよりも、自分自身への誓いに近い。二度と誰かの都合で振り回される人生には戻らない。そのために、アルタリアは今できることを着実にこなしていくしかないのだ。
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