忘れられた薔薇が咲くとき

鍛高譚

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第2章 閉ざせぬ扉とささやかな光

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■再訪する影

 その夜。宿の廊下はすでに消灯され、客たちも各部屋で寝静まっている。アルタリアはベッドで横になり、疲れた身体を休めようとしていた。ふと、昼間にレオナードと市場で出会った光景が思い出される。あの鋭い眼差しは何を意味していたのか。自分が貴族出身であると勘づいているのか、それとも別の目的があるのか。
 何より、彼はどうしてあんなに自然に剣を帯びているのだろう。普通の旅人や商人なら、護身用の短剣こそ持っていても、あれほど本格的な剣を常に携行している者は少ない。どこかで軍隊経験があるのか、王家に関わる特殊な職務でも請け負っているのか――想像が尽きない。
(もし、王宮からの密偵だったりしたら……)
 そんな不安が頭をかすめる。しかし確証はないし、彼の態度からは“敵意”までは感じ取れなかった。むしろ余計なお世話を焼いてくれる優しさが見て取れたほどだ。けれど、この世界では“優しさ”を装って近づき、情報を得ようとする人間もいる。決して油断してはならない――アルタリアはそう自分に強く言い聞かせる。

 やがて、まぶたが重くなり始め、意識が遠のきかけたとき、かすかに廊下で人の動く気配がした。何者かが足音をしのばせているのか、妙にゆっくりとした足取りが聞こえる。客が夜中にトイレに立ったのかもしれないが、どこか落ち着かない胸騒ぎを覚えた。
 一度は気のせいだろうと目を閉じたが、どうにも眠りに入れない。アルタリアはふっとベッドから起き上がり、耳を澄ませる。小さな物音が続いたかと思うと、何やら戸を開けるような音がきしむ。宿の中で物色をする不審者がいるのでは――そんな疑念がわきあがる。
 もし盗賊かならず者が潜り込んでいたらどうしよう。アルタリアは恐怖に喉が渇くような感覚を覚えるが、ここで怯えていては何も解決しない。宿の安全は自分だけでなく、他の客や従業員たちの生命にも関わる。
 彼女は決意を固め、そっと扉を開けた。極力物音を立てないよう注意しながら廊下に出ると、薄暗い明かりの中、確かに何者かの人影が見えた。小柄な体つきでフードを被り、宿の部屋のドアノブを静かに回している。まるで施錠の甘い部屋を探しているかのようだ。
(まずい……どうすれば。マルコさんかエルダさんを呼んだ方が――)
 そう考えていると、ふと人影が振り返った。息が止まるほどの緊張が走るが、相手もまたこちらを見て固まったようだ。互いに沈黙のまま、わずか数秒のにらみ合いが続く。
 先に動いたのは相手だった。何か言葉を発するでもなく、ギラリと光る短剣を取り出し、こちらに向けて身構える。
「……っ!」
 アルタリアは悲鳴を上げそうになるが、かろうじて唇を噛んでこらえる。こんな夜中に大声を出せば客室にも迷惑がかかるし、相手を刺激する可能性も高い。だが、どうする――このままでは殺されかねない! そう思った瞬間、人影がこちらに駆け出してきた。
 咄嗟に逃げようとするも、廊下は狭くて思うように動けない。あわや短剣が届く、というところで――
「動くな!」
 鋭い声が響いた。続いて、何かが風を切り、フードの男の腕から短剣が弾き飛ばされる音がした。男は「ぐっ……」とうめき、床にひれ伏す。驚きのあまり、アルタリアは視線を巡らせる。そこにいたのは、まさかの人物――レオナードだった。
 彼は一瞬で男を取り押さえ、うつ伏せの状態にして腕を背中へねじ上げる。短剣は廊下に転がり、鈍く光を放っていた。フードを剥ぎ取ると、男は痩せこけた青年で、焦りと怒りが混ざった表情を浮かべている。
「盗賊か? おまえ、この宿で何をするつもりだった?」
「くそっ、離せ!」
 青年は必死にもがくが、レオナードの圧倒的な力の前ではどうにもならない。そこへマルコや他の客たちが気づき、明かりを手に廊下へ集まってきた。
「何だ何だ、騒がしいぞ……」
「泥棒か?」
 ざわめきが広がる中、レオナードは無言で男を押さえ込んだまま、アルタリアに視線を向ける。彼女は息を切らしながら、恐怖と安堵が入り混じった複雑な表情でうなずいた。
「ありがとう……また助けられました……」
「気にするな。偶然、仕事の関係でこの辺りを見回ってたんだ。まさかこんなところで会うとは思わなかったが……おまえさん、危ないところだったな」
 そう言って、レオナードは男の腕をさらに力強く押さえた。カチャリと金属音がして、彼は懐から何か鎖のようなものを取り出し、男の手首を拘束する。
「俺はこの町の領主代行から“最近宿泊客を狙う盗みが横行しているから、捕まえてほしい”と依頼されていた。まさかおまえさんの宿に現れるとはな」

 その場で男の身元を調べようとしたが、彼は口を噤み、逃げようとして暴れるばかり。マルコは衛兵を呼びに走り、ほどなくして駆けつけた兵士に男を引き渡すことになった。
 こうして宿の危機は回避され、他の客たちも床に戻っていく。アルタリアの胸には、またしてもレオナードに助けられたという事実が深く刻みつけられた。
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