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第一章:冷たい婚礼
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しおりを挟む白いレースのカーテンから差し込む朝の陽光が、部屋の中を淡く照らしていた。周囲を飾る花々や貴石を散りばめた調度品は、まるで豪華な舞台装置のように静まり返っている。その中心に立つのは、一人の少女――アスカ。
彼女は大きな姿見の前でじっと自分を見つめていた。長い黒髪は丁寧に結い上げられ、肌を覆う純白のドレスは抜けるように眩しい。だが、その瞳には不安と諦念が混ざり合った色が宿っている。まるで、これから迎える未来が自分のものではないと悟っているかのように。
ドレスの裾を微かに揺らしながら、アスカはふと、小さく息をついた。豪奢な花嫁衣装を与えられたのは、決して彼女の望みが叶ったからではない。むしろ望みなど、とうの昔に捨て去ってしまった。生まれ落ちた家が貴族である以上、女性が担う役割はほとんど限られている。ましてや彼女の家――リュミエール侯爵家は、その名声と財力を保つためにあらゆる手段を惜しまない家柄として知られていた。
結婚。政略結婚。個人の意志など一顧だにされない取引。
アスカにとっては、ここ数カ月、否、幼少の頃からの教育を含めれば十数年にわたる「花嫁修業」と呼ばれる押し付けが、そのままこの日へと集約されているように感じられた。愛など存在しない。あるのはただ、家同士の打算と駆け引きで結ばれる契約だけだ。
コツン、コツン、と控えめに扉が叩かれる音がして、侍女のリディアが顔を覗かせた。彼女は優しい光を宿した瞳でアスカを見つめ、穏やかな声で話しかける。
「アスカ様、そろそろ支度が整いました。ご両親がお待ちです。」
「……わかったわ。ありがとう、リディア。」
リディアは幼い頃からアスカに仕えてきた侍女であり、唯一といってもいい理解者だった。その温かさと忠誠心に、アスカは何度も救われてきた。しかし今この瞬間は、その心の支えすらも薄れていくような感覚がある。自分がどんなに嫌がっても、結局は婚礼の儀式へと引きずり出されるのだから。
アスカはドレスの裾を軽く整え、部屋を後にした。長く続く廊下を抜けて、広々とした階段を降りると、そこには華やかに着飾った両親の姿があった。父・イザークと母・マリアンヌ。どちらも冷たい雰囲気を漂わせながら、今日という日をただ「成功」として迎えようとしているようだ。
「アスカ、身だしなみはもう十分に整えているだろうな?」
父のイザークは厳格そうに唇を引き結んでいる。その声には決して温かみはなかった。
「はい、父上。問題ございません。」
アスカは静かに答える。それ以外に何が言えるというのだろう。
母のマリアンヌは淡々とアスカの姿を眺め、厳しい目で最後のチェックを行った。ワインレッドのドレスを纏った彼女は、若い頃から社交界の華と称えられてきた女性だ。しかし、その美貌とは裏腹に、娘への愛情はどこか希薄だった。
「やはり美しいわね。これならレイヴン公爵家への示しも完璧。リュミエール家の名を損なうようなことはしないでちょうだい。」
それは祝福でもなければ、労わりの言葉でもない。ただ「失敗するな」という圧力に等しかった。
結婚式場へ向かう馬車の中、アスカは隣に座る両親とほとんど会話らしい会話をしなかった。馬車の揺れとともに、窓の外を流れ去っていく街の景色を眺める。人々が行き交い、賑やかな市場が広がる通り。その活気はまるで、これから行われる華麗な貴族の婚礼と無関係のように映った。
(私はいったい、どこへ行くのだろう――。)
ぼんやりとした疑問が心の中を占める。愛のない結婚生活。その先に何が待っているのか、想像さえできない。
家族の思惑と、アスカの無力
リュミエール侯爵家は、この十数年で急速に財力を落としていた。かつては強大な影響力を持ち、社交界の中心にいたが、戦乱による出費や度重なる不正投資の失敗で、もはや多額の借金を抱えるほどに困窮しているのが実情である。
アスカの婚約者――レイヴン公爵家は、幸運にも近年の政変で大きく勢力を伸ばし、その莫大な富と政治的権力を握った。アスカの父・イザークは、いつかこの状況を打開し、再び家名を高らしめる機会を虎視眈々と狙っていたのだ。
その切り札こそが、この娘・アスカであった。
「この縁談をまとめるまでには多くの苦労があったのだ。」
馬車の中でイザークが唐突に口を開いた。彼の顔には自己陶酔にも似た高揚感が見える。
「レイヴン公爵家に見初められるなど、そう簡単な話ではない。だが、我がリュミエール家の“体裁”を保つためには、どうしてもこの政略結婚が必要だったのだよ。」
アスカは黙って聞いていた。彼女の思いなど、一切考慮に入れてはいないことが、言外に伝わってくる。
母のマリアンヌは苦笑のような表情を浮かべ、窓の外へ視線を移す。
「アスカのことも、多少は気がかりよ。けれど仕方がないわね。貴族の娘というのは、こうして家のために嫁いでいくものなんだから。」
そう呟きはするものの、そこに娘を思う母の情がどれほどあるのかは疑わしい。もはや形だけの“気がかり”でしかないのは明白だった。アスカはその冷ややかな空気を全身で感じ取りながら、ただ唇を噛み締めてうつむく。自分がこの家に生まれ落ちた時点で、もう運命は決まっていたのかもしれない。
娘として、道具として
婚礼会場となる大聖堂は、白く輝く大理石の壁と尖塔が印象的な壮麗な建築だった。王都でも有数の格式を誇り、多くの貴族が結婚式を挙げる憧れの場所である。
しかしながら、アスカの心には一抹の感動も湧かない。長く伸びる石畳の先には、すでに多くの招待客が集まり、彼女を待ちわびていた。家同士の結びつきを確認し合うかのように、誰もが上辺だけの言葉を交わしながら、退屈そうに開式を待っている。
リディアがさりげなくアスカの手を握り、そっと小声で励ます。
「アスカ様、どうかご自身を大切に。どんなときでも、私はあなたの味方ですから。」
「ありがとう、リディア……。」
その言葉に救われる想いだった。誰一人として自分をまともに見ようとしないこの場所で、彼女だけはいつも寄り添ってくれる。だが、リディアの存在がどれほど心強くとも、結局はこの結婚を回避できる力にはならない。
白い花束を手渡されたアスカは、ゆっくりと祭壇へと歩みを進める。聖堂内を埋め尽くした人々の視線が、一斉に彼女へ注がれるのがわかった。視線の奥には、「リュミエール侯爵家の令嬢はどのような女か」という興味が見え隠れする。慈しみや祝福とは程遠い。
深く息をついて、顔を上げると、そこに立っていたのは――レイヴン公爵。黒髪を短く整え、長身の身体には漆黒の礼服が映えていた。誰もが目を奪われるほどの整った容姿を持ちながら、どこか冷徹な空気をまとっている。
「……よろしく、頼む。」
レイヴンは儀礼的に言葉をかけるが、その声には温かさも感動も含まれていなかった。まるで人形を扱うように、形式だけを示している。
アスカもまた、作り物の微笑みを浮かべて応じる。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします……。」
指輪の交換も、誓いの言葉も、すべてが流れるように滞りなく進んでいく。まるで手順書でもあるかのように、関係者が淡々と式を進行していくのだ。祭壇の上で神父が神聖な祝福を告げる声が響くが、その厳かな響きとは裏腹に、アスカは自分の心がどんどん遠のいていくような気さえしていた。
(これが私の……結婚?)
冷たく重い現実が、鈍痛となって胸を締めつける。もしこの場で逃げ出したら、どうなるのだろう。家族は激怒し、レイヴン公爵家からは何らかの制裁を受けるかもしれない。そんなことを考えているうちに、神父が最後の宣言を行い、周囲が拍手で満たされる。
こうしてアスカは、“レイヴン公爵夫人”として新たな人生をスタートさせることになったのだ。
仮面の祝福と冷たい宴
婚礼の後、同じ大聖堂に隣接する豪奢なホールで盛大な披露宴が催された。幾重にも並べられたテーブルには、贅の限りを尽くした料理が彩りを添え、その間を行き交う給仕たちが忙しなく動いている。
招待客たちは互いに杯を掲げ、祝福の言葉を投げ合う。だが、その笑顔の多くは仮面の裏にあり、本音など見えていない。特に貴族同士の宴は、誰と誰が繋がっているのか、どの家がどれほどの財力を保持しているのか、といった情報戦の場でもあるからだ。
アスカは披露宴の中心――高座の席に座していた。隣にはレイヴンがいるが、彼は一度たりとも彼女に興味を示そうとはしなかった。祝辞を述べに来る客人にはにこやかに応対するものの、アスカと目を合わせることはほぼない。
その姿を見ているうちに、アスカの中に微かな怒りが芽生え始める。だが、その気持ちを表情に出すわけにはいかない。公爵夫人としての初日から、感情的な振る舞いをすれば、家同士の関係に亀裂を生じさせかねない。
そんな彼女の内心を知ってか知らずか、両親は上機嫌に周囲へ挨拶を続けている。リュミエール家が公爵家と縁を結んだという事実が、彼らにとってどれほど重要かは言うまでもない。アスカは、その光景を遠巻きに眺めながら、まるで他人事のように思えて仕方がなかった。
(私はただの飾り。誰かの幸せを祝う道具でも、誰かに愛される存在でもない。ただ、家のための一コマ……。)
胸の奥底から込み上げてくる虚しさに、彼女はそっと目を伏せた。これまでも何度も味わってきた感情だが、今日ほど痛烈に突き刺さることはなかった。
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アスカは披露宴の中心――高座の席に座していた。隣にはレイヴンがいるが、彼は一度たりとも彼女に興味を示そうとはしなかった。祝辞を述べに来る客人にはにこやかに応対するものの、アスカと目を合わせることはほぼない。
その姿を見ているうちに、アスカの中に微かな怒りが芽生え始める。だが、その気持ちを表情に出すわけにはいかない。公爵夫人としての初日から、感情的な振る舞いをすれば、家同士の関係に亀裂を生じさせかねない。
そんな彼女の内心を知ってか知らずか、両親は上機嫌に周囲へ挨拶を続けている。リュミエール家が公爵家と縁を結んだという事実が、彼らにとってどれほど重要かは言うまでもない。アスカは、その光景を遠巻きに眺めながら、まるで他人事のように思えて仕方がなかった。
(私はただの飾り。誰かの幸せを祝う道具でも、誰かに愛される存在でもない。ただ、家のための一コマ……。)
胸の奥底から込み上げてくる虚しさに、彼女はそっと目を伏せた。これまでも何度も味わってきた感情だが、今日ほど痛烈に突き刺さることはなかった。
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