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第一章:冷たい婚礼
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式の終わり、始まる違和感
長かった披露宴がようやく終わる頃、アスカは疲労のあまり立ち上がることすら億劫になっていた。人々に愛想を振りまき、笑顔を作り続けた代償は大きい。だが、公爵家の新婦として、これ以上醜態を晒すわけにはいかない。
レイヴンが先に席を立ち、関係者と何やら小声で話をしているのを視界の隅に捉える。彼は誰か――金髪の女性――と親しげに言葉を交わしていた。遠目に見ただけでは、相手の素性までははっきりしないが、その距離感からしてかなり近しい仲のように思える。
(あれは……誰?)
アスカは自分でも驚くほど冷静だった。嫉妬というよりは、どこか達観したような感覚だ。結婚して初日から、夫が別の女性と言葉を交わしている。それも親密そうに。それでも胸が痛まないわけではないが、何か“ああ、やっぱり”と納得している自分がいる。
「アスカ様、お身体は大丈夫ですか? 少し休まれたほうがよろしいのでは……」
リディアが心配そうに声をかける。
「ありがとう。でも、まだ大丈夫よ。私にはまだ、“義務”が残っているもの。」
アスカはそっと微笑んだ。真実かどうかはわからないが、リディアの優しいまなざしにだけは感謝したい。そして今は、結婚初日に公爵夫人としての振る舞いをまっとうするしかない。
やがて、客人たちが次々に帰り支度を始める中、両親がにこやかな顔でアスカのもとへとやってきた。
「よくやったな、アスカ。これでリュミエール家も安泰だ。公爵夫人としての役目をしっかり果たすんだぞ。」
まるで娘を誇るようでありながら、その言葉は自分たちの思惑が成功した喜びに満ちている。
「……わかりました、父上。ご心配なく。」
アスカはもう、何も感じなかった。心が白く、空虚になっていくようだ。これから夫婦としての生活が始まるにもかかわらず、希望らしい希望を抱けない。
屋敷へと向かう馬車の中で
披露宴後、アスカとレイヴンは同じ馬車に乗って、公爵家の屋敷へ向かった。屋敷は王都の中心から少し離れた丘の上にあり、広大な敷地に立ち並ぶ建物群は、一見すると城砦のようにも見える。
夜も更けてきたためか、道行く人々もまばらで、暗い街灯が通りを照らしている。馬車の揺れに身を委ねる中、アスカはレイヴンに声をかけるべきか迷った。夫となった彼に、聞きたいことは山ほどある。これからの生活、求められる役割、そして先ほどの金髪の女性について――。
だが、レイヴンは馬車の隅で静かに外を見つめ、一向にこちらを向かない。彼の横顔は鋭利な彫刻のように整っているが、そこに温かみは微塵も感じられない。
「……今日の宴、疲れたでしょう。」
意を決して声をかけてみたが、彼はほんの少し視線を寄越しただけで、すぐにまた窓の外へと目を戻した。
「特に。ああ、アスカ……だったな。俺の家では、余計なことはしなくていい。公爵夫人として最低限の役目を果たしてくれれば、それで構わない。」
淡々とした言い回し。それは、彼女と深く関わる気がないことを明確に示していた。まるで“君に感情なんて抱くつもりはない”とでも言わんばかりに。
「……わかりました。私も、あなたに迷惑をかけるつもりはありません。必要最低限のことだけ、すればよろしいのですね。」
自然と、自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。まるで以前から決められていた台本の台詞を読み上げるかのように。
やがて馬車は、公爵家の屋敷へと到着する。高い石壁と重厚な門が出迎えるその様は、確かに“栄華の象徴”に相応しい壮麗さだ。だが、アスカが感じたのは圧迫感だけだった。まるで自分が牢獄へと足を踏み入れたかのように思えてならない。
始まる“白い結婚”
公爵家の使用人たちが、明かりをともしながら二人を迎え入れる。夜気を含んだ冷たい風が、屋敷の外回廊を抜けてかすかにうなり声を上げた。石造りの廊下を歩く足音が、どこまでも響き渡る。
アスカは膨大な書物や調度品が並ぶ広間を抜け、案内されるままに自室へ向かった。
「こちらがお部屋でございます、公爵夫人様。必要なものはすべて揃えております。もし不足がありましたら遠慮なくお申し付けください。」
年配の執事が淡々と告げる。アスカは微笑みを作り、「ありがとう」と応じた。部屋の扉を開けると、そこには豪華な調度品が立ち並び、まるで小さな宮殿のような内装が施されていた。
しかし、その豪奢さを前にしても、アスカの心は少しも浮き立たない。広すぎる部屋、外界を拒むかのように分厚いカーテン――どこか冷たさと孤独を感じさせる要素ばかりが目についてしまう。
しんと静まり返った空間に一人取り残されたような気分。新婚の夜だというのに、夫の姿はなく、ただ彼の領地――屋敷の奥底で眠りにつくだけだ。
(私の望んだ結婚なんかじゃない。それでも、この道を選ばざるを得なかった。)
ベッドの傍らに腰を下ろし、ぼんやりと手元を見る。ドレスの裾にはまだ白い花の装飾が残り、ところどころに小さな汚れがついている。披露宴で人々と挨拶を交わし、歩き回った証だろう。しかし、アスカにはそれすらも他人事のように思えてならない。
このとき、ふと部屋の扉が小さくノックされた。
「アスカ様、失礼いたします。」
声の主はリディアだった。彼女は新婦の世話をするために、しばらくこの公爵家に滞在を許可されている。表向きは「花嫁付きの侍女」という名目だが、その実、アスカが一人きりで心折れてしまわないための配慮なのだろう。父や母が気遣っているわけではなく、あくまで公爵家との関係を円滑にするための一時的な措置である。
「何か問題でもあった?」
アスカが問いかけると、リディアはかぶりを振って静かに微笑んだ。
「いいえ。ただ、アスカ様の様子が気になって……。少しお休みになられたほうがいいかと思いまして。」
「……そう、ね。もう疲れたし、今日は休むことにするわ。」
リディアが隣に座り、そっとアスカの手に触れる。その温かな感触に、アスカはようやく強張っていた肩をゆるめた。ふわりと、優しい香りが鼻をかすめる。
「ご結婚、おめでとうございます。」
リディアが心からそう言ってくれるのが伝わってきた。しかし、アスカは胸が痛むのを感じる。これが本当に“おめでたい”ことなのか、自分でもわからなくなっているのだ。
「ありがとう、リディア。でも、まだ私には実感がわかないの……。それに、ここでの生活がどうなるかもわからない。」
「何があっても、私はアスカ様のお側でお仕えします。どうかご安心ください。」
その言葉は、暗闇の中に一筋射し込む光のようだった。アスカは目を伏せながら微笑む。もしかしたら、今この屋敷で自分にとっての支えはリディアだけかもしれない。
前編の幕引き:冷たい始まり
リディアが退出し、部屋に一人残されたアスカは、重たいドレスから身を解放するようにして夜着へと着替えた。レースやコルセットから逃れてやっと自由になった身体。しかし、その解放感すらも刹那的なものでしかない。
窓を開けてみると、外には暗闇が広がり、遠くに王都の灯りがぼんやりと揺れている。冷たい夜風が頬をかすめ、アスカの長い髪を揺らす。
この夜風は、まるで彼女の新しい人生の幕開けを嘲笑するかのようだ。結婚式という大舞台を終え、歓喜や祝福の嵐の中にあるはずなのに、彼女の心には希望どころか深い淵のような空虚さが渦巻いている。
明日からは、公爵夫人としての日々が始まる。夫は自分に興味を示さず、家族も既に用済みとばかりに手を引くことだろう。愛のない“白い結婚”――華やかな外見とは裏腹に、そこには冷たく閉ざされた関係しか存在しない。
(これから私はどうすればいいの……。)
答えのない問いを夜空に投げかけ、アスカは小さく震える。まだ涙を流すことすらできない。泣けば何かが変わるなら、いくらでも泣いただろう。しかし、そんなことで運命が変わるわけではないと、彼女は幼い頃から教え込まれてきたのだ。
だからこそ、今は耐えるしかない――そう思いながら、アスカはゆっくりと窓を閉じた。そして、灯りを落とした部屋の闇の中で、静かに目を閉じる。いつしか眠りに落ちるまでの間、彼女の脳裏には、白いドレスを身にまとった自分と、遠くに立つレイヴンの冷ややかな瞳ばかりが浮かんで消えていった。
こうして始まる彼女の結婚生活は、いわゆる「幸せな新婚生活」とは程遠い。むしろ“契約”という言葉が相応しいほどに、愛情や温もりが欠落した婚姻関係の第一歩だ。
だが、アスカはまだ知らない。これから訪れる数々の出来事が、彼女自身を大きく変え、やがては“ざまあ”と呼べるような反撃へと繋がっていくことを――。
新婚初夜とは名ばかりの寒々しい夜が明けた頃、アスカはまだ日が昇りきらないうちに目を覚ました。慣れない寝台で熟睡できなかったのもあるが、何より、これから始まる日々への不安が頭をもたげ、彼女の眠りを浅くしていた。
窓の外を覗けば、東の空がかすかに白みを帯びている。公爵家の屋敷は広大で、一際高い位置にあるため、王都の街並みが遠くにうっすらと見渡せた。冷たい風が石造りの壁を揺らす音が、どこか不気味に感じられる。まるで、自分が閉じ込められた檻の外側で、世界が勝手に動き続けているかのようだ。
見えない夫の存在
結婚式翌日にもかかわらず、夫であるレイヴンの姿は見当たらなかった。夜のうちにどこかへ出かけてしまったのか、それとも別室で休んでいるのか。いずれにせよ、新婚生活の“甘い時間”など、影も形もない。アスカはやり場のない気持ちを抱えながら、少しずつ朝の支度を進めた。
鏡台の前で髪を整えていると、侍女のリディアが静かに部屋へ入ってくる。リディアはそっと微笑みを浮かべ、か細い声で話しかける。
「おはようございます、アスカ様。よくお休みになれましたか?」
「……あまり。慣れないベッドで、少し疲れが残っているわ。」
リディアは申し訳なさそうに目を伏せた。彼女はアスカの父母からの指示で一時的に滞在を許されている身であり、この屋敷では完全に部外者である。そのため、あまり自由には動けない立場だ。けれど、アスカの心を唯一気遣ってくれる存在であることに変わりはない。
「よろしければ、朝食の準備を整えます。公爵家の使用人がいくつか指示を仰ぎたいと申しておりますが、アスカ様のご気分が優れないようでしたら、私から伝えておきますが……」
「いいえ。私が直接話すわ。公爵夫人としてやるべきことがあるもの。」
そう答えながら、アスカはわずかな躊躇を感じていた。公爵夫人として、使用人を指揮し、家を取り仕切る――それは表向きの役目であり、本来なら新妻であるアスカが堂々と振る舞うべきところだ。だが、夫がまるで自分に興味を示さず、挨拶すらしない状況で、公爵家全体をどうやって切り盛りすればいいのか。そんな疑問ばかりが募る。
長かった披露宴がようやく終わる頃、アスカは疲労のあまり立ち上がることすら億劫になっていた。人々に愛想を振りまき、笑顔を作り続けた代償は大きい。だが、公爵家の新婦として、これ以上醜態を晒すわけにはいかない。
レイヴンが先に席を立ち、関係者と何やら小声で話をしているのを視界の隅に捉える。彼は誰か――金髪の女性――と親しげに言葉を交わしていた。遠目に見ただけでは、相手の素性までははっきりしないが、その距離感からしてかなり近しい仲のように思える。
(あれは……誰?)
アスカは自分でも驚くほど冷静だった。嫉妬というよりは、どこか達観したような感覚だ。結婚して初日から、夫が別の女性と言葉を交わしている。それも親密そうに。それでも胸が痛まないわけではないが、何か“ああ、やっぱり”と納得している自分がいる。
「アスカ様、お身体は大丈夫ですか? 少し休まれたほうがよろしいのでは……」
リディアが心配そうに声をかける。
「ありがとう。でも、まだ大丈夫よ。私にはまだ、“義務”が残っているもの。」
アスカはそっと微笑んだ。真実かどうかはわからないが、リディアの優しいまなざしにだけは感謝したい。そして今は、結婚初日に公爵夫人としての振る舞いをまっとうするしかない。
やがて、客人たちが次々に帰り支度を始める中、両親がにこやかな顔でアスカのもとへとやってきた。
「よくやったな、アスカ。これでリュミエール家も安泰だ。公爵夫人としての役目をしっかり果たすんだぞ。」
まるで娘を誇るようでありながら、その言葉は自分たちの思惑が成功した喜びに満ちている。
「……わかりました、父上。ご心配なく。」
アスカはもう、何も感じなかった。心が白く、空虚になっていくようだ。これから夫婦としての生活が始まるにもかかわらず、希望らしい希望を抱けない。
屋敷へと向かう馬車の中で
披露宴後、アスカとレイヴンは同じ馬車に乗って、公爵家の屋敷へ向かった。屋敷は王都の中心から少し離れた丘の上にあり、広大な敷地に立ち並ぶ建物群は、一見すると城砦のようにも見える。
夜も更けてきたためか、道行く人々もまばらで、暗い街灯が通りを照らしている。馬車の揺れに身を委ねる中、アスカはレイヴンに声をかけるべきか迷った。夫となった彼に、聞きたいことは山ほどある。これからの生活、求められる役割、そして先ほどの金髪の女性について――。
だが、レイヴンは馬車の隅で静かに外を見つめ、一向にこちらを向かない。彼の横顔は鋭利な彫刻のように整っているが、そこに温かみは微塵も感じられない。
「……今日の宴、疲れたでしょう。」
意を決して声をかけてみたが、彼はほんの少し視線を寄越しただけで、すぐにまた窓の外へと目を戻した。
「特に。ああ、アスカ……だったな。俺の家では、余計なことはしなくていい。公爵夫人として最低限の役目を果たしてくれれば、それで構わない。」
淡々とした言い回し。それは、彼女と深く関わる気がないことを明確に示していた。まるで“君に感情なんて抱くつもりはない”とでも言わんばかりに。
「……わかりました。私も、あなたに迷惑をかけるつもりはありません。必要最低限のことだけ、すればよろしいのですね。」
自然と、自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。まるで以前から決められていた台本の台詞を読み上げるかのように。
やがて馬車は、公爵家の屋敷へと到着する。高い石壁と重厚な門が出迎えるその様は、確かに“栄華の象徴”に相応しい壮麗さだ。だが、アスカが感じたのは圧迫感だけだった。まるで自分が牢獄へと足を踏み入れたかのように思えてならない。
始まる“白い結婚”
公爵家の使用人たちが、明かりをともしながら二人を迎え入れる。夜気を含んだ冷たい風が、屋敷の外回廊を抜けてかすかにうなり声を上げた。石造りの廊下を歩く足音が、どこまでも響き渡る。
アスカは膨大な書物や調度品が並ぶ広間を抜け、案内されるままに自室へ向かった。
「こちらがお部屋でございます、公爵夫人様。必要なものはすべて揃えております。もし不足がありましたら遠慮なくお申し付けください。」
年配の執事が淡々と告げる。アスカは微笑みを作り、「ありがとう」と応じた。部屋の扉を開けると、そこには豪華な調度品が立ち並び、まるで小さな宮殿のような内装が施されていた。
しかし、その豪奢さを前にしても、アスカの心は少しも浮き立たない。広すぎる部屋、外界を拒むかのように分厚いカーテン――どこか冷たさと孤独を感じさせる要素ばかりが目についてしまう。
しんと静まり返った空間に一人取り残されたような気分。新婚の夜だというのに、夫の姿はなく、ただ彼の領地――屋敷の奥底で眠りにつくだけだ。
(私の望んだ結婚なんかじゃない。それでも、この道を選ばざるを得なかった。)
ベッドの傍らに腰を下ろし、ぼんやりと手元を見る。ドレスの裾にはまだ白い花の装飾が残り、ところどころに小さな汚れがついている。披露宴で人々と挨拶を交わし、歩き回った証だろう。しかし、アスカにはそれすらも他人事のように思えてならない。
このとき、ふと部屋の扉が小さくノックされた。
「アスカ様、失礼いたします。」
声の主はリディアだった。彼女は新婦の世話をするために、しばらくこの公爵家に滞在を許可されている。表向きは「花嫁付きの侍女」という名目だが、その実、アスカが一人きりで心折れてしまわないための配慮なのだろう。父や母が気遣っているわけではなく、あくまで公爵家との関係を円滑にするための一時的な措置である。
「何か問題でもあった?」
アスカが問いかけると、リディアはかぶりを振って静かに微笑んだ。
「いいえ。ただ、アスカ様の様子が気になって……。少しお休みになられたほうがいいかと思いまして。」
「……そう、ね。もう疲れたし、今日は休むことにするわ。」
リディアが隣に座り、そっとアスカの手に触れる。その温かな感触に、アスカはようやく強張っていた肩をゆるめた。ふわりと、優しい香りが鼻をかすめる。
「ご結婚、おめでとうございます。」
リディアが心からそう言ってくれるのが伝わってきた。しかし、アスカは胸が痛むのを感じる。これが本当に“おめでたい”ことなのか、自分でもわからなくなっているのだ。
「ありがとう、リディア。でも、まだ私には実感がわかないの……。それに、ここでの生活がどうなるかもわからない。」
「何があっても、私はアスカ様のお側でお仕えします。どうかご安心ください。」
その言葉は、暗闇の中に一筋射し込む光のようだった。アスカは目を伏せながら微笑む。もしかしたら、今この屋敷で自分にとっての支えはリディアだけかもしれない。
前編の幕引き:冷たい始まり
リディアが退出し、部屋に一人残されたアスカは、重たいドレスから身を解放するようにして夜着へと着替えた。レースやコルセットから逃れてやっと自由になった身体。しかし、その解放感すらも刹那的なものでしかない。
窓を開けてみると、外には暗闇が広がり、遠くに王都の灯りがぼんやりと揺れている。冷たい夜風が頬をかすめ、アスカの長い髪を揺らす。
この夜風は、まるで彼女の新しい人生の幕開けを嘲笑するかのようだ。結婚式という大舞台を終え、歓喜や祝福の嵐の中にあるはずなのに、彼女の心には希望どころか深い淵のような空虚さが渦巻いている。
明日からは、公爵夫人としての日々が始まる。夫は自分に興味を示さず、家族も既に用済みとばかりに手を引くことだろう。愛のない“白い結婚”――華やかな外見とは裏腹に、そこには冷たく閉ざされた関係しか存在しない。
(これから私はどうすればいいの……。)
答えのない問いを夜空に投げかけ、アスカは小さく震える。まだ涙を流すことすらできない。泣けば何かが変わるなら、いくらでも泣いただろう。しかし、そんなことで運命が変わるわけではないと、彼女は幼い頃から教え込まれてきたのだ。
だからこそ、今は耐えるしかない――そう思いながら、アスカはゆっくりと窓を閉じた。そして、灯りを落とした部屋の闇の中で、静かに目を閉じる。いつしか眠りに落ちるまでの間、彼女の脳裏には、白いドレスを身にまとった自分と、遠くに立つレイヴンの冷ややかな瞳ばかりが浮かんで消えていった。
こうして始まる彼女の結婚生活は、いわゆる「幸せな新婚生活」とは程遠い。むしろ“契約”という言葉が相応しいほどに、愛情や温もりが欠落した婚姻関係の第一歩だ。
だが、アスカはまだ知らない。これから訪れる数々の出来事が、彼女自身を大きく変え、やがては“ざまあ”と呼べるような反撃へと繋がっていくことを――。
新婚初夜とは名ばかりの寒々しい夜が明けた頃、アスカはまだ日が昇りきらないうちに目を覚ました。慣れない寝台で熟睡できなかったのもあるが、何より、これから始まる日々への不安が頭をもたげ、彼女の眠りを浅くしていた。
窓の外を覗けば、東の空がかすかに白みを帯びている。公爵家の屋敷は広大で、一際高い位置にあるため、王都の街並みが遠くにうっすらと見渡せた。冷たい風が石造りの壁を揺らす音が、どこか不気味に感じられる。まるで、自分が閉じ込められた檻の外側で、世界が勝手に動き続けているかのようだ。
見えない夫の存在
結婚式翌日にもかかわらず、夫であるレイヴンの姿は見当たらなかった。夜のうちにどこかへ出かけてしまったのか、それとも別室で休んでいるのか。いずれにせよ、新婚生活の“甘い時間”など、影も形もない。アスカはやり場のない気持ちを抱えながら、少しずつ朝の支度を進めた。
鏡台の前で髪を整えていると、侍女のリディアが静かに部屋へ入ってくる。リディアはそっと微笑みを浮かべ、か細い声で話しかける。
「おはようございます、アスカ様。よくお休みになれましたか?」
「……あまり。慣れないベッドで、少し疲れが残っているわ。」
リディアは申し訳なさそうに目を伏せた。彼女はアスカの父母からの指示で一時的に滞在を許されている身であり、この屋敷では完全に部外者である。そのため、あまり自由には動けない立場だ。けれど、アスカの心を唯一気遣ってくれる存在であることに変わりはない。
「よろしければ、朝食の準備を整えます。公爵家の使用人がいくつか指示を仰ぎたいと申しておりますが、アスカ様のご気分が優れないようでしたら、私から伝えておきますが……」
「いいえ。私が直接話すわ。公爵夫人としてやるべきことがあるもの。」
そう答えながら、アスカはわずかな躊躇を感じていた。公爵夫人として、使用人を指揮し、家を取り仕切る――それは表向きの役目であり、本来なら新妻であるアスカが堂々と振る舞うべきところだ。だが、夫がまるで自分に興味を示さず、挨拶すらしない状況で、公爵家全体をどうやって切り盛りすればいいのか。そんな疑問ばかりが募る。
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