公爵家の侍女見習い、王宮の帳簿を黙らせます―

鍛高譚

文字の大きさ
2 / 32

2話 ごまかされてますよ

しおりを挟む
2話 ごまかされてますよ

 市場から戻ったあと、キャルはすぐに休ませてもらえるわけではなかった。

 買い出しで運んだ荷物を厨房へ運び込み、割れ物がないか確認し、残った包み紙を畳み、空になった籠を所定の場所へ戻す。新米侍女というものは、仕事の終わりがどこにあるのか分かりにくい。

 ようやくひと息つけるかと思った頃、侍女頭が横から声をかけてきた。

「キャル」

「はい」

「奥様がお呼びよ」

 嫌な予感しかしない。

 だが呼ばれて行かない選択肢はない。キャルは乱れのないようにエプロンの裾を直し、小さく息をついてから公爵夫人の私室へ向かった。

 セラフィーヌ公爵夫人の部屋は、華美ではないが、隅々まで整えられていた。花瓶の花の向きまで計算されているようで、なんとなく落ち着かない。こういう部屋は、物の位置が一寸狂っただけでも気づかれそうだった。

 扉の前で名乗り、入室の許可を得る。

「失礼いたします」

「入りなさい」

 部屋の中には公爵夫人のほか、侍女頭と、もう一人、見覚えのない女性がいた。年齢は四十前後。姿勢がよく、衣服に無駄な皺がない。たぶん家令補佐か、会計に関わる使用人だろうとキャルは当たりをつけた。

 公爵夫人は机の上の紙を指先で軽く叩いた。

「これ、あなたが書いた買い出し控えね」

「はい」

「見やすいわ」

「ありがとうございます」

「ついでに聞くけれど、市場で商人のごまかしを見抜いたのも、あなたで間違いないのね」

 ついでに聞くような声音だったが、たぶん本題はそちらだ。キャルは言葉を選ぶことにした。

「はい。一応」

「一応、とは?」

「聞こえた数字を足しただけですので」

 公爵夫人の隣に立つ女性が、そこでわずかに眉を動かした。

「足しただけ、でああなるものかしら」

 抑揚の少ない声だった。やはり実務側の人間だろう。キャルはそちらを見て答える。

「簡単な計算でしたから」

「簡単」

 その女性は呆れたようでもあり、感心しているようでもあった。

 公爵夫人は椅子の背にもたれ、キャルを眺めた。

「あなた、読み書きはもちろんできるのよね」

「はい」

「帳面は?」

「家にあるものなら多少は」

「では、これも見て」

 机の脇から差し出されたのは、厨房の消耗品記録だった。油、塩、茶葉、香辛料、布巾、石鹸。日ごとの使用量と月ごとの購入量が書かれている。

 字は雑ではない。だが項目の並びが揃っておらず、日によって単位の書き方も違う。読みづらい。かなり読みづらい。

 キャルは紙を受け取り、目を走らせた。

「どう?」

「読みにくいです」

 侍女頭が思わず咳払いをした。おそらくそれを書いたのは、部屋にいる誰かだろう。

 だが公爵夫人は気を悪くした様子もなく、むしろ面白そうに問い返した。

「どのあたりが」

「項目ごとの順番が日によって違います。塩が上に来たり下に来たりしていますし、茶葉は束と袋が混在しています。あと、昨日の石鹸だけ数字の位置がずれています」

 そう言って紙の一角を指した。

「ここ、本当は七ではなく一では?」

 侍女頭が目を丸くする。

「……あら」

 隣の女性がすぐに紙を覗き込んだ。

「本当ね。七個も減るはずがないわ」

「記録した人が急いでいたんでしょう」

 キャルは淡々と答えた。

「その前後の流れを見ると、一個のほうが自然です」

「流れを見ると、ね」

 公爵夫人は小さく繰り返し、机の上の別の紙束に手を伸ばした。

「では、これも」

 今度はリネン庫の記録だった。貸し出し枚数、回収枚数、破損、紛失、補充。こちらは厨房の記録より整っているが、書き方に統一がない。しかも集計欄の数字がどうにも気持ち悪い。

「何か分かる?」

「合計が一つ合っていません」

「どこ?」

「三日前です。回収枚数が三十二、破損が二、紛失が一なら、残数はここまで減らないはずです。どこかで一枚、二重に引かれています」

 今度は侍女頭が慌てて台帳をめくった。確認のために別紙を引っ張り出し、照らし合わせ、やがてぎこちなく顔を上げる。

「……本当だわ」

 部屋がしんとした。

 たぶん今のは、そこまで難しい話ではない。ただ、数字が目に入った瞬間に、合っていない部分が妙に浮いて見えるだけだ。説明しろと言われると少し困るが、見えるものは見える。

 その沈黙を破ったのは、あの無駄のない女性だった。

「名前は?」

「キャル・キュレイションです」

「キュレイション子爵家の?」

「はい」

「没落気味だと聞いていたけれど、教育は受けているのね」

「最低限は」

 最低限、という言葉にほんの少しだけ力がこもった。父は頼りないが、読み書きと算術だけは「家名を保つためだ」と言って叩き込んだのだ。結果として今いちばん役に立っているのだから、人生は分からない。

 女性は名乗った。

「私はマドレーヌ。奥様付きの会計補佐をしています」

「はじめまして」

「あなた、買い出し控えだけでなく、簡単な在庫記録も見られるかしら」

「見られます」

「書ける?」

「読めるものなら、たぶん」

 そこまで答えたところで、扉が二度叩かれた。

「入れ」

 公爵の声だった。

 アルフォンス・ド・ヴァレール公爵は、入ってきた瞬間から不機嫌そうだった。疲れているのか、もともとの顔つきなのか、まだキャルには判別がつかない。だがこの人物が、部屋の空気を一瞬で変える程度には重い存在であることは分かる。

 公爵は室内を見回し、キャルの姿を認めると、ほんのわずかに眉を上げた。

「これが例の新入りか」

「ええ」

 公爵夫人があっさり答える。

「市場で商人のごまかしを見抜いた子よ」

「ふん」

 ふん、で済ませるには、その視線はずいぶん鋭かった。値踏みされているのが分かる。キャルは無闇に縮こまることもせず、かといって正面から睨み返すこともせず、適度に視線を下げた。

 公爵は机の上の帳面をひとつ手に取った。

「それで、何ができる」

 何ができる、ときたか。ずいぶん雑な聞き方だな、とキャルは思ったが、顔には出さなかった。

「読み書きと、簡単な計算くらいです」

「簡単、とは」

「市場で値段をごまかされない程度には」

 侍女頭がまた咳払いをした。けれど公爵はむしろ少しだけ口元を動かした。笑ったのか、呆れたのか、よく分からない程度に。

「ではこれを見ろ」

 差し出されたのは、屋敷の月次支出のまとめだった。

 インク代、蝋燭代、茶葉代、厨房雑費、馬屋補修費、来客用備品。数字が並び、最後に合計が書いてある。

 書類そのものは整っている。けれど視線を滑らせた瞬間、キャルは気づいた。蝋燭代だけ増え方が妙だ。いや、妙なのはそこだけではない。茶葉代も月の前半と後半で計上の仕方が違う。

「どうだ」

「読みにくいです」

 言ってから、少し早かったかもしれないと思った。

 だが公爵は怒らなかった。

「そうだろうな。私もそう思う」

 横でマドレーヌが目を伏せた。どうやらこのまとめを作ったのは彼女ではないらしい。

 公爵は続けた。

「分かりやすく直せるか」

「やってみます」

「やれ」

 紙と新しいペンが寄越された。キャルは机の端を借りて、元の書類の項目を並べ替えた。まず固定費と変動費を分ける。次に項目名を揃える。月の前半だけ別単位で計上されていた茶葉を袋換算に直す。蝋燭代は、来客数と夜間使用の増加が重なっているだけだが、書き方が悪いせいで余計に見える。

 書きながら頭の中で計算を済ませていく。

 少しして紙を差し出すと、公爵はそれを受け取って目を通した。

「……なるほど」

 短くそれだけ言って、隣の夫人にも見せる。

 夫人はすぐに頷いた。

「最初からこうなっていれば、揉めないのにね」

 マドレーヌも続いて覗き込み、珍しく感心を隠さなかった。

「項目の順番だけでここまで変わるのね」

「数字そのものは同じですから」

「同じでも、分からなければ意味がないということか」

 公爵が紙を机に置き、キャルを見た。

「お前」

「はい」

「明日から買い出し控えは必ず書け。それと、厨房とリネン庫の記録も見ろ」

「……新米侍女の仕事でしょうか」

「今日からはそうだ」

 昨日も似たようなことを夫人に言われた気がする。公爵家というのは、思いつきで職務範囲を増やす家風なのかもしれない。

 キャルは内心でため息をついた。

「承知しました」

 公爵はなおも紙を見ながら、面倒そうに言った。

「こういうのは、あの娘を通せ」

 誰に言ったのかと思ったら、室内の全員に向けたものだったらしい。

「わかりやすい書類に変換されてくる」

 マドレーヌがわずかに笑いをこらえ、侍女頭は複雑そうな顔をした。公爵夫人だけが平然としている。

 そして当のキャルは、心の中で訂正した。

 変換ではない。整理だ。

 だがそれをわざわざ口にするほどでもないので、黙っておいた。

 その日の夜、侍女部屋に戻ったキャルは、自分の寝台に腰を下ろしながら、じわじわと実感していた。

 これはたぶん、静かな侍女生活にはならない。

 市場で銅貨二十枚を取り返しただけのはずが、気づけば公爵の書類まで回ってきている。しかも「明日から」が多い。非常に多い。

 面倒だ。

 本当に面倒だ。

 けれど同時に、少しだけ分かっていた。

 数字を見てしまう以上、いずれこうなるのは避けにくかったのだろう、と。

 人は嘘をつく。見栄も張るし、ごまかしもする。だが数字は、下手な嘘ほど目立つ。そこに気づいてしまう目を持っている限り、黙って荷物だけ運んでいるのは難しい。

 寝台に横になりながら、キャルは小さく呟いた。

「……給金、上がるならいいんだけど」

 もちろん、聞いている者はいない。

 だがせめて、そのくらいの希望は持っても罰は当たらないだろうと、キャルは本気で思っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妹の方が好きらしい旦那様の前からは、家出してあげることにしました

睡蓮
恋愛
クレアとの婚約関係を結んでいたリビドー男爵は、あるきっかけからクレアの妹であるレイアの方に気持ちを切り替えてしまう。その過程で、男爵は「クレアがいなくなってくれればいいのに」とつぶやいてしまう。その言葉はクレア本人の耳に入っており、彼女はその言葉のままに家出をしてしまう。これで自分の思い通りになると喜んでいた男爵だったのだが…。

ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…

ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。 一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。 そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。 読んでいただけると嬉しいです。 2/26 番外編を投稿しました。 読んでいただけると嬉しいです。 思っていたよりずっとたくさん読んでいただいていてとても嬉しいです。 とてもとてもありがとうございます!!   

愛人の生活費も、お願いします 〜ATM様、本日もよろしくてよ〜【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
政略結婚で結ばれた王子ザコットと、氷のように美しい公爵令嬢ビアンカ。だが、ザコットにはすでに愛する男爵令嬢エイミーがいた。 結婚初夜、彼はビアンカに冷酷な宣言を突きつける。 「お前を愛することはない。俺には愛する人がいる。このエイミーだ」 だが、ビアンカは静かに微笑み、こう返す。 「では、私の愛人の生活費も、お願いします」 ──始まったのは、王子と王子妃の熾烈な政略バトル。 愛人を連れて食卓に現れるビアンカ。次々と辞表を出す重臣たち、そしてエイミーの暴走と破滅……。 果たして、王子ザコットの運命やいかに!? 氷の王子妃と炎の愛人が織りなす、痛快逆転宮廷劇! ⚠️ 本作は AI の生成した文章を一部に使っています。 コメディーです。

【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました

いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。 子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。 「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」 冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。 しかし、マリエールには秘密があった。 ――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。 未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。 「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。 物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立! 数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。 さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。 一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて―― 「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」 これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、 ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー! ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

【書籍化決定】アシュリーの願いごと

ましろ
恋愛
「まあ、本当に?」 もしかして。そう思うことはありました。 でも、まさか本当だっただなんて。 「…それならもう我慢する必要は無いわね?」 嫁いでから6年。まるで修道女が神に使えるが如くこの家に尽くしてきました。 すべては家の為であり、夫の為であり、義母の為でありました。 愛する息子すら後継者として育てるからと産まれてすぐにとりあげられてしまいました。 「でも、もう変わらなくてはね」 この事を知ったからにはもう何も我慢するつもりはありません。 だって。私には願いがあるのだから。 ✻基本ゆるふわ設定です。 気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。 ✻1/19、タグを2つ追加しました ✻1/27、短編から長編に変更しました ✻2/2、タグを変更しました

婚約者チェンジ? 義理の妹は公爵令嬢の地位もチェンジされました』 ~三日で破談、家ごと褫奪の末路です~

ふわふわ
恋愛
「お姉様の婚約者、私がいただきますわ。だって“公爵令嬢”ですもの」 義理の妹コンキュはそう言って、王太子との婚約を奪いました。 父はそれを容認し、私は静かに受け入れます。 けれど―― 公爵令嬢とは“地位”ではなく、“責任”の継承者。 王宮で礼儀も実務も拒み、「未来の王太子妃」を名乗った義妹は、わずか三日で婚約破棄。 さらに王家への不敬と統治能力の欠如が問題視され、父の監督責任が問われます。 そして下されたのは――家ごとの褫奪。 一方で私は、領地を守り、帳簿を整え、静かに家を支え続ける。 欲しがったのは肩書。 継いだのは責任。 正統は叫びません。 ただ、残るだけ。 これは、婚約を奪われた公爵令嬢が “本当に継がれるべきもの”を証明する物語。

【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない

朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

処理中です...