公爵家の侍女見習い、王宮の帳簿を黙らせます―

鍛高譚

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8話 不自然に少ない税収

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8話 不自然に少ない税収

 その日の午後、キャル・キュレイションは、ほとんど自分の席へ戻れなかった。

 公爵アルフォンスの執務室で領地収支の帳面を見始めてしまったせいである。

 原因を作ったのは公爵だが、帳面を開いてしまったのはキャルでもある。だから完全に人のせいにもできないのが腹立たしい。

 机の上には村ごとの徴収一覧、徴税請負人からの上納報告、輸送費内訳、保管費一覧。紙の質も字の癖も違う帳面が、四方八方から押し寄せてくる。

 屋敷の中の消耗記録とは桁が違う。

 数字そのものもそうだが、背後にある人数と生活が違った。厨房の塩や客室の石鹸なら、ずれたところで誰かが少し困る程度で済む。だが領地の徴税となると、話が違う。

 取りすぎれば領民が苦しむ。

 少なすぎれば公爵家の運営が傾く。

 中間で抜かれれば、両方が損をする。

 そういう種類の紙だ。

 だからキャルは、本気で嫌だった。

 嫌だが、それでも数字は気になった。

 公爵が執務机の向こう側から言う。

「どうだ」

「嫌な感じがします」

「感想ではなく」

「感想としてはかなり大事です」

 キャルは紙から目を離さず答えた。

「数字が自然に揺れていれば、多少読みづらくても我慢できます。でもこれは、悪い意味で落ち着きすぎています」

 家令が腕を組んだまま訊く。

「つまり、誰かが手を入れたと」

「そう見えます」

「誰が」

「そこまでは、まだ」

 そこまでは、まだ。だが、絞り込める。

 村ごとの徴収額に極端な異常はない。豊作の年は増え、不作の年は減っている。だから最初は、公爵も家令も“収まりが悪い”としか言えなかったのだろう。

 問題はその先だ。

 徴収されたはずの税が、公爵家へ届くまでの途中で、妙に綺麗になっている。

 輸送費。保管費。雑費。手数料。

 そういう名前の紙は、だいたい人を安心させるために存在する。必要経費という響きには、不思議と人を黙らせる力がある。

 キャルは紙束の一部を引き抜いた。

「この三村だけ、細かい内訳を別にできますか」

 家令が目を細める。

「なぜこの三つだ」

「揺れ方が似ています」

「似ている?」

「はい。他の村より少しだけ、経費の増え方が素直です」

 公爵が椅子に深くもたれたまま言う。

「素直なのは悪いことか」

「自然なら悪くありません」

 キャルは淡々と答える。

「でも人が作る時、説明しやすい数字ほど素直になります」

 執務室が少し静まった。

 この感覚をうまく言葉にしろと言われると困る。だが、長く珠を弾くように数字を見ていると、変なものは変に見えるのだ。

 自然な揺れには癖がある。

 人の手が入った揺れには、もっと癖がある。

 家令が追加の帳面を持ってきて、机の上へ広げた。三つの村の詳細記録だ。収穫量、徴収量、輸送距離、保管日数、請負人の手数料。

 キャルはそこに目を走らせ、すぐに眉を寄せた。

「やっぱり」

「何だ」

「村ごとの輸送距離は違うのに、輸送費の伸び方が似すぎています」

「同じ請負人がまとめて運んでいるからでは?」

 家令の言葉に、キャルは首を振った。

「まとめて運ぶなら、むしろ差は減ります。でもこれは、毎月きれいに一定幅で増えています」

 公爵が低く問う。

「一定幅が問題か」

「自然に運賃が変動したなら、月によって偏ります」

 キャルは紙を並べ替えた。

「天候も道の状態も違いますから。でもこれは違う。誰かが“これくらいなら自然だろう”と思って乗せた数字に見えます」

 家令が黙った。

 公爵も黙っている。

 その沈黙は、否定ではなく続きを促していた。

 キャルは少しだけ息をつく。

「……徴税請負人って、誰ですか」

「ボードランだ」

 公爵が答える。

「十年以上同じ男が請け負っている」

「長いですね」

「長いからこそ手慣れている」

 家令の声は苦かった。

 キャルは帳面へ目を戻した。

 十年以上。なるほど。それならこの手口の雑さと慎重さの混ざり方にも納得がいく。大胆ではない。けれど小さく何度も抜くには慣れている。目立たない額を、目立たない名目で、少しずつ積み上げる。

 人が欲を出す時、数字はたいてい丸くなりすぎる。だがこの帳面は、丸くしすぎない程度の知恵がある。

 だからこそ厄介だ。

 キャルは椅子に座り直した。

「今日中に全部は無理です」

「どこまでいける」

「村をあと二つほど」

 公爵はすぐに頷いた。

「やれ」

 やはり遠慮がない。

 だがもう、そこに腹を立てるのも面倒だった。

 紙を揃え、村ごとに分け、徴収額と上納額の差を追う。途中でインクが切れかけ、家令が黙って予備を寄越した。キャルも礼は言わなかった。今はそのくらいの呼吸がちょうどよかった。

 気づけば窓の外の光がだいぶ傾いている。

 ようやく顔を上げた時には、肩が重く、目も少し疲れていた。

「……見えました」

 公爵が即座に反応する。

「何がだ」

「税収そのものが少ないわけではありません」

 キャルは整理した紙を差し出した。

「村からの徴収額は、作柄から見ておおむね妥当です」

「では」

「公爵家へ届くまでに削れています」

 家令が紙を受け取り、目を走らせる。

「やはり中間か」

「はい。しかも、やり方が嫌らしい」

 キャルは自分でも少しだけ声が冷たくなったのを感じた。

「全部を大きく抜くんじゃなくて、輸送費、保管費、手数料に小さく分けています。村ごとに少しずつ違うので、ぱっと見では分かりにくい」

「だが、お前には見えた」

 公爵が言う。

「見えました」

「なぜ」

「……癖があるので」

 キャルは少しだけ考え、言葉を継いだ。

「端数処理の仕方が同じです。あまり欲張らない月でも、最後に少しだけ自分に有利な方へ寄せています」

 家令が整理表を持ったまま、ゆっくり顔を上げた。

「そこまで分かるのか」

「分かりますよ」

「どうして」

「そういう数字は、見ていて気分が悪いので」

 家令が絶句した。

 公爵はしばらく無言だったが、やがて小さく息を吐く。

「なるほどな」

 その時、扉が控えめに叩かれた。

 許可を出すと、マドレーヌが顔を見せた。いつもより少しだけ気配を抑えている。

「失礼いたします。奥様がお食事の時間が近いと」

「後で行く」

 公爵は短く答え、それからキャルへ視線を向けた。

「お前はどうする」

 どうするも何も、腹は減っているし、頭も少し重い。だが今ここで切ると、せっかく揃ってきた流れが一度散るのも分かる。

「区切りがつくまでは」

 そう答えると、マドレーヌが少しだけ驚いた顔をした。だが何も言わず、軽く一礼して退く。

 家令がぽつりと漏らした。

「侍女見習いに、ここまでさせるとはな」

 言い方によっては非難にも聞こえるが、今の声音は違った。

 呆れ半分、感心半分。そんな響きだ。

 キャルは紙から顔を上げずに言う。

「私もそう思います」

「そう思うか」

「ええ」

 きっぱり答える。

「でも途中で止めると余計に面倒です」

 公爵がそこで、ごくわずかに笑った。

「そういうところだな」

「何がですか」

「向いている」

 またそれだ。

 前にも言われた。雑用係では惜しい。向いている。使える。早い。

 正当に評価されるのは悪いことではない。たぶん。だがそのぶん仕事が増えるのだから、手放しで喜べるはずもない。

 キャルは肩を回し、もう一度紙へ向き直った。

「……向いていると言われても、増える仕事が減るわけではありませんが」

「減らんだろうな」

 公爵はあっさり言う。

「だが終わらせろ」

「終わらせますよ」

 ほとんど意地だった。

 結局その日、キャルは領地収支の紙を抱えたまま夕刻ぎりぎりまで執務室にいた。全部は終わらなかったが、少なくとも公爵と家令が次に何を見るべきかは整理できた。

 徴税額はおおむね妥当。

 問題は中間経費。

 村ごとに小さく違うが、端数の寄せ方に共通の癖あり。

 徴税請負人ボードラン、極めて怪しい。

 そこまでを紙にまとめ、家令へ渡す。

 家令は何度か読み返し、最後に短く言った。

「……これで、やっと話ができる」

「最初からそういう書類が来ていればよかったんですけどね」

 キャルが言うと、家令は珍しく苦笑した。

「その通りだ」

 公爵は椅子から立ち上がり、窓の外を見たあと、振り返る。

「明日、ボードランを呼ぶ」

 その一言で、部屋の空気が変わった。

 家令の背が少しだけ伸びる。

 キャルは逆に、少しだけ眉をひそめた。

「早いですね」

「遅い方がいいか」

「いえ。ただ、もう少し紙が欲しいかと」

「まだ足りんのか」

「断定するなら、もう少し」

 公爵は数秒だけ黙り、それから頷いた。

「いい。明日の午前までに揃えさせる」

「……本当に逃がす気がないですね」

「ないな」

 即答だった。

 この人は本当に、必要だと思った相手を遠慮なく使う。

 だが同時に、それは公爵家の中、自分の責任の及ぶ範囲でのことだとキャルには分かっている。だからまだ、我慢できる。

 これがもし王宮のど真ん中なら、こんなふうには思えないだろう。

 そんなことを、ふと考えた。

 考えてから、少しだけ嫌な気分になる。まだ起きてもいない未来を勝手に想像して気分を悪くするのは、効率が悪い。

 今考えるべきは、明日だ。

 徴税請負人。抜かれた中間経費。より細かい帳面。そして、おそらく揉める会話。

 執務室を下がる時、キャルは本気で疲れていた。

 疲れていたが、頭の芯だけは妙に冴えていた。

 見えてしまったものを前にして、人は案外よく眠れない。
 キャルはその夜、寝台の上で何度も同じ数字の並びを思い返しながら、明日たぶん、ろくでもないことになるのだろうと静かに確信していた。
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