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第1章:愛なき政略婚
1-3. 夕食の席で
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3. 夕食の席で
夕刻、食堂の扉を開けると、そこには父が一人で席についていた。大きな長テーブルの上には豪華な料理が並べられているが、母や兄弟の姿はない。……もっとも、母は私が幼い頃に病で他界しているし、兄弟もいない私は、基本的にこの屋敷で父と二人で暮らしていた。食事の時間も、最近は父が仕事や外出で不在のことが多く、顔を合わせる機会は限られている。
私は父の斜め向かいの席に腰を下ろした。ドレスの裾を丁寧に整えながら姿勢を正す。父は私の顔を一瞥すると、いつものように無表情のまま微かに頷いた。
「座ったか。……体調はどうだ?」
「ええ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
一応は父なりに気を遣っているのだろう。その問いに淡々と答えると、父は「そうか」とだけ返す。気まずい沈黙が流れたが、すぐに給仕が料理を運んできた。スープやローストなどの香ばしい匂いが漂うが、不思議と食欲は湧いてこない。
スプーンを手に取ると、父がスープを口に運ぶタイミングに合わせて、私も静かに手を動かす。いつもならちょっとした世間話をするものだが、今夜は空気が重く、何も言葉が出てこない。しばらくの間、スプーンやフォークの音だけが食堂に響いた。
しばらくして、父がゆっくりと口を開く。
「……お前に話があると言ったな。クラレンス侯爵との結婚の件だ。実は彼から、早速お前と顔を合わせたいと打診が来ている。ここ数日中にも、一度屋敷に招きたいと思っているが……準備はいいな?」
この一言を聞くだけで、胸がどきりとする。とはいえ、結婚をするのだから顔を合わせるのは当然のこと。避けようもないが、こんなにも早く話が進んでいるとは思わなかった。
「はい……構いません」
もう覚悟を決めるしかない。しかし、たった今の返事に自分の声が少し震えていたのを自覚して、思わず唇を引き結ぶ。父はそんな私の表情を気にも留めず、続けて言う。
「エドワード・クラレンスは、政界でも実業界でも頭角を現している男だ。聞いたところによると、長らく後継ぎ問題で周囲が色めき立っていたが、本人は“不要な縁談は受けない”と言い続けていたそうだ。そんな彼が、なぜローウェル家の娘を迎えたいと言ったのか、お前も不思議に思うかもしれないが……」
「……はい」
父の言葉の先を促すと、彼は苦々しい顔をしながら小さく肩をすくめる。
「私にも正直なところ、あまり分からん。彼が望んでいるのは政治的な安定か、あるいはローウェル家の名誉が欲しいのか。あるいはお前自身の才覚を高く評価しているのか……。ただ、確かなのは、彼はそう簡単に人を認める男ではないということだ」
それはつまり、エドワードが私を何らかの形で“認めた”からこそ、この縁談が成立したということになるのだろうか。そもそも私は、社交界デビューをしているとはいえ、さほど華々しい活躍をした覚えはない。ただ、求められる礼儀作法や舞踏会での立ち居振る舞いを無難にこなしてきただけ。特に飛び抜けて優れたわけでもなく、むしろ地味な存在だったと思う。
「……お前は聡明な娘だ。確かに人前に出ることはあまり好まないが、裏でしっかり努力を積むタイプだし、言葉遣いにも気品がある。……お前を誇りに思っているよ」
突然、父がそんなことを口にするものだから、私は目を見開いてしまった。今まで父が私を褒めるなんて滅多になかったのに。だが、それが本心からの言葉だとしたら、少しだけ報われた気持ちになる。とはいえ、このタイミングでは複雑な気持ちの方が大きいけれど……。
「ありがとうございます。でも……私には、父様の期待に見合うだけのことができるのか、正直自信がありません」
「弱気なことを言うな。もう決まったことだ。いくら悩もうが、式は避けられない」
やはり父の声は厳しい。私はうつむきながら、スプーンを持つ手をぎゅっと握り込む。そう、もう悩んだところで意味がない。婚約はすでに成立し、相手方も早期に会いたいと申し出ている。一週間、もしかしたらそれより早い段階でクラレンス侯爵がやってくるかもしれない……。
「それと、もう一つ伝えておく。式はクラレンス侯爵家の領地で挙げることになるだろう。侯爵家は都から少し離れた場所に大きな領地を持っている。きっとそこへお前も嫁ぐ形になる。……今後、生活の拠点も向こうになるわけだ」
父が言いにくそうに口を動かすのを見て、私も胸が締めつけられる。つまり私は、この屋敷を出てクラレンス家で暮らすことになるのだ。今まで当たり前のように見てきた庭や廊下、メイドや使用人たちとはお別れになる。
「そう、ですか……。分かりました」
私の返答はどこか他人事のように聞こえた。けれども、内心は一抹の寂しさが広がっている。父と親子の情が薄いわけではないし、この家にもそれなりの愛着がある。すべて捨てて新たな場所で暮らすことになるなんて、想像しただけで心細い。
父はまた一口スープを飲み、目を閉じる。彼もまた、私を遠くへ嫁がせることに何か思うところがあるのかもしれない。しかし、それでも父は私よりも家を優先する。私はそれを責めることはできない。なぜなら、それが貴族の“義務”だからだ。
夕刻、食堂の扉を開けると、そこには父が一人で席についていた。大きな長テーブルの上には豪華な料理が並べられているが、母や兄弟の姿はない。……もっとも、母は私が幼い頃に病で他界しているし、兄弟もいない私は、基本的にこの屋敷で父と二人で暮らしていた。食事の時間も、最近は父が仕事や外出で不在のことが多く、顔を合わせる機会は限られている。
私は父の斜め向かいの席に腰を下ろした。ドレスの裾を丁寧に整えながら姿勢を正す。父は私の顔を一瞥すると、いつものように無表情のまま微かに頷いた。
「座ったか。……体調はどうだ?」
「ええ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
一応は父なりに気を遣っているのだろう。その問いに淡々と答えると、父は「そうか」とだけ返す。気まずい沈黙が流れたが、すぐに給仕が料理を運んできた。スープやローストなどの香ばしい匂いが漂うが、不思議と食欲は湧いてこない。
スプーンを手に取ると、父がスープを口に運ぶタイミングに合わせて、私も静かに手を動かす。いつもならちょっとした世間話をするものだが、今夜は空気が重く、何も言葉が出てこない。しばらくの間、スプーンやフォークの音だけが食堂に響いた。
しばらくして、父がゆっくりと口を開く。
「……お前に話があると言ったな。クラレンス侯爵との結婚の件だ。実は彼から、早速お前と顔を合わせたいと打診が来ている。ここ数日中にも、一度屋敷に招きたいと思っているが……準備はいいな?」
この一言を聞くだけで、胸がどきりとする。とはいえ、結婚をするのだから顔を合わせるのは当然のこと。避けようもないが、こんなにも早く話が進んでいるとは思わなかった。
「はい……構いません」
もう覚悟を決めるしかない。しかし、たった今の返事に自分の声が少し震えていたのを自覚して、思わず唇を引き結ぶ。父はそんな私の表情を気にも留めず、続けて言う。
「エドワード・クラレンスは、政界でも実業界でも頭角を現している男だ。聞いたところによると、長らく後継ぎ問題で周囲が色めき立っていたが、本人は“不要な縁談は受けない”と言い続けていたそうだ。そんな彼が、なぜローウェル家の娘を迎えたいと言ったのか、お前も不思議に思うかもしれないが……」
「……はい」
父の言葉の先を促すと、彼は苦々しい顔をしながら小さく肩をすくめる。
「私にも正直なところ、あまり分からん。彼が望んでいるのは政治的な安定か、あるいはローウェル家の名誉が欲しいのか。あるいはお前自身の才覚を高く評価しているのか……。ただ、確かなのは、彼はそう簡単に人を認める男ではないということだ」
それはつまり、エドワードが私を何らかの形で“認めた”からこそ、この縁談が成立したということになるのだろうか。そもそも私は、社交界デビューをしているとはいえ、さほど華々しい活躍をした覚えはない。ただ、求められる礼儀作法や舞踏会での立ち居振る舞いを無難にこなしてきただけ。特に飛び抜けて優れたわけでもなく、むしろ地味な存在だったと思う。
「……お前は聡明な娘だ。確かに人前に出ることはあまり好まないが、裏でしっかり努力を積むタイプだし、言葉遣いにも気品がある。……お前を誇りに思っているよ」
突然、父がそんなことを口にするものだから、私は目を見開いてしまった。今まで父が私を褒めるなんて滅多になかったのに。だが、それが本心からの言葉だとしたら、少しだけ報われた気持ちになる。とはいえ、このタイミングでは複雑な気持ちの方が大きいけれど……。
「ありがとうございます。でも……私には、父様の期待に見合うだけのことができるのか、正直自信がありません」
「弱気なことを言うな。もう決まったことだ。いくら悩もうが、式は避けられない」
やはり父の声は厳しい。私はうつむきながら、スプーンを持つ手をぎゅっと握り込む。そう、もう悩んだところで意味がない。婚約はすでに成立し、相手方も早期に会いたいと申し出ている。一週間、もしかしたらそれより早い段階でクラレンス侯爵がやってくるかもしれない……。
「それと、もう一つ伝えておく。式はクラレンス侯爵家の領地で挙げることになるだろう。侯爵家は都から少し離れた場所に大きな領地を持っている。きっとそこへお前も嫁ぐ形になる。……今後、生活の拠点も向こうになるわけだ」
父が言いにくそうに口を動かすのを見て、私も胸が締めつけられる。つまり私は、この屋敷を出てクラレンス家で暮らすことになるのだ。今まで当たり前のように見てきた庭や廊下、メイドや使用人たちとはお別れになる。
「そう、ですか……。分かりました」
私の返答はどこか他人事のように聞こえた。けれども、内心は一抹の寂しさが広がっている。父と親子の情が薄いわけではないし、この家にもそれなりの愛着がある。すべて捨てて新たな場所で暮らすことになるなんて、想像しただけで心細い。
父はまた一口スープを飲み、目を閉じる。彼もまた、私を遠くへ嫁がせることに何か思うところがあるのかもしれない。しかし、それでも父は私よりも家を優先する。私はそれを責めることはできない。なぜなら、それが貴族の“義務”だからだ。
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