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第1章:愛なき政略婚
1-2. 情報収集と不安
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2. 情報収集と不安
部屋の扉を閉めた瞬間、私はようやく深く息を吐いた。気丈でいなければならないと思いつつも、父からの政略結婚の命令は私の心を乱し続ける。書斎でのやり取りを思い出すだけで、息苦しさに胸が締めつけられた。
ベッドへ腰かけ、窓の外に視線を移す。季節は春先とはいえ、まだ肌寒さが残る空模様だ。陽光の加減で外の景色がどこか白っぽく霞んで見える。そのぼんやりとした風景が、今の私の心境を映しているようだった。
政略結婚など、この貴族社会では珍しい話ではない。幼少期から何度も耳にしてきたし、愛のない結婚が当たり前という世界でもある。だが、実際に自分の身に降りかかると、これほど複雑な気持ちになるのかと痛感していた。
(……クラレンス侯爵、エドワード・クラレンス。どんな人物なのだろう。)
私は頭の中で、噂に聞いたエドワードの姿を思い浮かべてみる。彼はまだ二十代半ばだというのに、若くして侯爵位を継ぎ、領地経営を難なくこなす手腕を持っているという。政治的な会合でも常に冷静沈着、かつ的確な判断で周囲を圧倒し、「冷酷な策略家」と呼ばれることも少なくない。
それに──どうやら女性関係の噂はほとんど聞かない。非情で孤高の貴族という印象が強いためか、彼に近寄ろうとする令嬢がいても相手にされない、というのがもっぱらの評判だった。だがその一方で、彼の美しい容姿に憧れる女性も多いらしい。黒髪に切れ長の瞳という端正な容貌は、冷徹さをさらに引き立てているとか。
「孤高の貴族ね……そういう人は、私みたいな娘とどう接してくるのかしら」
自然とため息がこぼれる。父が言うように、私の美貌と知性を買っているというのは、ただの方便だろう。実際はローウェル家との縁組で得られる何かしらの政治的・経済的メリットがあるに違いない。大貴族同士の結婚であれば、何かしら裏に利害関係があるものだ。
しかし、そうと分かっていてもやはり心は落ち着かない。私は自室の本棚に向かい、何冊か取り出した本を机に並べた。これらは貴族社会の慣習や法律、婚姻に関する規定などが書かれた分厚い書籍だ。かつて家庭教師から教わった知識を総ざらいし、少しでも自分を納得させる材料を探そうと考えた。
「政略結婚……その定義は、当事者間の愛情とは関係なく、家同士の利害を重視して結ばれる婚姻形態……。ふむ、まさに今の私の状況にぴったり当てはまるわね」
自嘲気味に呟きながら、ページをめくる。しかし、いくら理論を理解しても、私の心は不安と抵抗感に苛まれるばかりだ。何十ページか読み進めても頭に入ってこず、結局、机に突っ伏してしまった。知らず知らずのうちに溜め息が増える。頭では父の決断を受け入れなくてはと思いながら、感情が追いついてこないのだ。
そんなとき、部屋の扉が静かにノックされた。私は慌てて机から顔を上げ、咳払いをして声を掛ける。
「……はい、どうぞ」
入ってきたのは、私の専属メイドであるリジーだった。まだ若い彼女だが、幼少の頃から仕えてくれている信頼できる相手だ。リジーは小柄な体をペコリと折りながら、少し戸惑ったような表情を浮かべている。
「お嬢様、ご機嫌いかがですか……? 先ほど旦那様とお話しされたと伺いました。お顔色が優れないように見えますが……」
「ええ……少し、考え込むことがあって」
やんわりと答えつつも、リジーには嘘をつけない。彼女も私が呼び出された理由を知っているのだろう。それだけに気遣ってくれているのが伝わってきた。
「きっと、政略結婚のお話しですよね……? 噂で聞きましたけど、クラレンス侯爵に嫁がれるんだとか」
「……そう。驚いたでしょう? 私もまだ頭が追いついていないわ」
リジーはそっと眉をひそめ、申し訳なさそうに目を伏せる。
「お嬢様のように聡明でお優しい方が、あの“冷徹”と噂のクラレンス侯爵と……。正直、わたくしも驚きました。けれど、もしかしたら噂は噂に過ぎないかもしれません。実際はとても良い方なのかもしれませんし……」
リジーの言葉に、思わず微笑みがこぼれそうになる。確かに、彼女の言うとおり、噂だけを鵜呑みにして判断するのは早計だ。それに、私も見ず知らずの人を一方的に悪く捉えるつもりはない。噂が全て真実とも限らないのだから。
「ありがとう、リジー。そうね、まだ決めつけるには早すぎるわ。私もあまり悲観的になりすぎず、もう少し様子を見てみることにするわ」
「はい、お嬢様……。あ、それから、旦那様が夕食の際にお嬢様を同席させるようお申し付けになられました。何か重要なお話があるのかもしれません。もう間もなく夕刻になりますが、お召し替えなどはいかがなさいますか?」
時計を確認すると、日は随分と傾いていた。父との会話ですっかり気力を奪われていたせいで、時間の感覚が曖昧になっていたらしい。私は軽く身支度を整えるために立ち上がり、鏡台の前へと移動した。
「ええ、お願いするわ。もしかしたらクラレンス侯爵の話でもあるのかもしれないし、礼を欠かないようにしないと」
「承知しました。では、お嬢様には淡い色のドレスを用意しますね。お顔色が優れないときは、明るい色を身につけたほうが気分も晴れやかになりますよ」
リジーは微笑みながら、手際よくクローゼットへ向かった。その姿を見つめながら、私は少しだけ安堵を覚える。こんなとき、彼女のように私を支えてくれる人がいるのは心強い。とはいえ、政略結婚の話が根本的に解決されたわけではない。夕食の席で父が何を言うのか、あるいは他に誰か来客があるのか……考えるだけで気が重い。
(この先、私はどうなるのだろう……)
鏡に映った自分の顔は、いつもよりほんの少しやつれて見えた。リジーが選んでくれる淡いピンクのドレスが、私の憂鬱を少しでも和らげてくれれば、と願わずにはいられない。
部屋の扉を閉めた瞬間、私はようやく深く息を吐いた。気丈でいなければならないと思いつつも、父からの政略結婚の命令は私の心を乱し続ける。書斎でのやり取りを思い出すだけで、息苦しさに胸が締めつけられた。
ベッドへ腰かけ、窓の外に視線を移す。季節は春先とはいえ、まだ肌寒さが残る空模様だ。陽光の加減で外の景色がどこか白っぽく霞んで見える。そのぼんやりとした風景が、今の私の心境を映しているようだった。
政略結婚など、この貴族社会では珍しい話ではない。幼少期から何度も耳にしてきたし、愛のない結婚が当たり前という世界でもある。だが、実際に自分の身に降りかかると、これほど複雑な気持ちになるのかと痛感していた。
(……クラレンス侯爵、エドワード・クラレンス。どんな人物なのだろう。)
私は頭の中で、噂に聞いたエドワードの姿を思い浮かべてみる。彼はまだ二十代半ばだというのに、若くして侯爵位を継ぎ、領地経営を難なくこなす手腕を持っているという。政治的な会合でも常に冷静沈着、かつ的確な判断で周囲を圧倒し、「冷酷な策略家」と呼ばれることも少なくない。
それに──どうやら女性関係の噂はほとんど聞かない。非情で孤高の貴族という印象が強いためか、彼に近寄ろうとする令嬢がいても相手にされない、というのがもっぱらの評判だった。だがその一方で、彼の美しい容姿に憧れる女性も多いらしい。黒髪に切れ長の瞳という端正な容貌は、冷徹さをさらに引き立てているとか。
「孤高の貴族ね……そういう人は、私みたいな娘とどう接してくるのかしら」
自然とため息がこぼれる。父が言うように、私の美貌と知性を買っているというのは、ただの方便だろう。実際はローウェル家との縁組で得られる何かしらの政治的・経済的メリットがあるに違いない。大貴族同士の結婚であれば、何かしら裏に利害関係があるものだ。
しかし、そうと分かっていてもやはり心は落ち着かない。私は自室の本棚に向かい、何冊か取り出した本を机に並べた。これらは貴族社会の慣習や法律、婚姻に関する規定などが書かれた分厚い書籍だ。かつて家庭教師から教わった知識を総ざらいし、少しでも自分を納得させる材料を探そうと考えた。
「政略結婚……その定義は、当事者間の愛情とは関係なく、家同士の利害を重視して結ばれる婚姻形態……。ふむ、まさに今の私の状況にぴったり当てはまるわね」
自嘲気味に呟きながら、ページをめくる。しかし、いくら理論を理解しても、私の心は不安と抵抗感に苛まれるばかりだ。何十ページか読み進めても頭に入ってこず、結局、机に突っ伏してしまった。知らず知らずのうちに溜め息が増える。頭では父の決断を受け入れなくてはと思いながら、感情が追いついてこないのだ。
そんなとき、部屋の扉が静かにノックされた。私は慌てて机から顔を上げ、咳払いをして声を掛ける。
「……はい、どうぞ」
入ってきたのは、私の専属メイドであるリジーだった。まだ若い彼女だが、幼少の頃から仕えてくれている信頼できる相手だ。リジーは小柄な体をペコリと折りながら、少し戸惑ったような表情を浮かべている。
「お嬢様、ご機嫌いかがですか……? 先ほど旦那様とお話しされたと伺いました。お顔色が優れないように見えますが……」
「ええ……少し、考え込むことがあって」
やんわりと答えつつも、リジーには嘘をつけない。彼女も私が呼び出された理由を知っているのだろう。それだけに気遣ってくれているのが伝わってきた。
「きっと、政略結婚のお話しですよね……? 噂で聞きましたけど、クラレンス侯爵に嫁がれるんだとか」
「……そう。驚いたでしょう? 私もまだ頭が追いついていないわ」
リジーはそっと眉をひそめ、申し訳なさそうに目を伏せる。
「お嬢様のように聡明でお優しい方が、あの“冷徹”と噂のクラレンス侯爵と……。正直、わたくしも驚きました。けれど、もしかしたら噂は噂に過ぎないかもしれません。実際はとても良い方なのかもしれませんし……」
リジーの言葉に、思わず微笑みがこぼれそうになる。確かに、彼女の言うとおり、噂だけを鵜呑みにして判断するのは早計だ。それに、私も見ず知らずの人を一方的に悪く捉えるつもりはない。噂が全て真実とも限らないのだから。
「ありがとう、リジー。そうね、まだ決めつけるには早すぎるわ。私もあまり悲観的になりすぎず、もう少し様子を見てみることにするわ」
「はい、お嬢様……。あ、それから、旦那様が夕食の際にお嬢様を同席させるようお申し付けになられました。何か重要なお話があるのかもしれません。もう間もなく夕刻になりますが、お召し替えなどはいかがなさいますか?」
時計を確認すると、日は随分と傾いていた。父との会話ですっかり気力を奪われていたせいで、時間の感覚が曖昧になっていたらしい。私は軽く身支度を整えるために立ち上がり、鏡台の前へと移動した。
「ええ、お願いするわ。もしかしたらクラレンス侯爵の話でもあるのかもしれないし、礼を欠かないようにしないと」
「承知しました。では、お嬢様には淡い色のドレスを用意しますね。お顔色が優れないときは、明るい色を身につけたほうが気分も晴れやかになりますよ」
リジーは微笑みながら、手際よくクローゼットへ向かった。その姿を見つめながら、私は少しだけ安堵を覚える。こんなとき、彼女のように私を支えてくれる人がいるのは心強い。とはいえ、政略結婚の話が根本的に解決されたわけではない。夕食の席で父が何を言うのか、あるいは他に誰か来客があるのか……考えるだけで気が重い。
(この先、私はどうなるのだろう……)
鏡に映った自分の顔は、いつもよりほんの少しやつれて見えた。リジーが選んでくれる淡いピンクのドレスが、私の憂鬱を少しでも和らげてくれれば、と願わずにはいられない。
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