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第1章:愛なき政略婚
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生まれ育った屋敷の中で、最も威圧感のある部屋といえば、父の書斎以外にはないだろう。分厚いカーペットが敷かれた床には、ところどころに重厚な木製の調度品が置かれ、壁には先祖代々の肖像画が並んでいる。昼間だというのに部屋の奥は薄暗く、外の光が十分に差し込まないせいか、どこか陰鬱な雰囲気が漂っていた。
そんな書斎の中央にある大きな机の前に立つと、私──アマンダ・ローウェルは、改めてこの場に似つかわしくないと思う。私のような二十歳そこそこの娘が、父と政治的な話をする場所ではない。ましてや、今日呼び出された理由は、ただの「話」などという生易しいものではなかった。
まるで裁判の被告のように立たされながら、私は父の厳めしい表情を見つめる。ここ数年、父がこんなにも固い面持ちで私に命令を下すのは初めてだった。
「アマンダ、お前はクラレンス侯爵と結婚する」
淡々とした声が、書斎の重苦しい空気をさらに押し広げる。私はその言葉を聞き、反射的に唇を噛んだ。まさか、こんなにも突然に政略結婚を言い渡されるなんて。……いや、わざわざ父が書斎に呼び出した時点で、こうなることは何となく勘づいてはいた。けれど、想像していたとしても、実際に宣告されると胸がざわついてしょうがない。
「クラレンス侯爵……エドワード・クラレンスのことですか」
確認するように訊ねると、父は「そうだ」と短く答える。エドワード・クラレンス──貴族社会では天才的な頭脳と冷徹な判断力で有名な若き侯爵である。確かに高位貴族の中では有数の家柄であり、莫大な資産と領地を持つ一族。けれども同時に、政敵や裏切り者には容赦がない非情な策略家という噂を耳にしたこともあった。
(そんな相手と結婚なんて、どれほどの意味があるのだろう……)
私たちローウェル家は、元々そこまで大きくはないながらも、格式を重んじる伝統ある家柄だ。祖父の代まではそれなりの富と地位を築いてきたと聞く。しかし時代の流れなのか、あるいは父の手腕が足りないのか、最近では内情が芳しくないという噂がちらほらある。私は詳しい財政状況など知らされていないが、父の顔つきからしてかなり追いつめられているのだろう。
それでも、この結婚がどれほどのメリットをローウェル家にもたらすのか、私には判然としない。莫大な財力を誇るクラレンス侯爵家と縁を結べば、経済的にも政治的にも安泰になるのは理解できる。けれど、私の気持ちはどうなる? もう少し時間をかけて、相手について知った上で判断させてくれてもいいのではないだろうか。
「お父様、まだ私はその……結婚など考えたこともなく……」
そう遠回しに抗議を試みるが、父は「黙れ」と一蹴する。私は思わず息を呑んだ。父の声が、昔よりもずっと重く険悪な響きを帯びていることに気づかされる。彼の目には焦燥と苛立ちが滲み、その奥底には何かを諦めたような暗い色が見えた。
「お前の意見を聞くつもりはない。既に婚約は決まったのだ。早ければ来月にも式を挙げる手はずになっている」
「来月……」
あまりにも急な話に、頭が追いつかない。まさか、もうそこまで話が進んでいるとは。私が唖然とするのを見計らったように、父はさらに淡々とした口調で続ける。
「詳しい段取りは私の方で進めてある。お前が準備すべきことは花嫁として最低限の振る舞いを身につけ、式に臨むことだけだ。あとはクラレンス侯爵家の手配に従えばいい」
父の一方的な口調に、私は反発心を抑えることができない。もともと私は感情を外に出すのが得意ではなく、冷静沈着だと周囲からは思われている。しかし、さすがに今回はそんな私でも怒りと悲しみが入り混じった気持ちでいっぱいだった。
「それはあまりにも理不尽です。私には私の人生があります。何故、こんなに急に……」
「理不尽? 理不尽であろうが構わん。お前は私の娘だ。父の命令に従うのは当然だろう。それにこれは、ローウェル家の存続がかかった大事な話だ。お前の我儘で取りやめにできるようなものではない」
最後の言葉は、もう脅しのようにも聞こえた。思い返せば、ローウェル家はここ数年、思うように領地経営が進まず、財政状況が悪化していると仄聞していた。実際、普段の暮らしにはほとんど支障を感じなかったが、父は常に苦悩の色を浮かべていた気がする。私が若い頃から仕えてくれていたメイド長も、最近になって突然解雇された。何かがおかしい、ローウェル家が変だ、と感じたのはあのときからだ。
そして今、父はまるで最後の賭けのように、私を政略結婚の駒として差し出す。胸が痛む……父はきっと私を愛してはいるのだろう。だが、その愛よりも家名の重みの方が優先されるのが、この世界の常であることも、痛いほど理解している。
すると、父は深いため息をつき、少しだけ声のトーンを落とした。
「アマンダ……私だって好きでこんな決断をしたわけではないのだ。お前を犠牲にしていることは分かっている。だが、他に道はない。クラレンス侯爵はお前の美貌と知性を買っている。これは我が家にとっても、お前にとっても悪い話ではない。結婚を承知してくれ」
それが父の精一杯の譲歩だったのかもしれない。だが、私はひとたびこみ上げた怒りを抑えられず、声を荒らげそうになった。しかし結局、それを飲み込んだ。どれほど抗議しても、父の決定が覆ることはないだろう。それに、家のため、と言われてしまえば、これ以上は何も言えなくなる自分が悔しかった。
結果、私は唇を結んだまま、何も言わずにただ黙り込む。父はそれで納得したのか、椅子の背もたれに大きく身体を預けた。まるで、重荷を一つ下ろしたと言わんばかりに。
「今日のところは下がりなさい。詳細は追って連絡する。……いいな?」
私はほんのわずかに頷き、書斎を後にした。廊下に出ると、胸に押し寄せていた感情が一気に溢れそうになる。けれども使用人の目がある。貴族の娘として、こんなところで取り乱すわけにはいかない。私はなんとか自分を律し、急ぎ足で自室へと戻った。
そんな書斎の中央にある大きな机の前に立つと、私──アマンダ・ローウェルは、改めてこの場に似つかわしくないと思う。私のような二十歳そこそこの娘が、父と政治的な話をする場所ではない。ましてや、今日呼び出された理由は、ただの「話」などという生易しいものではなかった。
まるで裁判の被告のように立たされながら、私は父の厳めしい表情を見つめる。ここ数年、父がこんなにも固い面持ちで私に命令を下すのは初めてだった。
「アマンダ、お前はクラレンス侯爵と結婚する」
淡々とした声が、書斎の重苦しい空気をさらに押し広げる。私はその言葉を聞き、反射的に唇を噛んだ。まさか、こんなにも突然に政略結婚を言い渡されるなんて。……いや、わざわざ父が書斎に呼び出した時点で、こうなることは何となく勘づいてはいた。けれど、想像していたとしても、実際に宣告されると胸がざわついてしょうがない。
「クラレンス侯爵……エドワード・クラレンスのことですか」
確認するように訊ねると、父は「そうだ」と短く答える。エドワード・クラレンス──貴族社会では天才的な頭脳と冷徹な判断力で有名な若き侯爵である。確かに高位貴族の中では有数の家柄であり、莫大な資産と領地を持つ一族。けれども同時に、政敵や裏切り者には容赦がない非情な策略家という噂を耳にしたこともあった。
(そんな相手と結婚なんて、どれほどの意味があるのだろう……)
私たちローウェル家は、元々そこまで大きくはないながらも、格式を重んじる伝統ある家柄だ。祖父の代まではそれなりの富と地位を築いてきたと聞く。しかし時代の流れなのか、あるいは父の手腕が足りないのか、最近では内情が芳しくないという噂がちらほらある。私は詳しい財政状況など知らされていないが、父の顔つきからしてかなり追いつめられているのだろう。
それでも、この結婚がどれほどのメリットをローウェル家にもたらすのか、私には判然としない。莫大な財力を誇るクラレンス侯爵家と縁を結べば、経済的にも政治的にも安泰になるのは理解できる。けれど、私の気持ちはどうなる? もう少し時間をかけて、相手について知った上で判断させてくれてもいいのではないだろうか。
「お父様、まだ私はその……結婚など考えたこともなく……」
そう遠回しに抗議を試みるが、父は「黙れ」と一蹴する。私は思わず息を呑んだ。父の声が、昔よりもずっと重く険悪な響きを帯びていることに気づかされる。彼の目には焦燥と苛立ちが滲み、その奥底には何かを諦めたような暗い色が見えた。
「お前の意見を聞くつもりはない。既に婚約は決まったのだ。早ければ来月にも式を挙げる手はずになっている」
「来月……」
あまりにも急な話に、頭が追いつかない。まさか、もうそこまで話が進んでいるとは。私が唖然とするのを見計らったように、父はさらに淡々とした口調で続ける。
「詳しい段取りは私の方で進めてある。お前が準備すべきことは花嫁として最低限の振る舞いを身につけ、式に臨むことだけだ。あとはクラレンス侯爵家の手配に従えばいい」
父の一方的な口調に、私は反発心を抑えることができない。もともと私は感情を外に出すのが得意ではなく、冷静沈着だと周囲からは思われている。しかし、さすがに今回はそんな私でも怒りと悲しみが入り混じった気持ちでいっぱいだった。
「それはあまりにも理不尽です。私には私の人生があります。何故、こんなに急に……」
「理不尽? 理不尽であろうが構わん。お前は私の娘だ。父の命令に従うのは当然だろう。それにこれは、ローウェル家の存続がかかった大事な話だ。お前の我儘で取りやめにできるようなものではない」
最後の言葉は、もう脅しのようにも聞こえた。思い返せば、ローウェル家はここ数年、思うように領地経営が進まず、財政状況が悪化していると仄聞していた。実際、普段の暮らしにはほとんど支障を感じなかったが、父は常に苦悩の色を浮かべていた気がする。私が若い頃から仕えてくれていたメイド長も、最近になって突然解雇された。何かがおかしい、ローウェル家が変だ、と感じたのはあのときからだ。
そして今、父はまるで最後の賭けのように、私を政略結婚の駒として差し出す。胸が痛む……父はきっと私を愛してはいるのだろう。だが、その愛よりも家名の重みの方が優先されるのが、この世界の常であることも、痛いほど理解している。
すると、父は深いため息をつき、少しだけ声のトーンを落とした。
「アマンダ……私だって好きでこんな決断をしたわけではないのだ。お前を犠牲にしていることは分かっている。だが、他に道はない。クラレンス侯爵はお前の美貌と知性を買っている。これは我が家にとっても、お前にとっても悪い話ではない。結婚を承知してくれ」
それが父の精一杯の譲歩だったのかもしれない。だが、私はひとたびこみ上げた怒りを抑えられず、声を荒らげそうになった。しかし結局、それを飲み込んだ。どれほど抗議しても、父の決定が覆ることはないだろう。それに、家のため、と言われてしまえば、これ以上は何も言えなくなる自分が悔しかった。
結果、私は唇を結んだまま、何も言わずにただ黙り込む。父はそれで納得したのか、椅子の背もたれに大きく身体を預けた。まるで、重荷を一つ下ろしたと言わんばかりに。
「今日のところは下がりなさい。詳細は追って連絡する。……いいな?」
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