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第1章:愛なき政略婚
1-5. 邂逅:冷酷な侯爵の微笑
しおりを挟むそして迎えた、エドワード・クラレンス侯爵の訪問日。当日は朝から屋敷中が落ち着かない雰囲気に包まれていた。使用人たちが早朝から庭の手入れを行い、廊下の絨毯にシミや埃がないか厳重にチェックする。キッチンでは豪華な昼食の支度が進められ、リビングには花が生けられる。父は一階の応接室で落ち着かない様子でうろうろしていた。
私はというと、式服に近い華やかさを持ったドレスを身につけ、リジーとともに二階の自室で待機している。あらかじめ父からは「侯爵が到着して落ち着いたら呼ぶ」と言われており、今はただその時を待つのみだ。
「お嬢様、緊張していらっしゃるご様子ですね……。大丈夫ですよ」
リジーは私の手をそっと握りしめ、励ますように微笑んでくれる。しかし、握られた指先は冷えきっている。自分でも分かるほどに手汗がにじみ、不安で頭がいっぱいだった。
「やっぱり、怖いのかもしれない……。会ったことのない相手と結婚する、という事実が……」
「大丈夫です。お嬢様は聡明で、美しく、思いやりのある方ですもの。どんなお相手だって、きっと一目で分かってくださいます。わたくしはそう信じています」
リジーの言葉が、少しだけ心を軽くする。私は深呼吸し、鏡の中の自分を見つめた。淡い水色のドレスは、私のダークブラウンの髪や瞳の色を引き立てている。メイクも派手ではなく、自然な美しさを意識して施してもらった。見た目だけなら、そこそこ人並み以上には見えるはず……と自分を奮い立たせる。
すると突然、廊下から足音が聞こえ、部屋の扉がノックされた。扉越しに声がする。
「お嬢様、旦那様がお呼びです。クラレンス侯爵がいらっしゃいました」
私は思わず息を飲む。ついに、そのときが来たのだ。リジーが私のスカートの裾を整え、私は背筋を伸ばして立ち上がる。息を落ち着かせるように、何度か深呼吸してから扉を開けた。
使用人に案内されるまま、私は階段を下りる。心臓が高鳴っているのが自分でも分かる。焦る気持ちを抑えながら、父が待つ応接室へ向かった。
扉の前に立つと、使用人が先に入室を告げ、ドアを開く。私は一歩、足を踏み出した。
「失礼いたします……」
そう口にした瞬間、部屋の中にいた一人の男性が目に飛び込んできた。黒髪を短く整え、端整な顔立ちに切れ長の瞳を持つ。まさに「美丈夫」という言葉がしっくりくる容貌だ。おそらく彼がエドワード・クラレンス……私の“婚約者”となる相手。
薄く微笑んでいるように見えたが、その瞳には鋭い光が宿っているようだった。冷徹さと知性を感じさせる眼差し。私はその視線をまともに受け、思わず言葉を失いそうになる。
「こちらこそ、初めまして。私はエドワード・クラレンスです」
穏やかな声で名乗った彼は、私に向けて丁寧に一礼した。意外なほど柔らかな声音だった。そして続けて「アマンダ・ローウェル嬢ですね?」と、私の名を確認する。
「は、はい……わたくしが、アマンダ・ローウェルです。初めまして、クラレンス侯爵」
自分でも驚くほど声が上ずっていたが、何とか返事をする。すると、彼の口元がさらに少しだけ緩んだ。
「噂に違わぬお美しさで、少々緊張してしまいます。お父上から、あなたは気品と知性を兼ね備えた女性だと伺っていましたが……光栄です、お会いできて」
そんな言葉が返ってくるなんて、思いもよらなかった。冷酷な策略家という先入観を抱いていた私は、拍子抜けしてしまうほど穏やかな対応に驚く。どこにも冷徹な雰囲気は見当たらない……いや、表面上だけかもしれないが。
父はそんな私たちのやり取りを見て、低い声で「……座りなさい、アマンダ」と促した。私は軽く会釈し、エドワードの斜め向かいに腰を下ろす。エドワードも再びソファに座ると、足を組みながら視線を私に向けた。
「本日はお忙しい中、お招きいただきありがとうございます。早速ではありますが、私はアマンダ嬢との婚約を心から望んでいることをお伝えしたく、こうして足を運ばせていただきました」
彼の声は静かで落ち着いていて、その中にどこか揺るぎない確信が宿っているように感じる。私は緊張しながらも、失礼のないようにと微笑みを返す。
「そう言っていただけるのは、光栄です。あの……私の方こそ、まだ何のご挨拶もできず申し訳ありません。どうかよろしくお願いいたします」
父は二人のやり取りを少し離れた場所から見守っている。顔は相変わらず厳しい表情を保っているが、エドワードの言葉遣いや態度を見て、少し安心したようにも見える。
エドワードはさらに言葉を続ける。
「私も結婚には慎重でしたが、ローウェル公爵(※ここでは父の地位を公爵と仮定)からあなたの噂を聞き、ぜひお会いしたいと思ったのです。知性と気品を兼ね備えた方は、なかなかいらっしゃらない。おまけにこれほどの美貌をお持ちとは、噂以上でしたね」
まるで口説き文句のような直接的な賛辞に、私は戸惑いを隠せなかった。普段、男性からこんな風にストレートに褒められることは滅多にない。何か裏があるのではないかと疑ってしまうくらいだ。しかし、エドワードの表情には下心らしきものは感じられない。ただ淡々と、事実を述べているようにも見える。
「もったいないお言葉です。私は……そんなに大した者ではありません」
「謙遜もお上手だ。それだけ自制心があるということならば、ますます興味が湧きますね。……アマンダ嬢、私はあなたとの結婚を真剣に考えております。この婚約を通じて、両家の関係はより良いものになるでしょう。そして、あなた個人の夢や目標があれば、微力ながら全力で支援するつもりです」
意外な言葉だった。「あなた個人の夢や目標を支援する」というのは、ただのリップサービスだろうか。それとも、本当にそう考えているのだろうか。普通の政略結婚であれば、花嫁側に自由や権利はほとんど与えられないのが常だ。夫の家に嫁ぎ、夫の家のために尽くす。それが貴族の女性に課された義務。それを当然と考える男性が多い中、エドワードの言い分は確かに珍しいと感じる。
(この人は本当に冷酷な策略家なのか……?)
頭の中で疑問が渦巻く。しかし、今初対面である以上、彼の真意を見抜くのは難しい。私はただ、「ありがとうございます……」とお礼を述べることしかできなかった。
やがて父が口を開き、正式にこの縁談を進めることを確認すると、エドワードは満足げに頷いた。
「では、挙式の日取りについては改めてご相談させていただきたいと思います。……アマンダ嬢、近いうちに私の領地へお越しになりませんか? 結婚をする以上、あなたの新たな住まいを見ていただいた方が良いでしょう」
そう言ってこちらを見つめる瞳には、どこか優しさのようなものが感じられる。それが本心かどうか分からない。けれど、私は嫌な感情を抱かなかった。むしろ、こうして笑みを向けられると、その人柄に魅了されそうになる自分がいる。
「はい……ぜひ、お伺いしたいです。よろしくお願いいたします」
そう答えながら、私は父の顔色を窺った。父は難しい表情のまま無言でいる。が、反対する様子はない。おそらく父としても、ローウェル家の将来を背負ってくれる強力な後ろ盾が欲しいはずだ。クラレンス侯爵家に嫁ぐことには賛成なのだろう。
こうして、私とエドワード・クラレンスは正式に「婚約者」として顔を合わせることになった。初対面の印象は、噂に聞くような冷酷さが表面には出ていない。それどころか、穏やかで礼儀正しく、私の心を案外すんなりと受け止めてくれるように思えた。
それでも、どこか胸の奥底にうずくのは、この結婚が“家同士の利益”を最大限に考慮した政略結婚であるという冷徹な事実。エドワードがもし、私の前で優しい仮面を被っているだけだとしたら……その真意をまだ知らない私は、今後、どのように彼と接すればいいのだろう。
(愛なき政略婚──。でも、もしかしたら、それも悪くはないのかもしれない。彼が本当に冷たくないのなら……)
そんな一抹の期待が、私の不安をほんの少しだけ和らげる。だが、この決断が私の運命を大きく変えてしまうのは間違いない。
曖昧な微笑みを浮かべるエドワード・クラレンスの横顔を眺めながら、私は心の中で静かに決意する。この人の本当の姿を、この目で確かめてみよう、と。
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