当店では真実の愛は取り扱っておりません

鍛高譚

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1話

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 ――貴族社会とは、つくづく奇妙なものだ、とココア・ブレンディは思う。
 華やかなドレスと絢爛たる装飾品。季節が移り変われば、まるで服を着替えるように主人の愛情も変わることがある。そうした移ろいに戸惑う人もいれば、喜ぶ人もいる。ココアはどちらかといえば、極力穏便にすませたいタイプだった。
 だが、今回ばかりはそうもいかない。なぜなら、自分自身の「婚約破棄」が、あまりにも唐突に、そして華々しく宣言されたのだから。

 季節は春。王都には柔らかな日差しが降り注ぎ、街路樹が眩しい緑の葉を揺らしている。そんな穏やかな午後、ココアは自邸でぼんやりと紅茶を啜っていた。
 服装は昼下がりのティータイムにふさわしい淡いピンクのドレス。けれど気の抜けた顔でテーブルを見つめているのは、先ほど届いた手紙が原因だ。

「ブラック公爵家のご子息が、ぜひにもお目通り願いたい……って、いったい今さら何の御用かしらね?」

 無理やり日程をねじ込んできたわりには、“要件は当日お話しする”とだけ書かれている。しかも「大事なお話」などと仰々しい文面だ。
 ココアの乳母にして家令補佐を務めるナッツは、少し困惑した表情で言った。

「どうも急いでいる様子でしたよ。ココア様が外出しておられる日を調べて、わざわざこの日を指定されたようです。何か言いづらいご用件でもあるのかと、勘繰りたくなりますね」

「本当に何かしら。婚約してからというもの、私との会話なんてほとんどなかったくせに」

 ココアがカフェ・ブラックとの婚約を取り決められたのは、一年ほど前。
 ブレンディ公爵家とブラック公爵家は、王国内でも有数の由緒正しい名門同士だ。お互いの家柄を支え合う意味で、両家の当主同士が取り決めた縁談――つまり政略結婚である。
 ココア自身は、当初からそれに対してさして不満は抱いていなかった。“公爵家の令嬢”として生まれた以上、政略結婚はある程度宿命だと割り切っていたからだ。
 だが、婚約してから今日に至るまで、カフェが積極的に彼女にアプローチした記憶はない。軽く挨拶を交わす程度。ココアも無理に関係を深めようとは思わなかった。そもそも、公の場ではそこそこ体裁を保っていてくれればいいと思っていたのだ。
 しかし、つい先月くらいから「カフェの様子がおかしい」という噂がちらほら聞こえてくるようになった。妙に浮かれた様子で街を歩いているとか、新しい恋をしているかのような煌めいた顔をしているとか。
 だが、まさかこれが「婚約破棄」を告げるための前振りだとは――この時点でココアは、夢にも思っていなかった。

 そして約束の時間。ブレンディ公爵家の応接室。
 華美ではなく、落ち着いたシックな装いの応接セットが並ぶそこに、ココアは先に座していた。ドアが開き、遠慮がちに控えていた執事が来客を通す。

「ココア様、ブラック公爵家のご子息、カフェ様をお連れしました」

「ご苦労さま。――どうぞ、お入りくださいませ」

 その声に応え、ゆったりとした動作で入ってきたのは、艶のある黒髪を肩のあたりで整えた青年だ。背はすらりと高く、いかにも「名門貴族の嫡男」といった佇まい。
 だが、ココアの目から見ると、今日はどことなく浮き足立っているように見える。軽く伏し目がちにしてはいるが、その顔つきはひどく上ずっていた。

「こんにちは、ココア……いや、ココア様」

 彼は小さく会釈をするが、口調が定まらない。
 ココアはこくりと頷き、手でソファを指し示した。

「どうぞ、お座りになって。お茶をお出ししましょう。せっかくお越しいただいたのですもの、ゆっくりお話を伺いますわ」

「い、いや……ああ、ありがとう。あまり長居はできないのだが、少しお話したいことがあって」

 どこかそわそわと落ち着かない様子で、カフェはソファに腰を下ろす。
 すぐにメイドが上質な茶葉を使った紅茶を運んできたが、カフェはそれを口にしようともせず、ややあって意を決したように口を開いた。

「急に申し訳ないが……きみとの婚約を、解消させてほしいんだ」

 ――その瞬間。応接室に、シンと静寂が落ちる。
 婚約解消。つまり、婚約破棄。
 ココアは思わずまばたきをした。ここに至るまでの流れがいきなりすぎて、頭が追いつかない。自分の耳を疑いそうになったが、カフェの真剣な表情を見る限り、この男はどうやら本気らしい。
 けれど、こういう場面でも慌てふためかないのが、ココア・ブレンディの性分だ。

「……なるほど。婚約を解消、つまり私との縁談を白紙に戻すというご意志。理由を伺えますか?」

 カフェは、少しうろたえながらも答える。

「そ、それは……俺は、真実の愛に目覚めたんだ。だから、このまま形式的な婚約を続けるわけにはいかない」

「真実の愛、ですか」

「そうだ。互いに形ばかりの結婚をしても、不幸になるだけだろう。ココアには悪いと思うが、俺は、他に心惹かれる女性を見つけてしまった」

 その言葉はあまりにも唐突で、けれど妙に説得力に欠ける。「真実の愛」という抽象的すぎる理由だけで婚約破棄を押し付けられるなど、普通なら怒りが湧いてきてもおかしくない。
 だが、ココアはなぜか、そこまで腹は立たなかった。むしろ――

(あら、政略結婚から解放される? 意外と好都合かも)

 そんな考えが頭をよぎる。
 しかし、それでも礼儀として、一応は相手の真意を確かめたかった。

「……その真実の愛とやらを、具体的に教えていただけますか? 私としても、あなたの決断を尊重したいと思っていますの」

 自分から冷静にそう告げると、カフェは一瞬、拍子抜けしたように目を丸くする。
 普通なら「ふざけないで!」と叫んだり、涙に暮れたりする場面だろうに、ココアがあまりにも落ち着いているので、彼も調子が狂ったようだ。

「あ、ああ……そうだな。実は、最近出会った女性がいて……」

「最近、出会った?」

「といっても、俺は彼女を見かけただけなんだが。その瞬間、ビビッときて……きっとこれこそが運命なんだって思ったんだ」

「ほう。それで、お相手は?」

 カフェは胸を張り、言いにくそうにしながらも口にする。

「パステル商会の娘、クレオ・パステルさん……だ。知っているか?」

 パステル商会――ココアもその名を知らないわけがない。王都屈指の規模を誇る大商会だ。銀行のような役割を担い、多くの貴族や商人に融資を行いながら莫大な利益をあげていると噂されている。
 ただ、“クレオ・パステル”という娘は面識がない。というより、彼女が社交界に姿を見せたという話を聞いたことがない。
 カフェは熱っぽく続ける。

「彼女なら、俺と同じくらい高貴で……いや、あの笑顔を思い出すだけで胸が苦しくなる。きっと真実の愛だと思うんだ」

「……そう、ですか」

 そこまで言われて、ココアはふと疑問に思った。
(クレオ・パステルとやらは、本当に彼を相手にしているのだろうか?)
 カフェの発言からすると、彼女とはろくに会話すら交わしていない可能性が高い。名前だけで突っ走っている印象さえある。これが恋に浮かれた若者の勘違いだとしたら、笑い話で終わるかもしれないが……。

 それでもカフェの様子は真剣そのものだ。
 ただし“真剣なわりにどこか浮ついている”という、奇妙な矛盾を含んでいる。それは「本気の恋愛」というよりも、何か別の思惑を抱えている可能性を感じさせる。
 ココアはまじまじとカフェを見つめ、最後に静かな声で問いかける。

「……わかりました。では、その方に真実の愛を感じたからといって、私との婚約は続けられない――それが結論なのですね?」

「そ、そうだ。すまない。お前には本当に悪いと思っている」

 謝罪こそ口にするが、彼の瞳に後悔の色は見えない。むしろ、ついに言い出せた安堵と、新しい恋に浮かれる期待が見え隠れしている。
 ココアは少し嘆息してから、ソファから立ち上がり、彼に正面から向き直った。

「わかりました。婚約破棄、承諾いたします。……ですが」

「で、ですが?」

「あなたが言う“真実の愛”というのが、本当にきちんと成立するのかどうか――それは存分に確かめさせていただきたいですわ」

 カフェは戸惑ったような顔をする。だが、ココアが言ったのは、あくまで“あなたが望むなら結構です”という趣旨にすぎない。反対するどころか、むしろ快諾しているではないか。
 そのあまりのあっさりぶりに、カフェは混乱する。

「そ、それはつまり……俺たちの婚約は、もう解消、ということで?」

「ええ。今日限りで白紙に戻しましょう。ただし、あまりにも一方的なので、きちんと手続きを踏んでくださいませね。書類関係などは、ブレンディ家の顧問弁護士を通して話を進めさせていただきますわ」

「……あ、ああ。わかった」

 カフェはどこか拍子抜けしたように頷く。
 ココアは最後にそっと微笑んだ。その笑みは、名門令嬢らしい気品を湛えながらも、どこか冷徹に見えた。

(こうなった以上、私のほうも動きやすいわね。さて、ここからどう楽しませてもらおうかしら)

 背筋を伸ばしたまま一礼し、カフェは応接室を出て行く。結局、用件はそれだけで、彼は紅茶に一口も口をつけなかった。
 やがてドアが閉まったあと、部屋にはココア一人が残される。しんと静まりかえった空間に、彼女は小さく息をついた。

「――ふう。ずいぶんと強引な破談ですこと。普通なら大問題になるはずですわ」

 しかし、不思議とココアの心は、すがすがしい解放感に満ちていた。もともと乗り気ではなかった婚約だ。面倒な“夫婦生活”を送るより、自分らしく生きられる道が開けたようにも思える。

「ただ、このまま黙って終わるのは、ちょっと退屈ですわね」

 彼女はそう呟き、小悪魔的な笑みを浮かべる。
 ブラック家が真に狙っているものは何か――そういった裏の事情も気になるし、自分を一方的に“返品”してきた相手を、何のペナルティもなく野放しにするのは性に合わない。
 そう思いながら、ココアは机の上に置いてあった手紙をもう一度眺め、頭の中で“今後のプラン”を組み立て始めた。
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