9 / 22
10話
しおりを挟む
散策を終えて屋敷に戻ると、改装工事に来てくれている大工の若者が声をかけてきた。
「アンリ様、ちょいと相談なんですが……お店に看板を掛けるなら、なんて名前にしましょうか?」
「あ、そうでしたわね。店名を考えないと。うーん……“シャルパンティエ洋菓子店”というのはどうかしら?」
わたくしの名前“シャルパンティエ”をそのまま使うのは、少し照れくさくもある。しかし、王都であれこれ考えた末に辿り着いた答えだった。名前が長すぎるのは困るので、シンプルに“シャルパンティエ洋菓子店”としたい。
大工の若者は「なるほど、シャルパンティエ……覚えにくいかもしれないけど、かっこいい響きじゃないですか」と笑っていた。わたくしも何度か口に出してみる。
「シャルパンティエ洋菓子店……なんだか、いい感じですわ。うふふ」
まだ準備段階だが、少しずつ形になっていく“わたくしの店”――そのイメージが膨らむたびに、昂揚感を覚える。
そして改装工事が終わりを迎えようとしていたある日の夕方。わたくしは厨房で明かりを灯しながら、試作のタルト生地を仕込んでいた。クッキーなどの簡単なお菓子はある程度のコツを掴んだが、タルトとなると焼き加減が難しい。生地がうまく焼けないと、底が生焼けになったり、逆に縁だけ硬くなってしまったりするからだ。
しかも、まだ桃が手に入っていない。現在ある果物といえば、リンゴやベリー類くらい。仕方なくリンゴを使って“タルト・オ・ポム”を試作し、あくまで焼き加減の研究に専念している。
「……もうちょっと、火力を抑えてみましょうか」
竈の扉を少しだけ開け、熱がこもりすぎないようにする。温度計など当然ないから、炎の色や生地の香りを頼りに焼き加減を見極めるのだが、これがなかなか面白い。同時に、わたくしの感覚が研ぎ澄まされていくのを感じる。
しばらく待ってから、そっとタルト型を取り出す。熱々に焼けた生地からは、リンゴとバターの甘い香りが立ち昇ってきた。生地の色合いは黄金色に近く、焦げはない。成功だ。わたくしは切り分けて一口味見をする。
「……おいしい……!」
リンゴの瑞々しさと甘く煮込んだ風味が、生地のサクサク感と融合している。使ったバターがとても良いからか、香りもしっかりと立っている。これは、桃が手に入ったらどれだけ絶品になるだろう。想像しただけで、わたくしは鳥肌が立つほどの喜びを覚えた。
「これなら充分勝負できますわ。あとは……そう、あの“野生の果樹園”の桃を手に入れられれば……」
胸の奥に灯った静かな野心。わたくしはこの地で最高のタルトを完成させたい。いつか、王都で“ざまあ”と思うほどの成功を収めるためにも――それは半ば意地かもしれないが、確かにわたくしを突き動かす原動力になっている。
そんなふうに意気込んでいると、外から馬の蹄の音が聞こえた。こんな辺鄙な屋敷に来客だろうか……? ピエールが玄関で応対しているような声がかすかに聞こえてくる。
やがてピエールが厨房に姿を見せた。申し訳なさそうに、しかしどこか緊張した面持ちで、わたくしに言う。
「アンリ様、少し大変な方がいらっしゃいました……。城下町からいらした、高位の騎士のようで、たまたま近くを通って屋敷の存在を見つけたとか。今、応接室でお待ちいただいています」
「騎士……ですか? こんな辺境に何の用でしょう」
胸の奥がざわつく。もしかして、王都から何か言いがかりをつけられるのでは? あるいは、婚約破棄の事情を探りに来たのかもしれない。色んな考えが一気に頭をよぎる。
「わかりませんが、見たところ身なりもかなり高価な装いをしておられます。年の頃は……アンリ様と同じくらいでしょうか。物腰は丁寧ですが、妙にこちらを観察しているような雰囲気があります」
「……わかりました。わたくしが直接お話ししましょう」
そう言ってエプロンを外し、急いで身だしなみを整える。パリッとしたドレスを着ているわけではないが、せめて髪を整えて裾の粉を払わないと。王都を離れたからといって、最低限の礼儀はわきまえておきたい。
「アンリ様、ちょいと相談なんですが……お店に看板を掛けるなら、なんて名前にしましょうか?」
「あ、そうでしたわね。店名を考えないと。うーん……“シャルパンティエ洋菓子店”というのはどうかしら?」
わたくしの名前“シャルパンティエ”をそのまま使うのは、少し照れくさくもある。しかし、王都であれこれ考えた末に辿り着いた答えだった。名前が長すぎるのは困るので、シンプルに“シャルパンティエ洋菓子店”としたい。
大工の若者は「なるほど、シャルパンティエ……覚えにくいかもしれないけど、かっこいい響きじゃないですか」と笑っていた。わたくしも何度か口に出してみる。
「シャルパンティエ洋菓子店……なんだか、いい感じですわ。うふふ」
まだ準備段階だが、少しずつ形になっていく“わたくしの店”――そのイメージが膨らむたびに、昂揚感を覚える。
そして改装工事が終わりを迎えようとしていたある日の夕方。わたくしは厨房で明かりを灯しながら、試作のタルト生地を仕込んでいた。クッキーなどの簡単なお菓子はある程度のコツを掴んだが、タルトとなると焼き加減が難しい。生地がうまく焼けないと、底が生焼けになったり、逆に縁だけ硬くなってしまったりするからだ。
しかも、まだ桃が手に入っていない。現在ある果物といえば、リンゴやベリー類くらい。仕方なくリンゴを使って“タルト・オ・ポム”を試作し、あくまで焼き加減の研究に専念している。
「……もうちょっと、火力を抑えてみましょうか」
竈の扉を少しだけ開け、熱がこもりすぎないようにする。温度計など当然ないから、炎の色や生地の香りを頼りに焼き加減を見極めるのだが、これがなかなか面白い。同時に、わたくしの感覚が研ぎ澄まされていくのを感じる。
しばらく待ってから、そっとタルト型を取り出す。熱々に焼けた生地からは、リンゴとバターの甘い香りが立ち昇ってきた。生地の色合いは黄金色に近く、焦げはない。成功だ。わたくしは切り分けて一口味見をする。
「……おいしい……!」
リンゴの瑞々しさと甘く煮込んだ風味が、生地のサクサク感と融合している。使ったバターがとても良いからか、香りもしっかりと立っている。これは、桃が手に入ったらどれだけ絶品になるだろう。想像しただけで、わたくしは鳥肌が立つほどの喜びを覚えた。
「これなら充分勝負できますわ。あとは……そう、あの“野生の果樹園”の桃を手に入れられれば……」
胸の奥に灯った静かな野心。わたくしはこの地で最高のタルトを完成させたい。いつか、王都で“ざまあ”と思うほどの成功を収めるためにも――それは半ば意地かもしれないが、確かにわたくしを突き動かす原動力になっている。
そんなふうに意気込んでいると、外から馬の蹄の音が聞こえた。こんな辺鄙な屋敷に来客だろうか……? ピエールが玄関で応対しているような声がかすかに聞こえてくる。
やがてピエールが厨房に姿を見せた。申し訳なさそうに、しかしどこか緊張した面持ちで、わたくしに言う。
「アンリ様、少し大変な方がいらっしゃいました……。城下町からいらした、高位の騎士のようで、たまたま近くを通って屋敷の存在を見つけたとか。今、応接室でお待ちいただいています」
「騎士……ですか? こんな辺境に何の用でしょう」
胸の奥がざわつく。もしかして、王都から何か言いがかりをつけられるのでは? あるいは、婚約破棄の事情を探りに来たのかもしれない。色んな考えが一気に頭をよぎる。
「わかりませんが、見たところ身なりもかなり高価な装いをしておられます。年の頃は……アンリ様と同じくらいでしょうか。物腰は丁寧ですが、妙にこちらを観察しているような雰囲気があります」
「……わかりました。わたくしが直接お話ししましょう」
そう言ってエプロンを外し、急いで身だしなみを整える。パリッとしたドレスを着ているわけではないが、せめて髪を整えて裾の粉を払わないと。王都を離れたからといって、最低限の礼儀はわきまえておきたい。
1
あなたにおすすめの小説
一年後に離婚すると言われてから三年が経ちましたが、まだその気配はありません。
木山楽斗
恋愛
「君とは一年後に離婚するつもりだ」
結婚して早々、私は夫であるマグナスからそんなことを告げられた。
彼曰く、これは親に言われて仕方なくした結婚であり、義理を果たした後は自由な独り身に戻りたいらしい。
身勝手な要求ではあったが、その気持ちが理解できない訳ではなかった。私もまた、親に言われて結婚したからだ。
こうして私は、一年間の期限付きで夫婦生活を送ることになった。
マグナスは紳士的な人物であり、最初に言ってきた要求以外は良き夫であった。故に私は、それなりに楽しい生活を送ることができた。
「もう少し様子を見たいと思っている。流石に一年では両親も納得しそうにない」
一年が経った後、マグナスはそんなことを言ってきた。
それに関しては、私も納得した。彼の言う通り、流石に離婚までが早すぎると思ったからだ。
それから一年後も、マグナスは離婚の話をしなかった。まだ様子を見たいということなのだろう。
夫がいつ離婚を切り出してくるのか、そんなことを思いながら私は日々を過ごしている。今の所、その気配はまったくないのだが。
うまくやった、つもりだった
ひがん さく
恋愛
四大貴族、バルディストン公爵家の分家に生まれたオスカーは、ここまでうまくやってきた。
本家の一人娘シルヴィアが王太子の婚約者に選ばれ、オスカーは本家の後継ぎとして養子になった。
シルヴィアを姉と慕い、養父に気に入られ、王太子の側近になり、王太子が子爵令嬢と愛を深めるのを人目につかぬよう手助けをし、シルヴィアとの婚約破棄の準備も整えた。
誠実と王家への忠義を重んじるこの国では、シルヴィアの冷徹さは瑕疵であり、不誠実だと示せば十分だった。
かつてシルヴィアはオスカーが養子になることに反対した。
その姉が後妻か商家の平民に落ちる時が来た。
王太子の権威や素晴らしさを示すという一族の教えすら忘れた姉をオスカーは断罪する。
だが、シルヴィアは絶望もせずに呟いた。
「これだから、分家の者を家に入れるのは嫌だったのよ……」
嫌われたと思って離れたのに
ラム猫
恋愛
私は、婚約者のカイルに嫌われたと思った。冷たくそっけなく、近づくたびに避けられる日々。
距離を置くことを選び、留学の準備も進めて心を落ち着かせようとするけれど——。
筆頭婚約者候補は「一抜け」を叫んでさっさと逃げ出した
基本二度寝
恋愛
王太子には婚約者候補が二十名ほどいた。
その中でも筆頭にいたのは、顔よし頭良し、すべての条件を持っていた公爵家の令嬢。
王太子を立てることも忘れない彼女に、ひとつだけ不満があった。
とっていただく責任などありません
まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、
団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。
この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!?
ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。
責任を取らなければとセルフイスから、
追いかけられる羽目に。
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
婚約破棄を伝えられて居るのは帝国の皇女様ですが…国は大丈夫でしょうか【完結】
繭
恋愛
卒業式の最中、王子が隣国皇帝陛下の娘で有る皇女に婚約破棄を突き付けると言う、前代未聞の所業が行われ阿鼻叫喚の事態に陥り、卒業式どころでは無くなる事から物語は始まる。
果たして王子の国は無事に国を維持できるのか?
婚約破棄されたその後は、何も起きない日々でした
ふわふわ
恋愛
婚約破棄――
それは、多くの令嬢にとって人生を揺るがす一大事件。
けれど彼女は、泣き叫ぶことも、復讐に走ることもなかった。
「……では、私は日常に戻ります」
派手なざまぁも、劇的な逆転劇もない。
彼女が選んだのは、線を引き、基準を守り、同じ判断を繰り返すこと。
王宮では改革が進み、領地では生活が整えられていく。
誰かが声高に称えられることもなく、
誰かが悪役として裁かれることもない。
それでも――
混乱は起きず、争いは減り、
人々は「明日も今日と同じである」ことを疑わなくなっていく。
選ばない勇気。
変えない決断。
名を残さず、英雄にならない覚悟。
これは、
婚約破棄をきっかけに
静かに日常を守り続けた一人の令嬢と、
その周囲が“当たり前”を取り戻していく物語。
派手ではない。
けれど、確かに強い。
――それでも、日常は続く。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる