追放令嬢の辺境パティスリー ~桃のタルトと第二王子の溺愛~

鍛高譚

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11話

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馬車に揺られること数日。アンリ・シャルパンティエ・マ・タルト・オ・ペーシュ――わたくしは王都を遠く離れ、ようやく「辺境伯領」と呼ばれる地に足を踏み入れた。

 黄土色の草原や、低い丘の連なる景色が見渡す限り広がっている。この辺境伯領は、王都のような壮麗な城壁や賑やかな商業区こそないものの、大地の力強さと、そこに暮らす人々の逞しさが感じられる独特の雰囲気をまとっていた。

 道中、何度か村や小さな町を通りかかったが、どこも王都とは比べものにならないほど静かで、しかし人々が顔を合わせるたびに明るい声を掛け合っているのが印象的だった。王都にいるときのような、どこか張り詰めた空気はない。代わりに、素朴な安心感があった。

 馬車を降り、わたくしは大きく伸びをする。背中を包む心地よい風――それはまだ初夏のさわやかな香りを乗せて運んでくる。桃の花の季節はとっくに過ぎてしまったが、きっとここでも美味しい桃が育っているはず……そう想像するだけで、わたくしの心は弾んだ。

 「よし、まずは今日からお世話になる屋敷に向かいましょうか」

 わたくしは自分で運転手を雇っていたわけではない。伯爵家からの援助は最小限に留める形で、地元の馬車引きに頼りながらなんとかここまで辿り着いたのだ。しかし、さすがにいきなり土地勘のない場所で行き場を失うわけにもいかない。わたくしの祖母が昔、親しくしていたという知人の一族が、この辺境伯領で屋敷を管理していると聞いていた。そこに滞在させてもらえるよう、事前に手紙を出してある。

 もっとも、祖母は数年前に他界しているし、その知人というのも本当に健在なのか、詳しいことはわからない。しかし返事の手紙には「ぜひいらしてください。亡き奥方が大変お世話になりました。喜んでお迎えいたします」と書かれていた。わたくしの伯爵家の姓を聞いて嫌な顔をする人も少なくないだろうに、その言葉に救われる思いだった。

 運んできた荷物は相当な量だ。とりわけ、お菓子づくりの道具やレシピ集、それから桃のジャムや砂糖漬けなども仕込んで持ってきたため、箱がいくつも山積みになっている。馬車から荷物を下ろすのを手伝ってもらい、ふと視線を上げると、目の前には古いながらもしっかりとした造りの屋敷があった。

 「ここが……。大きいとは聞いていましたけれど、想像以上ですわね」

 辺境伯領の、しかも城下町からだいぶ離れたこの場所に、二階建ての洋館がぽつんと建っている。庭には雑草も目立つが、広大な敷地が広がっていた。ここがしばらくの間、わたくしの“住処”になるのだ。

 玄関扉に近づくと、使用人らしき老齢の男性がすぐに出迎えてくれた。丸メガネをかけていて、小柄で痩せている。腰を軽く曲げているが、目には何やら気骨の強さが感じられる。

 「アンリ様でいらっしゃいますね。お待ちしておりました。どうぞ、中へお入りください」

 穏やかな笑みを浮かべるその人は、祖母の知人筋にあたる使用人――いや、今はここの管理人を務めているらしい。名前はピエールと言う。

 わたくしは丁寧に挨拶をすると、ピエールは荷物の運び入れを手配しながら、屋敷の中を案内してくれた。

 「かつてはここを、マダム(アンリ様の祖母)が隠居先にしようと考えていたのですが……結局、王都に残られたんですよね。以来、わたくしどもで最小限の手入れを続け、空き家としては傷まぬようにしていました」

 ピエールの言葉の端々に感じる“懐かしむ”ような空気は、祖母に対する敬愛の念をはっきりと表していた。広い屋敷には大きなホールや複数の部屋があるものの、使用人が大勢詰めていた形跡はない。あまり豪奢な家具も残されていないし、装飾も質素なままだ。わたくしがここで暮らすにしては、逆にちょうどいいかもしれない。

 「助かりますわ。わたくしは派手な暮らしをするつもりはありませんから。むしろ広すぎて、少しもてあましてしまいそう……」

 そう言うと、ピエールは小さく笑った。

 「大丈夫ですよ。最低限の部屋だけ使い、あとは倉庫代わりにすればよろしいかと。水や薪の確保などは、わたくしたちがお手伝いいたします。ご安心ください」

 ありがたい申し出だった。王都のように水道設備が整っているわけでもなく、薪や炭も自分で調達しなければならないのが辺境の暮らしだと聞いていたからだ。この広い屋敷にピエールたち管理人が常駐してくれるのであれば、日々の雑事もそう苦にならないだろう。

 ひとしきり屋敷を見回したあと、わたくしは廊下の奥にある一室を案内してもらった。そこはかつてはサロンとして使われていたらしいが、今はほぼ空っぽに近い。だが、大きな窓から光が差し込み、奥には簡易的な暖炉らしき設備も見える。

 「ここを……菓子作りのアトリエ兼、お店にできないかしら」

 わたくしは部屋の中をぐるりと見回す。生地をこねる作業台やオーブン、道具を置く棚なんかが必要になるが、スペースは十分ありそうだ。幸い、厨房として使える部屋も廊下の先にあったのを確認している。王都の伯爵家にいた頃よりも断然自由に使えそうで、胸が躍った。

 「アンリ様、もしかしてお菓子を売るおつもりですか?」

 ピエールが意外そうに目を丸くする。わたくしは得意げに微笑んだ。

 「そうですわ。いずれはここで、わたくしの“桃のタルト”をはじめとした洋菓子を売ってみたいと思っているんです。辺境伯領でうまくいくかはわかりませんけれど……思い切って挑戦してみたいの」

 わたくしの言葉に、ピエールはしばし沈黙した。そして、少し考え込んだあと、興味深げに頷く。

 「なるほど……。実はこの地域、農作物は豊富なんですよ。特に牛乳やバターなんかは、質が良くてね。隣町に行けば小麦も手に入る。問題は、製菓に適した『砂糖』や『果物』の確保がどこまでできるか、という点でしょうか」

 「果物なら……そう、わたくしは桃を使いたいのですが、こちらで栽培されているかしら?」

 王都の市場では、桃はそこそこ流通していたが、辺境ともなれば育てている人は限られるかもしれない。わたくしの“タルト・オ・ペーシュ”へのこだわりは尋常ではない。桃が手に入らなければ、わたくしのアイデンティティの半分が消えてしまうようなものだ。

 その質問に、ピエールはやや曖昧な表情になった。

 「この近辺には桃の木を専門的に育てている農家はほとんどありませんね。ただ、丘の向こう側に、野生の果樹園があると聞いたことがあります。季節にはそこそこ実をつけるとか……」

 「野生の果樹園……? それって本当に利用できるんでしょうか」

 わたくしが首を傾げると、ピエールは少し困り顔で続ける。

 「わたくしも詳しくは知りませんが、昔から“森に入ると魔物が出る”だの“道がわからなくなる”だのと噂があって、地元の人ですらあまり近寄らない場所なんです。だから、その果樹園が今どうなっているのか……。ただ、一度だけ訪れた商人が“桃らしき果実がたわわに生っていた”と話していたそうで……」

 わたくしはその話を聞き、むしろ興奮を覚えてしまった。魔物や迷いの森の噂があるなんて、ちょっと冒険心をくすぐられるではないか。桃の在りかを見つけるためなら、少しくらい危険を冒しても構わない――そう思うほど、わたくしは桃に対して熱い情熱を持っていた。

 もっとも、わたくし一人で森に入るのは無謀だろう。辺境伯領には王都のように厳重な防備があるわけでもないし、騎士団もいるにはいるが人数が限られる。魔物が出るともなれば、剣の心得のないわたくしには荷が重すぎる。しかし、まずは情報を集めてみる価値はある。

 「ならば、あちこちで聞き込みをしてみますわ。もしその桃が無理でも、ほかの果物を探す方法はいくらでもありますもの」

 そう言って微笑むわたくしを見て、ピエールは「アンリ様、随分と……たくましいですね」と感心するように言ってくれた。けれど心の中では、“これぐらいでめげていたら、わたくしの菓子作りは始まらない”と気合を入れ直している。

 王都を離れ、婚約破棄という屈辱を味わったわたくしが、今こうして新たな希望を抱いている。それだけで、なんだか嬉しかった。過去のプライドや名誉に縛られるよりも、むしろこうして小さな可能性に胸をときめかせる方が、ずっとわたくしらしいと思えるのだ。

 「まずは必要なものを買い揃えに、近くの町へ行かなきゃ。オーブンはもちろんですが、小麦粉も大量に欲しいですし……砂糖も可能なら多めに確保したいわね」

 わたくしは手帳を取り出し、買い出しリストをざっと書き出す。王都から運んできた材料だけでは、どれだけ持つかわからない。商人相手に交渉して、良質な材料を仕入れなければならないのだ。

 「承知しました。明日、馬車を手配しましょう。町までは半日ほどで行けますから、日帰りでも十分かと思います」

 ピエールと話をまとめ、わたくしは屋敷の奥へと足を運んだ。そこにはキッチンと呼ぶには少々くたびれた感じの部屋がある。暖炉のような竈と、古い調理台。それでも、王都でこそこそと使用人に隠れて菓子を作っていた頃と比べれば、何十倍も自由にできる空間だ。

 「やりがいがありますわ……。ここを立派な菓子工房にしてみせます!」

 声に出してそう宣言すると、胸の奥に熱いものがこみ上げてくる。あの婚約破棄をされた日、“ざまあ”と思ったのは強がりだけではなかった。今、わたくしは確かに、自分の道を見つけ始めているのだと実感する。

 誰に馬鹿にされようと、ひそかに持ち続けた“スイーツへの情熱”を、ここで思い切り爆発させたい。王都の社交界では味わえないスリルと自由を、わたくしはこの地で求めているのかもしれない。

 翌朝、わたくしはピエールが用意してくれた馬車に乗り、辺境伯領の中心部と呼ばれる「リボルヌの町」へ向かった。

 ここは伯爵や公爵ではなく、“辺境伯”と呼ばれる地方領主が治めている地で、王都ほど華やかではないが、それなりに市場や鍛冶屋、雑貨店などが立ち並んでいる。道は舗装されていないが、村や集落に比べれば確かに大きな町だ。人通りはそれほど多くないが、家畜を連れて歩く農民や、何かを運搬する荷車などが行き交っている。

 「ここなら小麦粉や牛乳、バターなんかも手に入りそうですね。あとは砂糖がどれだけ流通しているかが問題ですが……」

 わたくしは町の中を見渡す。市場が立つ広場があり、そこには野菜や果物、雑貨を売る露店が並んでいる。店主たちは少し荒っぽい言葉遣いで呼び込みをしているが、みな活気があるように見えた。

 馬車を降りて歩き始めると、すぐにあちこちから「お嬢さん、寄っていきな!」と声が飛ぶ。わたくしは少々戸惑いつつも、興味を惹かれた店には足を止めて品物を見せてもらうことにした。

 「へぇ、いいドレス着てるね。どこから来たんだい?」

 がっしりした体格の女性が営む露店には、大きな樽に牛乳が入っていた。どうやら量り売りをしているらしく、持参の瓶や容器を渡すと必要な分だけ注いでくれるらしい。おまけにバターやチーズも作っているようで、小さな塊が並んでいる。

 「ええと……わたくし、少し離れた屋敷に住んでいるんです。洋菓子を作りたくて、その材料を探していまして……」

 そう言うと、その女性――マルタと名乗った――はわたくしの言葉に目を丸くした。

 「洋菓子? へえ、そんなもんを作る人がここに来るとはね。貴族様かい? まあ、いいけどさ。うちの牛乳とバターは自慢の品だよ」

 そう言ってバターの塊を差し出してくれた。手に持ってみるとずっしりと重く、色はやや濃いめのクリーム色。匂いは強すぎず、どこか甘やかなコクを感じる。これはタルトの生地やクリーム作りにピッタリではないかと、わたくしは興奮した。

 「素晴らしいですわね! この質の良さなら、お菓子を作っても美味しく仕上がりそう……」

 「そうだろうとも。王都に持っていけばいい値段で売れそうなんだけど、ここじゃあんまり高くは売れなくてね。量だけはあるから、どんどん使ってくれたら助かるよ」

 マルタは豪快に笑う。彼女のような地元の生産者と、こうして直接やり取りできるのは辺境伯領ならではの魅力だと思った。わたくしは彼女と値段の交渉をして、まとまった量のバターと牛乳を譲ってもらうことにした。

 「さて、問題は砂糖ですわ……」

 バターや小麦粉、地元のはちみつなどはある程度手に入りそうだが、上白糖やグラニュー糖のような精製度の高い砂糖は、やはり値が張りそうだ。王都から運ばれてくる輸入品ということもあり、運送コストもバカにならない。

 しかし、お菓子作りには砂糖は欠かせない。もちろん蜂蜜や甜菜糖のような代用品でもある程度は作れるが、やはり繊細な焼き上がりや味の安定感を考えると、ある程度の精製糖は欲しい。

 わたくしは市場の一角に店を構える商人風の男性に声を掛けた。彼は「リカール商会」を名乗り、王都や他国からの輸入品も扱っているらしい。

 「すみません、砂糖を大量に仕入れたいのですが、どんな種類を扱っていらっしゃいますか?」

 そう尋ねると、リカール商会の男は渋い顔をする。



 





 応接室に向かう廊下を歩くたびに、わずかに不安が増していく。この屋敷を見つけた騎士は、一体何者なのか……。

 ドアを開けると、そこには背筋を正して椅子に座る男性がいた。淡い金髪と、少し物憂げな青い瞳。それでいて、どこか芯の強さを感じさせる。着ているのは普通の騎士団の制服とは違い、少し位の高い騎士が纏う特製の外套のようだった。胸元には見慣れぬ紋章があり、しかしそれが何を示すのか、わたくしにはわからない。

 「初めまして。わたくしはアンリ・シャルパンティエ・マ・タルト・オ・ペーシュ。この屋敷を管理している者です。あなたは……どちら様でしょうか?」

 そう挨拶すると、彼はゆっくりと立ち上がり、丁寧に頭を下げた。その動作は洗練されていて、間違いなくただの騎士ではないと確信させる。

 「お初にお目にかかります、アンリ様。自分は――そうですね、ただの“旅の騎士”とでも名乗っておきましょうか。少し公務で辺境を回っておりまして、偶然ここを見つけました。あなたが王都のご令嬢だという噂を、先ほど聞きましたが……」

 「ええ、まあ。王都の伯爵家の出というだけですわ。今は何の肩書きもない、ただの菓子作り好きな娘だと思っていただければ」

 わたくしは努めて穏やかな笑みを浮かべる。相手はどこか挑むような視線を送ってくるが、その目の奥には好奇心とも取れる光が宿っている。

 「それにしても、この辺りに屋敷があるとは思っていませんでした。馬車が通った跡を辿ってみたら、ここに行き着いたのです」

 彼がそう言うのを聞いて、わたくしは少し胸をなでおろす。つまり、本当に偶然なのだろうか。わざわざわたくしを探しに来たのではない……ということなら、まだ安心できる。

 「それで、ご用件は……?」

 そう問いかけると、彼は少し躊躇する素振りを見せてから、言葉を選ぶように言った。

 「辺境の治安状況を調査していましてね。ここ数ヶ月、魔物の目撃例が増えているという報告が入っているのです。あなたが住むこの屋敷も、森に比較的近い場所に建っている。もし危険なことがあれば、すぐに知らせていただきたい」

 魔物……。ピエールが言っていた“野生の果樹園”にも魔物の噂があったが、そこまで大事になるとは思っていなかった。王都の騎士が来るくらいには、問題視されているのだろうか。

 「わたくしはまだ、森の奥へは行っていませんが……確かに迷いの森だとか、魔物が出る噂があると聞きました。もしかして、その噂が現実になりつつあるのですか?」

 「はっきりとは断言できませんが、地域の農民から“夜に光る目を見た”とか“家畜が襲われた”などの報告があってね。荒唐無稽な話も多いが、念のため警戒しているのです」

 そこまで言って、彼はふと視線を横に逸らした。そしてテーブルの上に目を止める。そこには先ほど焼いたばかりのリンゴタルトの一切れを載せた皿が置かれていた。どうやらその甘い香りに気づいたらしい。

 「これは……菓子ですか? 先ほどからいい香りがしていると思ったが」

 「ええ、試作したばかりのタルトですわ。リンゴを使ったもので、まだ完璧とは言えませんけれど……よろしければ召し上がってみますか?」

 思いつきで口にした提案だったが、彼は少しためらいながらも「ぜひ」と答える。わたくしは小さなフォークを渡し、彼が一口かじるのを見守った。

 「……甘さは控えめですが、リンゴの酸味が程よく効いている。生地もサクサクで、香ばしいですね。これは、なかなか……」

 騎士の瞳が微かに見開かれる。感心している様子が窺えた。わたくしは内心、ほっと胸を撫でおろす。初めて会った騎士相手だが、このタルトがどんな反応を得られるかは大事だ。地元の人だけでなく、こうした外の人にも“わたくしの菓子”を味わってほしいのだから。

 「気に入っていただけたなら、光栄ですわ。実は近々、“シャルパンティエ洋菓子店”というお店をここで開くつもりなんです。まだ準備段階ですけれど、よかったらまたいらしてくださいね」

 笑顔を向けると、彼も口元をほころばせた。だが、その笑みに何やら含みのあるものを感じる。まるで“面白いものを見つけた”というような、そんな余裕めいた表情だ。

 「……そうですか。では機会があれば、ぜひ伺わせていただきましょう。アンリ様のタルト、また食べたいと思いますので」

 そう言って、彼はそっと皿をテーブルに置き、立ち上がる。そろそろお暇すると言う彼を、わたくしは玄関先まで見送りに行った。

 「そういえば、お名前をまだ伺っていませんでしたね」

 わたくしがそう尋ねると、彼は少し意味深な笑みを浮かべる。

 「名乗るほどの者では……いや、そうですね。呼び名だけでも。――わたくしの名は“ジル”。もしまた会う機会があれば、そのときは改めて」

 それだけ言い残すと、彼――ジルは愛馬にまたがり、暮れなずむ空の下へ駆けて行った。ピエールもわたくしも、しばし呆然として見送るしかない。なぜなら“ジル”という名は、どこか王家の第二王子に似ているという噂も頭をよぎったからだ。

 もっとも、そんなわたくしの考えすぎかもしれない。王族がこんな辺境に、騎士の姿で紛れて来るなど、そうある話ではないだろう。しかし、もし彼がただの騎士だとしても、その佇まいは異様に洗練されていた。それが妙に気になって仕方がない。

 「アンリ様、まさかとは思いますが……あの方、本当に偶然立ち寄っただけでしょうか」

 ピエールの疑問に、わたくしも答えを持ち合わせていない。

 「わからないわ。だけど……悪い人という感じではなかったし、菓子を気に入ってくれたなら嬉しいですわね」

 そう言って苦笑するわたくしの脳裏には、ジルがタルトを口にしたときの僅かな表情の変化が、何度もちらついていた。驚きと興味が入り混じったあの目……あれは、きっと何かを感じ取った証拠だろう。

 (もしまた会うことがあれば――そのときは、もっと美味しいタルトを食べさせてあげなくてはね)

 そう心に誓い、わたくしは再び厨房へと戻る。辺境伯領での日々はまだ始まったばかり。これから先、どんな出会いと試練が待ち受けているのか。わくわくと不安がないまぜになった感情を抱きつつ、わたくしはオーブンならぬ竈に再び火をくべた。

 膨らんでいく夢と希望。そして、わたくしを追いかけるかもしれない過去の影――婚約破棄からの逃避のようにこの地に来たわたくしだが、すでにここに居場所を感じつつある。

 (きっと、わたくしはもう後戻りしない。スイーツでこの土地に革命を起こすくらいの勢いで、やってみせますわ!)

 タルトが焼き上がる甘い香りとともに、わたくしの心にもまた、じんわりとした熱が宿っていた。そう、これはまだ序章に過ぎない。辺境伯領の地で、わたくしの“スイーツ革命”は、いよいよ幕を開けようとしているのだ。
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