1 / 12
第1話 崩れ落ちた夢の夜
しおりを挟む
第1話 崩れ落ちた夢の夜
侯爵家の令嬢――シルフィ・アルベールは、昔から誰よりもまっすぐで、努力家で、そして夢見る少女だった。
その夢とは、公爵家嫡男ラングレー・ヴァンデールの婚約者として、いずれ王国を支える立派な夫人になること。
幼少期に両家の大人たちが結んだ縁談は、政略でありながら、シルフィにとっては宝物のように尊い未来を約束するものだった。
(ラングレー様の隣に立てるような、恥ずかしくない淑女にならなきゃ……)
そう思い続けて十年以上。
礼儀作法、宮廷舞踏、音楽、文学――学べと言われたことはすべて吸収し、シルフィは見事に“理想の淑女”へと成長した。
家庭教師たちは口を揃えて彼女を褒め、侍女たちも誇らしげに見守ってくれた。
そして何より、シルフィは自分の努力を胸を張って誇れるようになっていた。
――すべては、ラングレーの未来の隣に立つため。
◇◇◇
ラングレーは端整な顔立ちに冷静な物腰を備え、若くして社交界の注目を集める存在だった。
シルフィは彼に会うたび、胸がくすぐられるような憧れを抱いてきた。
軽率な期待だとは分かっている。
けれど、努力して成長した自分を見て、いつか彼が振り向いてくれるのでは――そんな淡い願いを、少女の心は手放せなかった。
だからこの日も、胸を高鳴らせていたのだ。
城館で開かれた夜会の途中、ラングレーが彼女の名を呼んだとき。
「……シルフィ」
穏やかでよく知る声のはずなのに、このときに限って妙な胸騒ぎがした。
「はい、ラングレー様。お話とは……?」
期待と緊張を胸に近づいたその瞬間。
彼の唇が告げたのは、まったく想像しなかった言葉だった。
「我々の婚約は……ここで白紙に戻していただきたい」
その瞬間、夜会の音楽が遠のき、世界が色を失った。
「…………え?」
声が震えた。
ただの悪い冗談ならいい。
けれど、ラングレーの表情は一片の揺らぎもない。
「新しい婚約者としてふさわしい方が見つかった。伯爵令嬢エリーザだ。彼女は優秀で、家格も申し分ない。――君よりも、だ」
(……君よりも、だ?)
その言葉だけで胸の奥がズキリと痛む。
「待ってください……私、何か……至らぬところが……?」
必死に声を絞り出すと、ラングレーは冷たい目で彼女を見下ろした。
「無駄な縁は結ぶべきじゃない。今後は君も侯爵家の令嬢として、新しい道を探すといい」
“無駄な縁”。
その言葉だけで、何年も積み上げてきた努力も、夢も、尊厳も、すべて踏み潰された気がした。
ラングレーはすぐに背を向け、夜会の喧騒に消えていく。
彼の姿が見えなくなるまで、シルフィはただ立ち尽くすことしかできなかった。
◇◇◇
侍女に支えられて屋敷へ戻ると、シルフィはさらに深く突き落とされることになる。
「……シルフィ。お前、何をした?」
「もういいのよ。公爵家と事を荒立てるわけにはいかないの」
父も母も、庇うどころか“お前が悪いのではないか”と疑うような目を向けた。
「そんな……私は……ずっと、ラングレー様のために……」
「声を荒げないの。周りに聞かれたらどうするの」
家族ですら、心に寄り添ってはくれない。
むしろ“穏便に終わらせるべき”と口を閉ざすばかりだった。
ラングレー側から流された噂は、すでに社交界中に広まり始めていた。
「シルフィは婚約者として不適切だった」
「素行に問題があったらしい」
下女たちの噂話が耳に刺さり、街へ行けば商人に眉をひそめられる。
シルフィは気づいた。
(私は……一夜にして、全てを失ってしまったんだわ)
◇◇◇
その日から、涙を枕に落とす夜が続いた。
昼間は周囲の好奇と疑念の視線。
夜になれば孤独と絶望が襲ってくる。
けれど、その暗闇の底で――
シルフィの胸には、わずかな灯が残っていた。
(……でも、こんな扱い、あんまりだわ)
ラングレーとの未来は砕かれた。
家族からも見捨てられた。
努力は踏みつけられた。
それでも。
(私は……まだ、終わってなんかない)
痛みの中で、彼女の奥底に眠っていた“気高きプライド”が、確かに息づいていた。
シルフィは気づいていない。
絶望の裏側で、静かに新しい未来の扉が開こうとしていることを。
これは裏切りの物語であり、始まりの物語でもある。
砕かれた夢の残骸から、やがて芽吹く光の種――
その始まりが、今まさに産声を上げていた。
-
侯爵家の令嬢――シルフィ・アルベールは、昔から誰よりもまっすぐで、努力家で、そして夢見る少女だった。
その夢とは、公爵家嫡男ラングレー・ヴァンデールの婚約者として、いずれ王国を支える立派な夫人になること。
幼少期に両家の大人たちが結んだ縁談は、政略でありながら、シルフィにとっては宝物のように尊い未来を約束するものだった。
(ラングレー様の隣に立てるような、恥ずかしくない淑女にならなきゃ……)
そう思い続けて十年以上。
礼儀作法、宮廷舞踏、音楽、文学――学べと言われたことはすべて吸収し、シルフィは見事に“理想の淑女”へと成長した。
家庭教師たちは口を揃えて彼女を褒め、侍女たちも誇らしげに見守ってくれた。
そして何より、シルフィは自分の努力を胸を張って誇れるようになっていた。
――すべては、ラングレーの未来の隣に立つため。
◇◇◇
ラングレーは端整な顔立ちに冷静な物腰を備え、若くして社交界の注目を集める存在だった。
シルフィは彼に会うたび、胸がくすぐられるような憧れを抱いてきた。
軽率な期待だとは分かっている。
けれど、努力して成長した自分を見て、いつか彼が振り向いてくれるのでは――そんな淡い願いを、少女の心は手放せなかった。
だからこの日も、胸を高鳴らせていたのだ。
城館で開かれた夜会の途中、ラングレーが彼女の名を呼んだとき。
「……シルフィ」
穏やかでよく知る声のはずなのに、このときに限って妙な胸騒ぎがした。
「はい、ラングレー様。お話とは……?」
期待と緊張を胸に近づいたその瞬間。
彼の唇が告げたのは、まったく想像しなかった言葉だった。
「我々の婚約は……ここで白紙に戻していただきたい」
その瞬間、夜会の音楽が遠のき、世界が色を失った。
「…………え?」
声が震えた。
ただの悪い冗談ならいい。
けれど、ラングレーの表情は一片の揺らぎもない。
「新しい婚約者としてふさわしい方が見つかった。伯爵令嬢エリーザだ。彼女は優秀で、家格も申し分ない。――君よりも、だ」
(……君よりも、だ?)
その言葉だけで胸の奥がズキリと痛む。
「待ってください……私、何か……至らぬところが……?」
必死に声を絞り出すと、ラングレーは冷たい目で彼女を見下ろした。
「無駄な縁は結ぶべきじゃない。今後は君も侯爵家の令嬢として、新しい道を探すといい」
“無駄な縁”。
その言葉だけで、何年も積み上げてきた努力も、夢も、尊厳も、すべて踏み潰された気がした。
ラングレーはすぐに背を向け、夜会の喧騒に消えていく。
彼の姿が見えなくなるまで、シルフィはただ立ち尽くすことしかできなかった。
◇◇◇
侍女に支えられて屋敷へ戻ると、シルフィはさらに深く突き落とされることになる。
「……シルフィ。お前、何をした?」
「もういいのよ。公爵家と事を荒立てるわけにはいかないの」
父も母も、庇うどころか“お前が悪いのではないか”と疑うような目を向けた。
「そんな……私は……ずっと、ラングレー様のために……」
「声を荒げないの。周りに聞かれたらどうするの」
家族ですら、心に寄り添ってはくれない。
むしろ“穏便に終わらせるべき”と口を閉ざすばかりだった。
ラングレー側から流された噂は、すでに社交界中に広まり始めていた。
「シルフィは婚約者として不適切だった」
「素行に問題があったらしい」
下女たちの噂話が耳に刺さり、街へ行けば商人に眉をひそめられる。
シルフィは気づいた。
(私は……一夜にして、全てを失ってしまったんだわ)
◇◇◇
その日から、涙を枕に落とす夜が続いた。
昼間は周囲の好奇と疑念の視線。
夜になれば孤独と絶望が襲ってくる。
けれど、その暗闇の底で――
シルフィの胸には、わずかな灯が残っていた。
(……でも、こんな扱い、あんまりだわ)
ラングレーとの未来は砕かれた。
家族からも見捨てられた。
努力は踏みつけられた。
それでも。
(私は……まだ、終わってなんかない)
痛みの中で、彼女の奥底に眠っていた“気高きプライド”が、確かに息づいていた。
シルフィは気づいていない。
絶望の裏側で、静かに新しい未来の扉が開こうとしていることを。
これは裏切りの物語であり、始まりの物語でもある。
砕かれた夢の残骸から、やがて芽吹く光の種――
その始まりが、今まさに産声を上げていた。
-
1
あなたにおすすめの小説
とある令嬢の優雅な別れ方 〜婚約破棄されたので、笑顔で地獄へお送りいたします〜
入多麗夜
恋愛
【完結まで執筆済!】
社交界を賑わせた婚約披露の茶会。
令嬢セリーヌ・リュミエールは、婚約者から突きつけられる。
「真実の愛を見つけたんだ」
それは、信じた誠実も、築いてきた未来も踏みにじる裏切りだった。だが、彼女は微笑んだ。
愛よりも冷たく、そして美しく。
笑顔で地獄へお送りいたします――
婚約破棄?ああ、どうぞお構いなく。
パリパリかぷちーの
恋愛
公爵令嬢アミュレットは、その完璧な美貌とは裏腹に、何事にも感情を揺らさず「はぁ、左様ですか」で済ませてしまう『塩対応』の令嬢。
ある夜会で、婚約者であるエリアス王子から一方的に婚約破棄を突きつけられるも、彼女は全く動じず、むしろ「面倒な義務からの解放」と清々していた。
心の傷は癒えるもの?ええ。簡単に。
しゃーりん
恋愛
侯爵令嬢セラヴィは婚約者のトレッドから婚約を解消してほしいと言われた。
理由は他の女性を好きになってしまったから。
10年も婚約してきたのに、セラヴィよりもその女性を選ぶという。
意志の固いトレッドを見て、婚約解消を認めた。
ちょうど長期休暇に入ったことで学園でトレッドと顔を合わせずに済み、休暇明けまでに失恋の傷を癒しておくべきだと考えた友人ミンディーナが領地に誘ってくれた。
セラヴィと同じく婚約を解消した経験があるミンディーナの兄ライガーに話を聞いてもらっているうちに段々と心の傷は癒えていったというお話です。
一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました
しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、
「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。
――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。
試験会場を間違え、隣の建物で行われていた
特級厨師試験に合格してしまったのだ。
気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの
“超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。
一方、学院首席で一級魔法使いとなった
ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに――
「なんで料理で一番になってるのよ!?
あの女、魔法より料理の方が強くない!?」
すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、
天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。
そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、
少しずつ距離を縮めていく。
魔法で国を守る最強魔術師。
料理で国を救う特級厨師。
――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、
ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。
すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚!
笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。
白のグリモワールの後継者~婚約者と親友が恋仲になりましたので身を引きます。今さら復縁を望まれても困ります!
ユウ
恋愛
辺境地に住まう伯爵令嬢のメアリ。
婚約者は幼馴染で聖騎士、親友は魔術師で優れた能力を持つていた。
対するメアリは魔力が低く治癒師だったが二人が大好きだったが、戦場から帰還したある日婚約者に別れを告げられる。
相手は幼少期から慕っていた親友だった。
彼は優しくて誠実な人で親友も優しく思いやりのある人。
だから婚約解消を受け入れようと思ったが、学園内では愛する二人を苦しめる悪女のように噂を流され別れた後も悪役令嬢としての噂を流されてしまう
学園にも居場所がなくなった後、悲しみに暮れる中。
一人の少年に手を差し伸べられる。
その人物は光の魔力を持つ剣帝だった。
一方、学園で真実の愛を貫き何もかも捨てた二人だったが、綻びが生じ始める。
聖騎士のスキルを失う元婚約者と、魔力が渇望し始めた親友が窮地にたたされるのだが…
タイトル変更しました。
聖女に負けた侯爵令嬢 (よくある婚約解消もののおはなし)
蒼あかり
恋愛
ティアナは女王主催の茶会で、婚約者である王子クリストファーから婚約解消を告げられる。そして、彼の隣には聖女であるローズの姿が。
聖女として国民に、そしてクリストファーから愛されるローズ。クリストファーとともに並ぶ聖女ローズは美しく眩しいほどだ。そんな二人を見せつけられ、いつしかティアナの中に諦めにも似た思いが込み上げる。
愛する人のために王子妃として支える覚悟を持ってきたのに、それが叶わぬのならその立場を辞したいと願うのに、それが叶う事はない。
いつしか公爵家のアシュトンをも巻き込み、泥沼の様相に……。
ラストは賛否両論あると思います。納得できない方もいらっしゃると思います。
それでも最後まで読んでいただけるとありがたいです。
心より感謝いたします。愛を込めて、ありがとうございました。
とある伯爵の憂鬱
如月圭
恋愛
マリアはスチュワート伯爵家の一人娘で、今年、十八才の王立高等学校三年生である。マリアの婚約者は、近衛騎士団の副団長のジル=コーナー伯爵で金髪碧眼の美丈夫で二十五才の大人だった。そんなジルは、国王の第二王女のアイリーン王女殿下に気に入られて、王女の護衛騎士の任務をしてた。そのせいで、婚約者のマリアにそのしわ寄せが来て……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる