捨てられ令嬢シルフィ、真実の愛を手に入れるまで

鍛高譚

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第2話 曇り空に差す小さな光

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 朝の光は、まるで迷い込んだように頼りなく、自室のカーテンを透かして薄く伸びているだけだった。

 シルフィは静かに布を引き、曇り空を見上げた。

(……今日も、心まで曇っているみたい)

 婚約破棄の衝撃から立ち直れるはずもなく、家族の態度は冷たいままだった。
 父も母も、彼女と話すときは必要最低限。
 視線には「早く落ち着いてほしい」という焦りと、「問題を起こすな」という煩わしさが混ざっている。

 以前は――
 シルフィが少し体調を崩しただけで心配し、習い事で成果を上げれば心から喜んでくれたのに。

(……あの頃は、確かに家族だったのに)

 今や、屋敷の中で居場所はほとんどなかった。
 外では「シルフィの素行不良で婚約破棄された」という噂が広まり、家の威厳を守るために、彼女の悲しみを一切表に出すことすら許されなかった。

 その息苦しさから逃れるように、シルフィは庭へ出た。

◇◇◇

 広大な庭園には季節の花が咲き誇っているはずだった。
 けれど、今のシルフィにはどれも色あせて見える。

 少し前までは、この庭の花々を「未来の公爵夫人として誇れる自分」になるための一部として学び、めいっぱい愛していたのに。

(全部……全部、無意味だったのね)

 胸の奥がきゅっと痛む。

「お嬢様、こちらは風が冷とうございますよ。どうかお身体に気をつけて」

 後ろから、侍女ステラの柔らかな声が追いかけてきた。
 彼女は唯一、シルフィに寄り添い続けてくれた味方だ。

 眠れない夜にはハーブティーを持ってきてくれたり、そっと肩をさすってくれたり――
 その優しさが、今のシルフィにとっては唯一の救いだった。

「ありがとう、ステラ。でも……少しだけ一人になりたいの」

 笑おうとしたが、頬の筋肉は固まったまま。
 本当に、笑い方すら忘れてしまったかのようだった。

 足は自然と、庭の奥にある古い温室へ向かっていた。
 子どもの頃の秘密基地のような場所。
 誰にも邪魔されずに本を読んだり、未来に備えて学んだりした、かけがえのない空間だ。

 扉を開けると、かつて植え替えた蘭の鉢が並んでいる。
 だが、最近は手入れができず、元気を失っていた。

「ごめんね……」

 花にそっと触れる指先はかすかに震えていた。
 自分自身まで枯れかけているように思えて、胸が締めつけられる。

 そんなとき――温室の扉がきしむ音がした。

 ステラではない。
 重めの足音とともに姿を現したのは、背の高い見知らぬ男性だった。

◇◇◇

 濃い茶髪に、穏やかな瞳。
 端整な顔立ちだが、どこか脱力したような柔らかさもある。

「あ……驚かせてしまったかな?」

 彼は少し困ったように微笑み、帽子を取って丁寧に頭を下げた。

「私はカリブと申します。リーノス伯爵家の次男でして、実質的には家督を継ぐ身です。侍女さんに案内されて庭を見学していたのですが……つい、こちらが気になってしまって」

 初対面ながら、不思議と人を安心させる声だった。

 シルフィは慌てて姿勢を正す。

「し、失礼しました……わ、わたくしはシルフィ・アルベール。こ、この屋敷の娘です」

 すると、カリブは優しく問いかけた。

「ここは……あなたが育てておられたのですか?」

 シルフィは小さく頷く。

「はい。好きで始めたことなんです。最近は来られなかったのですが……」

 言葉がそこで詰まる。
 “婚約者に贈る花を育てていた”なんて、とても口にできなかった。

 彼は察したのか、多くを聞かず温室の花々を眺め歩いた。

「丁寧に育てられていますね。花は、時間をかけただけ応えてくれる。私は領地で薬草や果樹園の管理をしていまして……植物の強さにはよく励まされるんです」

 穏やかな語り口が、心に少しずつ染み渡ってくる。

 シルフィは気づいてしまった。

(……この人、わたしを“噂のシルフィ”として見ていない……?)

 社交界のほとんどが偏見の目で自分を見てくる中、カリブの視線だけは違う。
 目の前の一人の女性として、自然に接してくれている。

「……私なんか、もう……何も価値がないのに」

 気づけば口をついていた弱音。
 後悔して口をつぐむと、カリブは真剣な瞳で言った。

「そんなふうにご自分を見ないでください。温室を見ただけで分かります。あなたは丁寧で、真面目で、努力を続けてきた方だ」

 心の奥で、何かがかすかに震えた。

(……そんなこと、誰にも……言ってもらえなかった)

 涙がこぼれそうになるのを必死にこらえる。

◇◇◇

 カリブはポケットから分厚いノートを取り出した。

「領地の植物記録です。よければ、見ますか?」

 中には花や薬草のスケッチ。
 栽培方法・改良メモ・利用案など、びっしりと書き込まれていた。

「領地の人々が、より豊かに暮らせたらいいと思って。植物には、生活を変える力がある。私は、そう信じているんです」

 情熱的だが、押しつけがましくない言い方だった。

 シルフィはページをめくりながら、小さく呟いた。

「……すごい。こんな世界があるなんて……知らなかった」

 彼の領地の風景が目に浮かぶようだった。
 華やかさだけではない、泥に触れ、風に向かって生きる人々の営み。

 シルフィの閉ざされた胸に、そっと風が吹き込む。

「もしよければ……いつか、うちの領地に来てみませんか?」

「え……?」

 思わず顔を上げる。

「いきなりで申し訳ないのですが……シルフィ様に見ていただきたい景色が、たくさんあるんです」

 それは、久しく聞くことのなかった種類の“優しさ”だった。

「……ありがとうございます。そんなふうに言われたの、初めてで……」

 シルフィの唇に、ほんのわずかだが微笑みが戻った。

◇◇◇

 カリブが去ったあと、ステラが温室に現れた。

「お嬢様……大丈夫でしたか?」

「ええ。むしろ、救われたわ。少しだけだけど……誰かと話す気になれたもの」

 自分でも驚くほど、胸の中がほんのり温かい。

(広い世界……か)

 カリブの言葉が、心に灯りをともす。

 壊れた未来の代わりに、別の扉が少しだけ開く気がしたのだ。

 温室を出ると、雲間からわずかな日差しが庭を照らしていた。

(……私はまだ……立ち上がれるのかしら)

 答えは出ない。
 けれど、その光はまるで「大丈夫」とそっと背中を押すように、シルフィの足元に落ちていた。

 ――この出会いが、彼女の人生を変える始まりだと気づかぬまま。


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