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第4話 偽りの幸福に揺れる過去の縁
しおりを挟む淡く晴れた冬の朝。
シルフィは書斎の窓辺に立ち、中庭に落ちるやわらかな光をぼんやりと見つめていた。
(前よりは……ずっと、ましね)
ここ数日、胸の痛みが消えたわけではない。
けれど、学んできたことを自分のために活かそう、と決めてからは、あの日々よりはずっと呼吸がしやすくなっていた。
カリブとの会話。
リーノス伯爵家でのお茶会。
それらは「自分にもまだ何かできる」と、静かに教えてくれた。
――とはいえ、現実はそう甘くない。
ラングレーからの一方的な婚約破棄は、王都中の格好の話題だった。
新しい婚約者・エリーザは「美貌と才能を兼ね備えた伯爵令嬢」と持て囃され、華やかな衣装と巧みな社交術で瞬く間に人気者になっていく。
その一方で、シルフィの名に添えられるのは決まって、こうだ。
「何か大きな失敗をしたらしい」
「公爵家に見限られるなんて、よほどのことだ」
根拠のない推測ばかりが、悪意と共に育っていく。
(……ため息、禁止)
口からこぼれかけた息をあわてて飲み込む。
「これくらいでめげちゃだめ。少しずつでもいいから、ちゃんと進んでいかないと」
小さく自分に言い聞かせた、そのとき――
廊下を行き来する気配がして、侍女のステラが慌ただしく顔を出した。
「お嬢様!」
「どうしたの、ステラ?」
「先ほど門番の者が申しておりましたが……本日、公爵家から客人がいらっしゃるそうです。まだお名前までは分かっていないのですが……」
公爵家――。
胸の奥が、どくん、と跳ねた。
(まさか、ラングレー……? それとも、あの方の使い? エリーザ様?)
「あ……ありがとう、ステラ。詳しいことはまだ何も?」
「はい。ラングレー様ご本人かもしれませんし、エリーザ様をお連れかもしれません。あるいは単なる使いか……。いずれにしても、まもなく到着されるとのことです」
「そう……」
心臓の鼓動が、さっきまでとは違う意味で早くなる。
婚約破棄以来、ラングレーとは一度もまともに顔を合わせていない。
今さら何の用があるというのか。
とはいえ、公爵家からの来訪となれば、無視もできない。
「……分かったわ。私はとりあえず自室に下がっているわ。呼ばれない限り、出ていくつもりはないから」
「かしこまりました」
ステラが去り、シルフィは書斎を出て廊下を歩きながら、自分の胸元をぎゅっと押さえる。
(いやよ……正直、顔なんて見たくない。でも、逃げ回るのも――悔しい)
屋敷の玄関あたりから、重い扉の開閉音と、訪問の挨拶が聞こえてきた。
やがて音が遠のき、しばらくの静寂――そして、再びステラが駆け戻ってくる。
「お嬢様!」
「……今度は何?」
「ラングレー様がお父上にご挨拶を済まされました。そして……今回は“直接シルフィお嬢様と話をしたい”とお申し出になられたそうです」
「……っ」
息が詰まる。
(直接、私に? 今さら何を)
会いたくない――それが本音だ。
けれど、公爵家嫡男の言葉を侯爵家の娘が真っ向から拒むことは、家としても難しい。
沈黙の末、シルフィはゆっくりと頷いた。
「……お父様が許されるのなら、お会いします。ステラ、礼を欠かないように準備をお願い」
「はい、お嬢様」
◇
しばらくして、応接用の小さなサロン。
父が場を整え、「ここで話をしなさい」とだけ言い残して退出していった。
残されたのは、向かい合う椅子と、テーブルに置かれた茶器、そして――
「……久しぶりだな、シルフィ」
ラングレー・アーヴィング公爵家嫡男、その人だった。
よく整った顔立ちは昔と変わらない。
だが、どこか落ち着きのない気配がまとわりついている。
(そう……久しぶり、ね)
喉の奥がひりつくような感覚を、意識的に飲み込み、シルフィは静かに口を開いた。
「何かご用件でしょうか、ラングレー様。私はもう、あなたとの縁をすべて切られた身ですわ。お話しすることなど、あまり思い当たりませんけれど」
敬称は付ける。
貴族としての礼儀は守る。
けれど、その言葉には、ほんの少しだけ皮肉を混ぜた。
ラングレーは一瞬目を伏せ、それからソファへと腰を下ろす。
「……そう、だな。だが、だからこそ話したいと思った」
「……?」
「お前も知っているとおり、今、僕はエリーザとの婚約を正式に進めている。公爵家としての発表も済み、社交界での顔合わせも順調だ」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。
けれど、表情には出さない。
ただ黙って続きを待つ。
「エリーザは、たしかに評判どおりだ。姿も美しく、話術も立派だ。最初は――いや、最近まで、彼女こそが公爵夫人にふさわしいと思っていた」
「…………」
シルフィの胸の中に、あの日の光景がよみがえる。
『シルフィ、お前は古い。地味だ。僕には、もっと華やかな相手がふさわしい』
そう告げられた夕暮れの大広間。
握りしめた手のひらに、あのときと同じように力がこもる。
「だが――」
ラングレーは、そこで言葉を切った。
迷うように視線を泳がせ、低く続ける。
「どうもエリーザには“裏の顔”があるようでね」
「……裏の、顔?」
予想外の言葉だった。
王都の噂では、エリーザは完璧な伯爵令嬢として称賛されている。
そんな彼女に裏があると言われても、すぐには結びつかない。
「うちの家の文書管理を手伝わせようとしたんだ。だが、驚くほど政治や領地経営に興味がない。最初は“苦手なのだろう”と思った。けれど……最近では、領地の財源を自分の衣装や宝飾品に回そうとしたり、得体の知れない商人との取引を持ち込もうとしたりしている節がある」
「……」
冷たいものが背筋を伝う。
それは、公爵家にとって致命的になり得る話だ。
だが――
「それなら、公爵家の当主と、ラングレー様ご自身で対処なさるべきお話ですわ。……少なくとも、私に関わることではありません」
言葉が自然と鋭くなる。
(散々、私を切り捨てておいて。今さら、何を)
ラングレーは苦い顔をした。
「それは分かっている。父も僕も、エリーザの目的を探ろうとしている。だが、決定的な証拠が掴めない。彼女の名声は高まる一方だ。この状況で“エリーザを疑っている”と公になれば、公爵家の立場が悪くなる恐れもある」
焦りと困惑が、ラングレーの表情ににじんでいる。
かつて見たことのない顔だ。
(……今になって、困っているのね)
シルフィは静かに問いかける。
「それで、私に何を求めているのですか?」
短い沈黙ののち、ラングレーは小さく息を吐いた。
「正直に言おう。……僕は、シルフィに戻ってきてほしい」
「…………は?」
一瞬、意味が理解できなかった。
戻ってきてほしい?
誰が? どこに? 誰のところへ?
「も、戻るって……どういう意味かしら。まさか、婚約をなかったことにするとでも?」
「すぐに元どおり、というわけにはいかない。だが、公爵家の経営には、シルフィのような存在が必要だと痛感している。お前が長年培ってきた礼儀作法や教養、家を支えようとしてきた真面目さ――あれは僕が思っていた以上に大きな力だった。今のエリーザは、自分の名声や欲のためにしか動いていないように見える。……父も、お前を惜しんでいる」
あまりの都合の良さに、思わず笑いそうになった。
(信じられない。今さら“やっぱりお前が必要だ”ですって?)
「冗談は、おやめくださいませ」
シルフィは、はっきりと言った。
「どうして私が、あなたのご都合に合わせなければならないの? あなた方は私を一方的に傷つけ、『ふさわしくない』と切り捨て、『悪者』にまでしましたわ。……そのことを、お忘れになったわけではありませんよね?」
ラングレーが顔を歪める。
罪悪感だけは、あるらしい。
「確かに、僕はお前を蔑ろにした。それは認める。……だが、あのときは本当にエリーザこそがふさわしいと思っていたんだ。シルフィは大人しく、古風で、今の時代には華やかさが足りないと――。だが今は、お前が必死に学んできたものこそが“本物の力”だったと分かった」
遅い。あまりにも。
「お気持ちは理解しました」
シルフィは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「ですが、あなたとエリーザ様は“正式な婚約者”です。私は、あなたの家を助けるために存在しているわけではありません。……失礼を承知で申し上げますが――あなたが選んだ相手は、あなた自身の手で制御なさるべきですわ。私を頼らないでください」
ラングレーの眉間にしわが寄る。
「そんなことを言わずに……お前だって今の立場は難しいだろう? 公爵家の名を――」
「いいえ」
ぴしゃり、と、シルフィは遮った。
「私は、あなたの“助け”など必要としていません」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
「私は、自分の道は自分の力で切り開くと決めました。あなたが私を必要としているからといって、私が応じる義理はどこにもありません!」
気づけば、椅子から立ち上がっていた。
ラングレーが目を見開く。
いつも大人しく従うだけだと思っていた令嬢が、真正面から拒絶してきたことに、本気で驚いている顔だ。
(そうよ。私はもう、あなたに従うだけの娘じゃない)
「あなたが私を信じなかったように、私ももう、あなたを信じられません」
シルフィは最後まで、ラングレーの瞳から目を逸らさなかった。
「……お引き取りください、ラングレー様。これ以上、お話しすることはありません」
短い沈黙。
サロンに置かれた時計の音だけが、やけに大きく響く。
「……そうか」
かすれた声で、ラングレーが言った。
何かまだ言いたげに唇を動かしかけたが、結局何も言わず、椅子から立ち上がる。
そして、振り向きもせずに部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに遠くに聞こえる。
「……ふう」
シルフィは、どさりと椅子に腰を落とし、背もたれにもたれかかった。
「こんな形で、再会するなんてね……」
胸の中には、安堵と痛みと、ほんの少しの虚しさが入り混じっている。
(もし、あのとき、ちゃんと私を見てくれていたら――なんて。そう思いかける自分が、いちばん嫌)
けれど、その“もし”は、もう捨てると決めた。
過去に縛られたままでは、前に進めない。
◇
その日は一日、落ち着かないまま屋敷の中を過ごすことになった。
父と母には「以前の縁が戻ることはありません。その確認ができました」とだけ告げる。
二人は複雑そうな表情を浮かべたが、多くは聞いてこなかった。
ラングレーがどんな顔で屋敷を去ったのか――その様子から、おおよその事情は察しているのだろう。
そして翌朝。
シルフィはいつものように目を覚まし、窓から差し込む淡い光の中で、机の上のノートを開いた。
『これからやりたいこと』
『ハーブと食用花のレシピ案』
走り書きされた文字たちが、不思議なほど鮮やかに目に飛び込んでくる。
(そうよ。私は、もう決めたじゃない)
ラングレーは“偽りの幸福”に揺れている。
ならば、自分は本物の幸福を掴みにいけばいい。
かつて彼のために費やした情熱を、今度は――自分自身の未来のために。
◇
昼頃。
温室で花に水をやっていると、ステラが小さな封書を手に駆け寄ってきた。
「お嬢様!」
「どうしたの?」
「今朝届いたお手紙です。差出人は……アルモント伯爵家。カリブ様からですわ」
「カリブ様から……?」
胸が高鳴るのを感じながら、シルフィは封を切った。
丁寧な字が並ぶ。
> 先日はお茶会に来てくださり、ありがとうございました。
突然ではありますが、領地でのハーブ栽培について、ぜひシルフィ様のご意見と知識をお借りしたく思っております。
近々、小規模ではありますが「薬用植物と食用花を組み合わせた研究」の話し合いを開く予定です。
もしご都合がよろしければ、ぜひご参加いただけませんか。
シルフィ様が描いておられたレシピやアイデアを、共に形にしていけたらと願っております。
カリブ・アルモント
同封されていたメモには、日程や場所、参加予定の薬草農家や学者の名前、使用予定の花やハーブのリストが細かく書き込まれていた。
「……本当に、やるつもりなんだ」
思わず、笑みがこぼれる。
これは、ただの社交辞令じゃない。
彼は、本気で「一緒に形にしてみよう」と言ってくれている。
昨日まで心をかき乱していたラングレーの影が、すっと薄れていくのが分かった。
(偽りの幸福にしがみつくのは、あの人の選択。私が関わる必要なんて、ない)
シルフィには、シルフィの人生がある。
自分を切り捨てた相手が困っていようと、その尻ぬぐいのために戻る義理はない。
「ステラ」
「はい、お嬢様?」
「後ほど、お父様とお母様に相談してみるわ。アルモント伯爵家の領地で開かれる会合に、参加したいって」
ステラはぱっと顔を明るくした。
「きっと、お許しくださいますわ。お嬢様の学んでこられたことが活かせる場ですもの」
「……そうね」
そう言って、シルフィは手紙を胸に抱きしめた。
◇
書斎に戻り、机にノートを広げる。
引っ張り出した“ハーブと食用花”のレシピ帳。
婚約者のためにと必死でまとめた知識たちが、今はちゃんと「自分の未来の材料」としてそこにある。
「皮肉なものね……」
苦笑しながらも、胸の奥は誇らしかった。
ペン先をインクにつける。
「さあ、始めましょう。私が本当に掴みたい未来を」
ラングレーがどうなろうと、それはもう彼自身の問題。
シルフィは自分の経験と情熱を、花とハーブに、新しい事業に、そしてこれから出会う人々との未来に注いでいく。
窓から差し込む冬の光は冷たいはずなのに、不思議とあたたかい。
(偽りの幸福は、あの人たちに任せておけばいい)
私は、私の手で――
本物の幸福を掴みにいく。
そう心の中で宣言しながら、シルフィは軽やかにペンを走らせた。
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