捨てられ令嬢シルフィ、真実の愛を手に入れるまで

鍛高譚

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第9話 選んだ道のはじまり

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 冬の朝は、やけに静かだった。

 薄曇りの空は一面の灰色に染まり、アルモント侯爵家——ではなく、シルフィの生まれ育った侯爵家の屋敷は、雪に音を奪われたようにしんと静まり返っている。

 けれど、胸の中だけは、ひどくうるさかった。

(……夢じゃ、ないのよね)

 ゆっくりとまぶたを開く。天蓋のレース越しに、ぼんやりとした天井の模様が見えた。何度目かになる「現実確認」をして、ようやくシルフィは息を吐く。

 昨夜——ラングレー・ド・ブルーヴ公爵から婚約破棄の宣告を受けた。

 理由は「公爵家の益になる新たな縁談のため」。
 書類のどこにも、「シルフィの落ち度」は書かれていない。

 それでも、あの場で突きつけられた言葉は、彼女の心を容赦なく切り裂いた。

『君を責めているわけではない。ただ……家として、最善を選ばねばならない』

(じゃあ、私は……最善ですらなかったってことね)

 苦笑が、喉の奥でひっそりとこぼれる。

 窓の外では、新しい雪が静かに降り始めていた。
 シルフィは重たい身体をなんとか起こし、薄手のショールを羽織って部屋を出る。

 向かう先は、いつもと同じ——屋敷の奥にある温室だ。



 温室に足を踏み入れた途端、冷え切った空気がわずかにやわらぐ。

 ガラス越しの薄い朝日が、色とりどりの花々を照らし出していた。
 冬でも咲くよう品種改良された花たちが、鮮やかな色を精一杯主張している。

 シルフィは、いつもの癖で手袋を外し、土の乾き具合を確かめていく。
 ひんやりとした黒土の感触が、少しだけ現実感を取り戻させてくれた。

「……おはよう」

 ひときわ凛と咲く白薔薇に、そっと指先を伸ばす。
 朝露を含んだ花びらが、触れた指に冷たい感触を残した。

 香りを吸い込み、目を閉じる。
 いつもなら、これだけで心が落ち着くはずなのに——今日は無理だった。

「どうして、こんな形で終わらなければならないのかしら……」

 思わず、独り言がこぼれる。

 公爵家の一員として期待され、
 侯爵家の娘としてふるまいを教え込まれ、
 誰かの“駒”として生きることを、半ば当然のものとして受け入れてきた。

 なのに、その「駒」としてさえ、もっと便利な誰かに取って代わられた。

(私の価値って……いったい、何だったのかしら)

 胸の奥が、きゅうっと痛む。

 それでも、いつまでも花の前でうずくまっているわけにはいかなかった。
 シルフィは顔を上げ、深く息を吸い込む。

「……行かなきゃ」

 婚約破棄という現実は変えられない。
 けれど、そのあとの人生まで他人に決められるのは、もうごめんだ。



 温室を出て廊下を歩いていると、軽い足音とともに声がかかった。

「お嬢様!」

 侍女のステラが、小走りに駆け寄ってくる。いつもと変わらぬ、落ち着いた笑みをたたえていた。

「おはようございます。……ご気分はいかがですか?」

「おはよう、ステラ」

 シルフィは、ほんの少しだけ肩をすくめてみせる。

「どう、って聞かれると困るけれど……昨日のことは、正直、まだ整理できてないわ」

「……当然でございます」

 ステラは一瞬だけ眉を曇らせ、すぐに表情を整えた。

「ですが、お嬢様。どのようなことがあろうと、私どもはお嬢様の味方でございます。ご命令があれば、どこへでもお供いたしますわ」

「ありがとう、ステラ」

 その言葉に、胸の奥で何かが温かく揺れた。

「今日はね、じっとしていると余計に考え込んでしまいそうだから……外に出てこようと思うの」

「外へ、でございますか?」

「ええ。王都へ行くわ。有力な友人たちに会っておきたいの。——これから先、私が“私の力で”生きていくために」

 ステラは驚きつつも、すぐに深くうなずいた。

「承知いたしました。馬車の支度をさせます。防寒のケープもご用意いたしますわ」

「……本当に、頼りになるわね」

 シルフィは、くすりと笑う。
 薄い笑みではあったが、それは確かに前を向こうとする笑みだった。



 庭園を抜けて外へ出ると、冬の風が容赦なく頬を刺した。

 新しい雪が降り積もり、木々の枝は白く縁取られている。
 吐いた息は白く霧散し、馬車の車輪が雪を踏む音だけが、静かな中庭に響いた。

 乗り込む前に、シルフィは一度だけ屋敷を振り返る。

(ここに閉じこもって泣き崩れていたら、きっと……
 あの婚約破棄は、本当に“私の終わり”になってしまう)

 そうならないためにも、今日動かなければならない。

 馬車の扉が閉まり、ゆっくりと走り出す。
 窓の外で、白い世界がじわりと流れていった。

 膝の上には、一通の手紙が置かれている。
 カリブ・アルモントから届いたものだ。

『あなたの中には、まだ眠っている力がたくさんあります。
 どうか、自分の可能性を軽んじないでください』

 ラングレーに裏切られた後、最初に差し伸べられた「尊重」の言葉。
 それは、シルフィにとって救命索のようなものだった。

(……逃げない。私の人生を、私が選ぶ)

 静かに目を閉じ、揺れる車内で、シルフィは改めて誓った。



 王都は、雪景色の中でも活気に満ちていた。

 白い息を吐きながら行き交う人々、凍える手を擦り合わせる露店の商人、馬車の往来——。
 そんな喧噪のさらに奥、重厚な門構えの屋敷の前で、馬車が止まる。

「レオナルド・ヴァレンティーニ侯爵家……」

 シルフィは小さく息を整えた。

 幼い頃からの友人であり、今では王国の重職についている青年。
 彼に協力を仰ぐことは、エリーザの動きを封じ込めるうえで欠かせない。

 応接間へ通されると、ほどなくして、落ち着いた足取りで彼が現れた。

「シルフィ。よく来てくれたね」

 レオナルドは変わらぬ穏やかな笑みで、シルフィを迎える。

「顔色は……正直、あまり良くないが。それでも、目の光は消えていないようで安心したよ」

「ふふ……褒め言葉として受け取っておくわ」

 軽口を交わしつつも、シルフィは本題に切り込んだ。

「今日はお願いがあって来たの。——エリーザのことで、情報を集めたいの」

 その名を出した途端、レオナルドの表情がわずかに引き締まる。

「やはり、そこへ行き着いたか」

「なにか、掴んでいるの?」

「断片的だけどな」

 彼は椅子に腰かけ、指を組んだ。

「最近、公爵家の“新しい婚約者候補”としての立場を利用して、エリーザ嬢がいくつかの商人と頻繁に会っていると聞いている。とくに、軍需品を扱う連中とな」

「軍需品——武器商人たちね」

 シルフィの胸がざわついた。
 自分たちが掴みつつある情報と、ぴたりと符合する。

「公爵家の財政記録でも、不自然な支出項目が増えているわ。名目は『領地の防衛と開拓のための投資』。でも、実際には外部への資金流出にしか見えない」

「……そこまで確証があるなら、王家への報告も視野に入れるべきだな」

 レオナルドは真剣な声で言った。

「協力しよう。僕のネットワークでも、彼女に関する情報を洗ってみる。とくに、軍部や商人ギルドに近い者たちを当たってみるよ」

「ありがとう、レオナルド」

 シルフィは胸の奥から、素直に感謝の言葉を口にする。

「あなたの力を借りられるのなら、きっと大きな一歩になるわ」



 それからシルフィは、もう一軒の屋敷を訪ねた。

 エミリア・フォン・シュタイン伯爵家——情報収集と分析能力に長けた才媛として知られる女性だ。

「シルフィ。噂は聞いていたけれど……本当に、婚約破棄されてしまったのね」

 エミリアはシルフィを抱きしめそうな勢いで迎え入れ、すぐに距離をとって真剣な瞳を向ける。

「でも、泣き崩れているかと思いきや、こうして動いている。……あなたらしいわ」

「泣いていた時間も、もちろんあったわよ」

 シルフィは苦笑しながら、エリーザに関する状況を説明した。

 公爵家の帳簿。
 武器商人との繋がり。
 “反王家派閥”の噂。

 話を聞き終えたエミリアは、しばし沈黙したあと、静かにうなずいた。

「わかったわ。私は、私の耳と目を使う」

「耳と目?」

「情報屋たちよ」

 エミリアは軽く微笑む。

「正式には“書記官見習い”だけど、裏では少しだけね。書簡の往来や商人ギルドの記録を注意して見ていれば、きっと彼女の“怪しい動き”が見えてくるはずよ」

「エミリア……」

「王国の安定は、私自身の生活にも関わるもの。エリーザ嬢が好き勝手するのを黙って見ている気はないわ。必要な情報は全部、あなたに送る」

「……心強いわ。本当に、ありがとう」

 こうして、少しずつ「シルフィ側」の輪が広がっていく。

 失ったものばかり数えていた彼女の手に、確かなつながりが戻り始めていた。



 その夜。

 王都の落ち着いた一角にある、小さなカフェの片隅。
 窓の外では雪がちらつき、店内では暖炉の火が柔らかく揺れていた。

「シルフィ様」

 カップの向こうから、穏やかな声がする。

 カリブ・アルモント——領地の薬草研究に携わる伯爵家の次男。
 彼は、シルフィの話に耳を傾け、一つひとつ噛みしめるように頷いていた。

「エリーザ嬢のこと、そこまで進んでいるとは思いませんでした」

「私も、最初は“少し嫌な相手”くらいにしか思ってなかったのよ。でも、ラングレー様の婚約破棄に彼女が絡んでいると知ってから……嫌な予感が、ずっと消えなかった」

 婚約破棄の場での、あの自信に満ちた笑み。
 公爵家の邸で、堂々と振る舞う姿。

 思い返すだけで、胸に刺さるものがあった。

「だけど、今は違うわ」

 シルフィはカップを見つめながら、静かに言う。

「これは、私個人の感情だけの問題じゃない。もし彼女の計画が成功してしまったら、公爵家の領地も、王国も、大勢の人たちも巻き込まれてしまう。……だから、止めなきゃいけないの」

 カリブは、その瞳の奥をじっと見つめた。

「……本当に強い方ですね、あなたは」

「強くなんて、ないわ」

 苦笑を浮かべる。

「ただ、もう“流されて”生きるのは嫌になっただけ。婚約破棄までされて、まだ何も選ばないなんて……それこそ、本当に何も残らなくなってしまうもの」

 カリブはしばらく黙っていたが、やがて決意を込めた声で言った。

「僕も、協力させてください」

「カリブ様……?」

「領地の薬草研究で築いた商人とのつながりがあります。医療品と武器は、流通の管が似ているんです。調べてみれば、エリーザ嬢の取引先に近づけるかもしれない」

 彼の言葉には、一切の迷いがなかった。

「シルフィ様の決意は、本物だ。その覚悟に、僕は応えたい。……王国を守るためにも、あなた自身の未来のためにも」

 胸の奥が、じんと熱くなる。

「ありがとう、カリブ」

 それだけ言うのが精一杯だった。

(どうして、こんなときに……涙が出そうになるのよ)

 婚約破棄で崩れたと思っていた世界の中に、こうして手を伸ばしてくれる人たちがいる。
 それは、何よりも心強い支えだった。



 日々は、慌ただしく過ぎていった。

 エミリアからは、王都に出入りする商人の名簿や、不可解な資金の動きに関する報告が届く。
 レオナルドは軍部方面の情報をまとめ、武器の流通に関わるルートを洗ってくれた。

 シルフィはそれらを整理し、ラングレーや公爵家当主、“影”と情報を共有する。
 動けば動くほど、エリーザの背後に蠢く黒い影が輪郭を帯びていくのが分かった。

 そして、ある日のこと。

 王都の市場。
 雪解け水でぬかるんだ石畳を踏みしめながら歩いていると、ふと視界の端を、妙に気配の薄い人物がよぎった。

(……あの歩き方)

 フードを深く被り、誰とも目を合わせようとしない。
 けれど、その足取りには異様な安定感があった。

 シルフィは、そっと距離を詰める。

「——影、なのかしら」

 囁くように声をかけると、フードの人物がぴたりと足を止めた。

「……お見事ですね、シルフィ様」

 低く抑えた声。
 やはり、「影」だった。

 人気の少ない路地裏へと移動し、彼——あるいは彼女——は、懐から一束の書類を取り出した。

「これは?」

「王家直属の密偵として集めた情報です。エリーザ様と接触している武器商人たちの名簿と、その裏にいる“反王家派閥”の一部。まだ全貌にはほど遠いですが……“火種”としては十分でしょう」

 シルフィは、その一枚一枚に目を走らせる。

 見たことのある名前。
 噂だけ聞いたことのある組織。
 そして——公爵家の帳簿に記されていた取引先と、確かに繋がる名。

「……本当に、ここまで」

「私があなたを支援する理由はただひとつです」

 影は静かに続けた。

「あなたが、“王国の未来にとって重要な分岐点”に立っているから。
 婚約破棄されても、泣き寝入りせずに立ち上がったあなたの選択は——この国にとって、大きな意味を持つことになるでしょう」

「大げさよ」

 そう返しながらも、シルフィの胸はどこかくすぐったかった。

「私はただ、自分の人生を取り戻したいだけ。……その過程で、エリーザの企みが崩れれば最高ね、って思っているだけよ」

「それで十分です」

 影は、フードの奥で笑ったようだった。

「大きな志より、“譲れない小さな願い”のほうが、世界を動かすこともありますから」



 屋敷へ戻った夜。

 シルフィは書斎にこもり、これまで集めた証拠を机いっぱいに広げた。

 公爵家の財政記録の写し。
 エミリアが送ってきた商人の記録。
レオナルドの軍部情報。
 そして、“影”が握ってきた裏取引の証拠——。

 どれも単体では「ただの書類」でしかない。
 けれど、重ねていくと、一つの線に繋がっていく。

(これで、もう——)

「後戻りはできないわね」

 思わず口に出していた。

 あの温室で、白薔薇に問いかけていた「どうして?」は、もう消えている。
 今あるのは、「どうすれば止められるか」という問いだけだ。

「私は、エリーザを倒すためだけに動いているわけじゃない」

 シルフィは、ひとりごとのように呟いた。

「私自身の未来のために、
 この国の未来のために——そして、私を助けてくれた人たちのために。
 これが、私の選んだ道」

 そのとき、扉がノックされた。

「お嬢様!」

 少し慌ただしい足音とともに、ステラが入ってくる。

「どうしたの、ステラ?」

「緊急のお知らせです。——エリーザ様が、今夜の王宮での舞踏会にご出席なさるとの情報を得ました」

「舞踏会……」

 シルフィは目を細める。

 王宮の大広間を使った、大規模な夜会。
 王族、重臣、国内外の要人、そして有力貴族たちが一堂に会する場。

 そこで、決定的な“契約”が結ばれる可能性——。

「……やっぱり、そう来たのね」

 胸の奥で、静かに炎が灯る。

「ステラ。私たちも準備をするわ」

「はい!」

「今夜の舞踏会は、ただの社交の場じゃない。
 エリーザが“何をしようとしているのか”を、この目で確かめる。——そして、止めるきっかけを掴みに行くのよ」

 ステラは、力強くうなずいた。

「お嬢様のお望みのままに。ドレスも、書類も、すべて整えておきます」

「お願いね」

 シルフィは書類を丁寧に束ねると、窓の外に目を向けた。

 いつの間にか、雪は止み、冷たい星空が覗いている。

(これが……私の選んだ道)

 婚約破棄で終わるはずだった物語は、まだ終わっていない。
 むしろここからが、本当の始まりだ。

「もう、逃げない」

 そっと呟き、シルフィは振り返る。

 彼女の瞳には、かつてないほどはっきりとした光が宿っていた。

 ——そして、王宮へ向かう馬車が再び動き出すとき。
 シルフィの物語は、新たな幕を開けることになるのだった。
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