捨てられ令嬢シルフィ、真実の愛を手に入れるまで

鍛高譚

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第10話 最後の舞踏会

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第10話 最後の舞踏会

 舞踏会の前夜、侯爵家の書斎は、息をひそめたように静まり返っていた。

 窓の外では、粉砂糖みたいな雪が、途切れ途切れに舞っている。冬の夕暮れは早く、空はもう濃い群青に沈みかけていた。

 その中で、シルフィはただ一人、机に向かっていた。

 ろうそくの炎が、山積みになった書類と地図の端を揺らす。机の上には、公爵家の財政記録の写しや、商人ギルドの帳簿、そして「影」がもたらした密書が、きれいに並べられている。

(これだけ揃えても、まだ“不安”は消えないのね……)

 シルフィは、指先で一枚の書類の端をなぞった。

 エリーザが水面下で進めてきた計画は、もはや「一人の伯爵令嬢の野心」では済まされない規模になっていた。
 公爵家の資金と名義を利用し、軍事転用可能な武器と資材を動かし、反王家派閥と結びつく——。

 それが現実味を帯びているのだと知ったとき、背筋に冷たいものが走ったのを、今でもはっきり覚えている。

(ここで止められなければ、公爵家も、王国も……きっと取り返しのつかないことになるわ)

 どれだけ覚悟を決めても、不安が消えるわけではない。
 だが、それでも手を止めるつもりはなかった。

 そのとき——。

 コン、コン、と扉が叩かれる音が響いた。

「……どうぞ」

 返事をすると、勢いよく扉が開き、ステラが駆け込んでくる。いつも冷静な侍女にしては珍しく、表情に緊張と興奮が入り混じっていた。

「お嬢様、緊急の知らせがございます!」

「エリーザに関することね?」

 シルフィがそう問い返すと、ステラは大きくうなずいた。

「はい。——エリーザ様が、今夜の王宮の舞踏会にご出席なさるとの情報を得ました。しかも、かなりご機嫌なご様子で、取り巻きの方々も『今夜こそ公爵家にとって忘れられない夜になる』と口にしていたとか」

「……やっぱり」

 胸の奥で予感していたことが、現実として形を取っていく。

 シルフィはそっと椅子から立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。
 雪混じりの風が、ガラス越しに冷たさを伝えてくる。

「今夜の舞踏会は、ただの夜会じゃない。エリーザが“決定的な契約”を結ぶ場になる可能性が高いわ」

 彼女は、机の上の書類を一枚一枚束ねながら言った。

「だったら——こちらにとっても、決定的な一夜にしてしまいましょう」

 ステラはその横顔を見つめ、わずかに頬を上気させる。

「お嬢様……本当に、覚悟を決めていらっしゃるのですね」

「ええ」

 シルフィは微笑みを浮かべる。その笑みには、昔の頼りなさはもうない。

「ラングレー様も、公爵家当主も、『影』も……それぞれの立場で動いてくれている。あとは、私がこの証拠を“正しい場所”に届けるだけ。怖くないと言えば嘘になるけれど——」

 小さく息を吸い込む。

「それでも、もう“流されるだけの私”には戻らないわ」

「……かしこまりました」

 ステラは深く頭を下げた。

「ドレスの用意と、持ち運びやすい形での書類の整理は、私にお任せください。お嬢様は、どうか体調だけは崩されませんよう」

「頼りにしているわ、ステラ」

 軽く笑い合いながらも、二人の胸には同じものが宿っていた。

 ——あの夜会で、すべてを終わらせる。



 そして、夜はやってきた。

 王宮の大広間は、冬の冷たさなど存在しないかのように熱気で満ちていた。
 黄金のシャンデリアが無数の光を放ち、壁には各国から贈られたタペストリーがずらりと掛けられている。

 音楽隊が奏でる華やかな旋律に合わせ、貴族たちが色とりどりのドレスとタキシードでフロアを彩っていた。

「……相変わらず、絢爛ね」

 会場の端で様子をうかがいながら、シルフィは小さくつぶやいた。

 肩まで流れる淡い茶髪は、ステラの手によって丁寧にまとめられ、耳元には控えめながら上質な宝石のピアスが揺れている。
 身にまとうのは、深いエメラルドグリーンのドレス——派手すぎず、それでいて凛とした気品を漂わせる一着だ。

(これは、公爵家の婚約者としての“衣装”じゃない。
 今の私自身として、ここに立つための服)

 胸元のコサージュに軽く触れてから、シルフィは人混みに視線を巡らせる。

 すぐに、中央付近の一団が目に入った。

 白と金を基調とした豪奢なドレスに身を包み、取り巻きたちを引き連れて笑っているのは——エリーザだ。

「さすがね、新星の伯爵令嬢……」

 その美貌も物腰も、表面だけ見れば完璧だ。
 周囲の貴族たちが彼女に近づき、次々と賛辞を送っている。

 一方で、公爵家当主とラングレーは、少し離れた位置で来賓と挨拶を交わしていた。
 以前なら、彼らが中心であったはずの輪は、いまや完全にエリーザに取って代わられている。

(あのまま、何も知らずに“公爵夫人になること”だけを夢見ていたら……きっと、私も笑顔で彼女の隣に並んでいたのかもしれない)

 そう思うと、背筋に冷たい汗が流れた。

 ふと、背後から、落ち着いた声がかかる。

「シルフィ様」

 振り返ると、そこにはカリブがいた。
 深い藍色の礼服に身を包み、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべている。

「来てくださって、ありがとうございます」

「こちらこそ。間に合って良かった」

 彼は、会場の中央へ視線を送る。

「……あれが、エリーザ嬢ですね。確かに、何も知らなければ“公爵家の新たな顔”としてふさわしく見える」

「ええ。でも、私たちは知っているわ」

 シルフィは、きゅっと指先に力を込める。

「彼女が何をしてきたのか、そして、何をしようとしているのか」

「その真実を明らかにするのが、今夜、なのですね」

「そうよ」

 カリブは、静かに微笑んだ。

「……恐ろしい夜にもなり得る。ですが、あなたの傍には多くの味方がいます。公爵家当主も、ラングレー殿も、『影』も——そして僕も」

 その言葉に、シルフィの表情が少しだけやわらぐ。

「心強いわ。本当に」

「危険を感じたら、躊躇わずに僕を呼んでください」

「呼ぶ前に走ってきそうだけれど……そのときは、お願いするわ」

 軽口を交わし、緊張をほんの少しだけほぐしたあと——シルフィは、ゆっくりと大広間の中央付近へ歩みを進めた。



 やがて、曲が一度終わり、会場のざわめきが少し落ち着いた頃。

 高台へと続く階段に、公爵家当主とラングレーの姿が現れた。

 その隣には、王家の重臣の一人がいる。
 彼らは小声で言葉を交わしながら、何かの書類を確認していた。

(——始まる)

 シルフィは、ステラに預けていた書類の束を受け取ると、軽くうなずき合った。

 王家の重臣が一歩前へと進み出る。
 音楽隊が静まり、会場の視線が自然と高台へと引き寄せられた。

「本日は、皆の者、よく参集してくれた」

 重臣の朗々とした声が、大広間に響き渡る。

「本来であれば、我らは王国の友好と繁栄を祝うためだけに、杯を交わすつもりであった。——しかし、今宵、ひとつの“報告”と“告発”がある」

 ざわ、と空気が揺れた。

 その瞬間、ラングレーが一歩前に出て、深々と頭を下げた。

「この場をお借りして、皆様にお詫びを申し上げます」

 その声は、以前シルフィが知っていた穏やかな声とは少し違っていた。
 迷いと、自責と、それでも逃げまいとする決意が混じっている。

「我がブルーヴ公爵家の名のもとに行われてきた、いくつかの取引。その中には、王国の秩序を乱しかねない不正が紛れ込んでおりました。——私たちは、それを見抜けなかった」

 会場がざわめきはじめる。
 エリーザの取り巻きたちは、不安げに彼女の顔色をうかがっていた。

「そして、ある方より、勇気ある告発がありました」

 ラングレーが、ゆっくりと顔を上げる。

 視線が——シルフィを捉えた。

「シルフィ・アルモント侯爵令嬢。どうか前へ」

(……ここが、私の“舞台”)

 シルフィは静かに一歩、また一歩と前へ進む。
 人々の視線が、刺さるように集まる。
 それでも、その足取りは乱れなかった。

「皆さま」

 高台の下に立ち、シルフィははっきりとした声を放った。

「突然お時間をいただくこと、お許しください。私には、この場にいる皆さまに、お伝えしなければならないことがあります」

 ざわめきが、すっと引いていく。

 彼女はステラから受け取った書類の束を高く掲げた。

「ここにあるのは、公爵家の財政記録の写しと、武器商人たちの取引記録。そして、王家直属の“影”が集めた裏取引の証拠です」

 一枚を広げ、その一部を読み上げる。

「名目は『領地防衛のための投資』。しかし、実際には……公爵家の名義で、軍事転用可能な武器と資材が、反王家派閥のもとへ流れていました」

 会場中の空気が、一気に冷え込んだ。

「そして——」

 シルフィの視線が、ゆっくりと一点に向けられる。

「その取引の仲介を行い、公爵家の名誉と資金を利用していたのは、エリーザ・○○伯爵令嬢……あなたです」

 場の視線が、一斉にエリーザへと向いた。

 エリーザは、一瞬だけ目を見開き——すぐに、嗤うような笑みを浮かべる。

「……何をおっしゃっているのかしら、シルフィ様?」

 彼女は、あくまで優雅な仕草で扇子を口元に当てた。

「捨てられた元婚約者が、逆恨みで何か言っている、としか思えませんわ。証拠ですって? そんなもの、捏造しようと思えばいくらでも——」

「では、これは?」

 そのときだった。

 高台の上、王家重臣の隣に、いつの間にか一つの人影が立っていた。

 フードを深く被り、顔を見せようとしないその人物は、静かながらよく通る声で名乗る。

「——“影”と申します」

 会場がざわめく。
 その名を知る者は少数だが、王家直属の密偵が存在するという噂は、以前からささやかれていた。

「この場で、エリーザ・○○伯爵令嬢の名誉を傷つけることは、本意ではありません。しかし——」

 影は、シルフィが掲げた書類の一部を受け取り、高らかに読み上げた。

「日付、署名、印章。いずれも、裏路地での取引現場で押収したものと一致しております。同行していた武器商人たちの供述も、ここに記されている流れと矛盾しません」

「なっ……!」

 さすがのエリーザも、顔色を変えた。

 影は淡々と続ける。

「シルフィ・アルモント様は、自らの婚約破棄によってこの一連の違和感に気付き、公爵家と王家に通報されました。その過程で、何度も“危険”な橋を渡っておられます。——彼女の告発が、私どもの調査を加速させたのは事実です」

 王家重臣が、重々しく頷いた。

「この場にいる者たちに告げる。エリーザ・○○伯爵令嬢には、一連の疑惑について王家のもとで取り調べを行う。——衛兵!」

 号令とともに、武装した衛兵たちが進み出る。

 エリーザの取り巻きたちは血相を変え、こそこそとその場を離れようとするが、すでに出口付近にも兵が配置されていた。

「待ちなさい! 私は無実よ! こんなもの、全部——」

 叫ぶエリーザの腕を、衛兵がしっかりと取り押さえる。

「シルフィ! あなたね!? あなたが私を陥れたのよ!!」

 彼女は必死にシルフィを睨みつける。
 しかし、もはやその言葉に耳を貸す者は少なかった。

 ざわめきの中から、次々と声が上がる。

「最近の公爵家の支出、おかしいと思っていたんだ……」
「エリーザ嬢が来てから、妙に軍需商人が出入りしていた……」
「まさか、本当に——」

 群衆の空気が、はっきりと「疑念」から「確信」へと変わっていくのを、シルフィは肌で感じた。

 エリーザはなおも何かを叫んでいたが、その声は衛兵たちに引き立てられるようにして、大広間から遠ざかっていった。



 嵐の後のような静寂が訪れた。

 音楽は止まり、人々の視線は、シルフィと高台の上の公爵家当主へと向けられている。

 やがて、公爵家当主が階段を降り、シルフィの前で立ち止まった。

 そして——深く、深く頭を下げた。

「シルフィ嬢。……私は、君に許しを乞う資格すらないのかもしれぬ」

「公爵閣下……」

「我が家の不始末のせいで、君を理不尽な形で“捨てる”ような真似をした。その結果、君は危険な渦中に立たされることになった。——それでも君は、公爵家を、王国を見捨てなかった」

 その声には、重い悔恨が滲んでいた。

「心から、詫びを言わせてほしい。……すまなかった」

 会場のあちこちから、息を呑む気配が伝わってくる。
 公爵家当主がここまで頭を下げる姿を、誰も見たことがないのだろう。

 その隣で、ラングレーもまた膝を折り、シルフィと視線を合わせた。

「シルフィ」

 かつて、彼女が恋した男の、素顔の声。

「僕は……君に、取り返しのつかないことをした。公爵家の益を言い訳にして、本当に守るべき人を守れなかった。その結果が、今夜だ」

 彼は、まっすぐにシルフィを見つめる。

「それでも、もし——」

 言いかけて、言葉を飲み込んだ。
 沈黙ののち、搾り出すように続ける。

「……君が望むなら、改めて“婚約”を——」

「ラングレー様」

 その提案を、シルフィは穏やかに遮った。

 会場の空気が、ぴん、と張り詰める。

「お気持ちは、嬉しく思います。こうして謝罪してくださったことも、本当に……救われる思いです」

 シルフィは、ゆっくりと微笑んだ。

「でも、私はもう、あの日の“公爵夫人候補”のシルフィではありません。婚約破棄は、確かに私を傷つけました。でも同時に——私に、『自分の足で立つ』という選択肢をくれました」

 ラングレーの瞳が、わずかに揺れる。

「私には、私の道があります。公爵家との縁を取り戻すことではなく、自分の力で、信頼できる人たちと築き上げる未来を選びたいのです」

「……そう、だね」

 ラングレーは目を伏せ、そして小さく笑った。

「君がそう言うだろうことは、どこかで分かっていた」

 顔を上げた彼の表情には、未練と同じくらい、安堵が浮かんでいた。

「君が、君自身のために選んだ答えなら……僕はそれを、全力で尊重したい」

「ありがとうございます」

 シルフィは、深く一礼した。

 その背後から、そっと差し出される手がある。

「シルフィ様」

 振り返ると、そこにはカリブがいた。

「この場から離れましょう。……ここは、しばらく混乱が続きます」

「そうね」

 シルフィは、彼の手を取る。

「これからのことを、ゆっくり考えるためにも」

 公爵家当主とラングレーに最後の会釈をして——シルフィは、カリブとともに大広間を後にした。



 それから、少しの時間が流れた。

 エリーザとその協力者たちは正式に取り調べを受け、公爵家を利用した資金洗浄と武器横流しの証拠は次々と明るみに出た。
 反王家派閥は壊滅的な打撃を受け、王国全体はようやく「安定」という言葉を口にできるようになっていく。

 そんな騒動の中心にいたシルフィは——いま、静かな温室の中にいた。

 場所は、アルモント伯爵家の領地。
 カリブが長年研究してきた薬草と、シルフィが育ててきた花々が、同じ温室で肩を並べている。

「こっちは、寒冷地でも育つ鎮静作用のあるハーブです。領民たちの冬の体調管理に役立つはずですよ」

「じゃあ、この花壇の隣に植えましょう。花だけじゃなくて、“役に立つ植物”も増やしていきたいものね」

 しゃがみ込んで土を触ると、ひんやりとした感触が、どこか懐かしい安心感を運んでくる。
 王都で張り詰めていた頃とはまるで違う、穏やかな時間だ。

「……ようやく、落ち着いて息ができるわ」

「それもこれも、あなたの頑張りのおかげです」

 カリブが、やわらかく笑う。

「王都でも、ここでも。あなたは休むことなく動き続けた。——そろそろ、自分のために、少しは怠けてもいい頃ですよ?」

「ふふ。それは、カリブ様も一緒に、でしょう?」

 そんなやり取りをしていると——不意に、温室の入り口のほうから気配がした。

 見ると、フードを被った人物が、いつの間にかそこに立っている。

「相変わらず、音もなく現れるのね」

 シルフィが苦笑混じりに言うと、影は小さく肩をすくめた。

「密偵の基本でして」

「温室でそれをやられると、花が驚きますわ」

「それは失礼」

 フードの奥から、くぐもった笑い声が漏れる。

「シルフィ・アルモント様。改めて、礼を申し上げに参りました。あなたの勇気と決断がなければ、王国はもっと大きな火種を抱え込んでいたでしょう」

「私一人の力じゃありません。助けてくれた人がたくさんいたから、ここまで来られたのです」

 シルフィは、カリブと影の顔を順番に見て、少し照れくさそうに笑った。

「……それでも、最初に“おかしい”と口にしたのは、あなたです」

 影は、温室の中を一望するように視線を巡らせる。

「こうして花を育て、薬草を育て、人々の暮らしに寄り添おうとするあなたのような人こそが、これからの王国を支えるべき存在でしょう」

「買いかぶりすぎですわ」

 そう言いつつも、その言葉はどこか心地よく胸に染みていく。

「私は、ただ——」

 シルフィは、白い花びらにそっと触れた。

「自分で選んだ場所で、自分で選んだ人たちと、生きていきたいだけです。もう、自分の人生を誰かの都合で勝手に動かされるのはごめんですから」

「そのささやかな願いが、世界を変えることもある」

 影はそう言い残すと、温室の出入口へと歩き出した。

「これからも、遠くから見守らせていただきます。……あまり“事件”を起こさないでくださると助かりますが」

「それは、そちら次第ではなくて?」

「検討しておきましょう」

 ひらりと手を振り、影は柔らかい日差しの中へと消えていった。

「……相変わらず、掴みどころのない人ね」

「でも、心強い味方です」

 カリブがそう言ってから、シルフィの横に並ぶ。

「シルフィ様。これから、どうしていきましょうか」

「そうね……」

 シルフィは、温室いっぱいに広がる緑と花々を見渡した。

「まずは、この温室を、領民たちが気軽に来られる場所にしたいわ。花を見に来てもいいし、薬草の相談をしに来てもいい。——それから、王都にも時々出向いて、“困っている人”の話を聞きたい」

 それは、かつての“公爵夫人候補”には許されなかった生き方だ。

 でも今のシルフィには、それを選ぶ自由がある。

「忙しい日々になりそうですね」

「ええ。でも、今度は“誰かの都合”で忙しいんじゃないわ。私が、私自身のために忙しくするの」

 そう言って笑う彼女の横顔は、もうどこにも「捨てられた侯爵令嬢」の影を残していなかった。

「カリブ様」

「はい」

「これから先も……隣で、歩いてくださるかしら?」

 一瞬、カリブの目が丸くなり——次の瞬間、柔らかく細められる。

「もちろんです。あなたが望む限り、ずっと」

 温室のガラス越しに、まだ冷たい冬の光が差し込んでいる。

 けれど、その中で並んで立つ二人のあいだには、確かな温もりがあった。

(もう、私は“捨てられた娘”じゃない)

 心の中で、シルフィはそっと言葉を結ぶ。

(自分の力で未来を掴んだ、一人の女性——そして、たくさんの人に支えられて笑っている、ただのシルフィ・アルモント)

 彼女は、新しく植える花の苗を手に取った。

「さあ、ここからが本当の始まりね」

 そう言って微笑むシルフィの姿は、
 確かに——王国の新しい希望そのものだった。
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