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第11話 春を運ぶ風
しおりを挟む舞踏会の喧騒が、まるで夢だったかのように遠ざかっていく。
エリーザが衛兵に連れて行かれたあとも、王宮の大広間はしばらくざわつきが収まらなかった。だが時間が経つにつれ音楽が再開され、会話の声も少しずつ戻っていく。さっきまで「断罪の場」だったここは、再び「社交の場」の顔を取り戻しつつあった。
そんな中で——。
「シルフィ嬢」
控えの間に移動したシルフィの前に、公爵家当主がゆっくりと姿を現した。
さきほど大広間で深々と頭を下げたときと同じく、その表情には重い悔いがにじんでいる。隣にはラングレーも控えており、いつもなら余裕の笑みを浮かべている彼も、このときばかりは真剣な面持ちだった。
「先ほどは、人前での謝罪という形になってしまった。……改めて、二人きりではないが、きちんと頭を下げさせてほしい」
そう言うと、公爵家当主はもう一度、腰を折った。
「シルフィ嬢。これまで、そなたにどれほどの迷惑と理不尽を押しつけてきたか……言葉にすればするほど、みっともなくなってしまう。それでも、謝らずにはいられんのだ。——本当に、すまなかった」
「……顔をお上げください、閣下」
シルフィは、ゆっくりと首を振る。
「ご存じの通り、私は確かに傷つきました。婚約破棄を告げられた日のことは、きっと一生忘れないと思います」
言葉にするだけで、あの日の冷たい感覚が胸の奥からじわりと蘇る。けれど、もうそれに押し潰されそうにはならない。
「でも、そのおかげで気づけたこともあります。私には、公爵夫人になる以外の道もあるということ。自分の足で立ち、自分の意志で誰かを守ることもできるということ……」
シルフィは軽く息を吸い、穏やかに微笑んだ。
「だから、過去のことは水に流しましょう。許した、などというおこがましい言葉は好きではありませんが——これからは、王国のために、同じ方向を向いて歩く者として」
しばしの沈黙のあと、公爵家当主は目を伏せ、そして小さく笑った。
「……強くなられたな、シルフィ嬢」
「はい。少しだけ、ですけれど」
「少し“だけ”で、この胆力かね」
苦笑混じりの言葉に、控えていたラングレーも、ふっと口元を緩めた。
「シルフィ」
彼女の名前を呼ぶ声は、どこか昔のままだった。
「君の強さと正義感には、頭が下がるよ。……僕は、公爵家の名を言い訳にして、ずっと目を背けていた。君を傷つけたことも、エリーザの違和感から逃げたことも、全部だ」
ラングレーは、一歩彼女に近づき、しっかりと視線を合わせる。
「だからせめて、これからは——二度と君を傷つける側には回らないと、ここで誓うよ。君が望む限り、共に王国のために力を尽くしたい」
「……それは、心強いお言葉ですわ。ラングレー様」
シルフィは静かにうなずいた。
「公爵家が王国のために正しく力を振るえるよう、私もできる限り協力いたします。その上で、私は私の道を歩みます。もう、“公爵家に属する娘”ではなく、“一人の貴族として”」
「ああ。その選択を、心から尊重する」
ラングレーは少し寂しそうに、しかしどこか晴れやかな顔で笑った。
「君は、もう僕の隣ではなく、君自身の選んだ場所に立っている。そのことが、嬉しくもあり、少しだけ悔しくもあるけれどね」
「悔しさは、別のところで晴らしてくださいませ。たとえば、領地改革の成果競争とか」
「それは、手ごわい相手だな……」
小さな冗談がこぼれ、押しつぶされそうだった空気が、ほんの少しだけ軽くなる。
その瞬間、シルフィは思った。
(ああ……私は本当に、“過去”から一歩前へ進んだのね)
かつての自分なら、謝罪の言葉だけで泣き崩れていたかもしれない。
でも今は、謝罪を一つの区切りとし、自分から「次」を望むことができる。
——それが何よりの、成長の証なのだと感じられた。
◇
数週間後。
冬の名残りがかすかに空気に残る中、アルモント侯爵家の温室には、春の色が静かに染み込み始めていた。
淡いピンクの花びらを揺らす早咲きの花、鮮やかな緑の葉をつけ始めたハーブ。ガラス越しの陽光が、それらをやさしく照らし出す。
「今年は、去年よりずっと芽吹きが早いですね」
カリブが土をならしながら、ふと顔を上げた。
「きっと、温室の換気を改良したからですわ。寒すぎても、暑すぎても駄目ですから。お花も人間も」
「人間のほうは……少し厳しく育てすぎてないといいのですが」
「カリブ様のことですか? ふふ、それはご自分の胸にお聞きになって」
「それは手厳しい」
そんな他愛ない会話が、温室の中にぽかぽかと満ちていく。
舞踏会のあと、シルフィは王都での残務処理を終え、すぐに領地へ戻った。
エリーザの件は、王家と公爵家、そして影たちによって粛々と処理が進められている。裁きの場にシルフィが呼び出されることはなく、「告発者」としての立場が過度に晒されることも避けられた。
(……きっと、“影”の計らいね)
そう思うと同時に、彼の姿が脳裏によぎる。
と——。
「おや、噂をすれば」
温室の入口から聞こえてきた、低く落ち着いた声。
シルフィとカリブが同時に振り向くと、そこには予想通り、フードを被った人物が立っていた。
「相変わらず、音もなく現れるのがお上手ですこと」
「扉は普通に開けたつもりですが」
「心臓に悪いので、今度からは『入ります』と一言くださいませ」
「善処いたします」
影は淡々とそう答え、いつものように温室の中を見回した。
「春の香りがしますね。……戦場より、こちらのほうが性に合っている気もしてきました」
「影がそんなことをおっしゃるなんて、意外ですわ」
「まあ、たまには人間らしいことも言わないと。上から『たまには人間らしく休め』と指示されまして」
「王家もお優しくなられたものですわね」
軽口を交わしつつも、影の視線はすぐに真剣なものへと変わる。
「シルフィ・アルモント様。エリーザ様の件は、正式に決着がつきました。連座した武器商人たちも、反王家派閥も、ほぼ壊滅状態です」
「……そうですか」
シルフィは、胸の奥で小さく息を吐いた。
終わったからといって、すべてが綺麗に消えるわけではない。
それでも、国を揺るがしかねなかった火種は、ひとまず鎮火されたのだ。
「あなたの告発がなければ、私たちの動きも遅れていたでしょう。王家より、正式な謝意を預かってきています」
影はそう言うと、小さな封筒を差し出した。
王家の紋章が刻まれたその封筒は、無駄なく質素でありながら、確かな重みを持っている。
「……私一人の功績ではありませんわ」
シルフィは封筒を受け取り、静かに微笑んだ。
「公爵家当主も、ラングレー様も、カリブ様も、ステラも、そして“影”も——多くの方が力を貸してくださったから、ここまで来られたのです」
「それでも、『最初におかしいと言った人間』は、称える価値がある」
影は穏やかに首を振る。
「……どうか、そのことを、自分でも認めてあげてください」
「……そう、ですね」
少しだけ照れくさくなり、視線を逸らした先に、白い花が揺れていた。
その花は、舞踏会の夜、髪に挿した花飾りと同じ種類だ。
あの夜、“終わり”と“始まり”を胸に誓いながら触れた花——。
(私はもう、あの夜に閉じ込められてはいない)
今触れている土の温かさが、それを教えてくれる。
「影。今後、王国はどうなりそうですか?」
ふと、カリブが問いかける。
「不安が完全になくなることはありません。しかし、“誰が敵か分からない暗闇”の中にいるよりは、ずっとましでしょう。今は、王家も公爵家も、周囲に目を配る余裕が戻ってきています」
「でしたら——私たちは、私たちの場所で、やるべきことをやるだけですわね」
シルフィが言うと、影は静かにうなずいた。
「その通りです。あなたがこの温室で花と薬草を育てることも、領民と向き合うことも……その一つ一つが、王国を守る力になる」
「大それたことはできませんわ。ただ、目の前の困っている人に、手を差し伸べたいだけです」
「それが一番難しいのですがね」
影は、どこか満足そうに言った。
「では——私はこれで。また“何かあったとき”に」
「できれば、“何もないとき”にも、花を見にいらして」
「検討しておきます」
そう言い残し、影は温室を後にした。
ガラス越しの光の中、黒い外套の背中が小さくなっていく。
◇
数日後。
シルフィは、カリブと共に領地の村を歩いていた。
冬の終わりと春の始まりが入り混じるこの季節は、空気こそまだ冷たいものの、人々の表情にはどこか軽やかさがあった。
「シルフィ様、いらしてくださってありがとうございます!」
「薬草茶、本当に助かっています! 今年の冬は、寝込む人がぐっと減りましたよ!」
村人たちは、口々にそう言って笑顔を向けてくる。
その一人一人に視線を合わせ、シルフィは丁寧に挨拶を返した。
「皆さんがきちんと飲んでくださったからですわ。味が少しだけ飲みにくいのが難点ですけれど」
「そこは、蜂蜜でなんとかしてます!」
そんな会話が飛び交い、いつの間にか、村の一角には小さな人だかりができていた。
子どもたちが、シルフィのスカートの裾を引っ張る。
「シルフィ様、またお花の名前、教えて!」
「この前教えてもらったやつ、ちゃんと覚えてるよ!」
「まあ、そうなの? それじゃあ今日は、“春を連れてくる花”のお話をしましょうか」
「する!」「聞きたい!」
シルフィがしゃがみ込み、子どもたちと目線を合わせると、彼らは嬉しそうに頷いた。
その様子を少し離れた場所から見ていたカリブは、ふっと目を細める。
「……やっぱり、あなたはこういう場所が似合いますね」
視線に気づいたのか、シルフィがちらりとこちらを振り向いた。
「カリブ様、聞こえていますわよ?」
「褒めているつもりなのですが」
「なら、もっと堂々とおっしゃってくださいませ」
「では——」
カリブは、真面目そのものの顔で言った。
「あなたは、こういう場所が、とても似合っています」
面と向かって言われたシルフィは、一瞬きょとんとし、それから頬を染めて視線を逸らした。
「……直球すぎますわ」
「ご要望通りかと」
「揚げ足取りがお上手になられましたこと」
くすくすと笑い合いながらも、二人の歩調は自然と揃っていく。
(あの日、王宮で誓った“新しい未来”は——)
今、こうして目の前にある。
王宮の大広間で叫んだ言葉も、掲げた書類も、震えながら踏み出した一歩も。
全部が無駄ではなかったのだと、領民たちの笑顔が教えてくれる。
「シルフィ様」
村外れの丘に出たところで、カリブが立ち止まった。
「これからも、一緒に頑張りましょう。王国のために——そして、この領地の人たちのために」
「ええ」
シルフィは、迷いなくうなずいた。
「私たちなら、きっとどんな困難も乗り越えられるわ。……一人では無理でも、一緒なら」
風が吹き、まだ若い草の匂いを運んでくる。
遠くには、アルモント侯爵家の屋敷と、その横に寄り添う温室の屋根が見えた。
(私はもう、「捨てられた侯爵令嬢」じゃない)
王国を脅かす陰謀を暴き、自分の信じた道を選び取った、一人の女性。
そして今、隣には——同じ未来を見てくれる人がいる。
「さあ、帰りましょうか。今日の夕方には、温室の新しい苗が届くはずですもの」
「了解しました。重い荷物は、すべて僕が持ちますよ」
「それは助かりますわ。私は“頭脳労働”担当ですから」
「僕は“力仕事”担当ですか」
「役割分担は大事ですもの」
冗談を交わしながら、二人はゆっくりと丘を下っていく。
空には、冬よりも少しだけ柔らかな色をした雲が浮かんでいた。
その合間から差し込む陽光は、まだ頼りないけれど、確かに——春の気配を含んでいる。
シルフィは振り返らない。
過去に縛られた自分も、捨てられたと嘆いていた自分も、もう置いてきた。
これから見つめるのは、ただ一つ。
——自分で選び、自分で掴み取る、微笑みに満ちた未来だけだ。
そうして彼女は、温室で育つ新しい花々と、隣を歩くカリブと共に、静かに、しかし力強く新しい一歩を踏み出したのだった。
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