婚約破棄された幼い公爵令嬢、目覚めたら絶世の美女でした

鍛高譚

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5章

5-1

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重く冷たい闇の底に沈んでいるような感覚から、ふと意識が浮上した瞬間――シルフィーネ・エルフィンベルクは、自分がどこにいるのか分からなかった。瞼の裏には、淡い光がやけにまぶしく映っている。耳には遠くから人の声が聞こえる気がするが、はっきりとは認識できない。どこか夢うつつのような、脳内に霧がかかった状態で、ただ自分の呼吸音だけが頼りだった。



 いつからこうしているのだろう。なぜ体が重いのだろう。思い出そうとするたびに頭痛が生じ、まるで記憶の扉が固く閉ざされているかのように、過去が霞んで見えない。かすかな不安と、訳もなく込み上げる恐怖がシルフィーネの心を締め付ける。



 ――どこかで、誰かが泣いているような声がした。  ――名前を呼ばれているような気がする。



「シルフィーネ……シルフィーネ……」



 何度も繰り返されるその声は、母の声にも聞こえた。懸命に手を伸ばそうとしても、体は思うように動かない。やがて、その声が遠のいていく気配を感じた瞬間、シルフィーネの意識は再び暗闇の深淵へと落ちていった。







 どのくらいの時が流れただろう。心の中にただ「眠っていた」という事実だけがぽっかりと存在し、具体的な日数や状況が掴めない。再びうっすらと意識が浮かんだ時、シルフィーネは自分がベッドに横たわっていることを感じ取った。



 頬に触れる柔らかなリネンの質感、鼻腔をくすぐる淡い薬草の香り。遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。痛みに満ちていた身体は、いまや鈍い痺れに変わっていたが、少なくとも命の危機は脱しているようだった。



 重かった瞼をゆっくり開くと、そこには淡い光と見慣れない天蓋が広がっていた。王宮の医務室とは違うような雰囲気を感じ、ちらりと横を向くと、窓辺のカーテンが風に揺れている。季節はすっかり変わってしまったのかもしれない。



「……ん、ここは……」



 かすれた声で呟くと、自分の声が変わっているような気がして驚く。乾燥している唇を動かすのも、やっとだ。何か喉を潤すものが欲しいが、身体を起こそうとすると頭に鋭い痛みが走った。



 しかし、そのわずかな声を聞きつけたのか、部屋の外から素早い足音が近づいてくる。続いて、ドアが開かれ、見覚えのある使用人――フロランス夫人が飛び込んできた。



「お嬢様……! 起きられたのですか!? 本当に……本当に……」



 フロランス夫人は言葉にならない声で泣き出す。彼女の姿を目にした瞬間、シルフィーネの胸に安堵が広がった。ああ、やっぱり生きている。まだ夢ではないのだ、と。



 フロランス夫人は震える手で水差しを取り、コップに注いでシルフィーネの口元へ運んでくれる。その冷たい水が喉を通る感覚は、なんともいえない解放感だった。口の中に広がる潤いに、シルフィーネはひとつ息をつく。



「フロランス……これ……はいったい……」



「大丈夫です、お嬢様。落ち着いて……まだ無理なさらないでください。ああ、こんな日が来るなんて……どんなに待ちわびたことか」



 彼女はシルフィーネの手を包むように握りしめ、その頰に涙を落とす。それを見て、シルフィーネは自分が長い間眠っていたことを朧(おぼろ)げに理解した。今がいつなのか、どれほどの時間が経ったのか――聞きたいことは山ほどあるが、息が苦しくなりそうで言葉が続かない。



 やがて、フロランス夫人が落ち着きを取り戻すと、そっとシルフィーネの髪を撫でて言葉をかける。



「お嬢様、まずはお父様とお母様を呼んできます。ずっと、この時を待っておられたのですから……」



「……ありがとう……」



 弱々しく微笑むと、フロランス夫人は急ぎ足で部屋を出ていった。シルフィーネは彼女の後ろ姿を目で追いながら、ゆっくりと息を吐く。すると、首から下に違和感を覚えた。以前とは違い、身体が妙に軽く、かつ――成長したような錯覚がある。



「なんだか、変な感じ……。私、前はもっと……」



 問いかけは誰に向けるともなく、空気に溶けていく。手を上げてみると、指先が細く長くなっている気がするし、胸のあたりにもかつては感じなかった重みがあった。まるで、長い眠りの間に“女性の身体”へと変化したようだ。



 頭の中に浮かぶのは、階段から突き落とされる直前の記憶――アメリアの憎悪に満ちた瞳、激しい転落の痛み、そして深い闇。そっと目を閉じると、その時の恐怖と絶望が一気にこみ上げてくる。胸が苦しくなり、息が乱れる。



「――っ……」



 体を横にして深呼吸をすることで、なんとか気持ちを落ち着かせる。自分は生き延びたのだ。どれほど長く眠っていたとしても、意識を取り戻すことができた。それだけでも奇跡に近いのだから、ここで取り乱してはいけない。今は静かにこの事実を受け入れ、いったい自分がどんな世界に戻ってきたのかを知るしかない。

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